理屈を捏ねくり回して自分にとって都合の良い解釈をしたところで他人には何一つ響かないから意味はないよ。
この一連の書き込みの中でもあなたの心は随分揺らいでいるよね。最初の書き込みや、今回のように開き直ってみたかとおもえば、人を不快にしてしまう事が怖いと言ってみたり。
結局、それが本音でしょ?うまく人と関われない。それが辛い。
その辛さをうまく内面化できないから、外部に責任の所在をぶつける。
つまりあなたのいう「自己肯定」を強化するために増田に書き込んだら思いもよらぬ反論が一気になだれ込んできて、反論する気持ちと心の中の本音とがないまぜになってしまっている。
僕はあなたにはなれません。
アメリカは、死亡した被疑者と同じ属性を持つ人間が、その属性のせいで殺されたという可能性を強く受け取る。
そして同胞を悼み怒りデモをする。行き過ぎてテロも起きる。そのように見える。
一方で、日本は、被疑者が最初から同じ日本人である(属性が近い)と思っている人間が多い。
そのためか、逆に死亡した被疑者の属性の中から自分と違う属性を見つけようとして、あいつは自分じゃない、自分は大丈夫と安心する方向にいく。
警官の理不尽があれば怒るという点は、実はアメリカも日本も変わらないんじゃないか。問題は、それよりも被疑者と自分が同じか違うかという興味の方向性の違いがあることで、擁護か、排除かの行動が変わってくるんじゃないか。
普段から警官の理不尽に晒されているかどうかという点も違うかもしれないが、もっと大きな文化的というか性格的な違いがあるように思う。