はてなキーワード: 武市半平太とは
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他人の意見で恐縮だが、専門家の言葉で、自分の見解にも近いので。
春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮新書) P166~『悪の不在』より抜粋
近年の時代劇の脚本は、説明が過剰だ。それによる問題は、観客を飽きさせることだけではない。
登場人物の内面を片っ端から丁寧に描こうとする悪平等に作り手たちが陥っているから説明過剰になるのだが、
その結果、時代劇から《悪》がいなくなってしまった。そして、ドラマの焦点が散漫になり、盛り上がりに欠けるラストを迎えることになる。
たとえば、リメイク版『十三人~』(2010年公開)の暴君は最後に、自分を凶行に走らせるに至った
自身の心情を延々と主人公に語って聞かせた。あるいは、同年公開の『座頭市THE LAST』では、
漁民たちを苦しめる凶悪なヤクザの元締め(仲代達矢)と座頭市(香取慎吾)との対決がクライマックスに
なると思いきや、なぜか元締めと家出した息子の和解劇が座頭市そっちのけで終盤になって延々と繰り広げられた。
いずれも、腰砕けのラストだ。
(中略)
「《悪》にもいろいろあるから、そう単純には描けない」と主張する者もいる。が、それは違う。
「これが俺の考える《悪》だ」と腹を括って提示すればいいだけの話なのだから。
(中略)
戦後の日本映画を代表する脚本家・橋本忍は、時代劇でも重厚かつ辛辣な人間ドラマを描いてきた。
害虫の如く容赦なく農村を襲いまくる『七人の侍』の野武士たち、目的を達成するためには人間の命などなんとも思わない
『人斬り』の武市半平太、主人公たちの人生を自分たちの都合で弄んだ『切腹』『仇討ち』『上意討ち』の上級武士たち……。
主人公たちに立ちはだかり、理不尽な状況に追い込んだのはいつも、血の通わない冷淡な悪魔だった。
彼らには「等身大の人間」としての悩みも苦しみも葛藤もない。世界の残酷さ、理不尽さの象徴として厳然と存在し続けていた。
(中略)
今のプロデューサー・監督・脚本家が『七人の侍』を作ったら、野武士個々の生活背景や内面、彼らの内部の
細々とした人間関係まで丁寧に描きかねない。それだと、野武士も百姓も変わらない立場ということになり、
ドラマの核であるはずの百姓たちの窮状が際立ったものにならなくなる。
結果、百姓たちのために命を賭ける「七人」の悲壮な覚悟や、迫りくる野武士たちの恐怖感、
それを迎え撃つ侍や百姓たちの緊張感は霧消してしまう。そんな内容では、あのクライマックスの
それは有名な、
「お〜い、竜馬」
いま、1人暮らしだけども
全巻家にあります
大学の時に、竜馬が好きだったと
話したら、
父が急に全巻買ってくれました
それをさらに読んで、何度見ても
泣いてしまうのですよ、
何カ所も泣く所はあるんですが
主に
◎まだ小さい竜馬の友達が
斬り殺されるところ
◎人斬り以蔵の最期
◎竜馬の最期
お〜い、竜馬の設定は
本当に居た人物を使った
創作なんですけど
スムーズな設定に
私が一番泣かされる漫画家です、、
私は初恋が竜馬だったんですよ
たぶん9歳くらいのころ
声は、関俊彦さんだった。
それもよかったみたい。
私はアニメの竜馬に
知らず知らず恋してたんです
自然に。
急に斬りつけられ
「わしゃ、脳をやられちょる、、もう行けん、、」
って死んでしまうんですよ
私はその数十分前までは
好きな人に会える喜びで
ドキドキしていたのに、
急な展開に子供ながらわんわん泣いたんです
心の喪失感はハンパなかった
大切なものは急に居なくなると
知りましたよ
小山ゆうは死を描くのが上手い
残されたものの悔しさとか
よく描くよなぁあとおもう
泣いたらしいけど、私は冷めて見ており
そーいうのに弱いんです、きっと
ちょっと、聞いてください。
ときどきNHK大河ドラマの『龍馬伝』をみていて、よくわからないことがあったんです。
それは、土佐藩のサムライの身分制度で、上士(じょうし)、とか、下士(かし)、とかいうものでした。
単なる身分制度でなく、まるでカースト制度のように、見えました。
今日の放送で、それがどういうことか、やっとわかったんです!!
土佐藩主の山内容堂(やまうち・ようどう)が、土佐勤王党のトップの武市半平太(たけち・はんぺいた)のことを見下して、
というようなことを言ったのです。それでわかったんです。
つまり、山内系のサムライと、長宗我部系のサムライの違いであると。
一緒に見ていた母は、このせりふを聞いて、
と、言いました。