私と妹は現在運転免許取得者かつ車両を持つ側である。今現在私と妹が持っているのはそれぞれ50ccと250ccの共有しているバイクで、自転車は両親のものを除き一台もない。四輪車はゼロである。高校・大学が車・バイク通学が禁止されていて自転車で通っていたため、その反動でもある。だから10代、20代の頃は車やバイクにもっと寛容になって欲しいと切実に感じていた。当時も「自動車・バイクの駐輪駐車できる大学」はあったが、その数はわずかで、自転車や徒歩を嫌う人達で大混雑していた。
それが時が経ち、立場は逆転した。今では駐車場・駐輪場付がどこも当たり前になり、逆にわずかな「駐車場や駐輪場のない学校」が残るのみとなった。ここまではいい。だが社会人になって、私は「転向」することになる。
「運転免許証がありなおかつ金銭・身体的に余裕のある人の公共交通利用を制限すべき」と何の疑問もなく自分の正義を述べている。だがはっきり言おう。これは徳治主義であると。
私は「良心的な対応」を要求してきたのである。信頼できれば、あとは自己責任にしてもらえば結構と考えている。ところが世の中というのは流れが自分の方に寄ってきたと見るや図に乗って居丈高になる人が多いようで、今度は完全に制限をと言い始めたのだ。
外国のように日本では満員電車はお金や時間に余裕のない人や交通弱者が優先になった。もちろん車やバイクと使える人とそうでない人がいれば、譲るべきなのは前者であることは間違いない。ここで言う交通弱者とは、単なる未成年者や高齢者や免許自体ない人ではなく、鉄道が満員でグリーン車などにまで人があふれ出したら、その時は交通強者や余裕のある人に満員電車を遠慮してもらうくらいの配慮はあってもいい。
だが譲歩するのはこれくらいまででいい。ネットの書き込みを見ていると「鉄道好きは右翼」というもはや「お前が心の病気じゃないのか?」と思うほどの意味不明な意見も見られるようになった。ならば満員電車の数千倍、数万倍は害悪を撒き散らしている左翼や右翼はどうなのだ?
こうした書き込みはノンポリに多いが、政治信条のある人も満員電車は敬遠するのである。
最近の鉄道好きを見ていると昔とは違い、随分遠慮がちに鉄道を使うようになった。見てて気の毒なほどである。
前述のブログも「少なくない鉄道好きたちの自覚のなさは極めて残念です」とあるが、今時そんな人の迷惑顧みず、混雑している列車やバスに笑顔で乗り込む人などまずお目にかかれない。脳内オタクの存在はこの際消してもらいたい。
旗色の悪くなった鉄道好きにここぞとばかりに「キモイ」と文句を付けるのは、オタク・キモヲタである私や妹から見ても不愉快な光景になったのである。
鉄道の信頼率や法人税に影響されるのだから、満員電車が必要悪であることは言うまでもない。だが公共交通が商売になっている現実がある。
というものだ。
「いや、鉄道好きの暴走によって車・バイク産業やバス会社の停滞という迷惑を蒙っている」
と主張する人もいる。ならばポルノはどうなのだ?娯楽だって迷惑の元である。逆に娯楽に関心を持たない人は?
こうした考え方は「健康は義務だ」と言って国民を縛ったナチスと同じ思想である。
世間の片隅で小さくなって鉄道を愛し、車やバイクを酷く憎む人にまで、地獄まで敷き詰められた「善意」によってそれを攻撃する、そんな度量の狭い人間は私と妹も大嫌いだ。
0時から2時まで張り付いていたんだ