はてなキーワード: アフォーダンスとは
佐野研二郎氏盗作疑惑について(学生個人の意見です/2015年8月23日時点)。
彼はご存知の通り多摩美術大学のグラフィックデザイン学科を卒業し、現在はアートディレクターをやりながら多摩美術大学統合デザイン学科の教授も務めています。
実際には、まだこの学科自体設立から2年目で、佐野教授自身が講義を行うことは今までにほとんどありませんでした(というか、私はまだ彼の講義を一回しか受けていません)
統合デザイン学科は、多摩美の本キャンパスとは別の上野毛キャンパス(世田谷区)にあります。
学科長はプロダクトデザイナーの深澤直人教授で、そのほかに、ウェブデザイナー・インターフェイスデザイナーの中村勇吾教授、HAKUHODO DESIGNの永井一史教授、そしてアートディレクターの佐野研二郎教授の4人と統合デザイン学科専任の講師や先生で構成されています。
現状、学校によくいらっしゃるのは深澤直人教授(統合デザイン論)と中村勇吾教授(メディア技術概論)で、あとのお二人は統合デザイン論に前期で一度講義をしたぐらいです。3,4年から講義が「プロジェクト」という形態に変わり、そこで教授別にクラスが再度編成され、たぶんそこからお二人もがっつり学校にいらっしゃるようになるはず。
世間的に言えば「つぶしのきく」学科だと思われがちなのですが、実際には「デザイン・ベーシック」つまりデザインの基礎を最初の2年間で徹底的に教わり、そのベースを生かして次の2年間で社会的にローンチできるプロジェクトのデザインを学んでいきます。具体的には現在、グラフィック・プロダクト・インターフェイス・描写などの必修と、そのほか選択を受けています。教授の顔ぶれをみてわかる通り、細分化されたデザインをあらためて"統合"することで、「これからのデザイン」に特化した人材を育成する学科です。現在、デザインそのものが非常に広い意味をもつようになり、そんな時代において「グラフィック」や「プロダクト」などに特化しているだけでなく広い知識と経験を持った人材が必要とされています。一見デザインとは直接関係のないようなこと(たとえば佐々木正人さんによる『アフォーダンス』の講義)や、表面的なグラフィックの造形技法からCADを利用した立体物、Webやメディアアート作品などに応用されるプログラミングなどいろいろな技術を学ぶことと同時に、それに付随する感覚みたいなものも学習しているように感じます。実際、そういった感覚みたいなぼわっとしたものが現場で役立つこともあり、領域の垣根を越えることでみえてくることや繋がることもたくさんあります。
(武蔵美の基礎デザインとどう違うのか、と聞かれることがあるのですが、基礎デとは根本的に近いはずです。学科長は原研哉さんで、そもそも深澤教授は基礎デザイン学科の教授だった)
(とにかくやることが多いので、課題の量は半端ないです。たまに自分がなにやってるのかわからなくなります。あと先生たちもまだどのくらいの量の課題を出したら学生達の生存に関わるのかをよくわかってないっぽい。勘弁して欲しい。)
先ほども言った通り、まだ学科が生まれてから2年しか経っていないので、3,4年を経験した学生はいませんし、卒業生もいません。だから、就職先のデータもなく、倍率はそこまで高くないのですが、統合デザイン学科特有のコンセプトに魅力を感じて、たとえば多摩グラ受かったのに蹴ってこっちに入学したり、試験内容が東京藝大のデザイン学科に似ているところがあるので(平面構成)そこを目指す人たちが受けたりすることもあるみたいです。
〜〜
ざっと学科についてはこんな感じです。詳しくは学科のサイトをみたり、各教授のNHKプロフェッショナルとか本をみたりしてみてください。デザインに興味のない人でも、おもしろいと感じる点はきっとあると思います。
さて、たぶんこれを読んでるみなさんが一番興味があるのは佐野研二郎さんについてだと思うので彼の話題に。
関係ない話ですがエンブレム発表の前日に佐野教授と現場の手伝いに行った視デの友人曰く、めちゃくちゃ笑顔だったようです。彼自身、亀倉雄策さんのオリンピックエンブレムがかなり好きで、それを(いい意味で)引用して新しいエンブレムを作り出し、それが選考で選ばれたんだから、嬉しくない理由がわかりません。
最初に自分があのエンブレムをみたとき、直感的にかっこいいと思いました。シックで、いままでのオリンピックエンブレムとは一線を画すような新しいデザイン、新しい東京のイメージを担ってくれるような力強いものに感じました。そしてそれと同時に、あ、きっとこれ佐野さんのデザインだ!と思いました。たぶんそう思った要因の一つに、中央の「黒」の棒の部分があります。完全な黒ではありませんが、こういったエンブレムで無彩色の黒を使うのは一般的にはわりと暴力的で結構批判もきそうだなと思ったのですが、そもそも佐野教授自身黒色を多く用いることで有名なので納得がいきます。たとえば、「統合デザイン学科」のロゴやその周辺のデザインはすべて白と黒で形成され、学科の、現状では異端であるもののそれがこれからのベーシックになっていくはず、という考えや、力強い勢いを感じられ、学科の学生の多くはこのデザインを気に入っています。他にも東京国際映画祭のロゴをはじめ黒を多用したものは多く、今回のエンブレムに関して喪章だなんだと言われていますが、まあそういうネガティブなイメージで彼がデザインしたということはないかと思います。
造形的にベルギーのデザイナーのエンブレムと似ているということで炎上していますが、擁護派の皆さんが言っている通り、ああいった幾何学図形を利用したロゴマークである限り、なにか他のデザインと似てしまうのはしょうがないことです。というか、そもそもロゴの本とかをみると似ているもので種類分けされているぐらいです。造形的に似ているからといって、そのなかにあるコンセプトは異なります。造形的な点のみで「パクリ」だと決めつけてしまうのは、あまりにも強引なのではないでしょうか。今回のエンブレムは、エンブレムとしてのオリジナリティよりもその拡張性や普遍性を追求した、シンプルで力強いものだと感じています。
さらに、ベルギーのデザイナーはそのロゴを商標登録していないとのことです。となると、エンブレム側にまったく問題がないと言っても大丈夫なのではないでしょうか。
記者会見で佐野教授が感情的だったという話がありますが、もともと彼は自分自身でも「おれはキレキャラだ」とおっしゃっていたり、講義中に実際にキレてくれたりするので、まあ無理はないかなと思います。余談ですが彼は最近藤子・F・不二雄関係の仕事が多く(映画やTOYOTAの広告の成功から)、ドラえもんミュージアムにあるレストランで新聞広告用の写真を撮りに行った際「ジャイ子の“ハット”シュッドビーフ」がもう販売中止ということを聞いて、レストランの方に無理を言ってその場で作ってもらい、その写真を新聞広告に載せメニューを復活させたという逸話があります。好きなものに対してのオシは誰よりも強く、普段から感情的にはなりやすいような人なのだと思います。 http://fujiko-museum.com/blog/?p=18605/
このエンブレムに唯一問題があるとすれば、なんとなく「高揚感」が感じられないところです。ただ、それは佐野教授に問題があるのではなく、それはこのデザインをたくさんの候補の中から選んだ選考委員に問題があるのです。他に、もっと「オリンピックらしさ」があって、高揚感の感じられるデザイン案なんていくらでもあったはずです。
その選考が一般的な選考会の方式をとっているのであれば、いまいわれている佐野さんのデザインだから特別に選んだということ憶測もありえないのではないでしょうか。基本的に選考は名前を伏せるはずだし、原研哉さんや葛西薫さんをはじめ他にも応募した有名デザイナーはたくさんいらっしゃいます(応募基準も厳しい http://www.fashionsnap.com/news/2014-09-19/olympic-tokyo-emblem/)。
これについては、一人のデザイナーとしても、いち仕事人としてもありえない行為だと私は思います。まったく擁護できません。佐野教授の下の人がやったとしても、「佐野研二郎デザイン」と書いてしまったからにはそれなりに彼にも大きな責任が生じるし、そもそも画像からまるごとトレース(というよりコピペ)するのはまさに「パクリ」で間違いないと思います。いかに制作環境が劣悪だったかがわかります。一般的なデザイナーであれば、なにかをトレースする際、そういう素材の揃ったサイトに月額とかでお金を払って利用したりしていることがほとんどかと。こんなやっつけ仕事でお金がもらえるなんて、純粋に「いいなー」と思いました。バレてよかったですね(今後のMR_DESIGNのためにも)。
ネット上では、佐野教授周辺の関係図みたいなものが話題となっています。審査委員が同じだとか、広告代理店が牛耳っているだとか、いろんな話があります。つまり、デザイン業界は身内のなかで行われているということです。残念ながら、それは確かにあると思います。業界内で評価するシステムというのは確かにあるし、長嶋りかこは彼の直属の後輩です。
自分の話になりますが、私は実はまったくデザイナーになりたいと思っていませんでした。多摩美の、統合デザインに入りたいと思ったのは、まさにそのコンセプトに魅力を感じたからです。深澤教授のおっしゃっていた「いいものを触った時、『これがほしかったんだよね』と人は言う。本当に欲しい物のかたちは、すでに決まっている。」この言葉が、デザインのみならず広い意味で今後の「デザイン」に応用できると思ったのです。だからいまでもグラフィックやプロダクトをやりつつもそれが最終地点ではなく、デザインという思想や考え方をあらゆる事柄に応用していきたいと考えています。そういうことを学ぶには、ぴったりな学科です。そして受験勉強をするために、予備校に通い始めました。そこの授業ではあらゆる有名デザイナーの作品が取りあえげられるのですが、その中にはどうしても理解できないものもありとても悩んだこともありました。もしかしたら、そういったもののなかには現在問題視されているような業界内評価システムの土壌でうまれたものもあるのかもしれません。
一般人に受け入れられにくいデザインは、果たして優れたデザインと言えるのでしょうか。なにをもって、ただのデザインは優れたデザインになりうるのでしょうか。その答えはまだ私にはわかりません。
いま、どんどん新しい「パクリ疑惑」のデザインがネットユーザーによって見つけられてきていますが、デザインの歴史が深くなり文脈が形成されていくと、そこには明らかな引用や模倣も増えていきます。それはどんな文化でも同じで、音楽なんかもそうです。デザインもスタイルであり、継承されていくものなのです。だから、造形的な面でなんでもかんでも「パクリ」と決めつけられてしまうと、デザインの歴史が続いていくことそれ自体を否定することと同じになってしまいます。なにかから影響を受け、文脈が形成されていくことを「パクリ」の一言で否定しないでください。
今回の件で佐野教授に問題があったことも明確になりましたが、一方で、彼の講義を受けていたからかもしれませんが、とてもじゃないけどオリンピックのエンブレムにおいて彼は雑な仕事をするとは思えません。
亀倉雄策の仕事で一番好きなのは1964年の東京オリンピックのエンブレムだ。シンプルで力強く、唯一無二のデザイン。いつの日かこのようなシンプルで骨太な仕事がしてみてみたい、と思うようになった。ニッポンを、世界を、あっといわせる仕事。一生に一度でいいからそういうデザインをしてみたい。シンプルであること。明快であること。太くあること。Simple. Clear. Bold. ある日から僕のデザインの指針となった。デザインとはなんだ。デザインにはなにができる。そういう自問自答を繰り返した。(中略)目の前の画面は世界に確実につながっている。デザインはシンプルで深い。考え、それを超えるべく手を動かし、また考え、また手を動かす。邪念はいらない。デザインは思想だ。簡単に。深く。明快に。太く。でも簡単に。ストレスはある。でもいつも朗らかである。そういうデザイナーでありたい。デザインの道はまだまだ続くのだ。負けない。僕には亀がついている。亀はゆっくり、確実にやってくる。
エンブレムの問題とトートバックの問題は根本的にまったく異なるものです。そこを一緒にしてしまうことが、今後のデザインを殺すことにつながりかねません。
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・エンブレムについて、おそらく審査員も彼の作品だと見ただけで分かる人もいたかと。黒を使用したこと、そしてあのTOKYO 2020のフォント。あれは東京国際映画祭のロゴでもおそらく使用していましたし、彼のデザインだと一目でわかる点でもあります。正直、あのフォントが幾何学図形を用いたあのデザインにとって最も理想的なフォントであったとは思いません。
・学生じゃないだろみたいな意見をみて「いや学生ですけど・・・」と匿名なりに思ったりしたしそれを証明できないのもなかなか悔しいのですが、多摩美術大学統合デザイン学科の学生です。「業界の端っこにいるみたいな気分になってる時点でこの界隈の闇を感じた」美大って、セミプロみたいな人が集まるんだと思います。それは、一般大学とは別の特殊な試験内容が課せられるからで、それをクリアするために誰しもある程度のレベルの状態で入学してきます。そういった意味で、業界の端っこみたいな感覚は私自身拭えない点です。生意気だと思われてしまったら、申し訳ないですが・・・。
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・ベルギー側が商標登録していないためエンブレム盗用疑惑について私は「まったく」問題がないと書きました。著作権がある、ということだけでエンブレムとの類似性を訴えられるのであれば、本当にどんなデザインでも訴えられてしまいます。商標というシステムは、そういう意味でも機能している。ただ、自分自身勉強不足でもあるのでもっと調べてみます。 http://ipfbiz.com/archives/olympiclogo.html たださっき調べたら、東京オリンピックのエンブレムもまだ商標登録が済んでいないとのことで・・・w
・佐野教授への評価は、私自身、下がりました。学生ごときが評価とかなにを偉そうにと言われるかもしれませんが。こんな仕事をするひとにはなりたくないな、と純粋に思いました。トートバックのような小さな仕事でも、しっかりと制作しなければ、大きな仕事、つまりオリンピックエンブレムのような仕事もダメになるというか、結局ものをつくるときの姿勢ってそのひとの評価やデザインにもちゃんと反映されるんですね。この一件はデザイナーや関係者、それを学ぶ学生、もしくはいままでデザインの外部にいたとされていた人たちにとって、デザインとはなんなのか、パクリや模倣とはなんなのか、そういったことを知り考えるきっかけとしては良い機会になったと思うのです。だからこそ、そこで歪んだ考え方や間違った見解が社会に浸透していくことは、できるだけあってはならないことだと思います。なにが正しくて、なにが間違っているのかすらよくわからない時代ではありますが。
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・多摩美情デに関する批判は完全に話題から脱線している内容であり、改めて読んでも全く的を得ていないものです。訂正しお詫びします。大変申し訳ありませんでした。
・ご指摘の通り「在日」や「売国」などに関しては一部のネットユーザーが根拠のない事実を拡散しているだけだと認識しています。この一件を複雑化させるだけだと感じたので訂正しました。
10年以上前からずっと思ってきたことなんだけど、「よく振ってお飲みください」と「振らずにお飲みください」をもっと簡単に判別できるようにして欲しい。
現状、缶の側面などに小さく書かれた注意書きを読んで、振るor振らないを決めているんだけど、それだと時間がかかるんです!
以前だったら、炭酸=振らない、それ以外=振ってもいい、みたいなざっくりした区別があったけれど、最近は炭酸じゃなくても窒素充填してあって振ってはいけないやつとか、逆にゼリー系炭酸飲料みたいな、振って飲む炭酸飲料なんかも出てきてさらにややこしい。
こないだなんて、駅ホームの自販機で買った「DyDo 振って泡立つプレミアム」 (http://blend.dydo.co.jp/premium/) を、内容をよく見ずにジャケ買いしたんだけど、この手のフタ付き缶コーヒーによくあるやつ(水平にして振らずにお開けください)の類だと思って振らずに飲んじゃったよ。
アルコール飲料に必ず付いてる「お酒」の丸いマークみたいに、「振る」・「振らない」・「どっちでも良い」が一目で分かるような業界標準のマークを作って、分かりやすいところにバーンと載せて欲しい!
振らないやつ→缶底の素材を変える。缶底だけ側面・上面とくらべて金属を厚くするか、または比重の大きな金属を使うようにして、重心を下のほうにずらす。そうすると持った時に自然と振りにくくなるはず(=持った時の重みの感触だけで振ってはいけないやつだと分かる)
振るやつ→缶の側面にくびれや凹凸を作り、手で握った時に力強いグリップ感を持てるようにする。手に持つと無意識に振ってしまいそうになるような感じの。
シャンプーとリンスのギザギザの有無みたいに、こういった形状の規格も業界標準になれば良いのに、と思ってる。
1.処理能力が高い!
「Qualcomm Snapdragon 800, 2.26GHz」と「Adreno 330, 450MHz」を積んでいます。
どう見てもオーバースペックです。本当にありがとうございました。
2. 画面が綺麗で大きい!
解像度は445ppi
それに大きくて見やすい!
4.95インチの画面は、片手でホールド・操作できる限界のサイズかと思われ。
3. 安い!
コスパ最強。
Nexus5 ならGoogle Playで4万、オクだと3.5万、芋場NMPなら0円で手に入ります。
メモリすっきり! 動作快適!
広めのソフトウェアキーボード、秀逸なIME(Google日本語入力)。
押下するとヴァイブレーションで「押したよ」と教えてくれます。
6. 拡張が高い!
林檎の「ほら、こうすればいいんだよ。これがアフォーダンスさ」といった鼻持ちならない感じがありません。
7. 可哀想!
モトローラ売却か〜ら~の Google Play Edition 一本化で、Nexus シリーズが消えるとの噂があります。
デジタルネイティブはほんとにネイティブ、生まれつきなのかなと疑問にがふとよぎったことがある。生まれた時にPCが隣にあれば放っといても使い出して、いつの間にかコーディングを始めて、行く末はWebサービスを支えるエンジニアみたいな。デジタルネイティブを足らしめる要素は枕元に情報機器を置くことだけなのかって。
TechCrunch Japanの記事はそんな自分の疑問に答えるものだった。
Naverまとめで新世代ェ・・・デジタルネイティブの恐るべき生態なんて見かけると、iPadを与えた全ての子供たちが何も教えなくても自然に使い方を覚えて、勝手にデジタル環境に適応していくように思える。幼少時代、外で誰に教わることもなく缶けり、鬼ごっこ、お人形で遊んでいたように。
デジタルネイティブなら当たり前にできて当然じゃないの?と見過ごしがちだけど、デジタル機器もまた単なる道具。見るだけで使い方がわかるアフォーダンスデザインなんて存在しないんだ。誰かが使うのを見て知らず知らずのうちに子供は使い方を学んでいく。ある日突然しゃべりだすように。でも、それだけだ。コミュニケーションが場数を重ねて上達していくように、人と交わりあって自然と人間関係の難しさを覚えていくように、デジタル機器もまた教える人、教わる関係があって初めて学べることはすごく多いんだと思う。まとめを見ていたら、デジタルネイティブはすごい、すごいともてはやす裏に、自発的に歩む可能性に全てを押し付けて、教えることを放棄してるんじゃないか、なんてことを勝手に考えて勝手に暗くなった。
大学が推奨してたiBookG4を買ったはいいけれど正直持て余してたのでそれっぽいことをしなければと思ったからだ。
その最初の受講日、スライドを見ながらぼちぼち打っていた時、後ろからちょんちょんと肩をつかれた。
「漢字、かな」の変換はコマンドキーとスペースの両押しでできるよ。
スペースキーの隣にある林檎のアイコンを押してみてと言われるがままに実行すると、
...それまではマウスボタンでわざわざ右上にもっていって逐一切り替えていた私。Windowsと比べて、右クリックのボタンはないし、「半角/全角」のボタンもないし、UIもおかしいし、@の位置は違うし、起動の音はでかいしとMac使いづらい理由のトップ5が初めて切り崩された瞬間、自分はどんな顔をしていたのだろうか。
後に友人になる彼にはその後もいろいろ教えてもらった。ジョブズの名前を初めて知ったのもその一つだ。彼の死亡が報道されて、名前が連呼するようになった後、初めて正しい発音を知った。他にも似たようなことがあったので当時の彼は自分と五十歩千歩だったのかもしれない。だが、yahooで質問することを覚え始めた自分には、顔が見えるだけで安心するかけがえのない貴重な師だったことは間違いない。予断だけど、ウェブの善意が最初は怖かった。どこの馬ともしれない自分にどうしてこんなに親切に回答をくれるの?とあの頃は不思議でしょうがなかった。そんな自分が今増田で書いているのがひどく可笑しい。ここまで来るのに義務教育と同じ時間がかかってる。ここまで来てなんで増田なのか、振り返らないこともないけど、私の人生の分岐点を担ったのは紛れもなく友人だ。YahooによるTumblrの買収について、Gizmodoの記事読んだ?そんな話を振ってくれる彼は今も私の前を走り続けている。
ショートカットキーの一つや二つ、普通は勝手に覚えるものじゃないかと思う大半の方にとっては奇妙な話なんだろうけど、少なくとも私にとってショートカットキーは教わるものだった。教えてくれる教材はウェブにいくらでも用意されているけど、「ショートカットキー」という言葉を知らなければたどり着くこともない。yahooポータルのホームページには「ショートカットキー」という言葉は載っていないから。だから、無知に気づくこともない。知らないことを知らないから。
勉強をするための教材も、
全部ネットにはあるけれども、
ただあるだけ。
そこへ行くのは誰でもない本人の意思だけど、
本人の意思じゃない。
その動線はやっぱりリアルなのかなと思う。リアルの知り合いでフォローしていたら偶然回してきたリツイートで知らなかった世界を知った時にそこで新たな世界を知るか知らないかを決めるのは、今までに築いたリアルなソーシャルの環境だから。デジタルネイティブと言われ、みんながみんな、同じような情報機器を所有する中で、私たちの世代には予想だにしなかった"格差"がこれから生まれるのかな。
あれこそ神の与えたもうた奇跡だ。
すまないが、ここから先は乳首の嫌いな男と、乳首の美しくない女性は帰ってくれないか。
たぶん、読んでも気分が悪くなるだけだろうから……。
いや、正確に言えば、美しい乳首を持つ女性の乳首は美しい、だ。
美しい乳首は、何分、何時間、いや何日見続けても飽きることがない。
美しい顔、美しいスタイルなのに乳首が美しくない女性は、とても罪深い。
乳首のかたちを確認せずに、顔やスタイルや性格だけでパートナーを決めることは、
ブルカで顔を隠したまま相手を見初めるイスラム圏の風習よりも、はるかに不条理である。
乳首の形状には、人によって色々と好みがあるだろうが、自分が至上の乳首と崇めるのは、
直径3cmほどのなだらかな山状の乳輪から連なる、直径1cm高さ5mmほどの円柱型の乳首だ。
勃起時には、乳輪にツヤとハリが出てふくらみ、乳首は高さ7.5mmほどの円柱にふくらむのが望ましい。
もうお分かりだろう。
自分は、大きすぎる乳輪もお断りだが、小さすぎる乳輪にはもっと魅力を感じないのだ。
勃起すると縮んでしわくちゃになる乳輪など、むしろ憎んですらいる。
逆に、ほんの少しだけパフィーニップル気味(知らないやつはググれ)の乳首など大好物だ。
軽めのパフィーニップルの魅力は、勃起した時に乳首と乳輪と乳房がロケットのように一体となることだ。
だが、結局のところ地の肌の色によって決まるので、極端に黒かったり逆に白すぎたりしなければ良い。
基本的に、女性の乳輪から乳首にかけての色は、ノーメイクの唇のふちの色から推測可能だ。
これを覚えておくと、脱がさなくても乳首の色がわかるので便利だ。
女性のノーメイクの顔を見るよりも、服を脱がす方が楽かも知れないが……。
わかっていただけただろうか。
大きかろうと小さかろうと、乳首さえ綺麗なら「がっかりおっぱい」はあり得ないのである。
柔らかそうな山のてっぺんにボタンがあれば、そりゃ押したくなる。
その無駄のないデザインは、今にも押されるのを待っているかのようだ。
実際、自分は恋人の乳首を日常的に押しすぎるので、よく怒られる。
押すとへこみ、離すともどる。
乳首を押せば、ほぼ必ずなんらかの反応がある。
セックスの前に押すことで、セクシーなモードに入るスイッチになる。
ただし、このセクシースイッチの効果には、非常に大きな個人差がある。
本当に乳首の感度が高く、平常時にも乳首を押すだけで一気に性欲が高まってしまう女性もいる。
最も多いのは、性欲が高まっている時はセクシースイッチになり、普段は敏感なので押されるのを嫌がる女性だ。
逆に乳首が鈍感すぎるあまり、普段から押しまくっても全く平気で、嫌がることもない女性もいたりする。
自分は、平常時にいきなり乳首を押すので、女性の乳首タイプによっては怒られたりする。
だが、それもまたインタラクティブだ!
乳首丸見えでパリやミラノやニューヨークのランウェイを闊歩するファッションモデル達のように、
日本女性もノーブラで乳首の形をおしゃれに見せることを覚えてはいかがだろうか。
不自然な谷間など見せている場合ではない。横乳と下乳は認める。
乳首の形がくっきりと浮かび、時にその色までがうっすら透けて見えるノーブラの女性は美しい。
とりわけ、柔らかで編みの細かいニットを下から突き上げる乳首の突起には激しい興奮を禁じ得ない。
特にピタっとした白いTシャツなどはノーブラで着るためにあるのではないだろうか。
日本では、濡れTシャツコンテストがあまりメジャーでないのが、とても悔やまれる。
日本人女性は乳首をひた隠しにすることで、自らの乳首の価値をおとしめていることに気づいてほしい。
胸元のゆるい浴衣はもとより、着物と乳首の組み合わせも素晴らしい。
着物?と、意外に思われる方もいるだろう。
あんな分厚い着物に阻まれた状態で、どうやって女性の乳首を愛でるのか、と。
これだから、着物を着ている女性に対し、帯でくるくるあーれーをするくらいしか能のない素人は困る。
和服には、脇の下あたりに小さく空いた穴、身八つ口(みやつぐち)というものがある。
この穴の役割は、表向きにはお端折り(おはしょり)を調整しやすくするため、と言われている。
しかし、身八つ口の本当の役割は「男がすっと手を入れて乳をダイレクトに触るため」だ。
もし、彼女や奥さんが和装を身につけることがあったら、是非ためしてみてほしい。
脇の下にある穴、ここから手を入れることで、襟元を一切乱れさせることなく、ダイレクトに乳首を触れるのだ。
着物を着たままで、ダイレクトに、指先で、女性の、乳首を、まさぐれるのだ!!!!
このホールインワン乳首とも言えるダイレクトアプローチ感は、試してみないとなかなかわからない。
ひとことで言って至上である。
こんなところからも、乳首と乳首を愛する文化の奥深さがかいま見える。
長々と女性の乳首の魅力について語って来たわけだが、素晴らしさが伝わっただろうか。
女性の乳首の美しさ、尊さ、気高さがわかっていただけただろうか。
人間の女性の乳首は、乳児への授乳のためだけにあるものではない。
男性を魅了し生きる活力を与えるために、女性の乳首以上のものはないのである。
われわれ男性は、今後もおっぱい画像の収集に励み、女性の乳首をますます崇めたてまつろうではないか!
……と、言いたいところだが。
それを皆に伝えて、この文章を終えよう。
はじめておっぱいを触った http://anond.hatelabo.jp/20130416120520
【そして、名も無きおっぱい星人に捧ぐ】
そうやって「俺が使いこなせないわけじゃないんだ、分かりづらいデザインを考えた奴が悪いんだ」と自分に言い聞かせているわけだな。
アフォーダンス()
朝からニュースで「クレームがひどい、なんでこんなに自分勝手な人が増えたんでしょう」とか言っててむしょうに腹が立ったので書いておく。
マスゴミって煽って思考停止するようなださい態度は取りたくないので。
ググってみたがぱっと見えるところにクレームが増加したかどうかは統計がでていない。でていたとしたら教えてほしいしいし、そのクレーム増加が自分勝手な人が増えたといえる証拠にはならないだろう。
クレームが増加したと仮定しても、それがなぜ起こりうるかといわれれば、それは自分勝手さではなくシステムの問題と識字率の問題じゃないだろうかと考える。
クレームが起きたのは役所だったらしいので、役所、それから商品についてのクレームを想定して書いておく。
一つはシステム。ユーザビリティとかユーザインターフェイスの問題で、消費者や利用者が扱う部分を単純化するだけでクレームは非常に減るはず。役所であれば手続きの簡易化。企業であれば一概には言えないが、商品の単純化。携帯電話などは契約内容の単純化が考えられる。説明も簡易化。
それによってまた別の層のクレーマー(たとえば商品であれば物足りない技術者層)は増えるかもしれないが、クレームをなくすことは考えない。減らすことを考えるとしたらこれは有効じゃないかな。
もしそれでクレームが変わらないようであれば、それは商品とかシステム自体に問題があると考えていい。そこはつくった側が責任をコミットしてくれなければどうしようもない部分ではある。
二つ目は識字率。技術者層からクレームが来ると言ったが、クレームは意外と頭がいい人間が行うのではないかと思っている。仮説に仮説を重ねて申し訳ないが、個人では統計など取りようがない。
だが、識字率が上がることで、自分への処遇が適切なものかどうかは判断できるだろうし、識字率があがると無根拠なタブーを破るという統計もあるっぽいし。
今までは庶民はアホだからと言って対応していたお役所待遇が識字率が上がることで急に理解できることも考えられる。
だから、クレーマーの増加量と大学進学率を比べて見るのも面白いんじゃないかなと思った。
と言うかデータをくれ。
10:25 追記
テレビで言及していた記事は確かこれだったと思う
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080702-OYT1T00154.htm
ブコメに対して、企業一社一社の対クレーム処理の費用を調べてもいいが、それが「自分勝手によるクレーム」の量と一概に相関があるとは考えられない。対クレーム処理費用の推移なんかを見ても同じで、企業が大きくなれば活躍の場も増えるし顧客の絶対量も増える。クレーム量も当然増加するわけで、信頼性のあるデータとは言えない。
で、質についても言及していなかったが、昔からたちの悪いクレーマーは一定数いただろうに、報道の増加だけでクレーマーだモンスターペアレンツだと言って回る態度がそもそも気にくわない。そのうちアルファクレーマーなんてのができそうな勢いだ。
気にくわないが、それに対してロジカルに説明しないと誰も納得しない。だから書いた。
13:55 追記
個人的には「クレームの増加=自分勝手な人間が増えた」とモラルの問題にしてしまうマスコミの態度を批判したい。
むしろアフォーダンスの立場からはシステムの問題だよね、システムがいいというのであれば理解力の問題だよねと言ったつもり。
クレームがある/ないの二値の話ではなく、クレームとモラルの相関に対してほかにどのような影響を及ぼす変数があるかを考えたい。
アメリカや中国でクレームが増加しているというデータがあるならそれを示してくれればいいし、それを識字率と照らし合わせておまえの理論は違うんじゃねえの?と示してもらいたい。
そしたら安心して寝ることができる。
ちなみに技術によってクレームの質が変わったというのは考えるべき点かなと思う。
車の普及が10年前の状態だったら役所にむかついたから車でつっこもうなんて考えても実行しないだろうし。
深く考えないで捨てるように書く - 自分を語りたがらない人々
この人にとっては恐らく当たり前すぎて与件の事となっているのだと思うのだけれど、「自分を語りたがらない人々」と言うのは、「俺、自分語りとかしたくないんだよねー」などとは軽々しく言わない人々の事だと思う。
と言う事はつまり、より正確に言うのであれば、
「自分を語りたがらない人々」
と言うのは、
「自分を語りたがらない(ように外部からは見える)人々」
ではないだろうか?
自分はよく周りから「~~って自分の話をしないよね」と言われるタイプなのだけれど、これは相手によってはっきり変わる。
自分の事を話す相手もいるし、話さない相手もいる。
その基準と言うのは、自分の内部的なものよりも、その人から「~~は自分の話をしないタイプだ」と思われているか否かであるように思える。
実際はどうあれ、僕たちはまず外見を見て、内面を見る。
そしてその中間に、外部に発露しているその人固有のアフォーダンス、言ってみればオーラのようなものを無意識的・感覚的に感じるフェーズがあるように思う。
そしてそれは、コミュニケーションの在り方に実はかなり影響を及ぼしている気がしてならない。
話しかけにくいように見える人は、実際にはどうあれ、そう思っている時点で、そう思われている事を感じた時点で「話しかけにくい人」になってしまうのではないのだろうか。
少なくとも自分はそう言うタイプだ。
なんかまとまってないし上手く言語化できないのだけど、分かってもらえるかなぁ、この感じ。。。