「テレビ番組」を含む日記 RSS

はてなキーワード: テレビ番組とは

2009-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20090212095854

映画は無理。どうせ見るならしっかり見たい。

テレビ番組ならいつもネットながら見てる。

だから笑ってはいけないシリーズなんかいいかなーと。

この書き方ってお笑いファンの人に怒られそうだ。

あくまでテレビってのはながら見前提で作られてると思うからって意味ね。

2009-02-10

民放がこの先生きのこるには。

最近テレビ番組高視聴率トップテンを表組化してみる

http://www.gamenews.ne.jp/archives/2009/02/post_4491.html

視聴率が高いのは、高齢者向けな印象を受ける。

だけど民放は、ずっと若年者向けの番組バラエティー、ドラマ)をやっているイメージがあるなー。

どんなのなら見るかというと…

はてな民放が協力してはてブの注目ニューステレビで流せばいいんじゃね?(ごめんなさい、冗談です。)

2009-02-09

読者?視聴者?聴衆?

例えばブログを読んでいる人は「読者」っていうだろ。

小説論文の読み手も「読者」だよな。まぁそのまま「読み手」でもいいけど。

テレビ番組を見てる人は「視聴者」だよね。

ラジオだったら「聴取者」かな。「リスナー」とも言うよな。

スタジオの客席は「観覧者」かな。「観客」「お客」とも言うけど、それは微妙

ニュアンスが変わってきちゃうか。

舞台や講演の場合も「観客」だな。ライブの場合はまぁたいがいお金払うしな。

「観衆」「聴衆」っていう場合もあるかな。

機械コンピュータなら、まぁみんな「ユーザ」でいいんだけどさ。

こういう「見る人」「聞く人」「読む人」をまとめていえる言葉はない?

そういうのをひっくるめてなんて言えばいい?

2009-02-05

子供のころの思い出

母子家庭だったので母は俺を人の家に預けていた。

よく覚えてないのだが、たぶん母の友人夫婦。

そこで俺はけっこうな虐待を受けていた。

そのころの記憶がほとんど残ってないのであまり書けないのだが

記憶に残っているものはまるで奴隷のようだった。

腰に紐を付けられて玄関に繋がれていて

トイレに行きたくなったら、なぜか下半身を脱いでから

「おねがいしますトイレに行かせてください」と言わされた。

そのときもしもその家の人たちが寝ていたり

面白いテレビ番組を見ていたりしたら、殴られてからトイレに行った。

火事料理以外全部やらされていた。

ことあるごとに「やっかいもんを引き受けた」といったことを言われ

ゴミのように扱われていたもんだ。

あとから聞いたら母はその人たちに

俺を預けるためのお金を払っていたらしい。

あとは頻繁にバケツの水をかけられた気がする。

月に一度くらい母が顔を見に来るのだが

そのときに虐待を受けていることをばらしたら

もっと酷い目にあわせるといわれていた。

そうでなくても母にはいつも楽しいと言っていた。

裸にされていた記憶もあるから

もしかしたらなにやら性的なこともされていたのかもしれん。

とにかく今その人たちの所在を知ってしまったら確実に

俺は警察のお世話になることをしてしまうと思うので

出来ることならもう死んでいて欲しい。

 

とにかくあまり覚えてなくて、そんなことがあったってことさえ

ここ2年くらいのうちに急に思い出したことばかり。

こういうのを急に思い出すって言うのは何かあるのかな。

そういうことに詳しい人、教えてくれるとうれしい。

 

記憶が薄いのと名前とかを隠して書いているので

まったくわかりにくい文章ですまん。

2009-01-23

いま、どんなテレビ番組が見たいか?

制作者の顔が見える番組

これにつきる。顔が見えるというのは、文字通りテレビの画面に顔を出すということだ。

いかにもうつってしまったという感じでわざとらしくフレームアウトする顔はいらない。

そして、どのような思いでその番組をつくったのか、番組内でプロデューサーディレクター本人が語るべきだ。

その、視聴者が知りたい大事な部分を番組ブログなどに頼ってしまうのは、ウェブに対する敗北宣言に近い。

ウェブを楽しむとき、ほとんどの場合、それをつくった人の顔が思い浮かぶ。

ブログ顔写真を載せている人は多いし、主要なウェブサービスは大抵制作者とセットで覚えられている。

いまやコンテンツ制作者の重要性は拮抗している。

ブログtwitterは内容よりも誰が書いているかのほうが重要であったりする。

いま見たいのは、同年代の頑張っているあいつや、なんでも知っていて尊敬できるあの人、

どうしようもないけど言うことだけはおもしろい彼、のつくる番組だ。

2009-01-19

津田大介氏にインタビュー 著作権現在について(1)

モーリー:i-morley今日は久しぶりにジャーナリスト津田大介さんにお話を伺おうと思います。よろしくお願いします。

津田大介:よろしくお願いします。

モーリー:最後にインタビューさせていただいてから、かなり著作権世界とかネットカルチャーがまた激変している感じなんですけれど。

津田大介:そうですね。変りましたね。いちばん変えているのは、ボク自身二年とか三年ぐらい審議会に参加して思ったことなんですけれど、実際審議会で、インターネットでこのような問題、著作権の問題が起きているので対応しましょうと審議会で二年とか話すわけですよね、話して問題が出てきましたと、こういう問題が生じていますよということがおきて問題確認で終るという審議会もかなり多くて、じゃあ次は来年以降の検討課題ですねみたいに終るのも多くて、そうじゃなくてこれをこうしましょうということが決まったとしても実際に法律施行されるのはその翌年の国会に提出されて、国会で決まりましたと、その次になります、と。やっぱり三年とか四年のタイムラグがあるんですよね。

モーリー:うーん!

津田大介:だから、いまネットで起きてるそういう問題と言うものに対して、なにかしらの対応策と言うものを考えましたといって実際に法律が動き出すのに、三年後とか四年後とかだったら、モーリーさん逆に四年後のインターネットってわかります?って言ったらまったくわかんないじゃないですか。そういうのが実際に法律を作る現場とか審議会で行われているということが、すごいこのギャップはひどいなあと思いましたね。

モーリー:どんなに早くやっても三年後にしか法律は変らなくって、その頃には状況が全然違っている。

津田大介:ほんとに最短で二年、三年後とかですから。だから例えば今回ぼくが参加していた審議会で違法コンテンツダウンロードダウンロードすることを自体を違法にしましょうというのがほぼ決まりそうなんですけれど、決まりそうといっても今年のいま開かれている通常国会で法案が提出されて、それが施工されるのが来年1月とかですから、来年1月にようやく法律が変るみたいな世界ですから。それにいま政治情勢が非常に不透明じゃないですか。そうすると法案を普通に提出するような三月とか四月の時期にもし選挙があってその辺が混乱とかしたら、もう本来提出されるはずの著作権の改正案というのはとんじゃうんですね。とんじゃって今年の九月の臨時国会に行くか、もしくは来年まで国会までとばされてしまってあと一年法律施行が遅れるということがあって。

モーリー:もう一年さらに現状とのギャップが広がるということですよね。

津田大介政治状況でそういうことが平気で行われてしまうというのが、政策ができていく過程なので、それはぼくらの専門的な分野の知財とか著作権ってあんまり政治の争点にならないんですよね。民主党自民党とそんなに大差があるわけじゃないので、そういう意味では提出されればだいたい通るんです。提出されれば官僚が文を書いて通して、そのまますんなり国会を通過して変るんですけど、でも逆に言うとそういう政治的な争点にならない法案というのは後回しにされちゃうんです。政治だからいまみたいに非常に混乱している状態だと、特にいまは衆参がねじれちゃってますから、そうすると法案が非常に通りにくくなってしまうので、そうすると予算とかが一番重要な法案で、あとは特措法の問題とか、そういう重要な問題があるとそっちが紛糾しちゃうんでそっちに時間をかけてしまうので、そうすると著作権みたいにある種国全体からみたいら優先度が低いというかどうでもいい問題は後回しにされるんですね。後回しにされて、官僚のほうにもいまはほんとに政治が混乱しているから重要で無い法案は提出するな、どうせ否決されてしまうだけだからみたいなかたちになってしまうので、そういう状況も法律ができるのを遅くするのに拍車をかけているということがある。

モーリー:津田さん、私がやってるポッドキャストなんですけど、最近かなり人が増えてまして、そろそろ累計登録人数が50万いきそうなんですね。

津田大介:ほー。すごいですね。

モーリー:ということは、かなり著作権とか、かなりディレクトリの奥の奥にあるような話を原点から知らない人が多いんですよ。いま一番津田さんがやばいと思っている、あるいは一番つらいと思っているトレンドをまず解説していただけると。

津田大介:ぼくは最近著作権関連でインパクトがあったのは、ユーチューブなんですよね。去年の11月ぐらいにユーチューブが横長になったのってご存知でしょうか。

モーリー:ああ、なんか長くなったような気がする。

津田大介:いままで4:3で画面が小さかったんです。320ピクセルと240ぐらいで、ある意味ユーチューブのいままでのいいわけみたいになっていたんですけれど、ユーチューブってネット動画とかテレビ番組とか、売り物が全部勝手コピーされる違法行為の温床になっていたんですけれど、ところが突然横長になってさらに画質が滅茶苦茶良くなったんですね。

モーリー:ふーん。

津田大介:H264という非常に、実際にブルーレイとかでも使われている高圧縮のコーデックに対応して、いまユーチューブはフル画面で見てもかなりきれいに見れるようになってるんですよ。走査線のもともとのファイルが良ければ地デジ並の画質でユーチューブフルスクリーンで見れるみたいになってきてて、それが去年の11月リニューアル

モーリー:マイナーコンテンツばかり見ているせいかぜんぜん良くなったという印象が無いので。(笑) もとが悪いものばかり見ているから。

津田大介:そうなんです。そういうところが結構ユーチューブが変り始めていて、それまでやっぱりユーチューブが質が悪いから見逃してもいいじゃんみたいなある種言い訳が成立していたのが、今は成立しなくなりますよね、そうなると。よくコンテンツホルダーとかが許したなあと、怒んないのかなあとかそういうのがあるんですけれど。ぼく自身は結構ユーチューブ著作権問題ってこれからあまりたいした問題にならないんじゃないかなあというフェーズに入ったと思っていて。

モーリー:ユーチューブにとって?

津田大介:そうですね。

モーリー:ああ。

津田大介:というのは、去年から、ユーチューブ最近よく見るんですけど、ユーチューブ最近広告が入ってるんですね、動画とか見てるときに。

モーリー:うざいです。

津田大介:うざいんですけど、あれがやっぱりすごく著作権問題を解決する切り札になっているところがあって、実際に権利者の人が権利者用にちゃんとIDを発行していて、「もし権利者が違法行為を止めたいんだったらおまえらがオフィシャル動画を提供しろ」ということを言い出したんですね、去年から。それでフィンガープリントという技術を使って公式の本物の動画をきみらがアップしてくれれば、その本物の動画を一部切り出したりとか、音声とか動画のコマとかををぜんぶ照らし合わせてコピーを全部判別します、という技術が去年ぐらいからどんどんそれが進化していて、実際にその権利者の人のIDでログインしていたところを見ていたところがあるんですけれど、それで自分コンテンツを違法なものを探すってところをワンクリックでガーッって50とか10とか出てくるんです。それで権利者がそこで、昔だったらじゃあこういうものは認めませんよ削除しますって、全部にチェックを入れて、

モーリー:ユーチューブ勝手削除してくれる…

津田大介ユーチューブメールブラウザ上で、権利者用のツールが裏側に用意されていて、削除すると全部落とすことができたんですけれど。

モーリー:へー。

津田大介:ただ、それが二年ぐらい前の話なんですけれど、去年の春ぐらいから状況が変ってきて、もしこれで、落とすこともできるけれど、べつに黙認してもいいじゃん、その方がプロモーションになるってものもあるのでそういうものは黙認してもいいよっていうオプションと、あと最近広告を入れてその広告から得られる収入をユーチューブとあなたがた権利者でシェアしましょうよというオプションが去年の春ぐらいからできているんですね。それが結局功を奏しているみたいな感じ。そうするといままでだったら違法で全部落とすんだったのが、それが違法な動画だけど広告つけちゃってお金にかえるということが権利者が主体的に選択できるようになったので、それを日本コンテンツフォルダーの角川とかやっていて、このまえの報道だと自分たち角川が認めた違法動画広告をつけて合法化することで月間で一千万円の収入が入ってきたという話しだったんで、そういう意味で言うと、向こう側からして見たら権利の上手い転がしみたいのが自動で出来るようになるんですね。逆の言い方をすると、ユーチューブジャスラックみたいに著作権の処理を行う場所になっているという。そうすると角川がそういう態度を、角川が著作権を持っている著作権コンテンツユーチューブにアップするというのは、いままでは違法行為だったんですけど、角川はデキがいいものだったり、角川にリスペクトがあるようなMAD動画とかだったらそういうんであれば認めるらしいぞという方針を出していると、作る側も逮捕されたりするリスクが無くなるわけですよね。

モーリー:あの、逮捕ってまだあるんですか?

津田大介逮捕はありますよやっぱり。

モーリー:ええっ? 著作権で? 

津田大介著作権逮捕はいっぱいありますよ。

モーリー:たとえば、売り物になっているのをそのまんまなんら変らない状態で安く転売しているっていうんだったら海賊版だから逮捕っていうのはわかるんだけど、ただ乗せただけで逮捕っていうのはあるんですか? 

津田大介:一番最初にそれが日本であったのが、動画投稿サイトだと多分2005年だったかな。ファイナルファンタジーアドベントチルドレンっていうCG映画があったんですけど、スクエアエニックスに。あれがユーチューブが買う前のグーグルビデオという似たようなサービスをやっていて、あそこでDVDからリッピングしたデータをそのまんまあげてた日本人ユーザーがいたんですね。そしたらそれでスクエアエニックス側がそういう売り物が全部見れるようになったのはとんでもないっていうんでユーザーをつきとめて、逮捕寸前まで行ったんですけど、ユーザー反省しているということで罰金を払うことで和解をしたっていう事件があったんですけれど。

モーリー:民事ならわかるんですけどね、損害賠償だったら、それだけでもキツイと思うンだけど、刑事ですか?

津田大介:そういうんで逮捕されてるケースもありますね。

モーリー:はあー。

津田大介MAD動画みたいなもので逮捕というのはなかなか無いですけれど、実際に売り物をネットにあげているということで逮捕と。

モーリー:そのまんま頭からお尻まで買わなくて済むような目的だけという感じの?

津田大介:そうです。そういうのはありますね。ただ、実際に逮捕までいくケースは二種類なんですね。逮捕する前に、いきなり逮捕というのは結構少なくて、プロバイダーとかのいろんな開示請求とかをして、ユーザーに警告がいくんです。警告をした時に意図的にそれを無視するような悪質なユーザーか、もしくは匿名プロバイダーをどんどんいろいろ使って逃げ回っているような悪質性の高いユーザーは、GOサインが出て逮捕されるっていうケースがあるので、だいたいどっちかなんです。だから無邪気にとりあえずアップロードしていてそれでいきなり逮捕というケースはまあ少ないです。

モーリー:ふーん。階層別っていうか、道路の車が早く走るレーンと遅く走るレーンみたいにすごくスピード差みたいのを感じてまして、今日もまたウィニーで大変だったみたいで記事をネットで読んだんですけど、いまだにウィニーってまだ使っている人がいるというか

津田大介ウィニーネットワーク逮捕者が出ると一時的にトラフィックが減ったりするんですけど、ファイル交換ソフトって昔っからそうで、逮捕者が出ると一気にガッて減るんですけど、ほとぼりが冷めるとどんどんみんな使い出して増えていくというのが。で、ウィニーネットワークはまだまだ動いていますし、ウィニーと似たようなシェアというソフトがあって、あれもやっぱり利用者がいますからね。だからそういう人が、実際ウィニーとか使っていると非常に情報漏えいウィルス感染する可能性も高いし、あとセキュリティー的にもあぶないところもあるんですけど、それでもタダで音楽とかエロ動画とかを含めたいろんなソフトとかをそこが魅力で使いつづける人はまだいっぱいいますよね。

Posted by i-morley : 2009年01月16日 17:46

http://i-morley.com/blog/2009/01/post_166.html

http://www.tibetronica.com/i-morley/090116.zenhan.mp3

2009-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20090111211141

個人的には比較対象過去テレビ番組だと個人的には思ってるけど。

最近エンターテイメント系の番組を見てると

出演者の交友関係を元にした内輪ネタ楽屋ネタとかあるけど

昔の番組では今ほど頻出することがなかったように思うしあったとしても

年末年始の総集編、未放送集とかでしか見なかった覚えがある。

話は変わって元増田アニメ視聴率の話。

その中で

テレビ以外の娯楽がない

ってのを挙げてるけど個人的にはこの辺りが非常に興味をそそられる。

自分はそこらへんは全く知識がないのだけど

現代の日本ほど娯楽としての読書が否定されてないような気がするのでテレビ以外の娯楽がないとは思えないのだけど

(後、マニアックだがトランプを始めとするアナログゲーム?)

ただこれは、一家全員が本を読む趣味をもってないと

結局テレビ家族の共有できる団欒のツールだってことになるのだろうけど・・・

http://anond.hatelabo.jp/20090111205701

アニメ以外のテレビ番組絶望的につまらないのは日本だけじゃなかったんだな。

http://anond.hatelabo.jp/20090111202309

フランス人アニメスキーというか、海外日本アニメが異常な高視聴率を挙げてるところは

・他のアニメが猛烈につまらない

・他のテレビ番組が猛烈につまらない

テレビ以外の娯楽がない

のどれか、または複数があてはまるんじゃないかな。

2009-01-06

春の七臭

寝正月でお風呂に入っていない大学生

・化粧に気合いの入ってる女性

・べろんべろんに酔っぱらった人達

お年玉を貰おうと群がってくるおしめも取れてないようなガキ

初詣で大量の人だかり

・車だししてくれたおじさんの車

正月編成でやっているなんか泣かせようとしているテレビ番組

これらがにおわなくなったぐらいにおかゆを食べるのが習わしです。

2009-01-05

正月番組感想

久しぶりに長時間テレビ番組を見たので、覚えている番組だけ感想を書いておく。

12/31、1/1

ガキの使いモリマンVS山ちゃん」「絶対に笑ってはいけない新聞社24時」

24時の方は期待しすぎたのか、あまり面白くなかった。都内でやるよりも、どこかの僻地隔離した場所でやってほしい。特に芸人の暴露大会にはテンションだだ下がり。この印象が悪すぎる。出演者の無駄遣いには定評がある24時だけど、こんな無駄遣いはいらない。それにいちいち外に移動するのがなあ……。もしかして、来年も都内でやるならこんな感じになるのかと思うと見る気をなくす。あと、東幹久が出なかったのが残念。期待してたのに。

全体的に殺されるくらい笑ったー!てのが無かったなあ。記憶に残るようなのが少ない。前回の病院で、マイケル富岡が車から降りると同時に落とし穴に嵌るようなのが見たかった。

記憶に残ったところ→「ごぼう対決を嫌がる山ちゃん」「へいぽー」「スターウォーズ」「フィールドオブバタフライ山ちゃん」「ジミー大西

ニューイヤー駅伝

中電を応援。来年勝つには、二区をどうにかしないと、どうにもならない。にしても、油谷も佐藤もそろそろ引退が視野に入る年なのか……。

所ジョージ志村けんの対決

ナビの所から見はじめる。くだらなくて面白い。

あと、レスリング対決。

ナイナイが司会してたフジ番組

初めてオードリーを見た。面白い。爆問漫才を久しぶりに見る。

ななめ45度が面白かった。昔オンバトで見た気がする。

かくし芸大会

十年ぶり位に見た。こんなしょぼい番組だったっけ。

笑点

東西大喜利が面白かった。噺家ってすげー。落語を聞いてみたいと思った。

さんまさんの師匠を初めて見る。

■格付け

演出問題で、ひぐちくん(髭男爵)の映像のが好みだった。もっと見てみたい。

TOKIOの対決する番組

出前バイク改造の工程が面白かった。

■県民show

初めて見た。面白い番組だとは思えない。出演者が無駄に多すぎると思う。親や親戚は面白そうに見ていた。

携帯大喜利

面白かったので、通常放送も見たい。

1/2、1/3

2日は出かけていたので見てない。

ドリームマッチ09

ホリケン宮迫井上ウド鈴木が面白かった。

くりぃむなんとか

ぱふ

復活しないかなあ。

初めて見た話題の人たち

DAIGO

もっと頭がおかしい話し方するのかと思ってた。意外に普通若者

エドはるみナベアツ天津木村

面白さが分からない。天津木村ネタ自体は見てないものの、なんか面白くなさそうだった(偏見)のでチャンネル変えた。

2009-01-04

結婚できない原因は「清潔感がない。一方的に言いたいことを言いまくる」とテレビ番組で言っていた。

こういうのを見てるとすごくへこむ。

小学校のころから不潔菌と女からいわれ続けた。

思えば、ひげをそり忘れたまま、職場に行ったこともある。

女性から好かれるためにはこういうのを直さないといけない!

直せ。直せ。直さないと未来がない。

2009-01-02

テレビ制作の迷走

今日の「ぐるナイ」を見ていて。

絶妙のタイミングCMに入り、こちらにストレスたまる

まぁもぉいいかげん、テレビ番組ってのはCMを見せるためのものだからしゃーない、とは解る。

しかしそのCMの最初が自局の番宣って、なんなんだよ?

スポンサーストレスが向かないようにって配慮か?ならこういった番組作りが視聴者ストレスをためさせているって意識はあるはずだよな?

んでそのCMCMの間をくだらない繰り返しの言葉で繋ぐなよ!

企画が面白いから見ているんだが、企画しかねーじゃん。

あの司会者、別な人に替えた方がいいんじゃね?

2008-12-30

http://anond.hatelabo.jp/20081230134841

和歌山市との比較のため、市町村(区)単位で書いたつもりだったんだけど、読み返してみたら、県と地方と市町村がちょっとごっちゃになってるとこもあった。「祭りの時にハジケ過ぎて社会問題として扱われる。」の項とか。市町村ピンポイントだとあんま問題になってない。

テレビ番組の放映は大体一週間遅れ。 」とかその辺は、市町村ピンポイントでも当てはまるからわざと。

あと市、町、村のどれかも特定しないように書いたつもりが、思いっきり「町おこし」とか言っちゃってて、うひゃー駄目だこりゃと我ながら思った。

クイズじゃなくてクリリン誘発狙いの意図で書いたから、あたりはずれは特に言う気無い。捨象しなかった時のリストは後で書くかもしれない。

http://anond.hatelabo.jp/20081230112402

自分地元は無個性っぽくはないと勝手に思ってたけど、捨象気味に列挙したらそうでもなかった。

和歌山市すげーんでねーの。

2008-12-17

年末に見ようと思うテレビ番組(-24日

18日 23:15 文字放送雨上がり決死隊トーク番組アメトーーク! 「祝50歳テレ朝50周年コラボ?久本雅美ファミリー!!爆笑パンスト綱引き&ロバート秋山熟女(秘)チェック!!」

19日 23:15 文字放送爆笑問題の検索ちゃん芸人ちゃんネタ祭りスペシャル (仮題)「今年はどんな爆笑ネタが披露されるのか…!!」

20日

21日  M-1グランプリ2008 今夜ついに08年の漫才日本一が決定!!史上最多4489組の頂点優勝賞金1000万円を獲得するコンビはだれだ!?(1)ダイアン(2)笑い飯(3)モンスターエンジン(4)ナイツ(5)U字工事(6)ザ・パンチ(7)ノンスタイル(8)キングコング島田紳助松本人志上沼恵美子

22日 

23日

24日 21:00 笑っていいとも特大号 (仮題) 01:05 明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー2008 03:05 空飛ぶ!爆チュー問題クリスマスライブ2008

アメトーークネットの反応がすごいことになりそうでそういう意味楽しみ

検索ちゃんネタ祭りは素直に楽しみ

M-1キンコンの負けっぷりを見たくて楽しみ。その後の西野さんのブログ楽しみキンコンが勝ったら勝ったでそれはそれで良し。

笑っていいとも特大号は何となく。明石家サンタ→爆チューは酒を飲みながら見て途中で寝ると思う。

2008-12-13

http://anond.hatelabo.jp/20081211235156

毎日の通勤時、10分ほどバスに乗っている。

「彼」((元増田の言っている人ではない、と思う。))は途中からバスに乗ってくる。週に3〜4回くらい。

このバスを使って通勤するのは14年ぶりだが、確かにそのくらい前にも同じ「彼」はいた。

もしかすると違う場所で見たのかも知れないけど。

しかし顔かたち、声も記憶の中の「彼」と一緒だ。

  

一緒なんだが10年という月日の流れで確実に「彼」の容姿は老けている。

私もきっと同じように老けているのだろう。

  

「彼」はいつも相手なき言葉をしゃべる。裏声で。

地下鉄アナウンスとか、テレビ番組タイトルとか、とにかくフレーズ単位脈絡なく。

10年前の言葉で覚えているのは「ドリフ大爆笑92」。

もうとっくに1992年は過ぎていた。これには私も笑いをこらえるのがつらかった。

  

「彼」はこれからもしゃべり続けるのだろう。裏声で。

「彼」は元増田言葉を借りれば「精神発達遅滞」なのだろう。

私はと言えば会社に行って働いて飲んで食べてスーツクリーニングに出して……なんなんだそれは。

間違いなくリーマンです、本当にありがとうございました

  

なんだか得体の知れないものから何かにカテゴライズする/されることの爽快感と達成感。

「私は私」でしかないのに同時に「スペシャルな私でありたい」アンビバレントな気持ち。

「彼」と私の違いはいったいなんだろう?

  

すいません迷路に入り込んでしまったのでここらでやめます。

2008-12-07

[]はてなハイク観察記 29

この週末見てて不思議に思ったことをひとつ。

「実況」の話。

ハイクではテレビ番組に関する実況のキーワードがしばしば盛り上がる。

実況という性質上、番組放送時間中はPOSTが大きく伸びTOPページへの表示数が増える。

どうやらそれを「うざい」と思う人が多々おり、その旨のPOSTにより一悶着あったみたい。

この手の何か特定の書き込みに対する嫌悪感による衝突って不思議だなと思う。

今回の「実況」に関して言えば、キーワードの元に繋がってるという意味ではそう間違ってはいないと思うのだが。

「実況」や「連投」を問題視する理由に「TOPページが一部の話題で埋まってしまうのは良くない」みたいなのをよく見るが、これも今ひとつ良く分からない。

そもそも書き込み自体に優劣なんてあるんだろうか、という感じで。

いつだったか「ハイクにはもっと有益な書き込みをするべき」みたいな話をしていた人がいたような気がするけど、何が「有益」か?なんてそれこそ人それぞれなわけで。

じゃあ連投批判してる人だったりのPOSTを見てみても私は別段「有益」とは思わないわけで。

そういうのを見ると、「うざいとか言って、結局のところ、TOPページの流れが早くなって自分の書き込みが流されてスターが付かなくなるのが嫌なだけじゃないの?」なんて穿った見方の一つもしたくなる。

そもそもTOPページに固執しすぎること自体どうなんだろう、という気も最近は少ししている。

当初は自分のFollowingにはスターフレンドのPOSTが表示されていたため、フィルタリングをかけるのが難しかった。

でも今やユーザーのみならず、キーワード自体もFollowできるようになっているわけだから、必ずしもTOPに固執する必要もないと思う。

これも前に誰かが言っていたが、現在ユーザー数700程度だからTOPの流れの早さはたかが知れているけど、

これがもし数千、数万レベルユーザー数になったら流れ云々なんて気にしてる場合じゃなくなるんじゃないかという。

TOPページが特定の話題に選挙されていたら新規ユーザーが入りづらいんじゃないかという話もしばしば出るが、

そうやってハイクの使い方に関して、特に禁止事項として明記されていないにも関わらず、

あれやこれやと難癖付けるほうがよほど初心者に対して敷居を高くすることに繋がると思うんだけどな。

別件だけど、今日は何か「ハイク忘年会」で一部ザワついているみたいだし、同じようなことをクルクル繰り返すのが好きなのかな。

いろいろ不思議だな。

2008-12-01

面白いテレビがあるならぜひ教えてほしい

ぼくはテレビが好きだった。それは確かなことで、特にバラエティ番組を見ている量では誰にも負けない時期があった。それは短い期間(約1年)だったけど、その時期にNHK以外で放送されたバラエティ番組は全部録画して見ていた。毎日だいたい8時間、日によっては16時間近くかかることもあった。今考えたら親にとっては迷惑な話だったかも知れない。また今みたいにバラエティがつまらなくなかったからできたことだ。しかしとにもかくにもバラエティ番組の知識だけではその時期はおそらく誰にも負けなかった。ヒキコモリだからできたというのもあるだろうけど。

だからどうというわけではないのだが、テレビを見なくなったのはやはり面白くなくなったからだと思っている。もちろん急に見るのをやめたわけではない。それは長い歳月をかけて徐々に見なくなったのだ。そうして、飽きているというのともまた違う。面白いバラエティ番組があれば、やっぱり今でも面白いなあと思うわけだから。それが「サラリーマンネオ」だったり「もやサマ」だったりする。長い割に内容がない、まるで昨今のバラエティ番組のような文章に疲れてきたのでこの先はちょっとはしょる。

だから、ぼくがテレビが面白くなくなったと感じるのは、いわゆる俗流若者論とも違うと思う。表現ジャンルというものには栄枯盛衰があって、そういう視点で言っている。ある時栄えていたジャンルがそれより下り坂になって全体的に面白くなくなるということは歴史的にはいくつもあって、例えばギリシアの時代の彫刻の技術はもう失われたし、ルネッサンスの頃の絵画の技術も失われた。中国の青磁の技術だって、いまだに再現できなかったりする。

だからそれは、いつの世でも老人が「最近若者は軟弱になった」と言ったりしていることとは意味が違う。文化は栄えたり滅んだりするのだ。永遠に進化し続けるなどということはない。テレビがつまらなくなったというのはそういう視点に立ちながら言っているのであって、何もノスタルジーに浸っているわけではない。だいたいぼくは子供の頃に素晴らしいと思っていたものよりも、大人になってから素晴らしいと思ったものの方が印象深いものが多いのだから、そういうノスタルジーにとらわれるような俗流若者論的な考え方とは無縁である。

その上で、なおぼくの書いたことに反論があるのだとしたら、どうか面白いテレビ番組を教えてほしい。ちなみにこの前たまたま「篤姫」を見たらとても面白かった。なんだそんなものも見ずして最近テレビは面白くないと言っているのかと言われるかも知れないが、それは実際その通りだ。

ぼくは今ではほとんど月に数本のテレビ番組しか見なくて今のテレビをつまらないと言っているわけで、それは前のエントリーでも書いたけど電車の中でテレビを見る人がいないからである。だから、乗ってる電車がたまたまそうかも知れないと言われれば、それは確かにそうかも知れない。それから電車の中でテレビを見る人が少ないからといってテレビの衰退に結びつけるのは無理があると言う人もいるだろうけど、これに関しては無理はないと思っている。説得力はないけどね。だから別にそれで人を説得しようとも思わない。ぼくはただ坂田信弘ゴルフマンガに出てきそうな外国の頑迷なキャディーのように、これまでの経験五感を働かせて、なんとなくグリーン上空の風の流れを予測しているだけで、そう予測する根拠を述べよとゴルファーに言われても、説明しようがないのだ。

それを傲慢だと言うのには異を唱える。ぼくはそれを誠実な態度だと言ってほしい。この種の誠実さがないと、真善美というものは突き詰められないところがある。それはid:aurelianoを見て「こいつこそキングオブうすらバカだ!」と叫ぶのにも似ている。その結果、ぼくはid:aurelianoやあるいはその取り巻きdisられるかも知れない。しかしそれを自覚した上でなお、叫ばずにはいられないところがある。それを傲慢と呼ぶのなら、それはそれで仕方ないが、しかしそれをぼくは受け入れられない。

それからそういう態度だと議論や話し合いにならないという人も時々いるが、ぼくは初めから話し合いを求めていないどころかそれを回避している。なぜなら議論や話し合いはクリエイティブにほとんど寄与しないと考えるからだ。それにしてもテンプレートとして使うにはもう少し短い方がよかったが,どこを切り取っても内容がなく、全部がテンプレートに使えそうなのはさすがだ。

関連記事

2008-11-29

Re: anond:20081129093133 または伝言ゲーム

http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html

なぜか元の元が消えているのでgoogleキャッシュ

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以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。

  • モノが違うんだから、原作アニメは違っていて当たり前。売るために同じにしたいみたいだけど。
  • 何を語るか、ではなく、どう語るか、で見るべき。それが今の時代だろうが。
  • 富野村上は全然違う。新房山本はまだ違っているけどやりにくい時代のなか先に進んでいる。見ている側、追いついてるか?

まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。

では。

原作至上主義」のふたつの定義

  1. 作る側が原作に忠実であろうとすること。
  2. 見る側が原作に忠実であることを期待すること。

問題の提起

まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。

  1. 原作(マンガとか)とアニメは見た目が違うよ
  2. 見た目が違うのに、原作をそのままアニメコピーなんてできないよ
  3. 見た目が違うのに「同じ作品だよ」と言って商売することが求められているよ
  4. 作る側も「同じ作品にしたいよ」「俺の作品にしたいよ」と言う人がいるよ(他にもいるかも)
  5. 見る側も「作品から生まれた発想を見たいよ」「なるべく忠実に再現してほしいよ」という人がいるよ(他にもいるかも)。

原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作アニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。

自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、

ていうことだよ。

なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。

批評」が利用する原作アニメの「間(あいだ)」という「ギミック

批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去アニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダムエヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。

みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。

また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。

まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、

  1. 原作アニメがもの(メディア)として違う
  2. だから、表現としても原作アニメは違ってくる
  3. だから、アニメ原作を忠実に再現することなんか不可能
  4. でも今は原作アニメは同じものとして扱いたい(「横断可能性」)
  5. だから、表現として違うとか再現不可能とかそんな話は忘れる。

という流れを「忠実に反映」してると思うよ。

ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。

今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作アニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作アニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。

これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作アニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。

物語構造分析(未満)

こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評対象になるかも知れない。ニューヨーク9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀宇野常寛ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。

世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメ2008年を代表しうるアニメだからね。

アニメーション歴史の忘却

アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?

それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。

アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。

けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメ歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーション歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)

原作至上主義」は正しいのか、間違っているのか。

現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。

相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。

アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクションパロディ引用自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作アニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。

ヘーゲル小説のことを「市民社会ブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?

富野由悠季村上隆

ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。

ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメコミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーション歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。

富野ペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆

新房昭之山本寛

なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。

でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信小説アニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本アニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。

そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。

それから

けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野村上には見いだせないものであって。

くだらないテーマの指摘とか、原作アニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。

新・アニメ批評 アニメーションにおける「原作至上主義」について

というエントリを読んだ。

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いや、読もうとした。

小賢しい!小賢しすぎて読めない!

なので翻訳してみた。

翻訳の過程でこぼれ落ちた何かに対しては、俺はまったく興味を持てない。

エントリの筆者にはこだわりがあるんだろうけどな。

はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。さて、本日テレビアニメーション(以下アニメ)における「原作至上主義」という言葉について考えてみたいと思うのです。

1 原作至上主義のふたつの定義

 ざっくばらんに分けると、この言葉にはふたつの意味しかございません。

  1. アニメ製作者が、原作をできる限り再現しようとすること。
  2. アニメ視聴者が、原作の再現の度合いでアニメを評価すること。

2 問題の提起

 原作至上主義の問題について考えようと思えば、少し整理しなければなりません。

  1. 漫画小説アニメとは表現形式が違う
  2. だから原作アニメで忠実に再現するのは無理
  3. 原作至上主義は商業主義だ (増田注:途中までしか読んでないので、ここはまだうまく訳せていない)
  4. アニメ製作者には、原作を重視したい人と原作を壊したい人がいる
  5. アニメ視聴者には、アニメ制作者の意図を分析したがる人と、作品そのものを分析したがる人がいる

 原作至上主義の問題には、これら5つが絡み合っています。わたしは仕事がら、ずいぶん前からこの問題が気になっていました。けれども、真面目に考え始めたのは、「noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言った」さんの記事に触発されたからでございます。『ひだまりスケッチ×365』や『かんなぎ』などのアニメについて論じたエントリはとても興味深い。研究者職業批評家の分析と比べても、ずっと興味深いのであります。

 noir_kさんの立場を強引にまとめると、アニメ制作者は原作依存しすぎだということ、これがひとつ。もうひとつが、アニメ視聴者原作を無視し、アニメを重視しすぎているのではないか、というものです。

 そこで、わたしもnoir_kさんの視点に乗っかって、原作至上主義という問題について考えてみたい。

3 批評でよく言われている、原作アニメの間(あいだ)

 批評視聴者だけのものではなく、制作者のものでもあります。制作者が批評をするということは、先行する作品を批判するような作品を作るということです。『ガンダム』や『エヴァンゲリオン』のようなアニメはもちろん、さまざまなテレビ番組インターネット映画ゲームコミック小説新聞美術作品などの批判です。

 現在アニメにおける批評行為は、新房昭之山本寛以降、“アニメ批判・パロディ引用自己言及”とまとめられます。これは誰の目にもあきらかでしょう。

 これらの批評行為は、原作アニメとで表現形式が違うので忠実な再現は不可能だということを忘れさせるような、ジャンルの横断可能性という最近トレンドを反映したものにもみえます。ちなみに実写映画の技法を引用するのは、早いもの勝ちですし、技術力の問題でもあるというのが、実情でございましょう。

 ですから、noir_kさんの立場が重要なのは、ジャンルの横断可能性が大前提とされている制作環境に、「メディアが変われば意味も変わるんだよ」という鋭いツッコミを入れていることであるように思われます。

ここまでで限界!もう無理!

2008-11-24

しあわせのかたち

三連休もたまった家事ばっかりでは勤労感謝ではないな、と思い至り、今日しゃぶしゃぶを食べに行った。結構食べて8000円だった。

8000円。この値段が以前テレビ番組で見た「神田うのさんの朝食のスープ一杯」のお値段だったように覚えている。

「特別な日にしたいからしゃぶしゃぶたべるかー」と奮発した外食のお値段がスープ一杯とは、ね、と。収入の差ではあるんだけど。そんなレシートを見て、店内の食事を楽しむご家族を見て、帰り道のぱちんこ屋のネオンサインを見て、いろいろと考えさせられた。

なにがちがったんだろう。でも、今が不幸なわけじゃない。

というと「お前より不幸な奴は居る」といわれそうだが、俺より幸せな奴だって同じくらいいるんじゃないだろうか。幸せ定義、定量化に因るんだろうか。8000円のスープ幸せの象徴なんだろうか。

しゃぶしゃぶを食べたのに、かえって寂しい気持ちになった。

2008-11-18

結論を言う。全て男が悪い。

結論を言う。全て男が悪い。

大人の男の癖に、最近、遊ぶこと覚えたよね?

昔なんか、20過ぎた男なんか人生捨ててた。

一生奴隷のように社会で働き続け、夜も帰ってきてるところを見ないぐらい

遅いのが当たり前だった。そういう覚悟を持ってた。

男に娯楽だ休息だなんてものは、必要ないの。

大の男が私らがするようなことしていいの?それ自体がおかしい。

大人になってテレビ見て笑っていいのは、女性だけ。

コンサートとか、アイドルとか、テレビ番組に夢中になっていいのも、女性少年少女だけ。

野太い男の声なんかがテレビで放送されたら不快でしかない。そんな人権ねーんだよ。

それから女性が職を奪ってるのに主夫になれないと言う意見。これ、論外ね。

男は女性をどれだけ幸せにするかと言うのが性役割

女性は男にどれだけ幸せにしてもらうかが性役割

だから、男による保護と言う保険を持ちながら、社会進出にも挑戦でき、

その時一切女性差別なく採用され、気軽にいつやめても大丈夫なように

夫は常に総合職で働いてるのは当たり前のこと。

男が働いてないと、女性仕事嫌になったときやめられなくなるでしょうが。

大体、男の癖に主夫なんかになれると思ってるその神経が終わってる。

男にそんな権利ねーんだよ。お前金玉ついてんの?

お前の運命はその金玉ぶら下げてる時点で確定してる。

女性のように幸せになる権利なんかねーんだよ。

21世紀レベル女性幸せとは「働きたくなければ働かなくてもよく、

働きたければ働いてもよく、辛くなったらいつでもやめていい。

主婦と言っても、料理が出来ないといけない、裁縫が出来ないといけないなどと言う

女性差別を言われない」これ。その要求水準に男があわせないといけないだけのこと。

そんなことも分からんのかね。グダグダ言ってないでさっさと働けよニート

働かない「男だけ」徴兵しろよ。女性子供生む性だもんね。死ぬのは野郎だけでいい。

男の中にも売国奴と言うか、女に味方するまともな男がいるから、共闘できて助かる。

2008-11-08

梅田望夫「紹介・水村美苗日本語が亡びるとき』」の補足説明を試みる。

【要旨】

 梅田望夫さんが水村美苗日本語が亡びるとき』の紹介をしていた。ブックマーク数は多いのだが、梅田さんの紹介にやや舌足らずな点もあるからか、反応もいまひとつのような気がする。ただ、わたしも水村さんの論を読んで非常に感銘を受けたことはたしかなので、まずは、水村さんの議論の骨子を紹介してみることにした。ただし、わたしが読んだのは新潮9月号で発表されたものであり、ここで紹介することも本の第1章から3章までの議論にとどまる、という点をご海容頂きたい。

ここで紹介したのは水村さんの問題意識であり、この問題に対して水村さんがどのように思考を進めていくか、というメインの部分については実際に「新潮9月号や本をごらんいただきたいと思います(この一文追記)。

(追記2)梅田さんがこの本をどう見ているかについては、すでに8月時点でこの本の前身の論稿に触れられたエセーがすでにあるのでこれもご覧になるとよいかと思います。以下の記事のブックマーク数があまり多くなかったので補足しておきます。

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm

【本文】(本文途中からお名前を「望田」さんと誤っている箇所があったので修正いたします。大変失礼いたしました。また指摘してくださった方に感謝いたします。)

水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』が梅田望夫さんのブログで紹介されていた

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1

 コメント欄ブックマークでのコメント欄では芳しい反応は少ないようで、梅田さんの議論とかみ合っていないし、梅田さんの高揚の理由がわからずポカンしているように見える。

 これはおそらく、水村美苗および梅田望夫の問題意識がちゃんと理解されていないからではないかと思う(その点で梅田さんの紹介が不十分ということはあるかと思う)。とはいっても、本書が梅田さんの心に響いた理由をわたしは想像できるし、わたし自身も「新潮9月号を読んでおもしろいと感じた。なので、以下で水村さんの議論を紹介したい。

 水村さんの議論、および望田梅田さんがインスパイアされた問題意識というのは、たとえば、英語公用語化論のようなレベルでの「日本語の危機」というようなものではない。すなわち、日本の「国語」としての日本語と、英米の「国語」としての英語とのパワーバランス等が問題とされているわけではないのだ。国語 vs 国語」という問題、ではないのだ。

 そうではなくて、水村の議論はこうである。

 水村の分け方によれば、言語には「普遍語―国語―現地語」の3レベルがある。

 中世では「普遍語」としてのラテン語および「現地語」(のちにフランス語ドイツ語になる言語)しか存在していなかった。

 近代国民国家の時代になると、(学術的な成果等の)「普遍的なこと」を語る言語として、「普遍語」の他に、「国語」(もと現地語)が登場した。この意味で「普遍語」の役割を果たす「国語」が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況であった。

 しかし状況は変わった。世紀末から21世紀初めをみると、もともとは数ある「国語」の内の1つにすぎなかった英語が「普遍語」なろうとしている。それに伴い他の「国語」は「普遍語」の座を降ろされようとしている(例としてフランス語の衰退が挙げられる)、と言うのが水村の議論の骨子だ。

そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。 

 以上が水村さんの議論の紹介。

 このことからわかるように、望田梅田さんがこの本を読んで感動したというのは非常によくわかる気がする(追記;小飼弾さんが興奮するのもよくわかる気がするhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html)。望田梅田さん自身をどのように考えているかは知らないが、わたしがこの本を読んで思ったのは、

日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。

 というわけでブクマコメント欄にあった、

英語日本語日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは

という反応などが、もうひとつの、ある意味で正しい反応だといえるのではないだろうか。

これも参照。http://anond.hatelabo.jp/20081111185728

【★追記。以上の議論から、文学においてはどんな問題が生ずるか。水村さんの見方はこうだったと思う。

 近代においては、国語国民国民文学という等式が存在し得た。国語普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学普遍的な内容を論ずることができるものであった。もっというと、

ローカル(現地)なことがらを普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが

近代国民国家における国語による国民文学

であった。

しかし、「国語」が「普遍語」としての地位から陥落しつつある21世紀初の状況を見ると、今後そのようなことは可能であろうか。

これが水村さんの問題意識である。

このような問題は翻訳論において繰り返し語られていて、水村さんもこれに言及している。】

【★さらに追記:

「別に日本語が『現地語』になるとして何か問題でも?」という反応に対して、水村さんの議論からはどのような応答があり得るだろうか、考えてみる。

「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。 

文学とは異なるが、このことの理解を助けるために、テレビ番組を例に挙げてみよう(わたしはテレビをじっくり見る習慣を持たなくなったので、これから書くテレビ番組の状況は、幸いなことに、誤っているかもしれませんが)。

テレビ番組低俗化していく、という説が挙げる例の一つに次のものがあるだろう。お笑い芸人テレビに出してそのトークで番組を構成する、そのトークの中身は(試聴者もそれを知っていることは前提とされているものの)芸人同士の内輪のからみや楽屋ネタのようなものであり、ネタとして完成された作品であることは少ない。

このような内輪のみに意識が向けられ、内輪のもののみに言及し、その範囲での閉じた連環が固定される。 

テレビの現状が本当にこのようなものであるかは知らないが、仮に、このような番組しか放送されていない世界になれば、テレビというメディアは衰退するという主張が現れておかしくはない。

日本語が、「普遍語」の役割を果たしうる「国語」であることをやめ「現地語」になってしまう、という水村さんらが表明される危機意識というのは、このようなものとして理解することができるのではないだろうか。

水村さんのインタビュー記事を読むと、

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm

中途半端国民バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版伝統を維持する。作文を書かせるより、古典たっぷり読ませる教育を積む。それが日本語生命を保つ現実的な方策

ここで「少数精鋭」でもよいので「翻訳出版伝統を維持する」ことが主張されているのは、上で述べたように、外に目を向けなくなることにより日本語および日本社会ローカルレベルへと自壊していくのを防がなければという問題意識を背景とした主張だと、わたしは理解した。】

 

2008-11-03

「衆人環境で告白」の気持ち悪さに耐えられない

http://anond.hatelabo.jp/20081101232133

これはひどい

別にあなたが非モテだとか童貞だったとかどうでもいいんです。

問題は、飲み会の席で相手に告白したということ。そのデリカシーの無さに。

だってさ、当人の気持ちになって考えてみろよ。

例え相手が生理的に受け付けないやつだったとしても、明らかに断りにくいじゃん。

いや、告白に応じた/断ったところで、その後周囲から囃したてられるのは必至。

あなたは違うんだろうけど、恋愛デリケート心の問題として捉えている人にとっては、正直耐えられないだろうね。

「結果的にOKしてくれたんだからいいじゃん」と思うかもしれない。

違う。そういう問題じゃないんです。

「衆人環境で告白」というシチュエーション自体、つまりは暴力的な意味を持つのです。

周囲に促されたからとはいえ、そこで酒の勢いに任せてしまった以上、その暴力に加担したのと同等なのです。

そもそもさ、告白が冗談であったとしても、その相手は「前から少し気になってた子」なんでしょ。

悪いけど、気になってる子に対する態度とは到底思えないね。

あまりに一人よがりで、身勝手すぎる。

昔、某テレビ番組中学生学校の屋上から告白するやつあったじゃん。

告白する本人は本気なんだろうけど、傍から見てると凄い滑稽でさ。

んでOKされたり振られたりして、某ジャニタレが飛び出してきて、最後にカーペンターズの歌がかかるやつ。

あれ見て最悪だと思ってた。こんなの考えた放送作家死ねって。

別に男も女も問わず、恋愛っていうのは物凄い心的エネルギーを発生させるものなのです。

だからこそ、このようにネタに転化させることが容易にできるわけですけども。

なんつーか、やっぱり許せねーなと。

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