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はてなキーワード: クラスメイトとは

2009-02-24

2chやってるやつらにありがちなこと ※添削キボンヌ

添削キボンヌ(「スレ立てまくって」あたりが上手くいかない。2chの人ってオフ会ってするのかな?)

2chやってるやつらにありがちなこと

基本的には人見知りの引きこもりオタク

漫画買ったりエロゲ買ったりする以外はあまり外に出ない。

大学生なので仕方なく学校に入っていたりする。

しかし大学では誰とも話さない。後ろの方の席の奴には小声で「キモ」といわれてる。

初対面の人間と話すことは大嫌いで、クラスメイトであっても自分と共通の話題が無いような人間からは積極的に離れる。

必要に迫られて話す羽目になった時は「あ、あ、」しか言えない。

そんな非コミュの癖に、仲のいい奴とはべらべらしゃべりまくる。オタサーでは無敵の内弁慶ぶりを発揮。実はうざがられていることに気づいていない。

2chでいつの間にか友達になった気になるのが上手い。お互いそんなやつだから、それで困ることもない。

だから調子に乗ってスレ立てとかばんばんしちゃう。

2chが居心地がいいのは、自分の好きな奴だけにレスして嫌な奴は無視できるから。

スレ立てまくって「俺内向的じゃねえw」とか喜んでるけど、実態は何も変わらないただの非コミュ

就活では筆記は通るものの面接でテンパって落とされる。仕方が無いので研究室でオタ臭い何の役にも立たないゲームを作ったりする。

アホ。

http://anond.hatelabo.jp/20090223041757

2009-02-23

増田やってるやつらにありがちなこと

基本的には人見知りの引きこもりオタク

ガジェット買ったりエロゲ買ったりする以外はあまり外に出ない。

大学生なので仕方なく学校に入っていたりする。

しかし大学では誰とも話さない。後ろの方の席の奴には小声で「キモ」といわれてる。

初対面の人間と話すことは大嫌いで、クラスメイトであっても自分と共通の話題が無いような人間からは積極的に離れる。

必要に迫られて話す羽目になった時は「あ、あ、」しか言えない。

そんな非コミュの癖に、仲のいい奴とはべらべらしゃべりまくる。オタサーでは無敵の内弁慶ぶりを発揮。実はうざがられていることに気づいていない。

増田でいつの間にか有名になった気になるのが上手い。そんなやつらばかりだから、それで困ることもない。

だから調子に乗って元増田とかトラバ、追記ばんばん書いちゃう。

増田が居心地がいいのは、自分がだれでもないから。

トラバしまくって「俺弱小ブロガーじゃねぇw」とか喜んでるけど、実態はただの非コミュ

就活では筆記は通るものの面接でテンパって落とされる。仕方が無いので研究室でオタ臭い何の役にも立たないゲームを作ったりする。

アホ。

http://anond.hatelabo.jp/20090223041757

Twitterやってるやつらにありがちなこと

基本的には人見知りの引きこもりオタク

ガジェット買ったりエロゲ買ったりする以外はあまり外に出ない。

大学生なので仕方なく学校に入っていたりする。

しかし大学では誰とも話さない。後ろの方の席の奴には小声で「キモ」といわれてる。

初対面の人間と話すことは大嫌いで、クラスメイトであっても自分と共通の話題が無いような人間からは積極的に離れる。

必要に迫られて話す羽目になった時は「あ、あ、」しか言えない。

そんな非コミュの癖に、仲のいい奴とはべらべらしゃべりまくる。オタサーでは無敵の内弁慶ぶりを発揮。実はうざがられていることに気づいていない。

Twitterでいつの間にか友達になった気になるのが上手い。お互いそんなやつだから、それで困ることもない。

だから調子に乗ってオフ会かばんばん開いちゃう。

Twitterが居心地がいいのは、自分の好きな奴だけfollowして発言を追いかけられるから。

オフ会しまくって「俺引きこもりじゃねえw」とか喜んでるけど、実態は何も変わらないただの非コミュ

就活では筆記は通るものの面接でテンパって落とされる。仕方が無いので研究室でオタ臭い何の役にも立たないゲームを作ったりする。

アホ。

2009-02-14

http://anond.hatelabo.jp/20090214192932

ぶつぶつどころかニキビ跡でぼこぼこだから外に出るのが怖い。高校時代はクラスメイトに笑われたことが何度もあったよ。すごいストレスだった。

ブラックマヨネーズM-1で優勝した直後はよくテレビに出てたから、つらかったなあw

上京してから、治療してる。少し改善したけど、これは完全に治る類のものじゃないって半ば諦めてるよ。

はじめまして。津田まことと申します。

今年で26歳になります。

26に見えないってよく言われます(涙)

見た目で察してもらえるとは思いますが、

これまでの26年間、それは本当につらく苦しいものでした。

ボクがガンガンセックスフレンドをゲットしてしまったキモオタです

私は複雑な家庭環境に生まれ、子供の頃から母親の手ひとつで育てられました。

そのせいで引っ越しや転校が多く、友達すらロクに出来ず、

学校が終わっては家にひきこもる毎日。

今考えると、私が口下手でコミュニケーション能力普通の人より低いのも、

幼少時に「友達を作る」という作業をしなかったせいなのかも知れません。

そのような能力は、きっと幼い時に生成されるものなのでしょうね。

母は私にひもじい思いをさせまいと、毎日朝早くから夜遅くまで、

それこそ休みなく馬車馬のように働いてくれました。

しかし当時、女性がどれだけ頑張って働いたとしても、

満足な収入など得られるはずもありません。

もちろん家計は火の車で、それこそ遠足の積立金も払えないような状態で学校に通っていました。

そして、みすぼらしい服装でみんなの輪に入ろうともしない私は、

格好のイジメ対象になってしまったのです。

クラスメイトから無視されたり、

陰口を言われたり、

カバンを隠されたり、

机の中に残飯を入れられたり、

バイキンくん扱いされたり、

でも、それだけなら耐えられたかもしれません。

本当に、それだけで済んでいれば・・・

なぜ、「それだけで」かというと

通っていた小学校の教室は、男子と女子が隣同士机を並べあうスタイルでした。

そして私は、隣の席に座っているYちゃんにほのかな想いを寄せていました。

どんなにつらいイジメにも耐えて学校に通っていたのは、

Yちゃんと会うことが出来るからでした。

私が教科書を忘れた時に自分教科書を見せてくれたり等、それはまるで天使のようで・・・


しかし!

そんなある日、それは突然起こりました。

朝、いつもどおり教室に着くと、

そのYちゃんが・・・      隣同士くっついていたはずの机を離していたのです!

http://セックスフレンドget.jp/infotop/

俺と同じだ。

俺も母子家庭に育った。

おしゃれに興味なく、みすぼらしい服ばかり着てた。

不潔菌と呼ばれ、隣にいる子から机を離された。

家に帰ってからは寝てばかりいた。

ある時パソコンにはまり、そればかりやってた。

それでますますキモくなり、女子高生からキモイと言われた。

26になった今も女に縁がない。

このままではまずいと思って、ファッション誌を読んだり、眉を整えたりしてる。

でも、いくらやっても、おしゃれになれそうな気がしない。

リア充になれそうにない。

もう手遅れなのか。

キモオタになってしまった人間キモオタのままなのか…

2009-01-16

小学校のころ同級だった男の子スキーに行った。

http://anond.hatelabo.jp/20080913153317

http://anond.hatelabo.jp/20081201015818

http://anond.hatelabo.jp/20081226042010

の続き。

知らないうちに、彼らはスキーに行ったりしていたらしい。

小学校同窓会にて地元組で話が盛り上がり、近場に泊まりがけでスキーに行ったことがあるらしい。

なぜわたしがそれを知ったのかというと件のやつから「せっかくだから今年は一緒に」と誘われたからなのだが、転勤族の悲哀というか、卒業と同じタイミング学校を変わってしまうとこういうふうに図らずも仲間はずれになってしまうことがままあるのだ。

これまでは特に気にしたこともなかったけれど、今回ばかりはちょっとさびしくなった。

いいな、と思った。

わたしには「幼馴染」という関係に対する幻想のようなものがある。

子どものころからずっと一緒にいると、互いが少しずつ異性になってゆくようすを間近で見る機会が多くなる。

声が変わったり、胸が膨らんだり、背の高さが逆転したり、ちょっと重いものを運ぶときに軽々と担いでいる姿とか、ふとした瞬間の大人びた表情とか。

そういうのが、とても魅力的で刺激的なことのように思うのだ。

実際は特に意識することなんてないよ、と経験者が語るのを聞いたこともあるのだけど。

例の、本当の意味クラスの「注目の的」だった女の子は、彼と同じ私立中学校に進学していた。

そこは中高一貫校だったので、きっと高校も同じだったんだろう。

幼馴染コンプレックスうずく

いいな。いいな。

そしてほらまた。

スキーも一緒だったんだって。

彼女は、お父さんが開業医だった。

絵に描いたような優等生だった。

なんでもできる子だった。

わたしが彼女に勝っていたものといえば、英会話ぐらいだ。

わたしと彼女はたまたま同じ英会話教室に通っていたのだけど、わたしの気持ちと先生の教え方が上手に噛み合っていたようで、わたしは一人でやたらと順調に力を伸ばしていた。

海外の人が何かの交流で学校に来たときに代表でスピーチをしたりとか。

彼女と唯一張り合えるであろう技能はそのぐらいのものだった。

なんていうか、格が違う感じがする人なのだ。

ということで、スキーツアーに参加することになった。

かなり緊張していた。

彼らは定期的に会っているらしいのである程度気心の知れた仲を保っているのだろうが、わたしは卒業以来初めてなのだ。

知らない人たちの輪の中にひとりで入ってゆくことにほぼ等しい。

当時特に仲の良かった子を見つけてくっついていよう、でもきっとある程度関係ができあがってるだろうし、今更加わっても迷惑がられないかなあ、とかネガティブ思考全開で集合場所へ行った。

総勢7人。男性4人、女性3人。

意外と集まるものなんだ、とびっくりした。

なんか全体的にキャッキャキャッキャした浮わついた感じで、早くも不安でいっぱいになる。

なんだろう、この広瀬香美な雰囲気は、と思っていたら実際「(合コンあいのり)÷2」な、そんな趣旨の集まりに近いのだということをわたしは後になって知ったのだが、まあとにかく緊張していた。

久しぶりだから、一応

「きゃー!!ミッチョン!?久しぶりー!!!」

「今どこに住んでるのー!?」

みたいな盛り上がりはあった。よかった。

やっぱりみんな卒業して十数年も経つとだいぶ変わるんだなあ、というのが実感だった。

顔立ちそのものもだけど、化粧をしたり太ったり痩せたりハゲたり茶髪になったりしていて、確かな年月の重みを感じさせられた。

それからバスに乗り込んだのだけど、わたしは当時の仲良しグループの子ではなく「注目の的」の女の子、さとし(仮名女の子です)と隣どうしで座ることになった。

仲が良かったほうの子がすでに結婚していて、ご主人と一緒に来ていたからだ。ちなみにご主人は同級生ではない。

さとしは医学部に進学したそうだ。

浪人して入ったこともあってまだ学生で、本当はこんな風に遊んでる暇はないけど、と笑っていた。

彼氏もいて、まだわからないけど同じ医学部の人なので将来を考えることができたらうれしい、と言っていた。

「さとし、きれいになったね」

と、誰かさんではないけれど、わたしはさとしに言った。

本当にそうだった。

もともと色が白くて線の細い子だったけど、そのままの雰囲気で大人になっていた。

薄化粧をして髪をゆるく巻いたさとしは、小学生のころの何倍も美しかった。

さとしは少し肩をすくめて、小さく照れ笑いをした。

感じのいい笑顔だった。

さとしについてはいろいろな記憶がある。

5年と6年で同じクラスだったのだけど、5年のころ、さとしは取り巻きの子たちを引き連れていじめをしていた。

先生たちから全幅の信頼を置かれる優等生でありながら、陰で特定の子の持ち物を隠したり、寄ってたかってバイキン呼ばわりしたりしていた。

別に怖かったわけでもないのだけど、なぜかだれもさとしを告発するものはいなかった。

6年生になってその子とクラスが分かれると、さとしのいじめ自然となくなった。

週一回の英会話教室の帰り道は、さとしと帰っていた。

野良子猫を見つけて、近くのスーパー惣菜を買ってきて一緒にえさをあげたりした。

さとしは「けろけろけろっぴ」が大好きで、サンリオのお店に一緒に立ち寄ったこともあった。

そこで見るさとしは、本当に普通女の子だった。

何となく別世界の人のように見えるさとしにも親しみを感じるひとときだった。

卒業式が近くなり、毎日のように練習が続いていた日、わたしはヘアゴムを失くした。

当時はものを失くすたびに親からこっぴどく叱られていたので、また怒られる、と思っておろおろと周囲のクラスメイトに尋ねて回った。

ちょうど体育館への移動時間が迫っていて、誰もが

「ごめん、知らない」

としか言わない中、さとしだけが探すのを手伝ってくれた。

結局見つからなかったのだけど、わたしが

ありがとう、もう大丈夫だよ」

と捜索打ち切りを宣言しても

「いや、あそこにあるかもしれない

とか言って机の下をのぞきこんだりしていた。

今思うに、この生真面目さが、さとしの美点だったのかもしれない。

すごく責任感の強い子で、委員会活動などで任せられた仕事はいつでも完璧にこなそうとしていた。

いじめをしていた時期も、さとしはこういう一面を失うことはなかった。

むしろそういう子だから知らないうちにストレスがたまってしまって、子どもゆえの残酷さでその捌け口を「いじめ」に求めてしまっていたのかもしれない、と今は思ったりする。

さておきスキー場に着き、まずは滑ることに。

一通り体を動かし、食事がてら休憩所のストーブの前でさとしと話をしていたら、やつが来た。

いたって気軽に今日の天候がどうとか雪の積もり具合が、とか話し込むふたり。

かたや、ものすごい置いてきぼり感の漂うわたし。

相槌はかろうじて打つものの、いまひとつ会話に乗れてない。

ほどなくしてさとしが早々とゲレンデに戻ってしまったので、ふたりになった。

「今まで何回ぐらい集まったの?」

「うーん、もう5、6回になるんじゃないかな」

「そうなんだ」

「俺はスノボだけどね。ミッチョンは?」

「もうだいぶやってないよ…。大学生のとき以来」

「俺も毎回来るわけじゃないからなあw」

「それにしてもみんな、変わったね」

「あー、ミッチョンは久しぶりだもんな」

同窓会も出たことなかったし」

「そうだな。いなかったな」

「でも、いいものだね」

と言うと、こっちを見てにやっとした。

「そう?」

「うん」

するとどこかあさっての方向を向いて

「それならよかった。」

と低くつぶやくように言った。

自分が誘ったのだから、ということで気を遣って尋ねたことのようだった。

それから、同行している元クラスメイトたちの話をしていた。

夫婦で来ている彼らは婿養子なのだと聞いた。

なるほど、確かにあの女の子は古くからの金物屋さんの娘なのだ。

2年前にご主人がお店を継いで、モダンな感じの雑貨屋に改装して、小さなカフェまで併設したらしい。

それが当たって、地元でもちょっとした有名店になったのだとか。

「すごいよね。

 婿養子って肩身が狭そうなイメージがあるけど、そんなふうにお店を変えるのも大変だっただろうね」

「最初は反対されたらしいけど、最近はやってるじゃん。古い家屋の味を活かして今風の店にするの。

 それで、お父さんたちが今まで卸してきた品物をメインで売るのは変わらないってことも話して、

 プランナーと一緒になって説得して、お父さんも折れてくれたらしいよ」

「お店、今日休みじゃないんだよね?」

連休は書き入れ時だろうに、夫婦で来て大丈夫なのだろうか、とふと思った。

「俺も聞いたんだけどね。お父さんとお母さんが、自分たちで何とかやるからたまにはいいよ、って

 送り出してくれたんだって。」

わたしは、彼女の家に遊びに行ったときにお母さんがよく出してくれていた手作りケーキのことを

思い出した。

高級店のケーキとは違うけれど、素朴でシンプルで、ついたくさん食べたくなる味わいだったと思う。

行くたびに違うメニューのケーキが出て来ていたのだけど、いつも手作りだと言っていた。

カフェで、もしかしてあのお母さんの手作りケーキを出しているのだろうか、もしそうだったら、なんて素敵だろう、と思った。

彼は、この金物屋の若夫婦とも

商工会の集まりでときどき会う」

と言っていた。

自分はまだメインじゃないんだけど、あいつらはもう店主として堂々としたもんだ、と言っていた。

その縁でスキーにも一緒に行くようになったらしい。

つながってるなあ。

同じところに住み続けるとは、こういうことなのだろうか。

わたしには、わからない世界だと思った。

幼いころからずっと顔を知っている人と今でもこうして交流を保っているということが、とても幸せなことのように思える。

わたしはたまたまこいつが夢に出てくることから始まって今こうしてスキーに混ぜてもらっているだけで、彼らと同じ地域には住んでいない。同じ世界を知らない。

妻夫木仮名・そいつのこと)はさ」

「うん」

幸せ者だね」

「何、突然w」

「同じ土地で生まれ育つのって、幸せなことだよ」

「そうかな?」

「そうだよ」

「じゃミッチョンは幸せじゃないの?」

「え?」

「なんか、そういう話の流れじゃない?」

「ああ、いやそうじゃないけどw

 でもうらやましいよ、何となく」

「うん、まあその寂しさはわかる。ミッチョン卒業式のときめっちゃ泣いてたしな」

「そうだっけ?」

「覚えてないのかよw」

「あんまり」

「ミッチョンって普段はあまり自分の感情を表に出すほうじゃなかったじゃん。

 それがいきなり号泣だからな。

 小栗っち(仮名・担任の先生)も反応に困ってたよw」

「やめてよ、恥ずかしいじゃん!」

「わははw」

「でも、その割にあんまり皆のこと覚えてないんだよなあ…。

 なんでだろう。」

「あー。実は俺も。」

「薄情者w」

「お前もだろw」

軽い突っ込みにしても「お前」と呼ばれたのが、すごくうれしかった。

距離が一気に縮まった気がした。

わたしも、一応まだ仲間なんだよね?

そうだよ。だから心配すんな。

みたいな変な脳内会話が繰り広げられてしまい、ひとりでにやにやしてしまった。

「ていうか、小栗っちw懐かしいねー」

「元気にしてるんだろうか?」

「相変わらず熱血なのかな」

「ハゲてそうだよな」

「それ当時から言ってたよねw」

「言うとムキになるから面白くてw」

「剛毛はハゲやすいらしいよ」

「それじゃ、やばいじゃん、小栗っちw」

小栗っちは若い男の先生で、かなりの熱血教師だった。

当時から妙に冷めたところのあったわたしは、一度小栗っちから涙交じりで怒鳴られたことがある。

クラスの子達から学級委員に推薦されて、それを辞退しようとしたときのことだった。

もう3学期のことで、めぼしい人はすでに委員をしてしまった後で(学級委員は学期ごとに改選するのがうちの学校の決まりだった)先述のさとしはそのころ生徒会をやっていたし、他にこれと言って人がいないからまあミッチョンぐらい推薦しとくか、みたいな空気を感じ取って「なんだかめんどくさそうだなあ…」と思ってしまったのだ。

「やればできるやつなのに、俺はお前のそんなところが悲しい!」

というようなことを言われた。

子供心に「そんなこと言われても」とか生意気なことを思っていたが、でも小栗っちはいい先生だった。

今のわたしとそう変わらないぐらいの年だったはずだけど、難しい年頃の子どもたちをよくまとめていたと思う。

芋づる式に、いろいろな人の記憶が蘇る。

過去記憶はいつだって甘美で優しい。

なんだか、せつなくなる。

ところでわたしは妻夫木聡のファンではないのだけど、最近、やつの顔に少し妻夫木聡の面影があることに気がついたのだ。

長めのまつ毛と潤いのある目元が特によく似ている。

にこっと笑ったときの口元も似ている。

このところ、妻夫木聡テレビで見ると「どきっ」とするようになった。

「あー寒いマジでやばい!」

とか言いながら、他の元クラスメイトが来た。

平野仮名男の子)と大田(仮名男の子)だった。

当時にぎやかし担当の人たちだったが、わたしは彼らとほとんど接点がなかった。

今日は同行者だからこうしてとりあえず話しかけてきたのだろうけど、正直に言うと話題がない。

妻夫木ここにいたんだ」

「久しぶり。ミッチョン俺のこと覚えてる?」

「覚えてる、久しぶりだね」

「やーミッチョンきれいになったなー」

「え、いや。ありがとう。大田も…大人っぽくなったね」

「ハゲてきてるって正直に言っていいよ、ミッチョン」

「うるせぇよ平野メタボ平野

「まだメタボじゃねぇw」

笑いながら、同じ褒め言葉でも言う人によってこんなに心に響かないものなのか、と思った。

もちろんまだ20代だし、ハゲもメタボも言うほど目立ってはおらず、顔立ちも整っている人たちなのだ。

茶髪日焼けして華やかな格好をしている彼らは多分人目を惹くだろう。

実際、さっきだってゲレンデでよその女の人に声をかけて何だか楽しそうに盛り上がっていたのを見た。

子どものころは大田も平野運動がよくできた子だったし、女の子にも人気があったと思う。

あの

「誰か好きな人いる?」

に、よく出て来ていた二人だった。

でもわたしは彼らと会話のテンポが合わず、話していて何かと気後れしてしまうことが多かった。

彼らが当時「ミッチョンって何となくしゃべりづらい」と言っていたのも知っている。

その流れで、苦い記憶を思い出してしまった。

平野たちのふとした発言がきっかけで一部の女子に陰口を叩かれ、あからさまに仲間はずれにされていた時期があったのだ。

その中に、さっきの金物屋の娘の子もいた。

しばらくして和解できたので、忘れてしまっていたのだ。

なんという芋づる。

「だいぶあったまったし、俺そろそろ行くわ」

妻夫木が言い、立ち上がりながら

「ミッチョンも行く?」

とわたしに声をかけてくれた。

「あ、うん」

と返事をしたときにはもう妻夫木は歩き始めていた。

「じゃ、またあとでな」

「おー」

「またね!」

すたすたと立ち去る妻夫木に、わたしはあわてて着いていった。

妻夫木といっしょにいるほうが、どう考えても居心地がよかった。

背後では平野たちの明るい話し声が続いていた。

大田は知らないが、平野は当時、妻夫木とかなり仲が良かった。

妻夫木やさとしが進学したところとは志望先が違っていたが、受験組の一員だった。

このスキー旅行を毎年企画しているのは平野だ、と妻夫木から聞いた。

「ああ、平野こういうの好きそうだね」

とわたしが言うと

「半分は女目的らしいけどw」

と笑いながら言っていた。

「さっきもナンパしてたね」

「今夜あたり、何か仕掛けるんじゃないの」

「仕掛けるってw」

「あいつそういうの得意だもんw」

と、気がつけばふたりで並んでリフトに乗っていた。

わたしは「高いところに宙ぶらりん」のシチュエーションが大変苦手だ。

だからバンジージャンプは死んでもできない。するとしたら死ぬときだと思う。

加えて、隣が妻夫木だ。

楽しそうに話を続ける彼の横で、わたしは硬直していた。

よほど返事が上の空だったのだろう、

「どうした?」

と少し覗き込むようにわたしの顔を見た。

「なんでもないよ」

笑顔を作って答えたが、その笑顔がこわばっているのが自分でもわかった。

「…いや、なんでもなくないだろ。トイレ?」

「ちがうってw大丈夫大丈夫

「いや、本当にどうした…あっ!」

妻夫木が、何か思い当たる節があるかのように声をあげた。

「ミッチョン、高所恐怖症だったなw」

「いや、あの…はい…」

「わははははw」

「ちょっと笑わないで!揺れる!」

「ほーらほーら」

「いやああああ!揺らさないで!!やめてえええ!!!」

「わはははは…」

もう本当に恐ろしくて、リフトを吊り下げているワイヤーにひしとしがみついてしまった。

すると妻夫木が、さすがにばつが悪そうに

「もしかして、本気でいやだった?」

と聞いてきた。

「怖いです…やめてください…」

と言うと、妻夫木はしょんぼりした。

「ごめん」

「ううん、わたしもごめんね」

「いや、ほんとにごめん」

気まずい。

でもやっぱりリフトは怖い。

なるべく自分がいる場所を認識しないように、上のほうを見るように心がけていた。

「…なんで上向いてるの」

「下見ると怖いもん」

「…ククッ」

「笑わないで!」

「いや、だってお前の格好、おかしいってw」

「おかしくない!」

「おかしいよwなんか怖がり方がすごいもんw」

「あんたに言われたくないよ!」


あとで気がついたが、このときが「お前」「あんた」が復活した瞬間だった。




夕食およびお風呂の後、男子部屋に集まって皆で飲むことになった。

女子部屋からの移動中に

りょうちゃん(仮名・金物屋の子)ち、お店きれいになったんだね」

とわたしが話しかけると、りょうちゃんは気さくに答えてくれた。

「そうそう、旦那がなんかがんばっちゃってさー」

するとさとしが

「すっごいかわいいお店だよ。わたしもたまに行くもん」

と話に入ってきた。

「さとし、いつも抹茶ロール頼むよねw」

「あのロールケーキはすばらしい。○×屋(地元デパート)で売ってほしい」

「何言ってんのw無理でしょw」

さとしがわたしのほうを見て

「ミッチョン、もしこっち来ることがあるなら連絡してよ。いっしょにりょうちゃんのお店行こう」

と言った。

「ありがとう」

とわたしが笑顔を返すと、さとしはにっこりと笑った。

ケーキりょうちゃんのお母さんのお手製なんだよ」

「ああ、やっぱり!」

「なんでわかるの?ミッチョン」

「いつもご馳走になってたじゃん。さっき妻夫木から『カフェもできた』って話聞いて、りょうちゃんのお母さんってお菓子作るの上手だから、もしかしたらそうなのかな、って思ってた」

「ああ」

りょうちゃんは、何かしたり顔でにやっとした。

何だろう、とそのときは思っただけだったけど、後でその意味がわかった。

りょうちゃんは、わたしが妻夫木を「狙っている」と思っていたみたいだった。

「狙っている」というか、まあ確かに大はずれでもないのだけど、なんというか、そういうニュアンスじゃないのだ。

ちょっと違うのだ。

積極的に関係を進展させたいとは思っていないのだけど、でも、縁を途切れさせることなく続けていくことができればどんなにいいかと思っている。

まあ、それが「狙っている」ということになるのならば、りょうちゃんの読みも正しいということになるのか。

男子部屋ではすでに小宴会が始まっていて、りょうちゃんの旦那さんが

「おー!来た来た!女性陣はこっちにどうぞ!」

と、いそいそと座布団を準備しながら場所を空けてくれた。

あとでりょうちゃんに年を聞いてみたら、わたしたちより7歳上の人だった。

部屋は10畳ぐらいの和室で、エアコンストーブでぽかぽかと暖かかった。

「いやー美人揃いだなあwおふたりともまだ独身ですか?」

と旦那さんが早くも鼻の下を伸ばしているのが印象的だ。

「はいはい始まったw」

と、りょうちゃんがすかさず釘を刺した。

さとしは面識はあったらしいが、ちゃんと話すのはこれが初めてだった、と後で言っていた。

「ほら、この子がさとし。ときどきお店に来てくれてるじゃん。」

「ああ!あの医学部の!」

「よろしくお願いしますw」

「いやー!すごいね!才色兼備ってやつだね!」

「ひろし、うるさいよ」

旦那さんの名前は「ひろし」らしい、ということがこのへんでわかった。

「で、こちらは…」

「ミッチョン。小さいころ、家が近所でよく遊んでたんだよ」

「ああ、あの英語が上手だったっていう」

「いえwよろしくお願いします」

「ふたりとも頭がいいお友達なんだな。お前バカなのにな」

「ひろしには負けるけどね」

りょうちゃんwとりあえず乾杯しようよw」

「あ、ごめんね、こいつがバカなもんで」

「もういいからw」

というふうな感じで、せわしなく繰り広げられる夫婦漫才を残りの5人が遠巻きに鑑賞しつついじる、という流れが出来上がった。

さとしを平野に取られてしまい、ひとりで所在なくぼんやりしていると

「楽しんでますか?」

と、妻夫木が横に座ってきた。

「うん、りょうちゃん夫婦おもしろいねw」

「ひろしさんがムードメーカーだから」

「でもこの集まりって不思議だよね。皆もともとバラバラのグループだったのに」

「ああ。さとしは俺が呼んだんだよ」

「そうなんだ」

平野がね」

と、妻夫木はちらりと、平野とさとしのほうを見やった。

「さとしと会いたがってて」

「どうして?」

「さあ…。いろいろあるんじゃない?」

「男同士でそういう話したりしないの?」

「しない」

「そういうもんかなあ」

「うん」

大田が乱入してきた。

「ちょっとミッチョン!飲もうぜ!」

「大田お前大丈夫?w」

大丈夫大丈夫!はいミッチョン!」

と、大田に紙コップを渡されて並々と清酒を注がれた。

「あ、ちょっと!大田!」

妻夫木がふいに焦ったように声を上げて、瓶を取り上げてしまった。

わたしはなぜかわからないけど、とっさに「妻夫木を安心させなきゃ」という気持ちが働き、あえて

ありがとう。いただきまーす」

と明るく宣言して口をつけてみた。

あーあー、という顔をして、妻夫木がわたしを見ている。

そんなに焦らなくても、わたしは実はお酒には強いのだ。

妻夫木はそれを知らないから「清酒をいきなり女に飲ませるのは危ない」ぐらい思って焦ってるんだろう、とそのときは思った。

それにしても清酒は普段あまり飲まないものだけど、ひとくち含んでみるとなんだかとてもおいしく感じて、一気に飲み干してしまった。

「あー。これすごくおいしいねー。どこの銘柄なのかな?」

本心からしみじみとつぶやくと、妻夫木と大田が驚いた顔をしてこちらを見ていた。

「ミッチョンって、お酒強いの?」

と大田がおそるおそるといった様子で尋ねてきた。

「まあ、それなりにw」

と答えると、ふたりは顔を見合わせて

「それなりに、どころじゃないよなあ…」

「ミッチョン、なんかイメージ変わったわ」

と大田が半笑いでつぶやいた。

どんな可憐な(しかし誤った)イメージをわたしに持ってくれていたんだろう、と思った。

一通り話をして大田が立ち去った後、妻夫木に聞いてみた。

「女の人がお酒好きなのは、よくないのかな」

「え?なんで?」

「大田、引いてたし」

「ああ、気にするな。あいつ未だに異性に変な幻想持ってるやつだから」

「でも妻夫木もびっくりしてたじゃん」

「ああ、俺?」

「うん」

「いや、俺は…」

「何?やっぱりよくない!?」

「いやいや、そうじゃなくてw」

「何?」

やや酔っていて、しつこく絡むように聞いてしまった。

「いや、だからね」

「なんだよー」

「いや、うれしいな、って」



あっ、と思った。

このお酒妻夫木が持ってきたもので、妻夫木のおうちはもともと醸造所から発展した会社だ。

「ほら、ほんとにうまそうに飲んでくれたじゃん。

 やっぱり、作り手としてはね、うれしいじゃない」

さっき飲んだのは、妻夫木のおうちが作ったお酒だったんだ。

そして

「あー。失敗した…」

とかぶつぶつ言っているのでよく話を聞いてみて、もっとすごいことを知った。

妻夫木は今、若い人向けの新商品を開発する部署で働いていて(これは前から知っていたんだけど)、実は今日、販売直前まで来ている試作品のような販促品のような、まあそんな扱いのものを持ってきていたそうだ。

それを黙って周りの人間に飲ませてみて、反応を見てみたかったらしい。

「俺んちの酒ってわかってたら、みんな多分気を遣ってよく言ってくれるだろ。

 でもそんなの、おもしろくないじゃない。

 黙って飲ませて『うまい!これどこの酒?』って言わせてみたかったんだよなw」

そのために隅っこに隠しておいたお酒を、酔いどれの大田が見つけ出して勝手に飲み始めてしまったのだった。

でも最後のほうは、もう抑えきれない笑みがこぼれていた。

妻夫木はうれしかったのだ。

事情を知らないわたしが、図らずも思い通りのセリフをつぶやいてくれたことが。

わたしは、なんだか胸がわくわくして、たまらなくうれしくて満ち足りた気持ちになった。

妻夫木にぎゅーっと抱きつきたくなった。

妻夫木は、すごい。

妻夫木、かっこいいよ」

と、背中をばしばしと叩いた。

「は?」

妻夫木は、本当に立派な社会人だね」

「なにそれw」

「うん、かっこいいよ」

「わけわかんねぇw」

「こんなにおいしいお酒を作ってる妻夫木は、すごいやつだよ。

 自慢の友達だよ。

 もうたまんないよ。すごいよ」

と、ほろ酔いの頭で語彙がうまく出てこないもどかしさを感じながらも、一生懸命わたしは感動を伝えた。

妻夫木は目を細めて

「おう。サンキュ」

と、わたしの頭をがしがしと撫でてくれた。

それが今回の旅行で一番思い出に残っている出来事だ。

妻夫木はすごいやつだ、と思った。

そして、わたしみたいな平凡な人間と仲良くしている理由が、よくわからなくなったりもした。

妻夫木は、わたしの何がよくて友達でいてくれてるんだろう。

我ながら卑屈だなあ、と思ったけれど、こんなことを考えていると、妻夫木に誘われたというさとしの笑顔が、小学校のころの羨望の念とごちゃごちゃに混ざって、頭の中に霧がかかっているような、すっきりしない重たい気持ちになってくる。

さとしを誘いたかったのは、平野だけなのかな?

さとしみたいな子だったら、きっと妻夫木とも釣り合うんだ、とか意味のわからないことを思った。

こういうことをうじうじと考え込んでいる自分がとてもいやだ。

さとしだって、こんなふうに思われるのはきっと迷惑だ。

そういうことを考えたくなくて、今は仕事をとにかく頑張ることにした。

妻夫木みたいにすごいことはできなくても、自分なりにやるべきことをきちんとこなし続けていたら、いつかはこのもやもやも晴れるかもしれない、と思ったりしている。

次はいつ会えるのかな。

休日はひとりで過ごすことが多く、あまり人を誘うことがないので実は誘い方がよくわからない。

自分から誘ってみれば、何か変わるのかな。

2009-01-14

考えすぎ

昔、中学の同級生Aから2年ぶりくらいに電話がかかってきて、会うことになった。約束場所のファミレスにはAと、知らない

お姉さんが隣に座ってて、勧誘スタートお姉さんはその宗教に入って魚の目治ったんだって。それは多分併用して使ってた魚の目コロリのおかげだと思いますけど。と告げて、同時にいりませんって言ってさっさと帰ってきた。

バイト先に中学の時の同級生Bがやってきた。クラスメイトだけど口を聞いたことがなく、俺だよ俺!って言われてもさっぱり覚えていない。3時間後、店を閉めて外に出たらBがこの糞寒い中突っ立ってた。よ、一緒に帰ろう!って。若干気色悪いなこの人って

思いながらも仕方なく一緒に帰路を辿る。アドレス教えてよって道中言われたので彼のだけ聞いた。そのまま一生送らないつもりだった。しかし運の悪いことに、長く私が付き合いを続けている同級生CとBが地元の駅でウッカリ鉢合わせた。

そして私とCが旧知であることを聞き、私にアドレスを送るようCに伝言を頼んだらしい。仕方なく送信した。

その後4回Bから一緒に飲もうってメールが来た。5回目に仕方ない、行くか、って思った。電話がかかってきたので日にちを

打ち合わせる。場所は、彼の先輩が経営している店がある!と彼が言い出した。顔割が利くんだそうだ。

その時はまぁ2時間くらい耐えればいいんだよな、って思って頷いたけど、今になって急にAのことを思い出した。

また宗教勧誘じゃないのかな。ていうかその店は本当に危なくないのかな。

中学の同級生だけど相手のことは何にも知らない。中学時の友人さえも被ってない。警戒しすぎなだけだけど、よく知らない男とよく知らない店に二人飲みにいくって平気なのかな。バイト大学高校の知り合いの男性と飲みにいくのとはまた事情が違うんだ。

どうせ私は一杯もアルコール質的に受け付けないんだから、普通のお店にしてもらっていいかなって今から頼もうか…

それとも5回目の断りをするか。でも警戒しすぎなだけな気もする。

2009-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20090111061126

ダイエットって、自分の意志で行って、失敗して拒食になったんかな?

ダイエット前の体型や周囲とはどうだったんだろ。

体型戻ってからどれくらい?

一度ターゲットになったら、そうそう直ぐに被害を逃れるわけじゃないよね?

今の子はダイエットする事自体が当たり前が多くて、許容範囲がすごく狭い。

痩せてても、太ってても、そういう子は同じ反応だよね?

でも逆に「友達やクラスメイトってのは体型や容姿じゃない」って考えられる子もいるんじゃないのかな。

クラス全員が、上のような考え方なのかな?

もしかして、元増田の娘さんは、もともと何らかの理由で虐められてて、

体型を変える、あるいは、同じ事をする事で友達を得たくて、

ダイエットをしたんでないのかな?

あるいは、クラスに体型が理由でひどいいじめを受けている子がいて、

その子のようになりたくない、と思ったとか。

それで失敗して、余計に悪化してるとか、ないだろうか。

自分いじめられっこ経験したけど、

いじめの内容としては、正直無茶苦茶ひどいわけじゃないと思う。

でも、それをどこまでのダメージとして受けるかは、

その子の性格や、経験や、それ以外の生活諸々だよね。

学校いじめられた、親のおかげで逃げ出せれた」

そのあと、新しい場所で問題なく幸せになれました…ってなれるかも、

子供性格だと思う。

他人の力ででも、逃げられれば、明るくやりなおせる性格なのかな?

引きずったりはしないのかな?

「(学校旅行に)辛かったら行かなくていいよ」って言葉も、難しい。

行かない=逃げたって事実は、一生引きずるから。

言え、とも言うな、とも、元増田の娘さんの性格や生活を知らない他人が

安易に言うべき事じゃないと思うんだ。

心臓に毛を生やすばっかりが幸せとは思わないけど、

生きるってそういう事だよね。

いじめと闘ってきた子は、多分みんなそれを知ってる。

元増田は、娘さんの話をきいてやって、

昔のこと、今の事、未来の事。

もし転校したらどこに?それから、どうやって学校生活をする?

って所まで作戦会議的に話しあうべきじゃないかな。

転校するだけじゃ何も生まないし、同じ事を繰り返す可能性もあるんだから、

転校する場合と、今のままで続けるメリットデメリット、最高に良いパターン、最悪のパターン

想像力を駆使する事で、心構えができて、少しは強くなれると思う。

先に拒食症を解決しないといけないのでは?

http://anond.hatelabo.jp/20090111061126

20キロ痩せるということは何か精神的に不安定な状態があったのではありませんか? そういう心の奥底の問題を掘り起こすのは、本人にも家族にもつらいことですが、まずはそこにどんな問題があったのか探るところから始めてみてはいかがでしょう。

確かにクラスメイトたちには思いやりがありませんが、こちらから挨拶すれば返事はするのなら、まだ、そこで頑張れる望みはあります。逆に、踏ん張って、また、それなりに溶け込めれば「やり直しがきくんだ」ということを娘さんに経験させることになり娘さんの自信となるでしょう。

5月まではまだ間があります。そのときも同じクラスなら学年が進んでもクラス替えのない私立ですね。転校といっても簡単に思い切れないでしょう。

娘さんがご自分の状態をうまく他人に説明できるようになれば、周囲も扱い方を変えてくれるかも知れません。ひどくなるかも知れませんし、思いやってくれるようになるかも知れません。

行動することだと思います。

2008-12-31

どうやって初めての射精発見発明した?

 私は小学5年生か6年生の頃から夢精をしていた。一ヶ月に一回くらいの頻度で夢精は訪れた。私は夢精事実を親には明かさなかった。

 夢精を体験したはじめの頃は次のように考えていた。何か妙な感じに起きてしまってペニスが痛くて漏らしてしまったような感覚はあるが、どうやらお漏らしをしたわけではないらしい。かと思えば、パンツは湿っている。どうにもべたつく。しかし大したことはなさそうなのでパンツをティッシュで拭いてそのままにしておいた。なんとなく親には言いづらかった。

 私は夢精の正体を知ることなく更なる月日を過ごした。夢精を体験してしばらくたってからは次のような感想を持っていた。どうやらペニスが痛くなってパンツを湿らしてしまうこの現象はエッチな夢を伴うらしい。トイレパンツを下ろしてみると股に白い粘っこいものが(はんぺんを細く切ったようなものが)はりついているので、これはなんだろう、自分の身体はどうなってるんだ、と思いながらも深く考えず(みごとな思考停止だった)、卑猥な夢を伴うだけにやはり親には相談できないこととして捉えていた。パンツが湿ってしまうのは困りものなので卑猥な夢を見ないように寝る前に無心になるように努力する夜が続いた。久々に夢精をしてしまったときなどは、(ああ、もうそろそろ訪れてもしかたがない頃だと思っていたんだ)とかなんとか思っていた。ペニスが痛くなるのも困りものだった。夢の中ですら、(あ、やばい、これはあれだ、あれがやってきたんだ、起きたらパンツが濡れているあれだ)と今に目が覚めることを予感することがあった。いっそ何か堪えるような態度はやめて衝動的な感覚に身を任せていれば少し気持ちいいのだということに気付いていた。しかしペニスは痛かった。

 そんなこんなで夢精は隠蔽され続けた。中学一年生の頃、保健体育の時間中にスライドで一度だけ夢精に関することが登場したことを覚えている。私は、あれのことだと察せられたが、スライドから理解できたことは「そういう現象が起こりえます」ということであって、セックス存在も対処法も知らぬまま分からぬままであった。クラスメイトとはそのことについて話し合うことはなかった。

 中学二年生の冬になって私は自慰発見した。休日のことだった。家族は借りてきたビデオを居間で見ていたように思う。私だけは寝室にいて、毛布をかぶっていた。毛布の感触が心地よく、なにかむらむらとしていた(と思うのだが、確かな記憶はない)。その心地よさに従ってパンツを脱いでいた。下半身は素っ裸だった。そうしているうちに股間で激しい脈動を感じた。それは脈動ではなかいことは当時のその瞬間も理解していたように思う。何かの兆候であった。その兆候はすでに快楽を伴っていた。多分、私は、とてつもないことが起きると予感していた(やはり記憶は定かではないがこの瞬間に夢精のことを思い出し似たような感覚だと悟っていたのではないかと推察する)。とてつもないことというのは、肉体の一部を切除するがごとき取り返しのつかない代償によって野太く広がる快楽を得ると仮定したならばその取り返しのつかない代償を支払うことにあまりに無思慮でいられてしまうというような意味で、とてつもなかった(つまりは理性の針が振り切れて本能が私を満たしたことを客観的な私がヤバイと呟くも為す術もない様)。毛布は精液で汚れた。これまた記憶が怪しいが、そのときの精液は白ではなく鼻汁のように黄色かった。

 私はその黄色っぽくて粘度のあるものと内に満たされた快楽を見つめながら、謎はすべて解けた、と思っていた。これが夢精の正体であり、生命の鍵であり、これから先私を楽しませてくれる素敵な男性的機能であることのどれをも瞬時に理解していた(そりゃそうだ、夢精をし始めてから最低でも二年経っているのだから、無意識的な考えがあったのだろう。ちなみに、これ以後の夢精は激減した。自慰を覚えてから今までにした夢精の回数は3??4回)。

 私が自慰を覚えるまでの過程は上記の通りだ。

 だが、成人して久しい今になって、他の人たちはどのようにはじめての射精発見(あるいは発明)したのだろうかと疑問に思った。

 夢精して、親に相談して、その性的な機能を教わった人はいるのだろうか?

 友人と話し合って(そして触りあって?)、発見した人はいるのだろうか?

 先輩などにその存在を教わった人はいるのだろうか?

 夢精をきっかけに自分で調べて知った人はいるのだろうか? その人は初めての射精をいわば実験として執り行ったのだろうか?

 ポルノ雑誌ポルノビデオから知った人は?

 自分史においてはじめてのセックスよりも重要なこの一大事件を他人はどのような経緯で体験したのだろう。

2008-12-28

カンパニー松尾AV世界(後編)

http://anond.hatelabo.jp/20081228014905 の続きです。

カンパニー松尾AV世界

ヨハネス・シェーンヘル

<インタビュー>

シェーンヘル(以下シ):どうしてカンパニー松尾と称するようになったのですか?

松尾(以下松):中学時代にさかのぼるんですが、自分の「会社」を始めたんです。社員はぼくひとり、ジュース手作り弁当クラスメイトや友人に売ってました。毎朝、20個の弁当をかかえて登校したものです。で、みんなが僕をカンパニーと呼ぶようになったと。これがぼくのペンネームになり、映像キャリアを通して使ってます。

シ:まず最初に、ハメ撮りの歴史について少々語ってもらえますか?

松:ハメ撮りスタイル作品は、80年代初期からありました。ハメ撮りということば自体が使われるようになったのは、88年か89年だと思います。昔はAVの小さな一角を占めるだけでしたが、それから大きくなりました。

シ:V&Rプランニングが最初のAV会社ですか?

松:はい、そうです。働きだしたのが1988年、22才の時です。

シ:そのとき、V&Rプランニングはすでに大きな会社だったのですか?

松:いや、とても小さかったです。ぼくは4人目の社員で、会社自体もまだ2年目でした。

シ:V&Rプランニング安達かおるが始めたんですよね?

松:はい、そうです。

シ:V&Rは最初からドキュメンタリースタイルAVに力をいれていたのですか?

松:はい。安達テレビ出身で海外映像の輸入エージェントとして働いていました。モンティ・パイソンとかそうですね。でも彼はおもに死体ものとかのキワモノにもっぱら興味があったようです。それが彼の嗜好だったんですね。

彼は撮影については知りませんでした。自分会社を始めて、自分でこうあるべきだと思うやり方で彼はドキュメンタリーを作ったのです。会社自体はキワモノですが、安達は非常に真剣作品を作ろうとしました。

シ:V&Rの意味は?

松:ビジュアルアンドリテイルです。バイオレンスアンドレイプじゃないですよ、皆さんの思うところとは違って(笑)

シ:V&Rでは最初は助手、そして1989年自分作品制作し始めます。最初の作品はどんなでした?すでにハメ撮りでしたか?

松:いえ、ハメ撮りは1991年からです。その前はドラマ仕立てでした。

シ:後期の林由美香があなたをハメ撮りに導いたという記事を読んだのですが…

松:いや、直接ではないです。林由美香とは1989年からやってました。正直にいうと、ぼくは彼女が好きだったのです。一緒にパリロンドン旅行して、ビデオを撮ったこともあります。僕の作品である、「硬式ペナス1990年)」は彼女への愛を宣言したものです。その作品で、彼女はスターになりました(原注:林はその後すぐに松尾と別れ、他の出演作品監督関係を深めることになる)。彼女との作品では、自分男優はしませんでした。でもそれは非常に不自然に思えました。彼女のおかげで、ハメ撮りが一番自然な撮影方法だと感じられるようになったのです。つまり、そのやり方だといい作品をじかに作れるし、ハメ撮りだと女の子に近づく、彼女自身がオープンになれる、本当の気持ちを見せられるといったことや僕自身の女の子に対する気持ちを表現できるのがあります。僕にとって重要なのは、女の子と緊密な関係をきずく、女の子が好ましく思えるってことです。でなきゃ、いい作品は作れません。

シ:それはたぶん宮崎レイコとの例じゃないですか?

松:ええ。彼女素人としてこの仕事を始めました。彼女デビュー作はぼくが撮りました。1991年のことで、ハメ撮りが僕の撮り方の主流になってました。「私を女優にして下さい」ですね。次のシリーズものが「熟れたボイン」です。ぼくの作品素人から有名女優になった最初の女の子です(原注:松尾自身もこの共同作業により今日知られるようになった有名監督になった)。

シ:V&Rで活躍する一方、マンガ職業AV監督」の原作も手がけられています。

松:はい、これ実話です。井浦秀夫が絵をかいてます。1997年から98年の作品で、全5巻で秋田書店から出ています。ぼくの仕事、ぼくの作品に関わる女の子たち、V&Rの人々、安達かおる…まあそのころのこと、すべてですね。

シ:V&Rは現在ではどちらかというと大会社ですか?

松:中堅どころといった感じです。AV市場では大きな会社はいっぱいあります。でもV&Rはその中には入らないですね。大会社ビデオはあんまり興味ないです。その点、小さいところの方がいい作品をだすかな。V&Rは間違いなく、変態を極めた会社のひとつです。

シ:V&Rが制作した「ジャンクシリーズにも関わってますよね?こうしたデス・ドキュメンタリー南米で撮影されたものですか?

(原注:「ジャンク」の原題は「faces of death」。もともとコナン・ド・シレールが1979年から90年にかけて制作した4本のアメリカ作品。V&Rが引き継ぎ、ジャンクタイトルでデス・ドキュメンタリー制作し続けた。同様のケースはドイツでも見られる)

訳注: http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/worst/mondo/junk.html が興味深い)"

松:1989年頃のものですね。V&RはAVだけでなく、デスビデオ海外で撮影してました。カメラマンのイシカワ・タケシが両性具有者にただならぬ関心を抱いていたのです。そのためにブラジルタブロイド新聞と連絡をとっていて、ブラジルに詳しくなりました。向こうが言うには「デスビデオを撮るならブラジルにこなきゃ」と。で、安達、イシカワ、そしてぼくがブラジルに行って、2週間ほど彼らと行動を共にしました。

新聞カメラマンは、警察無線を傍受していて、事件が起こるや、すぐに現場直行しました。ブラジル警察は動きが遅く、たいていカメラマンが先に到着しました。日本だと死の現場はいつも警察が人目につかないよう隠しますが、ブラジルだとそんなことはないです。ぜんぶオープンですね。

シ:事故殺人現場にご自身行ったと?

松:両方です。何もかも。殺人はとても多かったです。撮影には何の支障もきたしませんでした。愉快なもんじゃないけど、ぼくができるのはそれしかなかったし、使命感みたいなものも…たぶん、ふつうはそういうのって撮れないと思うんですよ。たまたま機会にめぐまれて、現場に行ったと。でもぼくはだんぜん、AVがいいです。デスビデオセックスビデオには共通点があります。どちらもひどく当たり前のことで人間の根源にかかわるのに誰もが隠そうとする。ぼくらは封を開けて、それが見えるようにしてるんです。

シ:ジャンクシリーズものです。どのエピソードを担当しましたか?

松:6番です。

シ:どこで撮影しましたか?

松:リオデジャネイロです。リオはぼくの好きな街ですけど、別に死体を撮ったからってわけじゃないです。リオは美しいところで、ほんとうに輝かしいものから暗い側面まで、すべてがあります。丘の上のキリスト像からファベーラと呼ばれるスラム、美しい町並み、そして白い砂浜まで。美しい娘からギャングホームレス麻薬の売人、そして殺人犯。すべてがそこにあって、生きている、街に存在するのです。パワフルな場所です。美しく、そして同時に恐ろしくもあります。一回しか行きませんでしたが、今でも魅力的です。

シ:リオでハメ撮りは?

松:いや、まったく。アメリカヨーロッパでは何本か撮りましたが、ほんとうにしたいようにはできませんでした。もちろん、言葉が大きな理由です。ハメ撮りの現場通訳は連れて行けませんから(笑)。でも言葉の違いより文化の違いの方が大きかったと思います。ハメ撮りでは、女の子の内側に行ってみたいのです。何を考え、どう生活し、夢、そして現実はどうなのかと。生命の中に隠されている汚れた、感情的なものを取り出したい。外国でできるのはセックスを撮ることだけ。それじゃ十分じゃないし、ぼくは満足できない。セックスシーンを撮るだけなら、俳優を呼んで女の子とやらせればいい。ぼくなんてお呼びじゃないです。ハメ撮りだったら、なぜ彼女はこれしてあれするのか、動機、考え、そうしたことを詳しく理解できます。ぼくは女の子個性を描写したい。欧米の娘とだと、ちょっと無理です。セックスが好きかもしれない、オープンかもしれない、でも日本の娘たちとのようには近づけない。ほんとうの性格がわからない。つまり、ぼくは彼女たちとビデオを撮れない、ってことです。

シ:他のアジア諸国だと?

松:アメリカヨーロッパポルノに関して長い歴史があります。スクリーンセックスが映しだされることについてオープンです。でもアジアはかなり遅れています。厳しい規範があり、ポルノ産業において多くを語ることが難しいです。日本はずっと先を行ってますね。

シ:V&Rにはいつまでいましたか?

松:2004年までです。それからハマジム現在会社を仲間と始めました。

シ:ハマジム意味は?

松:浜田写真事務所、略してハマジムです。みんなそう言うし、領収書も短い名前の方が便利です。今ではもっと短くなって、「HMJM」です。もともとカメラマン浜田さんが由来です。彼はぼくらのなかで最年長、みんな尊敬しています。彼がボスです。

シ:現在、何人が働いていますか?

松:7人です。

シ:ハマジム作品の平均的予算は?

松:たとえば、「広瀬舞、海老原しのぶ」(2004年)、あ、ふたりの女優名前から題名つけたんですけど(訳注:ハメドリズム01?)、200万円前後ですね、DVDジャケ込みで。「アテネマラトン」(2004年)はオリンピックのときにギリシャで撮影しました。300万円ほどでした。基本的には一本、200から300万円です。

シ:「オークション01」「オークション02」(2004年)のような純ハメ撮り作品だと、旅費がばかにならないと思いますが?全国を旅して撮りましたね。

松:実際、そっちの方が安いんです。スタジオ撮影は高い。スタジオ代だけでも100万かかります。それだけあれば、ほんといろんなところに行けますからね。

シ:基本的に、彼女たちの住んでいる町、実際の生活環境で会ってますね?

松:ええ、基本的にそうしたくて。

シ:あなたは常に、親密で個人的な彼女たちの肖像を切り取っています。彼女たちの本当のやり方をつかんでます。ビデオの中で彼女たちは、ビデオ出演の動機も含めて大いに語っています。ところで、彼女たちが作品に出演する動機、これはどうお考えですか?

松:女の子それぞれというのはもちろんですが、お金が主な理由だと思います。でもハメ撮り一編に登場しても大した金にはなりません。一回会うのが5万円、つまり彼女たちがぼくに電話するのは他の理由があるにちがいない。好奇心だったり、非日常に惹かれたり、もしくは日常ストレスから抜け出したかったのかも。そして単純にセックスに興味があったというのもあります。でもほとんどの場合、彼女たちはほんとうにくつろいで、作品に出ることを楽しんでいます。ところで、あなたはドイツ人だとおっしゃられましたよね。笑い話なんですけど、実際にAVドイツで撮ろうとしたことがあったんです。2年前に女の子ひとり連れてベルリンに行きました。ぼくのプランは、アウトバーンを時速300キロで飛ばしながら女の子にしゃぶらせるというものでした。日本は速度制限が厳しいというのもあってこの計画には非常に興奮しました。これは全男子の夢だぞ、車をかっ飛ばしながらセックスをするなんて。女の子はいるし、おしゃぶりしてくれると。ポルシェを借りてアウトバーンに出ました。最初の誤算は300キロ出なかったことです。260キロくらいまででした。で、女の子が車酔いしちゃったんです。なんにもできませんでした。ドライブだけで終わりました。

シ:でも撮ったんですよね?

松:ええ、全部収めました。衛星放送向けAVの一編になりました。

シ:これからの予定は?

松:ぼくはAVが好きで、今やっていることをこれからも続けたい。テレビ映画には興味がないし、AVを作りたい。大会社に所属したくもないし、ハマジム大会社にする気もない。ビジネスのことは考えたくない。ただ自分の好きなことをやっていたいです。

2008-12-19

http://anond.hatelabo.jp/20081219130953

地元の名所は竜飛岬。母のクラスメイトもそこにダイブしたらしい。冬の竜飛岬はそれこそ殺人的な水の冷たさでころりといけるって噂だったけど、実際飛び込んだ感想聞いたことは無いから真偽の程は分からない。

富士樹海と共通するのは、死ぬ前に救出されて変な後遺症残す心配がぱっと見少なさそうなとこかなあ。

あと、名所たる所以としては、飛び降り + 入水 + 冷水による心臓麻痺 って三段構えで、その手の人には心強そうに感じられるのかも。

来るならカモンだけど、自殺とかせずに穏便に観光だけしていってね。八甲田山はちんこからもげるよ。

2008-12-17

my nature is ...

消したようなのでバックアップしておく。

http://anond.hatelabo.jp/20081216205541

僕の周りにいる人間はみんな馬鹿でして、ああこいつなんて頭が悪いんだと思ったことは数知れず、いや、数はどうでもよいのですが、僕が人を見下すことにかけてずば抜けた才能を持ち合わせているのかについて多少書いておこうかと。

小学校に入学したときから卒業するまで、ずっと「今学期先生クラスみんなの前で名指しで何回褒められたか」を数えることを欠かしませんでした。授業中積極的に手を上げた、1回、進んでクラス委員を引き受けた、1回、今学期は12回だったので前より減ってしまったな、とこのような調子でした。クラスみんなの前でというのが大切な条件であり、例えば班を組んでいる中で褒められたものは数に含めません。どのように振舞えば先生に褒められるか考え、意図した行動で褒められればよしやったという気分になりました。3年生と4年生のときには、帰りの会でその日のクラスメイト善行を褒め非のある行いを諌める制度がありまして、そこでもできるだけ僕の名前が出るよう、音楽時間には楽譜の読めないクラスメイトのために楽譜カタカナのド・レ・ミを振ってやったり、給食係の後片付けを手伝ったり、分度器を2セット持ってきて忘れたクラスメイトに貸し与えたりと、さまざまな恩を振りまいていました。恩のパターンを増やしてできるだけクラスメイトが僕を褒めやすくするよう気をつけ、また適度に僕もクラスメイトのよかったところを褒め、褒められてばかりの状況にしないよう気をつけました。おかげで先生の僕に対する心証はすこぶるよろしく、三者面談ではクラスの中心になってよく頑張っていると必ず褒められ、毎学期の通信簿も上々の出来でした。いや、さすがに小学生の僕でも意図してここまで厭らしく点数稼ぎを行っていたわけではなく、どのような振る舞いをすればよく見られるのかということを意識しないまでも身体に染み付け、そう振舞うように僕は自律していたのでありました。

僕が勉強しなくてもよい成績を取れることに気がついたのは中学生の時分でありまして、テスト前に1週間くらい勉強すれば普段はなにもしなくても簡単に高順位が取れる、勉強時間では周りの生徒より少なかったかもしれません。そのころは親や先生や友人にちやほやされて気をよくしていたものですが、高校に入ってからは同じやり方で学年トップが取れるようになりまして、周りの皆様は僕のことをさらに頭がよいとみなすようになったものですから、すっかり天狗になってしまい、それと同時に頭がよいことは僕のアイデンティティであり触れえざる自尊心のよりどころとなりました。これで周りの人間普通に接することができれば僕は普通秀才君になれたのですが、元より卑しい性根の持ち主ですから、必死に勉強して自分より成績の劣る生徒を見下すことに快楽を覚えるようになって、それでもその卑しい性根を表面に出さなければまったく問題のないことなのですけれど、そんなことできるわけもなく、勉強の話になるとどうしても自分を売りたくなってしまいます。河合塾模試で全国20位くらいになったときが絶頂期でした。教壇の前で先生から模試結果と図書券をもらった日には、一日中にこにこと気色の悪い笑みを浮かべ、友人が僕に模試の話題を振ることをまだかまだかと期待していたのでした。そんなことをしながら僕は自尊心をさらに肥大化させるのですが、臆病な自尊心尊大羞恥心といったところでしょうか、恥をかかされることを極度に恐れ、周りもそれは察していたようで何か壊れやすいガラス細工の置物のように僕を扱うようになりました。

それなりによい成績を維持し続けることができたので、大学も難関と呼ばれるところに合格し晴れて入学、さあ知の世界とやらにはどんな人間が集まるのかと期待していたものの、1年くらいたつと、あれっ、どうも違う、こいつらは自分と同じくらいの学力のはずなのにどうにも頭が悪いらしいと感じるようになりまして、そうなるとさあ持ち前の腐った性根の出番だ、友人との会話にちょっと難しい言い回しを使ってみたり、アーレントだとかフーコーだとか少しかじっただけの知識をべらべら披露してみたり、そうすると友人は僕のことを頭がいいと尊敬するようになるので、僕の悪癖は余計に拍車がかかるのでした。小難しい言い方をするやつは頭がいいと見せかけたいだけで本当は馬鹿だなんてよく言われますが、これは案外あたっているような気がします。

大学生はみなTOEICを受けるというので僕も受けてみところ、1回目は何も対策を採らずに740点くらい、世間では皆様が730点を突破するのに必死こいているのに僕は易々と通過してしまい、2回目は3日勉強して830点くらい、何だ簡単ではないか、TOEICが難しいといっている連中馬鹿ではないのかなどと今でも思っているのですが、とにかく程ほどの得点が取れたのでTOEICには飽きてしまいました。TOEIC830点なんて何のことはない、実はTOEICで流れてくる英語が聞き取れるだけで、普通英語英会話教室の教師のようにゆっくり話してもらわないと聞き取れませんし、会話などできるわけもなく、外国人教官に質問するときはあらかじめ質問文と対応を考えておいてそれをそのまま述べるという情けない有様でした。それでいてリスニングスピーキングの特訓をして英語力をつけようともしないのです。なぜならばれて恥をかく心配がほとんどないから。己が羞恥心それだけが汚されないために勉強してきた人間なのです。そのような恐れがなければ当然努力するはずもありません。

僕の怠惰性格はとうとう大学へ通うことすら妨げるようになりました。と、ここで疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。「大学へ行かないで引きこもるのは恥ではないのか?」そこは舌先三寸、まず「自殺したい」と言って心療内科にかかって抗鬱剤などを処方してもらい、家族教官に「鬱になった。医者に薬を出してもらった」などと言えば、大概は「無理をしてはいけない、しばらく休むといい」と心配してもらえます。最近はこのように鬱でもないのに医者にかかって「自分は鬱だ」と言い訳をする人が増えているらしいのですが、自分の両親は落ち込んだ表情と声色を使って「鬱で死にたくなった」と言っておけば簡単に信じ込むことは心得ておりましたので、当初の見込みどおりに鬱を装い実家帰省、こうして日本にまた一人のニート誕生したのでありました。いや、人を騙すのは簡単だ、両親が二人とも馬鹿でよかったと、そんなことをたまに考えることがあります。

未だに僕の邪悪な性根、穢れた精神は誰にも知られておらず、嫌味なやつと思われることはあってもここまで腐りきっていることは誰も想像できないでしょう。裏表のある人なんてのはかわいいもので、外見は変哲もない人間、中を見たら中はダニゴキブリ、ハエ、蟲、蟲、蟲、糞便、尿、吐瀉物、血液、汚泥、悪臭、ありとあらゆる汚物が満ち満ちており、誰も想像しえぬほどの穢れた、醜く、忌まわしき、獣の、ああ、言葉では言い尽くせないほどの本性を僕が隠し持っていると考えるだけでも、気持ち悪い、殺したい、殺したい、殺したい、なんとかしないと。

鏡で自分の顔をずっと見つめていると段々おかしな気分になってきて、鏡に写っているのは本当に自分の顔なのか、実はそうでもないような気がしてきて、そんなはずはないのだけれど、物理法則は絶対のはずなのだけれど、頭の中が掻き回される感触、ぐるぐる、ああ気持ち悪い、見ていると吐き気がする。

少し落ち着きました。ついでにネット上での活動も懺悔ついでに書いておきましょう。一丁前にウェブサイトブログも運営しておりまして、そこでもまた例のごとく、どこかで聞きかじった知識をつぎはぎしてさも自分で考え出した理論であるかのように雄弁を、そうネット上では雄弁をもって披露していました。それらしいことが書いてあるので馬鹿がどんどんブクマしてくる、まともな人が見れば「これはひどいタグをつけるところでしょうが、若干のアカデミズムをちらつかせておけば文盲を引き付けることは十分容易いのです。「こいつら本格的に馬鹿だなあ、これでネットリテラシーとか言ってたりするのかなあ(笑)」などと思いながら、一方では人がたくさんいる掲示板を首尾よく荒らす方策などを練っていたり、はてなにいくつかアカウントをつくって気に入らない記事にネガコメ攻勢をかけるなど、裏ではネットの荒れ模様を作り出すことに労力を費やしていました。2ちゃんねるで6年くらい続いていたスレッド糞スレ化することに成功したときは快感でした。FAQに載っているような質問をパターンを変えてしつこく繰り返す、自分で投稿した質問に対して「テンプレ読め、ぼけ」などの煽りを入れるとたいてい誰かが加わってくれます。自作自演と見破られないように手を変えながら同じことを、徐々に間隔を詰めて繰り返し、返答の煽り具合も過激にしてゆけば、次第に通常の質問でも荒れ出しついに人がいなくなってしまうという手法でした。かなりたくさんの人数を操作できたので非常に満足しました。よもやあの○○さんがこんなことをしているとは思わないだろう、あはははは。

ネットは僕の本性を活かすには恰好の舞台でありました。リアルな僕の存在を知られる可能性は警察沙汰にならなければ限りなく0に近いので、僕は本性に従った行動をほぼ無制約に起こすことができ、それは大変素晴らしい所でした。甘美。エクスタシー。こんな馬鹿げた駄文匿名でなければ流すことはできないわけでありまして。

人間はみな、かくも恐ろしき二面性を持ち合わせているのでしょうか。僕はいつからか自分の本性に薄々感づいていましたが、自分内面を覗いてみたついさっきはっきりそれを自覚したため、言葉にして綴ってみたら気持ちの悪い感覚が離れず、自分の身体の中はどうなっているのだろうか、本当に筋肉があって臓器があって人間の身体なのだろうか、皮膚を切ってみたら肉は少し見えたけれどバラバラにしないと本当のことはわかりそうにないので、しかし自分でバラバラにして自分の目で中を見るような器用な技は持っておらず、諦めるしかないのかなあ。考えれば考えるほど、螺旋階段を下りるように、闇の底へ、もう戻れない、何もないのか、いつまで続くんだこれは。

2008-12-16

今更ながらフルメタル・パニック! を読んで

戦うボーイ・ミーツ・ガール―フルメタル・パニック! (富士見ファンタジア文庫) (文庫)

ライトノベルの基本中の基本とも言われているので、読んでみた。

設定もわかりやすく、面白くて一気に読めた。

ここはこう来てくれるよね!いやそうじゃなきゃダメだよ!!というところしっかり外さずに押さえてくれる。

主人公だけでなく、その他の個性の強いキャラ自分が出る場所をわきまえている勧善懲悪ストーリーだ。

ヒロインを守りたいという主人公純粋な心に、不覚にも目頭が潤んだ。

で、二度目読み直してみたのだが、よく考えるとやはり「戦争」とか「戦い」という事がテーマの場合、人が死ぬんだなとぼんやりと感じた。

ヒロインが「私をひどい目にあわせたくなかったら戦って敵を打ち破りなさい!」的な事を言う。

ヒロインが「山火事を起こして逃げ延びましょう!」的な事を言う。

読み返すと、なんとなく、引っかかった。

女子高校生クラスメイトに、「私のために殺して」「私のために燃やして」と言っている。

当たり前だけど、そういう部分があることを理解して評価しないといけない。

手放しに賞賛していると、転校してきたばかりの宗介のように浮いてしまうTPOがあるだろう。

2008-12-01

メガネっ娘と精液と僕

僕は中学のころ、わりと勉強が得意だった。それで時々、クラスメイトに授業でわからないところを教えて欲しいと頼まれることがあった。人に教えるというのは、とても効率の良い勉強方法だと思う。どのように説明すれば相手に理解してもらえるだろうかと考えることが、自分自身の理解を深めることに役立つからだ。そのため、頼まれれば面倒臭がらずむしろ喜んで教えていた。

ある日、休み時間に一人の男子生徒(仮にAと呼ぶ)が僕のところにやってきて、質問したいことがあると言った。もちろん普段通り、いいよ何でも訊いてくれと答えたら、Aは次のように切りだした。

「あのさあ、『ザーメン』って何なのか教えて欲しいんだけど?」

僕の思考回路は一瞬、硬直した。コイツハ イッタイ ナニヲ イイダスンダ。明らかに授業の質問じゃないだろう、それは。

かろうじて、どこでそんな言葉を聞いたんだと問い返すと、Aはある男子生徒の名を挙げた。なんでも男子数人でしゃべっている時に、どういう話の流れか知らないが、そいつが「ラーメン注文して、ザーメンが出てきたら嫌だよな」とか言い出したらしい。皆がげらげら笑ったが、Aは一人だけ意味がわからず取り残された。そいつらに尋ねても教えてくれない。で、仕方なく僕に訊くことにしたそうだ。

もちろん、僕はすでにその言葉意味を知っていた。僕の成績がそれなりに良いのは知的好奇心の賜物で、その好奇心エロ方面にも存分に発揮されていたわけだ。けれど、それは紛れもなくいかがわしい単語であり、その意味を知っていると表明するのは、はばかられた。なにしろ中学生である。他の連中に何を言われるか、わかったものではない。

やはりここは、自分もわからないと言ってごまかしてしまおうか。でも、本当は知っているのに知らないと言うのはどうにも抵抗がある。そのように葛藤して答えあぐねていると、黙っている僕を見かねたのか、Aはこんなことを言い出した。

「わかんないよね。じゃあ、Bにでも訊いてみようかな」

これはまずい。Bというのは僕らのクラスメイトで、特に成績が良い、女子生徒だった。僕は慌てた。このままだとこいつはB(メガネっ娘。ロングヘアー。かなりかわいい)のところに行って、「Bさん、ザーメンって何か知ってる?」とか「Bさん、ザーメンって食べ物なのかな?」とか「Bさんはザーメンを見たことある?」とか訊きかねない。そのような事態は阻止するべきだ。まあ今にして思えば、ちょっと面白そうだけど。

僕は覚悟を決めた。Aにちょっと待ってろと告げロッカールームに行くと、置き勉していた保健体育の教科書を掴んで教室に戻った。そしてまだ良くわかっていないAの眼の前で思春期の心と体に関するページを開く。そこに目当ての単語を発見した僕は、びしっとその文字を指さした。精液。

これを英語(実はドイツ語だが)で言うとそうなるんだと僕は説明した。いかがわしい単語は口に出すことなく、指示代名詞のみで説明を終えた。だから、Aが理解するのに少し時間がかかった。やがて状況を飲み込んだ彼は、頭を抱えて悶えだした。

「うわあ、マジか! 知らなかったぁ。俺、もうちょっとでBに言うとこだったよ。セクハラ野郎になるとこだった。危ねえ、助かった……」

それからAは心底安堵したようにため息をついたあと、机に突っ伏した。

僕は手に持った保健体育の教科書で彼の頭をはたいた。

先週、街中で偶然Bに会った。向こうから声をかけてきてくれたのだが、僕は最初、その女性がBだとはわからなかった。なぜなら、数年ぶりに会うBは、もうメガネっ娘ではなくなっていたから。コンタクトにしたらしい。長かった髪も短くしていた。それでも、やはり彼女はかわいかった。そして左手薬指に光る指輪

ちくしょう

少し前の僕なら、彼女指輪を見てそんな風に悔しがったかもしれない。けれど、今はちがう。

実は僕も年明けに結婚するんだ、とBに伝えた。腐れ縁ってのは厄介なものだよ、まったく。そう言って軽くため息をついた僕を見て、彼女は、

「でもすごいよね。クラスで評判だったもん、Aくんがあなたのこと好きだって。それからずっと想われ続けてるなんて、いいなあ」

と言ってほほ笑んだ。

小学生のころ同級だった男の子と会った

冒頭にて注記を。

以前書いたhttp://anond.hatelabo.jp/20080913153317の続きです。



小学生のころ同級だった男の子と会った。

細かいいきさつはもう思い切って省いてしまうけれど、とにかく、ふたりで会うことになった。

地元では有名な企業御曹司で、お父さんの会社を継ぐために東京大学に行って、いろいろ勉強したと言っていた。

仕事が終わるのを待って、イタリア料理のお店でコースを食べた。

クラスメイトの話とか、地元最近こんなふうに変わったよとか、そんな話をした。

声が低くなっていた。卒業してからもう15年ぐらい経つんだから、変わってて当たり前だ。

喉仏が動くのをわたしがじっと見ていたら「何?」と照れたように笑った。

そいつはスーツを着ていたけど、少し長めのまつ毛、見るからに育ちのよさそうなきれいな指先、当時の面影が確かに残っていて、目の前にいるのが確かにわたしの記憶の中のそいつと一致する人物なのだと思うとうれしかった。

忙しいはずなのに、わたしとこうして話をする時間を割いてくれたことがうれしかった。

でもやっぱり変な感じ。

わたしたちは子どものころの記憶しか共有していないはずなのに、今こうしてふたりでイタリアンを食べて、ワインなんて飲んじゃって、いっぱしの大人の男と女みたいな会話を交わしている。まるでデートみたい。変なの。

そいつが笑顔を見せるたびに、胸が苦しくなるのがわかった。

でもわたしは笑うしかないような気がして、笑ってた。

話を聞いていて、そいつがお父さんの会社を継ぐことを目標にして今までまっすぐに、ひたむきに生きてきたのがわかった。

今日にいたるまで挫折ばっかりで決してまっすぐじゃなかったわたしは、なんとなく、恥ずかしいような、悔しいような、変な気持ちになった。でもわたしは今の自分が好きだし、今の生活を気に入っている。

意味不明の悔しさを紛らわせようとして、わたしは自分の現状をことさらに楽しげに話して聞かせた。

そいつはそつなく相槌を打っていた。

そう、こういう雑談にそつなく相槌を打てるぐらいには、そいつはちゃんと大人になっていた。

それが少しさびしくて、でも当たり前だよなあ、と思って、わたしは黙り込んでしまった。

わたしが黙ったので、そいつも黙った。

特に気まずいわけでもない、相手(わたし)が会話モードでなくなったので、まあ俺も黙っとくか、みたいな軽い沈黙だった。

ああ、そうだ、これだ。

と、わたしは少し気を取り直して思い出した。

そいつと話していて感じていた居心地の良さ、波長の合う感じが、これだった。

お互いにしゃべりたいときにしゃべってればいいし、黙りたくなったら黙ってたらいい。

それで気まずくならないという関係が貴重だった。

「こういう空気が懐かしくてありがたい」

という意味のことをわたしは言った。

わたしと同じように、そいつが当時の記憶を大切に思っているのかどうかは知らないが、とにかく伝えたくてわたしは言った。

そいつは「俺もしゃべりやすいと思ってた」みたいなことを返してきた。

彼女はいない、と言っていた。

でも「受け答えの仕方に壁がある」と思った。

今そいつには、仕事の上で守るべきものがきっとたくさんあって、わたしが距離を詰めすぎることがないように間合いを取りながら話をしてるのかな、もしそうなら、仕方ないな、と思った。

わたしは別に何か期待してここに来たわけじゃないし、それはきっと向こうも同じだろう。きっと。

帰り際、駅まで送ってくれるときに手をつないだ。

「車が危ないからこっち来い」みたいなことを言われて、くいっと手を引っ張られた。

あまりに自然なしぐさで、車が危ないときには誰でもそうするのが一般的なのかと錯覚するほどだった。

他の女の人にもしてるから慣れてるんだ、と一瞬思って、自分だって今まで他に付き合ってた男の人ぐらいいたくせに、なんだか悲しい気持ちになってしまった。

なんとなく手を離すタイミングを見失ってしまって、結局そのまま駅まで行った。

何度かそいつの真意を確かめたくて顔を見上げたけど、そいつはつーんと前を向いたまま、わたしの顔を見てくれなかった。

渡したままになっていたサイン帳のことは聞けなかった。

忘れてられていたらいやだし、「めんどくさかったから」とか言われたらそれはそれでなんか空しい。

これまた当たり前なんだけど、そいつは普通の大人の男になっていて、わたしも普通の大人の女になっている。

それはなんだか、ちょっと残念なことのように思う。もったいないことのように思う。

うまく言えないんだけど。

当時は普通じゃなかったのかって、それこそ普通小学生だったんだろうけどさ。

イタリアンに行ったり、手をつないだり、そんなことを重ねるうちに、なんかピュアじゃなくなっていくような気がする。

次に会う機会があるのかどうかわからないけれど、どうすればいいのかな。

とりあえずまだ三日にいっぺんのペースで夢は見る。

2008-11-24

ひとくくりにしてよいものなのでしょうか?

http://anond.hatelabo.jp/20081122005902

体罰を受けて自分の為になったか?という質問に私が答えるなら「どちらでもない」と答えることになるでしょう。

私(21男)の小学校の6年間、色々な先生が居ました。その中に体罰と思えるような事をした先生が2人居ました。

1年生時の担任の先生と6年生時の担任の先生。仮に前者A先生後者をB先生としておきます。

1年生の時、私は小学校に入学したという喜びで浮かれていて授業中も静かにせず、挙句は隣の子にちょっかいをかける始末。

今考えると我ながら何をしていたんだろうと思います。

その時の担任のA先生(50-60代の女性)はそんな私を手に余らせたのか、始めに私を隣の席から離して壁際にしました。

それでも変わらない私をA先生廊下に立たせました。

しばらくすると、A先生から入っても良いという声がかかり、中に入ることが許され何が悪かったのかを説明して、この後ちゃんと聞いていられるように注意しました。

夏休み宿題をやってこなかった私に手を上げることもありましたが、期日を設定しそれまでにやってこいと言われました。

6年生になって今までと同じように過ごして居たのですが、当時の担任のB先生(40代男性。恰幅がよい)にはたびたび(というか頻繁に)叱られました。

1週間に一度以上は叱られていたように感じます。

宿題を忘れて、授業に少し遅れて、給食を食べきれずに、掃除を真面目にやらずに、授業中に勝手に発言したり……

思い出せばきりがないですが、大体私に原因があります。(中にはとばっちりや私に原因のないものもありますが)

その中で特に覚えている2つ。

ひとつは、当時放送委員会に所属していた私が給食時の放送で、放送が聞こえたり聞こえなかったりした時にB先生が「放送室に行ってきて、聞こえないと言って来い」と言い、給食の途中だった私に放送室(教室は3F、放送室は1Fの奥)まで行かせました。

給食の途中ですし、その日の放送当番はあまり会いたくない相手だったので気乗りせずに階段を下りていきました。

階段を下りていく途中、放送がちゃんと聞こえるようになったので「これはしめた!」と思い、教室に戻って給食を再び食べ始めました。

そしたら、また放送が聞こえなくなったのです。その時にB先生は「おい増田(仮名・私)。ちゃんと放送室で聞こえないって言ってきたのか!?」と私に問いました。

私も私でバカ正直なので「すみません。途中で聞こえてきたのでもう良いかと思いました。」と答えたのだが。

(B先生は児童に敬語強要してた。タメ口で話すと「先生は君の友達じゃない」と言ってた。まあ、この頃から敬語を話せるようになれば後々役に立つので、その点に関しては私は賛同する。)

何が気に触らなかったのか、私を自分の元まで呼びつけ怒鳴りつけました。更には私の首根を掴み若干私が浮くぐらい持ち上げて怒鳴りつけました。

元々恰幅の良いB先生がそんな事をしたら小学生は萎縮してしまいます。

叱られている間に給食時間は終わり、放送も中途半端な状態のまま終了しました。

給食時間の後の掃除時間が始まり、やっと解放され周りが掃除をしている中、後ろに下げられた机で給食を食べることを許可されました。

確かに私が言われたことを実行しなかったことも悪いのですが、何故そこまでの仕打ちを受けなければならないのか不服でした。

もうひとつは、夏休み宿題を忘れた時。2週間ばかり出さずに私を含む数名だけが宿題をやっていない状況でした。

その時、忘れた者に対しB先生は各人を自分の元に呼び「この宿題はいつ出す?」とそれぞれの宿題の提出可能時期を聞いていました。

私に対しても聞いてきたのですが、私はその時に全然(夏休みの友以外の)宿題に手をつけておらず一切宿題提出時期のめどが立っていない状況でしたので、

バカ正直にほとんど全ての宿題に対して「いつ出せるかわかりません」と答えました。

すると、その返答にキれたのかB先生は私の首根を掴み、教室から連れ出して階上にある音楽室まで引き摺りました。

その上、音楽室にある個人用のオルガン机に私を押し付け、上から首根を押さえ、その状態で叱りつけました。(私は ┐←このような状態で仰向け状態でした。)

その状態でB先生は「いつ出すんだ!?」と問い続け、私は泣きながら謝っていましたが、やっぱり私はバカ正直なのでいつ出せるかわからずに「わかりません」を繰り返していました。

その状態が5分くらい続いたでしょうか?B先生は私の返答に痺れを切らし、体勢を変え、今度は私を壁に押し付けました。

音楽室の壁は音響のためか/\/\←このような山状になっておりその谷間に私を押し付けました。勢いが強く、私は咳き込むほどでした。

やはりその時もB先生の恰幅のよさのためか大変怖かったと記憶しています。

そして、またB先生の「いつだす!?」の質問です。もうバカの一つ覚えかの如く同じ質問しかしません。

また、私もバカなので「わかりません」の回答しか出来ません。

最終的にB先生は「○日までにやって来い!いいな!」と言い、職員室へ戻って行きました。

当時、どっちかって言うといじめられていた方なのであまり他のクラスメイトは心配してこなかったのですが、この時ばかりは、教員の親を持つ友達から「教育委員会に言った方がいいんじゃない?」と言われました。

その年、初めて担任の先生年賀状を送りませんでした。

と、2人の先生のエピソードを書きましたが、

今思い返せば、A先生の時の体罰は役に立ったし、A先生感謝したいくらいです。(ベテランの方なので慣れていたんだと思う)

逆に、B先生は当時も時間のたった今でさえ忌々しく思い、今でも恨んでいます。

A先生の場合、叱った後に何故それがいけないのか、どうしたら良いのかを私に諭してくれました。

が、B先生の場合は叱るといっても同じ言葉の繰り返しが多く、だからどうすればよいという事を私に言わず、「だからお前は」的な言葉が多かったです。

なので無意味時間のみが経っていく様に感じました。(子どものような叱り方)

この2人の先生を見ていて、一概に体罰が役に立たないと言えないのでは?と思います。

叱るのが上手い先生、下手な先生多種多様なので体罰がいけないとは答えられません。

B先生の場合、私がいけないと思う点も有りますが、相手は小学生なのですからそのあたりも「大人」としてその児童に合った叱り方をすべきだと思います。

他にも小学校6年間で良い先生、嫌な先生は居ましたが、体罰を振るうことはありませんでした。(うちの親曰く通知表に書いた内容が「言葉暴力」だという40代女性先生は居ましたが。)

私は今もB先生を恨み、先生と呼ぶことすら嫌だと思います。

更に、未だにB先生教員を続けていることも恐怖を感じます。

今思えばいじめを含み、よく不登校にならなかったものだと自分でも思います。メンタルが弱い子なら多分不登校になっていたことでしょう。

多分、祖母から戦前教育を聞いていたから「それよりはマシだ」と思っていたからだと思います。(常に竹刀を持ち歩き、常に眉間にしわを寄せて、少しでも悪いところがあったら竹刀で叩くというもの)

長々と失礼しましたが、世の中色々な先生が居てその先生スタンス多種多様で何事もひとくくりには出来ないものだと思います。

2008-11-22

男の子ケンカを止めてた

 自分の成長談はない。

 子供のころは「女を殴る奴はカス」って風潮があって、子供でもそこのところは守られてた。

 殴る先生でも、女の子は殴らなかった。

 殴られて成長しているのを目撃したことが1回だけある。

 小学校6年生のとき、クラス男子は一つのグループボスがいた。

 そこにケンカ好きの男子が転校してきた。

 当然のようにボスの座争いが起こり、クラスの中はしょっちゅう緊張感が走った。

 あるとき、その2人が派手な殴り合いを始めた。教室中で取っ組みあって、机はひっくりかえった。

 女子は一か所に固まって縮こまり、男子も手を出しかねて遠巻きにしていた。

 誰かの知らせを受けて駆けつけてきた担任の先生は「温厚」で知られる理科先生で、力自慢の男子2人のケンカなど傍観するしかないだろうと、私はたかをくくっていた。

 先生は教室に入るなり、2人に近づいてパンパンと頬を張った。2人は吹っ飛んだ。

 「よく見ろ。お前らのケンカのせいで、机が散乱した。クラスメイトはおびえてる。暴力で決着をつけるのなら、誰にも迷惑のかからないところで2人でやれ」と怒鳴った。

 2人はあたりを見回し、黙って机を直し始めた。

 その様子を見届けて、先生は職員室に帰っていった。

 翌日、なぜか、その2人は肩を組むような親密さで教室にいた。

 どこぞでとことんやりあって、わかりあったのだといううわさだったが、真偽のほどは知らない。

 今から思えば、先生としては間違ってるんだろう。

 殴り合いのケンカを推奨してどうする。

 でも、その先生体罰言葉で、2人が仲良くなり、クラスの雰囲気がぐっと良くなった。

http://anond.hatelabo.jp/20081122005902

2008-11-16

鬱回復記01

私の20代は明らかにうつだった。その当時はそんなことを考えもしなかったが。

思えば,高校時代から口数は少なかった。男女が口をきいただけで冷やかされる田舎

進学校物理専攻の自分の周りには,女子は少なかった。

口をきくクラスメイト(女)はいたが、仲良しとは言い難い。

そんな女子、難関国立大理系に進んじゃた。

まわりは男ばかり。周りの男子はちやほやしまくり、私を。

私はそれに甘えてばかり。精神を鍛えるチャンスを失う。

多くの男が惚れてくれたが,一つもうまく行かない。半年続くこと無し。

大事にしてくれる人に、無理難題押し付けてしまう。相手の気持ちがわからない。

決して自分を好きにならない人を、安心して追いかけてしまう。

常に不安定。

いつも死にたい気持ちをかかえていた。就職してからもそれは続いた。IT業界就職しちゃったもんだから状況はかわらなかったんだ。振り出しに戻るって感じ。

さすがに30歳になった頃、同じことの繰り返しに、自分がおかしいことに気付いた。

カウンセリングもどきではなく、本気の精神科医に巡り会った。薬を出すだけの人じゃない。毎週、1時間お話する医者

2008-11-11

着信履歴

小学生の時に、同じクラスにちょっと頭の弱い女子がいた。

子どもというのは残酷なもので、知的障害いじめ対象となってしまう。

「汚い」とか「ばい菌」扱いとか、今から思えば非情に過酷ないじめが横行しており、クラス担任など大人たちも、それを見て見ぬフリをしていた。

僕は、そういういじめ行為には拒絶感を抱きつつも、やはり見て見ぬフリを決め込み、距離を置いて眺めていた。

やがてクラスメイト達も大人になり、先日、十年ぶりに同窓会で顔を合わせることになった。

地元に残り社会人として既に働いているヤツ、結婚して子持ちのヤツ、既にバツイチなヤツ、大学に残ってまだ学生をやってるヤツ。

一緒に校庭を駆けずり回っていた同級生が、この十年ですごく遠い存在になってしまったような、不思議な感じがした。

そして、何より驚いたのは、そのちょっと頭の弱い彼女同窓会に顔を出していた事だ。

あれだけ過酷ないじめを受けていたのだろうから、小学生時代には嫌な思い出しかないんじゃないかと勝手想像するのだが、彼女の心境は、今もって僕には理解できない。

しかしながら、まぁそこは一応“大人な対応”をし、彼女とも少しだけ会話をした。

それから1年後、僕の携帯に見知らぬ電話番号からの着信履歴が十数件残っており、留守電メッセージも残されていた。

「○○です・・・電話ちょうだい」

そのメッセージは、その彼女からのものだった。

その後も連日、十件近い着信履歴と同じ内容のメッセージが続き、はや5日となる・・・それ、思いっきり勤務時間中なので出られないけどさぁ。

これは、一応、電話をかけなおすべきだろうか?

でも、付き合う気持ちなんて僕には毛頭無いのに、ここで優しい対応をすると色々と勘違いされてしまいそうな気もするのだけど。

そもそも、電話をしたところで会話にならんような、むしろ恐怖感の方が強いような・・・やっぱ、無視を決め込むべきか?

2008-11-07

あなたは私か。

http://anond.hatelabo.jp/20081107024620

私は高校時代から、自分にとって暗黒時代だった小中学校の頃の夢ばかり見てる。30過ぎた今でも。その頃の、屈辱的なくらいの卑屈さを抱えた自分と思い出したくもないくらいの教師やクラスメイト達のことばかり出てくる。今でも仲の良い高校時代の友人達なんて全然出てこない。

私はもう慣れてしまったというか、目が覚めて自分にガッカリしながら溜め息をつくことで終わってしまう程度にはなったけれど、元増田は「ここ数ヶ月」ということだから不安が募るならカウンセリングとかかかってみた方がいいかもしれない。たかが夢かもしれないけれど、繰り返しでそんな夢ばかり見れば影響出ないわけがない。

2008-10-26

http://anond.hatelabo.jp/20081026180915

多分、学歴差別がおかしいと言っていること自体が私には理解できない。

学歴なんざ、金と多少の努力でなんとかなるもんだろ。

本質的にはファミコンと同じさ。

今、普通に稼げばファミコンは買えるだろ。

でも子供のころは手にいれることは難しい。

そりゃそうだ。

子供じゃ、どうがんばってもファミコンが買える金を稼げない。

親の収入に依存する。

ファミコンもってないから差別されたー!」

子供が言うのは、可哀想さ。

クラスメイトファミコンじゃない遊びしてやれよというべきかもしれない。

でも、今、大人だろ。

金と努力で手に入れられるんだから、うだうだいうなら手にいれればいいだろ。

働いていて、「ファミコンもってないから差別されたー!」はないだろ?

もちろん、ファミコン価値を見出さない生き方もありだし、しょせんファミコンだ。

そんなもんで人生は豊かになんない。

でも、ファミコンがないことで自分が不幸だと勘違いしているなら、買って来い。

恋愛である必要があるのか?

http://anond.hatelabo.jp/20081026111519

推すのは1点。

精神的な成長による良きパートナー関係の構築

 目指すところが、良きパートナーならば、クラスメイトでもクラブ仲間でも仕事の同僚でもいいだろう。

 恋愛である必然性がない。

 恋は一種の熱病であり、一過性の嵐のような感情の昂りに過ぎない。

 理屈もへったくれもなく、打算も冷静な判断もない。

 好きになった相手をとことん肯定していくのだ。

 だが、一定時間経つと醒める。冷めるじゃないんだ。醒める。

 ふと、我にかえって、「この人と一緒にいると、何かいいことあるのか?」という打算が首をもたげてくる。

 お互いに相手を尊敬できるところがあるから関係が続く、というのは、人間関係としては最高の形だと思うが、愛か? それ。

 

 愛というのは、相手が笑って生活していくことが嬉しいということ、を推したい。

 隣に居るのが自分だとなおいいが、別に自分でなくてもいい。

 相手が心安らかに楽しい時間を過ごせるよう気を遣うことが苦もなくできる。

 確かに相手に世話してもらいたいと思っているうちは、到底、たどり着けない領域だとは思うが。

 パートナーシップとは違うものだと思う。

2008-10-20

忘れられない思い出

殴る蹴るはいつもの事。あざになっても服で隠れるようなところをちゃんと狙ってくる。常に体のどこかしらが痛かった。太ももを蹴られた日は、歩いて帰るのが大変だった。背中に肘撃ちを食らった日の夜、布団の中で寝返りをうつと引きつるような痛みが走った。

持ち物を隠されたり捨てられたりする。移動教室から戻るとまず教科書ノートを探すのが習慣みたいになった。筆入れはゴミ箱の中から見つかった。シャーペンの芯が全部折れていたが、無くなったわけではないのでほっとした。

金を貸してくれと言われる。断れば殴られるので、貸す。返してくれることはないと悟ったのは数日後だった。

お前は臭いから近づくなと言われた。こっちに顔を向けるなとも言われた。このクラスから居なくなれとも言われた。ひたすら風呂で全身を洗い血が出るほど歯を磨いたが効果はなかった。

プリントを手渡すと、汚物を手渡されたようにあからさまに嫌な顔をする。

二人一組になれ、何人一組になれ。誰にも声をかけられず最後まで余った。人数の足りてないグループがいくつかあって、教師がどこか入れてやれと促すじゃんけんで負けたほうのグループが嫌々ながら混ぜてくれた。

女子に握手してくれと言われる。遠巻きに女子の集団が見ている。罰ゲームだろう。おずおずと差し出した手にほんのわずか指先がふれただけで、彼女は逃げるように仲間のもとに帰った。

女子たちが俺を見て「うわ変な顔」「きもちわるい」と言っていた。という話をわざわざ俺に教えに来る。

女子たちが俺の似顔絵を面白おかしく紙に描いて授業中に回し読みしていた。という話をわざわざその似顔絵の現物を持って俺に教えに来る。

授業中に当てられると注目が集まる。何か可笑しなことを言おうものなら、次の休み時間ものまね大会になる。教師の質問に答えられず口ごもっていると「フレーフレー」とニヤニヤしながら囃される。

美術の授業で作った作品を散々けなされる。こいつこんなしょーもない絵描いてるよと笑われる。

偶然教室の前で耳にしたクラスメイトの会話。「ねえ、あいつで遊ぶのやめてあげなよ。かわいそうじゃん」「うるせー、やなこった」「もー、しょうがないんだから(笑)」楽しそうな話し声。教室には入れなかった。

トイレで用を足しているところを横から覗き込み、あとでチンコがどうだったと皆に吹聴する。

俺が着替えるときを見計らって更衣室のドアを開け放つ。着替えるのをためらっていると次の授業に遅れるだろ、皆が迷惑するだろとなじられる。

誰も守っていないような校則でも、俺が破れば奴らがちょっかいを出す口実になる。必然的に行動は優等生らしくなった。それがさらに揶揄対象になる。

宿題をやってくれば見せろと言われ、忘れてしまった時にはお前最低だなと馬鹿にされる。あいつはまじめだか掃除だいすきなんだよ、と掃除当番を押しつけられ皆は部活に行く。

ある奴の持ち物が無くなった時、そいつは真っ先に俺を疑った。どうせお前が盗ったんだろさっさと返せと言われ、さんざん殴られた。もちろん盗ってなどいない。早く奴の気が済みますように、あるいは無くなった物がどっかから見つかりますようにと願うしかなかった。

ある日とうとう我慢できなくなって反撃しようとした。大声をあげて、相手に殴りかかった。けっこうな騒ぎになった。そいつは教師に呼ばれ注意を受けた。戻ってきた奴はこう言った。「先公には反省しますって言ったけど、これからもお前のことは標的にするから」

数ヶ月経つ頃には、毎日誰かに何か嫌な事をされるのは普通だと思うようになった。これが普通だと思っていたから、普通学校に通った。

そんな中、丸一日誰からも何もされなかったという日があった。どんな偶然だったのかは分からないが、今日は誰にも殴られなかった。今日は誰にも嫌な事を言われなかった。帰り道でその事に気がついて、思わず泣いた。嬉しくて。

もちろん、次の日にはまた殴られていた。

今から十年以上前の思い出。

思い出してみたら意外といろいろ覚えていた。でも現実感は全然ない。自分が経験したことというよりも、ずっと前に観た映画の内容を思い出しているような感じ。

クラスメイトのほとんどは苗字も忘れかけているのに、中心になっていた奴らの名前フルネームで覚えている。そいつらのことを今も恨んでいるかと言うとそんなこともない。苦しみながら死んでいてくれれば素敵かもしれないが、そうなったところで何の得にもならない。

こんな思い出は忘れ去って、どんなに思い出そうとしても思い出せないようになればいいなと思う。

とは言え、ここに書いたことが大した経験だとも思わない。この程度の事なら誰だって経験しているだろうし、俺は今も生きているから。

2008-10-18

弟の頭の悪さに本気で絶望した

隣の部屋で弟が友達とギャーギャー騒いでる。

「自分の人生なんだから、人から何を言われようとやりたい事をやるべき」

「仲間のためなら何でもできるし、絶対裏切らない。まじめなやつらより俺たちのほうが情に厚い」

「外面を気にして、好きでもない人間に愛想よくしてる奴のほうが頭がおかしい」

ああ、そうなんだ。

こいつらが何かやらかすたびにあちこち頭下げて回ってる両親とか、

こいつらのせいで学校行事台無しにされたクラスメイトとか、

夜中にバイク爆音で叩き起こされる近所の人とかは、

「好きでもない人間」だから配慮する必要がないってか。ふざけんな。

善人になれとは言わないが、自分の尻も自分で拭けない奴らが集まって

「俺達っていい奴だよな」「俺達って自然体だよな」かよ。ふざけんな。

本当に人間かこいつら。まだ猿なんじゃないのか。

むしろ猿になって山で暮らしてくれ。

こんなやつらに文明なんかもったいない

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