お前の業界だけだろって言われるとも思う。
大学から企業に入ると、企業はモノづくりを放棄してるように感じる。
半分は当たりで、半分は誤解だ。
その理由は大学で勉強する学問と、企業で活用する学問の違いにあると思う。
失望する理由の一つは、企業では、物事の理由など考えないことがある。
研究を目的とする大学と、開発、製造、販売を目的とする企業の違いだ。
たとえば、企業では、企画であれ、開発であれ、生産管理であり、経理であり、持っているカードを組み合わせて、最良な組み合わせを探す、それが目的だ。
それだけといっていい。
例えば、家庭で、カレーを作るとする。
ジャガイモは入れるべきか、入れないべきか?
これだけで、3×3×2×3=54通りの選択肢がある。
それを、企業活動の現場で摺る場合、数百、数千、数万の組み合わせから、最良を探す、そういうことになる。
もちろん、商品コンセプトはあるだろう。
一度方向性を決めたら、そこから先は一本道、仮説の検証などは行わない。
所詮は、手持ちのカードで勝負するしかないし、手持ちのカードの組み合わせを試すだけで、精いっぱいなのだ。
この、組み合わせ最適化については、ほとんどの学部で触れることはない。
学生がこれを読んでるかはわからないが、学生が考える組み合わせ最適化とは、違う学問体系で企業での開発は行われている。
最適化する条件を決めて、そして下流にリリース、放りっぱなしとなることが多い。
これについては問題だと思う。
ただ、現状で最適な仕様を決定していても、現実として問題は起きる。
ラボでは理論通りの性能を発揮しても、量産してもそうなるとは限らない。
100万台に1台とんでもない欠陥が発生しないとは限らない。
もちろん、そうならないように設計していても、想定できなかったから想定外なのだから。
法令だけでなく、技術的な要件であっても、国際規格、国内規格、ガイドライン、といった規格や規制がある。
それに擦り合わせることは非常に重要であるが、時にそれに固執しすぎるところがある。
非常に分かりにくく、A4で数枚ほどの短い文章に対して、分厚い解説書やQ&A集が出版されている。
それらに精通している人が強い発言権を有し、誰も理解していないことをいいことに、拡大解釈がまかり通る。
技術的な議論であったはずが、「そんなこと聖書のどこに書いてあるのか?」という律法学者の宗教論争に変わってしまう。
もちろん、上司であったり、経営層がその規格や規制が制定された時代背景や、理論の背景を理解していれば、部下も宗教論争をしないだろうが、そんな上司は滅多にいない。
そしてみな、科学技術を学ぶより、まるで法律家のように解釈論を学ぶようになる。
上記に述べたように、企業活動の本質は、組み合わせ最適化であり、各種規制へのすり合わせだ。
そこには、「なぜなら」も「それゆえに」もない。
現実世界の物事のほとんどが、理由がないように、理由はあっても説明できるほど単純ではないのと同じで、白黒はっきり断じることはできない。
ところが、日常業務はそうであっても、意思決定には稟議がいる。
その場合、「こうである、だからこうする、なぜならば、すなわち」と理路整然と単純化して並べなければならない。
中長期計画に沿って各部門が計画を立て、それぞれの所属員が各部門の目標に沿って計画を立て、その結果を報告する、建前ではそうなってる。
実際のところは、「あらゆる選択肢の組み合わせのうち最良はこれです」以上のことは言えないのだが、そこは目をつぶり小説を執筆しなければいけない。
何か仕事してるふりをして国から補助金をもらってそれを社員で山分けが日本企業の仕事だから
それなんて科研費?
いや、ぶっちゃけ科研費申請は企業のプレゼンテーションスキルに近いスキルを使う。増田がお幾つの方かは知らないが、いわゆる若手研究者の一部は企業で必要とされるスキルがその...
科研費申請書ってまんま企画書だもんね。 研究てんで駄目だったけどDCラクラク通せるような人が企業に就職して活躍してる例はわりと多い。
偏見だけど、女性研究者はその能力だけでポジション勝ち取って偉くなっちゃった人が多い気がする。 そういうラボに知らずに入るとわりと地獄を見る。