はてなキーワード: 源頼朝とは
これだけ識字率もあがり教育も充実しインターネットが広がってなんでも調べられるし理解できる時代になったのに真田信繁のことを未だに何の臆面もなく真田幸村ってしちゃうのはどうしてなのか。
軍記物などの昔のものは仕方ないとして、現今のゲームなどでも幸村にしているのは何故か。何故信繁ではいけないのか。というか、信繁が正しいのにどうしていつまでも幸村に固執するのか。誤字や誤用を細かく指摘することが結構あって、この信繁幸村問題もそれに類するのかもしれないのだけど、どうしても幸村という表記を見るとおかしいのではないか? と思ってしまう。名前間違ってるわけだ。たとえば、有名な神護寺蔵「伝源頼朝像」って全然頼朝じゃなかったわけだ。それと同じで幸村は幸村と生前名乗った形跡がなく信繁が正しいのだ。
こういう事実があるにもかかわらず幸村表記ばっかり。もちろん理由があったり、ねらいがあったり、考えがあるのなら良い。でも何も考えもなく幸村なんて、この科学(人文科学であってもだ)が発達した21世紀において幸村にしちゃうのは本当にダサい。
昨日内職をしていた時の事、何故だか分からないけれど、ふと小学生時代に好きだった男の子の事を思い出した。
彼はサッカーが凄く得意で部活だか、どこかのチームでだかのキャプテンをしていた。休み時間も気が付けば校庭に出てボールを追い掛けていたし、放課後も学校の校庭に来ては一人でボールを追い掛けているような男の子だった。けれど、勉強はてんで苦手で卒業文集は最後まで書き上がらなかったし出来上がったものはほんの数行しかないようなものだった。社会のテストで出題されたこの人は誰でしょう?と言う問いに答えは源頼朝だったのだか、彼は自信満々に漢字で御家人と書いていたし、国語の授業では先生が黒板に書いた文字をノートに写しきれないまま黒板の文字が消されてしまい、たまたま隣の席だった私に「ノート貸してや!」と言われて貸したりもした。そしてそのノートを返してもらった時に「なんでそんな字きれいなん?」などと言われ、その時既に彼を好きだった私は有頂天になった(補足しておくと、私は賢い訳でもないし、どちらかと言えば成績は悪い方だったし、字が綺麗と言われたのも彼に褒められた以来褒められた事がないので、察してほしい)
そして思ったのだ。私が彼に貸した国語のノートは、彼のランドセルに入り家へ持ち帰られ、彼の家に泊まったのだと言うことに。
それだけで済めばよかった思い出話なのだが、妄想癖がある痛い性格な私はあれよあれよと言う間に全く違う話に飛躍してしまった。
もし、仮にもし、少しでも私を好いてくれていて彼が自慰を覚えていたのなら私が貸した国語のノートを使って自慰をしたのではないか、という事だ。
彼が私を好いていた事実はないと思うし、小学6年生が自慰をするのかは女の私には分からないのだけれど。
それでももし、もしそんな事があったのなら凄く嬉しくて興奮してしまうな、と思う。
いつからかは分からないのだけれど、私にはオカズにされたい願望がある。どうして?と聞かれると全く分からないのだが、自分がオカズにされたとしたら、と考えると凄く興奮してしまうのだ。だからと言ってそんな妄想をしながら自分が自慰をするという事はないのだけれど。
もし、好きな芸能人がオカズにしてくれる可能性があるのなら、そういうDVDに出るのもアリなのではないか、と思った事もあるし、オナクラで働く事も自分の性癖を満たすものでもあったから、アリなのではないかなと思ってそういう求人サイトを食い入るように見た事もある。
ただ私に度胸が足りないばかりにどちらの考えも流してしまい、今はただ朝からこんな場所で匿名の日記を書いている。
出席番号9番だった彼は今も元気にしているのだろうか。卒業してから今まで随分会っていないしSNSが発達したこの時代に彼らしき人を見かけた事がないので、もうこの先二度と会う事はないのだろうけど、もしもう一度会う事が出来たのなら私のノートを使って自慰をしたのか、していないのかそれだけでいいから聞いてみたいなぁ、と思う。
1199年 | 2月 | 源頼朝死去 | |
1199年 | 11月 | 梶原景時の変 | 梶原景時自害 |
1203年 | 9月 | 比企能員の変 | 源頼家失脚、比企能員暗殺、比企氏滅亡 |
1204年 | 7月 | 源頼家暗殺 | |
1205年 | 7月 | 畠山重忠の乱 | 畠山重忠討死 |
1205年 | 7月 | 牧氏事件 | 北条時政失脚 |
1213年 | 5月 | 和田合戦 | 和田義盛討死、和田氏滅亡 |
1219年 | 7月 | 源実朝暗殺 | |
1221年 | 6月 | 承久の乱 | 後鳥羽上皇失脚 |
1224年 | 6月 | 伊賀氏の変 | 伊賀光宗失脚 |
1246年 | 4月 | 宮騒動 | 北条光時失脚、藤原頼経失脚 |
1247年 | 6月 | 宝治合戦 | 三浦泰村自害、三浦氏滅亡 |
1272年 | 2月 | 二月騒動 | 北条時章殺害、北条教時討死、北条時輔殺害 |
1285年 | 12月 | 霜月騒動 | 安達泰盛自害 |
1293年 | 5月 | 平禅門の乱 | 平頼綱自害 |
「国体が変わったという認識が必要では?」という主張には特に反論したいわけじゃないけど、徳川家康は「江戸幕府」の初代将軍だからその例自体は別と考えて問題ない。「鎌倉幕府」の初代将軍は源頼朝だ。そしてそれに対して「坂上田村麻呂の立場は!」とか誰も突っ込まない。
それから、戦後当時の政府人の感覚では「国体=政治体制」ではなく、「国体=天皇を中心とした国家であること」であって、だから「国体護持」とは天皇を戦争裁判にかけないことを意味した。降伏判断を遅らせて原爆を二発食らったのもソ連の参戦を招いたのもいわゆる「無条件降伏」したのも占領を受け入れ米兵駐留を受け入れ民主主義を受け入れ東京裁判を受け入れたのも、全ては「天皇制」護持のため。そしてそれは政府の人の単なる暴走じゃなくて、彼らが日本人全体の「空気を読んだ」からだというのがおおむね妥当だと思う。ホント日本人は天皇が大好きだよな。