はてなキーワード: 定期刊行とは
正社員数が3000人オーバーの企業で働いているのだが、社内に資料室や図書室がない。転職する前は、今より大きいところにいたが、そこにはあった。だが、蔵書の管理や更新がされてない状態で、かつ、閲覧室が社員の憩いの場と化していて、在籍期間中に資料を見ている人間は私以外に一人も出会わなかった。
社内に資料を管理する施設や部署がないので、定期刊行の業界誌のようなものは各部署で購入した上で死蔵ないし捨てられている状態である。価格の高い業界年鑑的なものや民間シンクタンクが作る有料レポートのようなものは購入することがない。また、関連のある学術誌のようなものや、専門の学術書のようなものを社内で購入することもない。
社内にある書籍・学術情報を当たった上で、社会と業界の分析を行ってものごとを考えるということをする人間がそもそも非常に少ない。そのようなことをする人間は社外の図書館を使うか、あるいは難しいこと自体をコンサルにやらせればいいのだ、となる。
こうなってしまうと負の連鎖で、新しい人間が入ってきても、知的に骨の折れることができる環境がないし、社内の風土もそうなっていないので、自分の頭で考える人間が育たない。また少し違う視点で考えると、いまの会社や前所属レベルのところで書籍を購入しないのであれば、書籍雑誌の販売が落ちて、情報を作って売る側もしんどいのではないかと思う。
今年の3月に定期刊行が停止になった「電撃PlayStation」というゲーム雑誌がある。
自分は、中学生から高校生の頃にこの雑誌を愛読していたのだが、忘備録的に残しておきたくなった当時の記憶を、ただここに書こうと思う。
今とは違い、プレイステーションの雑誌が他にも沢山ある中でこの雑誌を購読していたのは、他誌と比べて少しオタク度が高い記事と、かなりオタク度が高い読者投稿コーナーがあったからだった。
他のゲーム雑誌が、面白いネタの投稿がメインだとすれは、この雑誌はゲームへの愛、キャラクターへの愛を語る投稿が多かった(このコーナーに寄せられるイラストのクオリティは他誌と比べて高く、後にプロデビューするような人もいた)。
そして印象深かったのは、そんな読者への、編集部からの愛情が感じられることだった。
それを一番強く感じたのは、「電撃PlayStation D」という体験版やセーブデータ入りのCD付きの増刊号?のようなバージョンの雑誌があったのだが、そのCDのメニュー画面に流れる、オリジナル曲の歌詞だった。
もしも涙流れても 何も言われないから
二人ではないけれど 一人でもない気がするから」
「ぎりぎりシビアなお話なんて したことも見たことも無いわけで
夜中にゲームに熱中な日々に リアルな明日は笑いかけない かもしれないね
だけど深夜のコンビニへ 買い物に行く時の星空は どんな事にも負けないように レベルアップしろと僕に叫ぶ 」
歌唱力がある訳でもなく、音もチープだが、当時の「ゲームばっかりやってていいのかな」という中高生の自分に突き刺さる歌詞だった。
オリジナルの曲と歌詞を、毎号作る。結構な手間だろう。そしてその歌詞は、毎回、読者に寄り添おうとしている。
そのことへの感動もあったが、大人が、こんなに自分たちの気持ちを想像しうること、もしくは、大人も自分たちと同じ感受性を持っていることへの驚きがあった。
そう感じて、どんどんこの雑誌のことが好きになり、もう売っていないバックナンバーも読みたくなった。古本屋で創刊号から探して持っていない号を50冊ほど買い集め、その時点で出ていたほぼ全ての号を揃え、何度も何度も読み返した。
ずいぶん前に社会人となった今、確かに、大人でもゲームをする子どもの気持ちを理解しうるということは分かった。そして、その気持ちに寄り添う歌を毎号毎号つくる労力が、いかに大変なものかということも分かるようになった。
ありがとう。そしてこれからも応援しています、電撃PlayStation。