はてなキーワード: 科学社会学とは
科学が"正しい(確かな)こと"をつくる過程が、実は全然世間に知られてないってことが(あるいはその認識がないことが)、ニセ科学が跋扈する背景にあるんじゃないかと思えてきた
現在日本で観察されるニセ科学が言ってることは、「最先端の科学だから間違ってるとは言えない」ってことよりもむしろ「ある程度すでに分かっていることから考えてもこれはおかしい」と思われることが多い。
つまりニセ科学というのは、ある程度科学者コミュニティ内でのコンセンサスが得られている事柄に反しているのに、それを無視して「科学的」な知識であると標榜することだとひとまず僕は理解している。
「科学的」であればすべて正しいと考えてしまう市民(非専門家)の"性質"を巧みに利用して、「主張」を信じさせようというところに、ニセ科学の罪がある。
後出しですが、ここまで何度か使ってきた「科学的」という言葉を僕は「科学者コミュニティの中での精査の繰り返しによる確かさの増大によって、ある一定の確かさが保証されている」みたいな意味で使っています。
科学は正しいことを言っている、という素朴なイメージは間違ってはいない。実際、理科の教科書に載っていることは一般的な意味ですべて"正しい(確かだ)"。今日の科学文明を見ればなんとなくわかる(ただしこれは価値判断を含んでいる)ように、科学は"信用できない"わけではない。
ただ問題なのは、「科学だから正しい」になってしまうことだ。つまりいつのまにか、科学的なこと(数式とか専門用語あるいは科学者の肩書など)が言われていればそれは正しいのだと思い込んでしまう。ある意味で科学への信頼の表れでもあるのだが。
実際そう考えるのは無理もないことだと思う。学校の理科教育は当然"正しい"ことしか教えられないからだ。教科書の中の科学はすべて正しいんだから、"すべての科学(とそれっぽいもの)"は正しいと考えるのはまあ自然である。
しかしこれでは見過ごされるポイントがある。教科書の中の科学でさえ、最初からまったく正しかったわけではないということだ。残念ながら普通の理科の授業(初等、中等、もしかしたら少なくない数の高等教育でも)では時間の制約上、そういうことに言及されることはない。事実は事実として(初めからそうであったように)教えられる。むろんこれは間違ったことではない。学校教育の宿命かもしれない。
科学が今のような強固な体系を持っている理由のひとつは、科学が広い意味で積み重ねの産物であることだ。それもただの積み重ねではなくて、数えきれないほど多くの科学者による検討と実験による再現性のチェックなどを経たものだ。学術論文をはじめ科学的知識はピアレヴューや引用、反証とそれに対する反論なんかの積み重ねで、ある水準の確かさを保っている。
この、科学の正しさが積み重ねられたものであるという認識が、世間には意外とないんじゃないかと思うのです。これはつまり、いわゆる"通常科学"とよばれるものの認識、に近い。
こういう科学の"裏側"みたいなものはあまり世間では語られないような気がする(実際、日本では科学の高等教育を受けた人でさえ学部なら4年生になってはじめて(すこしだけ)わかるようなものだろう)。それで科学的事実は科学的事実として生まれる、みたいなイメージが固定化されたら、"科学のベール"をまとった主張をすんなり信じてしまうのは無理もない。相手がそれを逆手にとって、初めから騙す気でいるならなおさらだ。
教育の力は大きい。すくなくとも義務教育は全国民が受けるのだから。理想論ながら、理科教育は科学の多く(ここは大事ですね)は積み重ねの営為によってその確かさ正しさを増してきたのだという認識を育む教育であるべきだと思う。そして"通常科学"におけるその過程をもっと積極的に教えるべきだと思います。要するに科学が"正しい(確かな)こと"をつくる過程、科学の裏側がもっと世間に知られることが大事なのではないかと。
「科学的」だから正しい、という前提が世間にあるために、「科学的」なものの"絶対化"が促進され、その権威に付け込んでニセ科学が跋扈する。そしてニセ科学を批判するために科学の言葉を使うと、社会は科学のなかの対立だと見なして、科学全体に不信感を持つ。さらにこれによってニセ科学に「(ニセ科学を批判している)科学は常に正しいとは限らない」という言い訳を与えている。科学の妄信的権威化の前では、ニセ科学は光に対する影のようなものだ。
まず社会が前提とすべきは、科学の知識の多くは積み重ねによってより正しい(確かな)ものになっていく、さらにいえば、いまこの瞬間もそうなっていっているという認識ではないか。より実践的な意味で重要なのは、ニセ科学は単に科学的な誤りというだけではなくて、現在の日本のニセ科学のすべてが、科学者の真摯な積み重ねを無視・拒否していることです。しかし、こういった認識はまだ一般的でないような気がします。
もちろん、科学的真理というものがあるとすれば、それは科学者コミュニティの中の多数決で決まるというものでは決してない。単に時間が解決してくれるものでもない。時には、そのときの科学ではまったく説明のできない問題が生じ、"ただの積み上げ"だけでは科学の正しさが保証されない場合もある(というか何度もあった)。しかしながらニセ科学はクーンの言う"危機"の発端ではないだろう。むしろ"通常科学"のなかで淘汰されるべきものだ。
ニセ科学という影に対峙するためには、むやみやたらな科学の絶対化は止めるべきだ。しかし、「じゃあ科学の相対化!」という(お決まりの)流れになるのではなくて、まずは世間にある静的な科学観をもうすこし現実にそった動的なものにかえていくべきではないだろうか。科学教育や科学コミュニケーションの出番はここにあると僕は思うのです。
そのためには、たとえば理科教育に科学史や科学哲学や科学社会学のエッセンスを加えてみるだとか、また理科の時間に拘らず、国語、社会科の時間に科学という営みのエッセンスを振り分けてもいい。あるいは実際の研究の前線を知っている博士号教員を増やすだとか、そういうやりかたもあるんだろうと思う。
科学の楽しさ素晴らしさを知ってほしい!っていう理科教育はもちろん素敵である。いっぽうで、科学とはどういう営みなのかということを誠実に教えること、あるいはいっしょに考えていくことは、科学のもたらす"正しい"知識を教えることと同じくらい大切なことではないだろうか。"科学という営み"についての観点も含めて、"科学リテラシー"なのではないかなと思うのです。
さいきんニセ科学批判やニセ科学批判批判やニセ科学批判批判批判を見ていて、あまりの議論のかみ合わなさにモヤモヤ通り越してイライラしてきたので書く。
ニセ科学が何故批判されねばならないか。それは「ニセ科学が『科学』でないから」ではなく「ニセ科学(者)が『科学(者)が満たすべき知的誠実さ』を満たしていないから」であり「社会的活動が満たすべき、倫理的規範を満たしていないから」である。
科学とされるもの、科学ではないとされるものの境界は、存在するけれども曖昧である。科学哲学における終わらん議論を見ても、科学社会学的な分析の試みをみても、科学史を俯瞰しても、それは明らかである。
たとえば、「科学とは何か」についてのあらゆる言明は、経験や帰納に依った言明である。数学における定義みたいに公理から導かれているわけじゃない。「科学であるもの」「科学でないもの」の間には微妙なグラデーションがあり、きっぱり線引きできない。もう少し現実的に突っ込めば、科学者集団が「これが科学だ」と認めているものが科学である、と言うこともできよう(うっかりすると「鶏と卵」のごとき循環論法になってしまうわけだが、しかし実はこの点は大事なのである。これについては後述する)。
つまり、「科学じゃないから」という論理はきわめてshakyなのである。ニセ科学批判やニセ科学批判批判批判を見ていてイライラするのは、わざわざそんなぐらぐらの基盤に立って相手を論破しようとしているからである。
ニセ科学が批判されねばならないのはなぜか。それはニセ科学(者)が「科学(者)でない」からではなく、科学(者)が満たすべきものも含めた広い意味での社会的規範を満たしていないからである。
たとえば、ピアレビューや批判・議論を拒否する態度。科学・工学にかぎらず、人文学を含むあらゆる知的営みにおいて、その質を保つ、あるいは向上させるためにピアレビューや議論は存在する。「科学者集団が『これが科学だ』と認めているものが科学」というのが無意味な循環論法にならないのは、ピアレビューによって、自身らの営みの価値を科学の外にある知的誠実さに帰しているからである。これらを拒否する「ニセ科学」者は、(彼または彼女の営みが科学かどうかを飛び越して)そもそも知的に誠実でない。
たとえば、社会に不利益をもたらす営み。これらは社会における倫理学的な規範を満たさない。骨相学や優生学が批判されるのはこのためだし、ホメオパシー信者によるインフルエンザ感染パーティなどもこの類に入ろう。
つまりは、批判のポイントは科学の境界線問題ではなく、倫理学にあるのである。ニセ科学に対しては、決して感情的にならず、相手と同じ土俵に立たず、倫理学の基盤に基づいた厳しい批判を淡々と行うべきなのだと思う。