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2009-05-12

高卒フリーター

http://anond.hatelabo.jp/20090510053204

これ読んで色々な不安が押し寄せてなんだかいろいろ考えたので、せっかくだからまとめてみる。

今月末、現在の住居から100mも行かないところにあるアパート引越しをする。一昨年の秋にそれまで住んでいたマイホームから賃貸の一軒家に引っ越した。

それでもこのご時世で家賃が厳しくなったので家賃3.5万の2LDKに引っ越すことになった。家賃はおよそ半分になる。

父は大学中退して建築関係株式会社就職して、俺が小学4年生の頃には部長になり、中学にあがる頃には地方部長になっていた。

実家から離れるので単身赴任になったけど、順調な昇進にどことなく誇らしげな顔をしていたのを覚えている。その頃、父はト○タのマー○IIに乗っていた。

ただ、俺が中学にあがってすぐ、父は退職した。このままだと東京本社へ転属されることは間違いなく、(俺から見た)祖母のこともあるので地元は出たくなかったことと、

営業でお偉方の接待に明け暮れる毎日に辟易したらしい。

そして間もなく、母と共に自営業飲食店をはじめた。これは数年で辞めることになる。1日に16時間近く店舗で配達から調理、経理をやっていた。

全く軌道に乗る事もなく、従業員のひとりに経営を委ねて我が家はこの飲食店から身を引いた。最近店舗があったところに行ったけど、跡形もなかった。

父は年齢が年齢なので、派遣インターネットのセットアップのスタッフをやっていたが、半年ほどで契約期間が切れる。

母の高校時代の知り合いがやっている、コーヒー卸売りを一緒にやっている。自営業

母は時を同じくして、某有名保険会社で働きはじめる。母の兄弟が勤めており、紹介ではじめたらしい。

もう50を目前に控えている母だが、新人として全国でトップ20に入る業績をあげ、東京本社へ招待された。意見交換会と食事会のようなものらしい。

そして、来月にも母はマネージャーへ昇格する見込みらしい。

しかし、不景気煽りと40代後半での転職なので、2人併せて年収350万ほどだそうだ。

俺は「最低限の生活」は送れていると思うが、それもギリギリのラインを保っているというのが実情だと思っている。

電気はよくとまるし、今月は親戚に借金しないと家賃も払えなかった。

そんな家の長男である俺はフリーター。別の言い方をすると浪人生

全落ちは免れたものの結果的には大学受験に失敗し、1年間浪人させていただくことになった。

志望は関西の某有名私大。授業料(免除/減免)制度がある(のと、学びたい分野で評価が高い)ので、狙うことになった。ちなみに津軽海峡以北在住。

親と話して国公立の学費は安いが、授業料免除制度特待生制度)がある私立の方が結果的に安くなるんじゃないか、という結論に拠る。一応、国立も受けるつもりではいる。

ただ、浪人生としてスタートを切って1ヶ月ちょっとが経とうとしている今、本当に大学へ行っていいのだろうか、という気持ちが再燃してきた。

親は「大学に行きたいのならなんとしてでも行かせてやる」と言ってくれているが、はっきりいってそんな余裕もなくなっている。

父は元々、子供っぽい性格だったが、最近は明らかに異常と思える事で声を荒げたりする。事あるたびに「そっか、俺はいない方がいいのか」ともいう。

子供っぽい父の扱いに困ることはあっても、そんなことを俺も妹も母も思ったことなんてないのに。

お金が全てだとは思わないが、愛(気持ち)で生活できるわけじゃない。

親は俺と妹に飛び切りの愛を注いでくれているが、今の家計で俺を大学に行かせるには(授業料減免制度を利用しても)負担が大きすぎると思う。

大学を諦めて就職することも真剣に考えた。しかし、自分の住んでいる地方は全国でも有数の就職率の低さを誇っており、高卒とまともに取り合ってくれるところなんてない。

もちろん、収入は少なくても無いよりはましだ。

決して大学への進学は親の意思ではない。親は「自分自身がやりたいことをやればいい」という。俺の意思で大学への進学を希望した。

俺が大学へ行ったら妹の進学は更に厳しいものとなるだろう。それは絶対にあってはならない。

妹は不登校を乗り越えて全寮制の公立高校へ進学して、介護方面を志している。就職もありだろうが、進学することも間違いないではないと思う。

自分を卑下するつもりはないが、俺の想像の及ばない困難を乗り越えた妹はそれなりの報いを(俺よりも)受けるべきだと思っている。

妹が不自然なまでに頑なに進学を拒むのは、こういった家庭の事情を汲み取っているというのも一因だろう。気の利きすぎるというか、考えすぎる節がある。

高校の頃はわざわざ(順調な昇進の兆しを見せていた)定職を捨てて、収入もままならない時期があった父を侮蔑していた。

だけど、今はもう責められない。誰も責められない。父の判断は正しかったのかもしれないし、間違っていたのかもしれない。

少なくとも高校受験を放棄し(「全入」と化している私立高校へ進学した)、私立大学を目指した挙句、失敗してフリーターとなりながらもまだ私立大学に執着する自分には父も、誰を責める権利はない。

これだけ長々と書いても気持ちは定まらない。

憎悪していた数学が楽しくなってきて(文系だけど)、他の受験科目の勉強も楽しくて仕方が無い。結局、責任なぞを持ち出しても、自分の欲に未練たらたらだ。

2009-05-11

院卒だから先輩なのに年下

今年入社した新入社員です。

院卒で就職したので、1期上の先輩だけど年下の人がたくさんいます。

こういう場合は相手に対する話し方どうすればいいのでしょうか。

基本的に私は学年が上なら無条件で「さん」づけ敬語

それ以外の人には「くん」付けため口で話してきました。

というのは、学年を気にすると浪人留年の経歴を相手に意識させることになるという配慮もあったからです。

しかし会社経験としては相手のほうが年下といえども長く、

人生経験においては自分のほうが長い。

みんなどう対応しているの?

2009-05-05

http://anond.hatelabo.jp/20090504163059

勧誘マニュアルに載ってそうなタイプだったんだろうねえ。

地方から上京だし、浪人して不安を抱えてるわけだし、親も浪人させて大学行かせるくらいだから、

そこそこ資産あったんだろう。多分。


どんなマニュアルがあるか知らんけど、この手の団体

(既にエスタブリッシュメントなあそこも拡大期にはこんな感じだった親からと聞いた)

組織拡大に地方出身者を狙うのは常套手段でしょ。

布教してたなら、そこ独特のノウハウとか知ってるんじゃないの?

例えば、少年マガジンを持って歩いてるヤツを狙えとか・・・ありそうだと思うのだが。

被害者的な側面ばかりじゃないでしょ・・・?

どうせなら、そういうことをオープンにしてよ。

TVに出た偉い建築家(私もみた)が何か建てたとか、美術館がゴージャスとかってあたりまえでしょ。

建築家建設会社美術品の買い付けにはそれなりの対価が支払われますよ。お金あるんだし。

ブックマークとかで責め立てられてるから、マジレスしちゃうけど、

職歴に関しては、ノルマの厳しい訪問販売やってました的なトークでかわすしか無いだろうな。

あながちウソではないわけだし。

私が遭遇したケースだと、昔勤めてた会社の取引先(超大手企業)でなんだけど、

新卒で入社したばかりの東大卒スーパーエリートマルチにはまって会社辞めるとか、

芸能人も入信したりで、ひところ騒動を起こした某宗教団体の熱心な幹部信者会社では課長だったかな)が

会社コピー機で、どん引きするくらい電波なチラシを作っていたなんてこともあったからね。

学歴とか特定の大学とか関係ないですよ。

カモる側の方が巧妙だし、自己実現の手段と捉えてせっせと頑張るヤツもいるだろうから。

あとさ、増田グダグダいうならまだしも何で、この日記ブックマークしてワザワザ責める必要があるのか

意味解らない。不幸な事例の収集としてのブックマークはアリだ思うけど。

2009-05-03

http://anond.hatelabo.jp/20090502190558

司法浪人してて、マジ将来が見えないわ。

一応法科大学院を出て、法務博士という肩書き貰って、法律の知識はそこそこある。

しかし求人は壊滅的に無い。

20代後半、職歴無し、学位だけ、という状態がここまで悲惨な扱いだとは思わなかった。

俺より優秀な先輩や同級生が、20名求職して2名しか就職できてない。

どうすりゃいいんだろうなあ。

2009-04-29

むかつくから書いてやる

俺の学校はね、一応県下ナンバーワンの公立学校だったの。

でね、そこは浪人生の成績で進学成績を保ってるような学校だったの。

補習科っていうのがあってね、そこに四年生って呼ばれてる人たちがいて、

現役生からは「かっこわりー」とか言われてたの。

毎年320人から100人くらいは浪人してね、それでもいい学校を目指すほうがいいなんて姿勢だったの。

まあそれはいいんだ。彼らが馬鹿にしていた地元の中堅国立に、

現役だとひっかかりすらしないような人間だらけだったんだけど。

文武両道とか言って、野球部サッカー部も緒戦敗退するのに数十万部費がもらえて、

軽音部は3万できったねえ6畳のプレハブで活動させられてたんだけど。


今でも思い出すとむかつくのは、管弦楽部とその顧問の音楽教師だ。

たった3校だかの中で1位をとって、全国大会にまで行ってピッチグダグダ演奏かまして帰ってくる。

その遠征費が200万?勘弁してくれよ。お前ら、コードとかの概念すらわかってないじゃないか。

高校生からクラシックをはじめるなんて、馬鹿だろ。

顧問は顧問で、利権にまみれすぎなんだ。

お前、あんなへたくそ演奏の指揮してて楽しいのか。

そのくせ俺が大音量で弾くへヴィロックはお気に召さないのか。

死んでしまえ。へたくそ

2009-04-18

いかにして私は大学生になり、そして絶望しかかっているか。

元ネタhttp://d.hatena.ne.jp/tell-a-lie/20090417/p2 を自分に置き換えてみたものです。

僕が、という一人称を使う時は若い時のしょっぱさであろう今について書く時だ。

しかも睡眠不足でハイな状態でテキストエディタは使っているが一気通貫に書こうとしていて、

その結果たるや想像するまでも自分に対するやるせなさが約束されているのだけれど、仕方が無い。

そういう時もある、と思いたい。そういう時でなければ今のことなど書こうとも思わないだろう。

書こうとも思わない内容だけれど最近はいつもの様に思う、それは僕が2浪の末に入学した大学のことだ。

この季節になるといわゆるフレッシュマンたちが大学に溢れ出るので我が身と対比して今日も落ち込むのだけれど、

その落ち込みの一助となるのが今の大学生活での思いなのだった。

僕が現役受験生をしていた年は(当時は過剰に意識していたが)旧教育課程の最終年で、

まして文系としての今後に夢も希望もなくなってしまった自分など理系しかないのではないかという状況だった。

理系という括りに安易なイメージがあったわけではなく(といより文理分けの直前まで理系志望だった)、

自分を省みた時に文系学問(というか外国語)に興味がなくなったと分かっていての忌避だった。

そんな理系の知識なし能力なし根性なしと「ないない尽くし」の文系男がとったのが

当時(それ以前も、今も)興味のあったのは宇宙工学だった。

宇宙工学、ようするにスペースエンジニアこそ才能がなくては駄目なのではないか、

そう思っていた僕に予備校進路指導?の人は言ったのだ。

「なにを夢見てるのです。あなたが今しようとしているのは非現実的です。顔洗って出直してきなさい。

(多分本心は)文系のまま浪人させて有名大学の合格者数をのばしたいのです。(実際、全額授業料免除の権利?をもらっていた)」

理転だから1年で宇宙工学のできる大学(某国立を目指していた)に合格できないとする根拠は全くないが、

実際にはゴールデンウィークが来る前までのものの1週間で根性がないため挫折して文系に戻ってしまった僕で、

モチベーションも下がり今思うと鬱病であったと思うような精神状態(自殺を本気で考えていた)で

無条件に2浪に走り、2浪目を迎えるにあたって両親と自分の心にこの1年出来るところまであきらめずに地道にやってみると誓って理系に改めて転向したのだった。

へたれな男、追い詰めりゃ受かる。常に襲う不安をぬぐい、試験をうけて、某私大の理学系の学部に受かった僕は

「(心の中の)大学生はとても楽しく振る舞っていて、またきれいな女性(恐らく彼女だろうか)ととても親密だ」という事が努力もなしに手に入るであろうというとんでもない感覚のまま、大学に入った(ちなみに第一志望の宇宙工学勉強できる国立から合格通知をもらうことはなかった)。1月前に意中の人ができ、たった何回かの会話だけで何の進展もない日々を重ね、1年時の単位も多少サボりはした為いくつか落としはしたが無事2年になった僕は意中の人彼女にするという夢と幻想を抱いたまま結局3年を迎えた。

何度か目が合うその人はすごくかわいらしい顔をしていて、好きです付き合ってください、と僕は言葉には出さず伝えていた。

その熱い思いを胸にしつついつものようにバイト先へ、電車に乗り、乗り換えの駅に着いた時にそれは起こった。

「あの子が男と歩いてる!」突然響く心臓の鼓動と見間違えだというささやき。突然のことでまさに何が何だか分からない僕は乗り換えのホームの方向へ向かうが、事態を理解する暇もなくいつかお付き合いをするんだという幻想脳内を追い出され、そして平穏な気持ちになる事はなかった。

元ネタの人が続きを書いていらっしゃって、気分がハイのままなら、つづく、かもしれない。

2009-04-09

http://anond.hatelabo.jp/20090408121545

大変な道だってことを言い続けるのは大事なのかもしれません。それでもやりたいっていう意志がなければ続かない道でしょう。

あと、やっぱり10代で2年間ぐらい棒に振っても立て直せるんですよね。それは浪人とか大学生とかの大きな特権だと思います。ただ、前向きな諦め方もあるんだってことを教えて欲しい。

私の高校の時の美術教師は、私は直接教えて貰ったことはないんだけれど結構若い先生だったのですが、途中でどっかの展覧会入賞してそのまま定期的に個展を開くようになっていました。

将来絶望してしまったときに自殺しなくてもいいように、夢を追うにもいろいろな道があるってことを伝えてあげて欲しいです。

2009-04-04

http://anond.hatelabo.jp/20090404120410

こういえばもっとわかりやすいかな。

司法試験合格できる人は限られているから、弁護士を目指すのはリスクが高い」

そうなんだよ。司法浪人崩れでどれだけの人が大変な目にあったか、、、。

東大の場合はいいんだよ。「滑り止め」という次善の策がいくらでもあるから。

だから「東大」という例は適切ではない。

「有利な転職を目指す」というのは「滑り止めのない受験」に近い。

自身があるならやってもいいんだよ。ただ万人にお勧めできる?

2009-03-23

http://anond.hatelabo.jp/20090322231551

えっ,浪人してももう1回受ければいいじゃん。

1回落ちたくらいで諦めるくらいの「東大に行きたい」じゃ,来年も2の舞だぜ。

2009-03-22

http://anond.hatelabo.jp/20090322231551

浪人経験したことはないですが…。

>とりあえずは春から河合塾への進学が決まってるが…。

ならばこちらも「とりあえず」。

「とりあえず◯◯◯になりたい」という目標を設定して進学先を決めてはいかがでしょうか?。

大学進学後も進路の軌道修正は効きます。

2009-03-18

東大文1に半年で受かった勉強法(10年前だけど)

偉そうに合格体験記でも書いてみようかと思います。知り合いにもはや受験生はいないのですが、d:id:lonlon2007:20090317が目に付いたので。

ぶっちゃけると受験勉強は「想像していたとおり楽。」でした。受験勉強を始める前は受験生ってのは寝てる時間と飯食ってる時間以外は全部勉強に当てて、たま徹夜勉強する!みたいな偏見は全く持ってなかったんですが、やっぱりそのとおりでした。むしろ10月までバイトしていたのがたたって出席日数が足りず授業のコマ数が増えたうえに出席日数を充たした他の生徒が次々と休み始めるために授業中に寝にくくなり、平均睡眠時間が減っていきました。(寝ないと動けないんですが・・・)

東大は天才じゃなくちゃ入れないっていうのは確実に嘘。「東大生」は学部生だけで約1万、ほぼ京大もほぼ同じ、わずか4〜5歳間に2万超もいる人たちを「天才」とは言わない。天才なら楽に入れるなら本当かも。

秀才が3年間こつこつ勉強して入れるっていうのは本当。「〜初めて入れる」は微妙。秀才でも凡人でも3年間もコツコツ勉強すれば入れるんではないでしょうか。本当に「コツコツ勉強」していれば。

「色んな人が色んなところにこうやれば受かる勉強法!みたいなのを書いていますが、個人個人で合った勉強法は違うので、色々な方法を試してみて、自分に合ったものをやるのが一番いい」というのは当然のことで、id:lonlon2007が長々書いてる中で唯一の真理

id:lonlon2007を逐一もじるのは早くも飽きたので、というよりもそんなに長く書くこともないので簡潔に。

ちなみに残念ながら僕は、『苦手科目は世界史日本史得意科目は数学と化学と物理と地理』だったので「理1なら1ヶ月で受かるんだけどな、下手すりゃ今日にでも受かるかも」と思いながら勉強していました。

あと、基本的に家では喫煙を禁じられていたので、主にガストジョナサン勉強してました。当時(約10年前)のファミレスはせいぜいがホットコーヒーのみおかわり自由で、ジョナサンアイスコーヒーおかわり自由とガストドリンクバーには大変助けられました。あっ、嘘だ。一番勉強したのは学校。さっき書いた通り10月バイトを止めてからは授業にかなり出るようになったので、授業科目を耳で聴き、別の科目の教科書を目で読み、2科目並行で勉強してました。あとはファミレスで数学や英語(主に英作文)の難問を広げ、頭の片隅でその回答を考えつつ苦手の世界史テキストを読んでいました(たぶん後で書くけど教科書ノートよりも新書が多かった)。

風呂の中や通学電車の中で小説を読んでる時も、未だ解けていない難問や数日内で間違えた問題のことを完全忘却しているわけではないのですが、机の前以外では何か思いついても頭の中にメモるだけ。勉強しない時は勉強しないとメリハリをつけるようにしていました。ちなみに「机の前」には授業時間が含まれます。高校生は一日の半分近くを学校で机に向かっているわけだから、勉強時間は非常に長い。一部の(私立)進学校や特別選抜クラスのような環境でもなければ「授業のコマ数が減る」ことはないと思いう。嫌でも一日の半分近くが勉強時間。「寝てる時間と飯食ってる時間以外は全部勉強に当てて、たま徹夜勉強する!みたいな偏見」は授業時間を効率的に使えていない人が持つのではないかと思います(あとは生徒に自由時間を多く与える方針の学校の生徒)。そういう意味では「勉強効率」がポイントというのは同意できる。

うちの高校(某都立)では文化祭(とついでに体育祭)が一大行事としてありますが、殆どの人は夏季講習と文化祭の準備を両立させ文化祭が終わった9月頃から本格的な受験勉強を開始するようです。かく言う僕も文化祭が終わって(ちょっと学校側とイロイロあって)バイトを辞め、10月から受験に力を入れ始めました。今、気付いたんですがid:lonlon2007は「6月から」とのことなのでタイトルに偽りありで約半年、僕の方も10月からなのでタイトルに偽りありで約4ヶ月ですね。開始をもう1月遅らせておけば「四半期で受かった勉強法」とゴロ良くピッタリなタイトルにできたのに。

まず何をしていいか分からない!ということで過去問を解いてみました。いや、模擬試験を受けたかも。なにぶん10年前なので記憶が・・・。とりあえず法学部志望なのに受験敵性では明らかに理系向き。その分、周りが国公立を難しいという理由の一つである文系なのに理系科目(理系でも文系科目)、という関門はあっさり突破。選択授業も理系用の数学(と化学と物理)をとっていたので2次試験の数学もさほど難しいとは思いませんでした。

「まず」も何も、とにかく苦手の世界史だけやろう!ということでそれまでは小説に費やしていた読書時間を歴史系の新書に切り替えました。もともと古本屋めぐりは趣味だったので行動範囲の古本屋の50-100円コーナーで歴史系の文庫新書を買い占め。2年半バイトしていたので他の高校生男子よりもお金を持ってはいました(うちの高校は縁遠かったけど世間では「ブルセラ」華やかなりし頃。女子高生は金を持ってた)。がそんなこととは関係なく、買い占めたと言ってもせいぜい100冊程度。私立や塾に通うことを考えれば微々たるものです。

いつどんな問題でも満点を取れる!と思わない科目を勉強する分には必ず点数の上昇につながるので、わざわざ『勉強スケジュール』を組む必要はありません。数学は1日勉強しても1点分しか稼げないけど、英語は1日の勉強で2点稼げる、てなことが計算できるのなら『勉強スケジュール』も有効かもしれません。しかし、そんな計算ができる人は自分の欠点が分析できているのだから、すぐに数学でも2点稼げるようになります。満点を取れない間は何をやっても点数に繋がるのだから『勉強スケジュール』なんか不要。そもそも『勉強スケジュール』を考えようと言う発想が今日今日までありませんでした。夏休み宿題@小学校で1日のスケジュールを考えろと言われた時以来の衝撃です。『勉強スケジュール』は学校バランス配分してくれた「時間割」で十分だと思います。

夏休みバイト文化祭だけだったので、休日勉強について。休日はNHKで将棋を見てから昼食、最寄り駅周辺の古本屋を回ってからファミレスへ。(好きなのが将棋で幸い。これが囲碁だったら午後の大半がテレビでつぶれる。当時はネット中継がなかったのも幸便)本を1冊読んで(1〜2時間)から勉強。最低2時間はやろうと決めていて実際2時間くらいなら集中力は続きます。鉛筆ナメナメ英作文を推敲していると気付くと2時間なんてこともあって最低2時間の縛りは苦痛ではありませんでした。(学校じゃサボってると言ってもそれ以上やってるわけですし)

夏の「初の東大模試」は受けたような気がしてきました。模試の判定は最後までE判定だかF判定だったので「予備校の採点基準が間違ってる」と思ってました。私立であればともかく国公立の論述問題は大学教授を信用して、「間違ってはない」回答が書けていれば良しとしておきましょう。予備校の採点は予定された正解以外を大幅に減点する傾向があるように思います。英作文であれば日本語の1単語には4〜6音節の1単語の英語を対応させれば文句なしの正解で模試ではこれ以外は減点。実際にはそんな難しい単語を知らなくても中学校レベルの単語を組み合わせて意味が合っていれば大学教授は正解としてくれるようです(大学に入ったからといって採点基準を教えてもらえるわけじゃないけど、じゃなければ不合格だったはず)。

時期別対策?

10月〜11月

相変わらず模試は最低判定。意に介さず淡々勉強(授業)。

12月

出席日数を充たした生徒が続々と授業に来なくなる。いやがおうにも授業中に寝れなくなる。友人も受験モード突入で遊びの誘いも減る。悪循環?好循環?

センター対策は・・・必要なんでしょうか。東大京大の2次試験を見据えていれば不要な気がします。敢えて言うなら文系理科理系社会科でしょうか。僕の場合理科得意科目だったので無視。

センター

というわけでセンター試験対策としては過去問をやってみたくらいです。悪くても90点以上だったので、本番の集中力があれば大丈夫だろうとタカをくくる。それでも素材がたっぷりあるうえに冬休みは午前中の将棋(NHK)もない。勉強時間は比較的長かったように思います。午前に1〜2時間、昼飯を食って古本屋。別のファミレスで本を1〜2時間勉強1〜2時間。僕の中では最初と最後の時間差だけとって「6時間もやった」と思っていました。

冬休み学校に行かないので、毎日図書室で読んでたJapan Timesが読めなくなりました。かわりにテレビニュース英語音声で聞くようにする。親と妹も「受験生」ということで不満は抑えてくれてたようです。

ちなみに過去問時間を気にせずやっていました。調子が悪い時や面白い問題にであったときは1時間を超えることもあったと思います。過去問で高い点数を取ってもあまり意味がないので答えや力の確認ではなく、とにかく「どんな問題でも時間さえあれば解ける」という確信を持てるように。時間を気にしていないので早く解き終わった時も確認とかはしない。「できた!」と思った段階で答え合わせ、間違っていたら原因を考える。

二次試験

とりあえずセンターの自己採点が大丈夫そうだったので、気が抜けました。本番でも緊張しないことが分かったのが収穫で相変わらず学校の授業に出る日々。得意で好きだった数学・理科はそろそろ休めます。教師との不仲が極限に達していた英語国語は最後の最後まで授業です。

東大の○○25ヶ年』シリーズって何?赤本と友人がやり終えた予備校テキスト文庫新書、あとは学校教科書勉強してました。友人から借りた予備校テキストはザッと解いて印象に残った問題だけ書き写して返す。別にビンボーだったからじゃないですよ。公立・公立・都立ときて親にはあまり負担をかけてないし、大学国立の予定だし、バイトガッツリしてたし、参考書を買う程度で躊躇することはありません。『東大の○○25ヶ年』シリーズはたぶん僕の頃にはなかったんだと思います。

そんなこんなでさすがに学校も行かなくてすむようになり(都立とはいえ受験校なので他の生徒は来ないし、教師もそのつもりでいる)、時間ができたので予備校に潜り込むようになりました。友人は私立志望が多かったのと私立の方は全く自信がなかったので私立コースです。あと友人は理系にも多かったので理系東大コースみたいのにもたまに行ってました。2ヶ月も真面目に勉強するとさすがに疲れ(飽き)たのか、この時期に大きく伸びた気はしません。予備校では、僕が無意識にやっていたことを言語化してもらった感が強く、それはそれで頭の整理ができました。有意義だったと思います。

ぶっちゃけ全科目やるって言っても、高校で一日授業を受けているようなものなのであんまり死ねませんでした。

科目別対策

数学

得意で理系の授業をとっていたので苦労なし。解けない問題は絶対に回答を見ず、翌日へでも翌週へでも持ち越してひたすら考える。答え方を覚えるよりも、答えの見つけ方を思いつくことが重要だと思います。図形問題なら知ってる定理・公式を片っ端から引っ張り出してやみくもに補助線を引く。そんなことを繰り返してるうちに、問題を見ると求めている回答がわかるようになってきます。センター試験は余力で解けるので無視。

使った参考書・問題集:東大京大・私立理系過去問

現代文

現代文は二三回本番形式で練習して、形式に慣れるくらいでいいと思います。現代文はみんな取れなくて差がつかないし、勉強すりゃ上がるっていうもんでもないので、比重は極めて低かった。漢字常識の範囲内なので、よっぽど苦手な人でなければ悪くても1問間違えるくらいで済むでしょう。

加えて日頃読んでいた小説・随筆は役に立ったかな。乱読・雑読ですが古今東西ジャンルに捕らわれずに古本屋投げ売りコーナーで目に留まった本を片っ端から読んでたので、過去問模試でもたまに知っているテキストがありました。新刊でも買うような好きな作家受験には向いていないようで、これも幸いでした。好きな作家テキストが出ていたら「正解」ではなく「持論(自論)」を書いてしまうひねくれた者なので・・・

知っているから解ける、知らないと解けない、というわけではありませんが、抜粋されたテキスト前後や著者が分かることにデメリットはありません。「受験のため」としてはお勧めできませんが、今まで読書に費やした時間も「無駄ではない」程度の気休めに。

使った参考書・問題集:なし

古文と漢文

暗記が苦手なので古文には多少手を焼きましたが、学校の授業で十分。むしろ暗記法があれば教えてもらいたいくらい。単語帳とかがいいんでしょうか。僕は単語帳を作るのが面倒だったので、とにかくテキストを繰り返し読んで単語の意味や用法を文脈から類推するように心がけました。おそらく全科目で一番教科書を使いました。和訳(現代語訳)では自然日本語になるように心がけました。意味が分からないから曖昧に訳すのではなく、文理や言葉のかかりを強調する翻訳体をさらに自然言葉に訳す感じです。英文和訳でも同じ。

使った参考書・問題集:教科書過去問

物理と化学

センター試験対策。教科書過去問で十分。感覚を忘れないように授業がなくても週に一度はやる。勉強期間が短いので過去問が枯渇する心配がない。

使った参考書・問題集:教科書センター試験過去問

世界史と地理

うちの高校では入学時点で日本史と地理の選択を迫られます。歴史の暗記(人名年号)が大の苦手だったので深く考えずに地理を選びましたが、これが功奏。日本史世界史日本史と地理が無関係とは言いませんが、世界史(の特に近現代史)と地理は密接不可分。片方を勉強すればいやでも他方の学力もあがります。

比較的得意だった地理。これは教科書一般教養新聞新書)で済ませました。とにかく視点を広くして、知らないことがあって当然、知らなければ考える。このとき世界史の知識や新聞書籍で読んだ現代社会の知識が役立ちます。社会政治は地理的条件や歴史的背景に帰結することが珍しくありませんから知らないことでも十分に推測がききます。

あとは地図を見ることかな。別に国名や地名を覚えようとする必要はなくて、国名や都市名とだいたいの位置が繋がればそれだけでたくさんの情報が得られます。内陸なのか平地なのか、頭の中で地形図や気候図とおおまかに重ねられればなお良し。世界でn番目に長い川の名前とかm番目に広い国土といったクイズ的な知識は不要。そこに川はあるのか、国土は山がちだが狭くはない、その程度で事足ります。

都市名と工業農業産業を単にセットで暗記するのではなく、そのような産業が育まれた地理的要因を考える。基本で当然のことのようですが、結局はこれにつきます。

歴史(世界史)。大の苦手。とにかく年号人名が覚えられない。ルイとかシャルルまでは分かるけど何世かが覚えられない。清教徒革命フランス革命前後関係因果関係)は分かるけどそれぞれの年号は知らない。(日本史なら足利某までは分かるけど某が分からない)それでも何とか解けるのが東大京大論述問題の良さ!

細かい年号はザックリと捨て拙い記憶力は人名とせいぜい事件の名称に費やす。あとは前後関係因果関係意識しながら歴史を概観する。

教科書や授業では国や地域で縦に切り、ついで年代で横に切って学習しますが、前後左右のつながりを考えて大きな年表を作ります(頭の中でも良いし、模造紙や今ならパソコンソフトで実際に作ってもいいかも)。先の例で言えば清教徒革命イギリスの歴史においてどのような影響を与えたのか、さらにヨーロッパアメリカのどのことがらにつながっていくのか、フランス革命フランスの歴史、ヨーロッパアメリカの歴史にどのように・・・こうやって年表に→を書き始めるとすぐに→だらけで見るにたえなくなっていくと思います。そんな因果関係を大まかに覚えていく。このような大きな流れがつかめると東大の問題は急に簡単に見えてきます。

教科書と資料集を片手に短時間で問題を解けるようになれば、あとは覚えるだけ。

教科書・資料集をわたしてもキーワード人名年号・地名・事件)をピックアップすることしかできずそれらをつなげて論説できない人が東大京大論述式問題を難しいと言ってるように思います。僕の場合は逆で、キーワードが分からない(正確に覚えていない)もののキーワード部分を穴あきにした回答は組み立てられた(センター試験の問題文のような文章)。教科書・資料集があれば穴埋めは簡単。あとはキーワードを覚える。受験勉強のほぼ全てをこれに費やしたと言っても過言ではありません。

例題を解く時は分からない問題もいきなり回答を見るのではなく教科書などを見ながら一度回答を完成させてから回答を見る方がいいでしょう。「覚えさえすれば」という段階に至ることが重要

もう1つ、大まかな流れを雑ぱくに理解するのに新書のような読み物が役立ちました。受験用ではないので縦横に細切れにされていませんが、その分全体的な流れが見えてきます。気分転換にもいいでしょう。

最後に暗記について。当時は思いもよらず、最近になって思いついたのですが、書いて覚えるのではなくしゃべって覚えるというのがいいような気がします。英単語漢字は書いて覚えるのも効果的だと思いますが、(ルイ)14世、15世、16世と書き連ねたところであまり役立つとは思えません。関連する人名年号・ことがらをセットで口に出すと覚えられそうな気がします。ぼくは学校ファミレス勉強してたので、当時思いついたとしても実行できませんでしたが。ちなみにこれは法学勉強を通して気付きました。自分レジュメを作ったり授業を聞いていても条番号はなかなか覚えなかったのですが、ゼミなどで口に出す頻度が増えると自然と覚えていました。

英語

英文和訳は慣れ。知らない単語は前後の文脈で予想。そのために役立ったのは英字新聞Japan Times(とテレビニュース英語音声)でした。朝に日本語新聞で読んだ内容が英語に書き直されてるようなものだから、知らない単語があってもドンドン読み進められる。これを2ヶ月も読めばいやでも単語力や読解力、類推力や速読力が身に付きます。

辞書をひくのはあとまわし。類推した単語はあとで必ず辞書をひく。この2点がポイントと言えばポイント辞書をひくのをあとまわしにするのは「考える」ことが重要だから。あとで必ず辞書をひくのは、1つの単語が持つ複数の意味を「とりあえず知っておく(覚えなくてよい)」のが重要だから。

今では多くの英語新聞記事がネットで見られますが、日本新聞とはフォーカスが違うので今なおJapan Timesが良いと思います。「英文を読む」よりも「大まかな内容を知っている英文を読む」ことが重要です。

趣味と実益を兼ねて好きな作家原書も読みました。が、これはさすがに知らない単語(と専門用語)が多すぎて勉強にはなりませんでした。

あとは過去問東大京大ではずいぶんと傾向が違うのですが、それでも私立の問題よりは国公立の問題の方が東大受験には役立つ。私立の問題は「知らなきゃ解けない」うえに教科書にないものも多い。国公立とは別のことを問うています。

単語帳は古文同様に作るのが面倒。教科書では物足りなかったり電車教科書を開くのが恥ずかしかったりなら、ペーパーブックを1冊だけ買って眺めていればいいのではないでしょうか。3日も同じページを読んでいればいやでも内容が分かるようになり、使われている修辞・技巧なんかにも気付くようになると思います。

DUOとか知らないしiPodは当時はない。当然使ってません。今なら英語ニュース議員さんのPodcastiPodで聞くのはありかも。(議員さんやニュース英語は分かりやすいです)

例文を覚えるという発想はなかった。過去問模試を解いているといやでも覚えてしまう文法的技巧や慣用句はありました。「覚える」というよりも「(自然と)覚えた」という感じなので「覚え方」は分かりません。

自由英作文は想定されている答えを探すのではなく「意味」が通る英文を書くことが重要。正しい文法で知っている単語の継ぎはぎする。どうしても分からなければ少し長めにあけた余白に薄く日本語を書いておき、あとで考えましょう。日本語1単語に5 words前後の余白を対応させるくらいの気持ちで。他のことを考えているうちにピッタリくる単語(1単語)が浮かぶこともあるし、そうでなくても空白のまま出すくらいなら中学校で習った単語を並べて意味を表現する。とはいえこれは苦肉の策。単語を知っていて損することはないので、時間と金と記憶力に余裕があるなら単語や例文はいくらでも覚えてください。大学に入っても社会にでも英語が足かせになることはないと思う。

英語(と現代文)は教科書をあまり使わなかった気がします。

使った参考書・問題集:国公立大学過去問模試、英字新聞

模試

模試は一通り受けたと思います。「教える」ための教科書と「考えさせる」ための試験では勉強の内実が違います。「教わる」よりも自ら「考える」ことの方が重要なので省エネ勉強のためにも受けて損はありません。嫌でも丸一日勉強したことにもなります。

東大模試は受ける。結果が悪くても気にしない。結果が良ければ安心する。結果が悪くて自信もなければそれを機に諦める(浪人するなり志望校を変えるなり)。

過去問を見るかぎり、東大よりも京大の方が正解の範囲は広いと思います(模試ではなく本番の話)。模試結果に納得いかない人は東大より京大に向いているかもしれない。

本番

寝過ごした!電車で寝過ごしたけど、高校受験で軽く遅刻した反省をいかして少し早めに出ていたのが功奏して間に合いました。遅刻だけは気をつけましょう。

遠方からの受験生ホテルなどに宿泊する方は寝坊に注意。受験まで1年のこの時期に言っても「そんなわけない」と思うかもしれませんが、1校しか受けない本名中のPermalink | 記事への反応(0) | 18:06

2009-03-12

さっき池田三左衛門の姫路城を見たが、本当に唖然としたでござるよ

http://anond.hatelabo.jp/20090308223942

さっき池田三左衛門輝政めの姫路城を見たが、本当に唖然としたでござる。

拙者、断言致すが、あのシックイむき出しの天守を見て感動している下民は馬鹿でござるな。これは十割断言でき申す。

何であれがいいと思うのでござるか!?

なんであの天守みたいなのをよその城主も真似するのでござるか!?

本当に分からぬ。あれシックイまんまでござらぬか。シックイむき出しでござるよ?

誰だってあれ見てシックイだって言うのは一瞬で分かるでござる。それで感動するって本気で馬鹿でござろうよ!? 

あれがいいっていうのは、頭がおかしいとしか言いようがない、というか、脳が退化してるんでござるな。

それしか説明がつかぬよ。つまり、丁寧に黒漆塗りの下見板張りで作られた黒い天守シックイむき出しの建物の区別が下郎にはつかんのでござるな。だからいいと思って真似る。これは馬鹿としか言い様がないですな。日の本の将来は大丈夫でござるか?

前にもちょっと池田三左衛門めの城が出た時、Googleすとりーとびゅう(こんなもの拙者は見たくなかったが)で見たが、なんであんな人気あるんでござるか。あとついでにその池田の城を模型にしたのも見たでござる。これならまあ100歩譲って納得できなくもないが、ただ当然先の関白太政大臣秀吉公のおつくり遊ばされた黒漆塗りの下見板張りの大坂城天守模型とは比べるのも失礼な程でござるし、タダならまあ一回組み立ててもいいかな、という程度でござった。何回も組み立てるほどではないでござる。ただコメントは絶賛の嵐でござった。下民は馬鹿でござるな。本物を知らない素浪人ばっかなのかあそこは。ろくなもんじゃないでござる。

拙者ははっきり言うが、もっと黒漆をしっかりと塗っている天守を建てるべきでござる。じゃないとおかしゅうござる。作事奉行が毎日どれだけ苦労してるか知ってるでござるか? 漆職人がかぶれと悪戦苦闘しているのを知ってるでござるか?板職人、足場作りと書けばきりがないでござる。大好きな酒、タバコも我慢して頑張ってる人もたくさんいるのでござるし、侍みたく安定した職じゃないから毎日不安と戦ってるのでござるよ。そういう方が心を込めて塗ってる天守を建てずに、シックイの天守を建てる。ほんと拙者切歯扼腕にござる。どうしてあのシックイむき出しを建てるかね。わからぬ。世の中不思議だらけでござるな。

本当におまえら頭冷やして考え直したほうがようござるよ。おまえらは馬鹿か、さもなくんば「ぶーむ」とやらに乗せられてるだけでござる。まあそれを馬鹿と言うんだがな。故千利休宗匠も黒く塗れとおっしゃっていたでござるよ。

芸州広島城主 福島左衛門太夫

2009-02-06

http://anond.hatelabo.jp/20090206112914

提示されている文から読み取れる事。

1.受験者が高校生に限らない。浪人高卒認定者その他の存在

2.1よりわかるように元々の平均、今回の平均共に高校生受験者"だけ"の平均では無い。

3.年によって問題そのものが違うので一概に比較出来ない。

4.高校生受験者は高校生全体と一致しない。

5.個別が下がっていても総合で勝ってる可能性もあるので何とも言え無い。

以上より、『このニュースから「高校生学力が落ちている」とは言えない』。

2009-01-29

http://anond.hatelabo.jp/20090129001515

一定の基準といっても需給によってどれくらい落ちるかが変わるからやはり浪人は減るはずでは?実際減ってるし。

2009-01-27

自分努力をしない

才能なんて努力の積み重ね」だとは言うけれど、自分過去努力をした覚えがない。そういう意味自分は全くの無能だ。

血眼になってゲームをしたことはあるけど、そもそも実のないことを努力とは呼ばないし、それでも人には遠く及ばない。

いじめられ(ある本の言葉を借りれば、性質は「いじり」に近い)、心を閉ざし、誰とも口を聞かない、典型的いじめられっ子に堕してからは、

ああ、ここにいる自分自分じゃない、こんなクズなわけがない、他の場所では、人とも話せるような、面白い自分でいられるはず、ただ、この場所ではこういう役割を演じないとダメなだけ・・・

そういう上っ面だけで地に足のつかない、浮ついた理想を糧に生きてきた。

逆に言えば、努力することを知らなかった自分には、それが無ければその時点で今のように絶望し、前向きに生きてこれなかったとも今なら回顧できる。

今でも親に「他人行儀でものを話すな」と言われるけど、そうやって理想として形の無い自分現実に形を持った自分とで存在を分けてきたのが一つの原因だと思う。

もちろん、いざ「いじめられっ子」というレッテルの拭われた場所で一度他人と会話をしてみても、ノリも悪く全く面白みのない話しかできない自分しかそこにはいない。

面白いと思われているような人がどういう生活からそのパーソナリティを形成してきたかはまるで見当もつかないけど、周囲の人間と多く接し、会話が手馴れているということは自分にはありえない。

それはおろか、会話の要点すら変な言葉ばかりを選んで的確に伝えることすら覚束ない。理想自分とはかけ離れていた非コミュも甚だしい社会不適合者が出来上がっていた。

今から直そうとは思わない。直すための猶予期間は、とっくに過ぎている。

いじめられていたから、高校生活では、部活にも入らず、ただただ「高校から逃げたい」という一心で過ごしていた。

その中で通信制高校という逃げ場の存在を見つけたけど、そこに入るためにどうしても退学したいとは切り出せない。そこで、自分は退学せざるを得ない状況を作ろうと考えた。

暴力自分の性質上振れないし、振る対象もいない(いじめに対抗することも考えられない)。自分がとった方法は成績を極端に下げて単位を取れなくするというものだった。

そのために、テスト前であろうがいつであろうが、ひたすら勉強をしなかった。それまで無縁だった赤点もいくつも取った。

ただし、禁忌に触れるのはやはり否定したのか、最終的にはいつも追試はパスし(させてもらい)、低い成績ながらなんとか単位はもらっていた。

3年になって大学入試勉強が必要な時期に入っても、先述のいじめに関連して「大学には入りたいけど大学に入っても今のままじゃ高校時代と同じだから」などと理由をつけ、勉強から逃げた。

「成績は下げても学力はキープしておく」という発想が全く無かったことから、勉強をしなかったのは単純に怠惰で、先の「退学したかったから」という不勉強の理由も実はこのように後付のものではないかと思ってみたりもする。

大学に落ち、一年浪人をしたけど、結局それまで勉強部活その他諸々努力するという習慣がついていなかったことから全くうまく行かず、再び居場所を失った。

部活といえば、中学生の頃は運動系部活に入っていたけど、毎日出た反面、面倒臭さ3/4ぐらいで接していた分なのか、その腕前は見るに堪えないくらいにひどいもので、試合でも同級生の中で一人だけ別のカテゴリで試合に出されたり、同級生や後輩からひどく馬鹿にされていたのだけど、改善しようという発想は無く、下手なことを甘んじて受け入れていた。

そうした過去の積み重ねが、今ことごとく悪い方向に作用しているのだと実感する。むしろ、今まで現れて来なかったのが不思議なくらいだ。自分はもう、世間一般と同じ尺度で測ることなど到底できないクズへと、人が輝かしい過去と懐かしむような学生時代をかけて、変異していたのだ。

自分の兄も、学生時代に見た目は自分と同じように全く努力しているように見えなかった。今でも努力を放棄し呑気にしている部分がいくつか見受けられる。自分は彼をそういう目で見てたけど、気づいたら自分も同じだった。ある意味、影響されたのかもしれない。そんな彼は、現在まともに職もなく、派遣社員として降りかかる就職問題に苦しみ喘いでいる。自分はどう足掻いても、じきに彼と同じ、いやそれ以下の人生を進んでいくのだ。虚しい。

2009-01-23

http://anond.hatelabo.jp/20090123190552

センターの結果を見て、「志望校に受からないかも」って思った瞬間から、浪人したくなるもんだよ。

浪人を早期に決めれば、とりあえず気分だけは楽になるからな。

ソースは俺。

2009-01-22

現在1浪。

なんだか今年も志望する大学には入れそうにない。

2浪してAランやBラン目指すか、今年入れそうなDランEラン辺りで妥協するか。

一流大学でもFランでも、語学以外の授業のレベルはそんな変わるもんじゃないっていうけど、実際はどんなもんなんだろうね。

1年浪人して勉強出来なかったわけだから、もう1年やっても無理だとは自分でも思うし、精神的にもきつい。

それだったら今年Fランでもいいから受かったところに入って、そこでトップ目指すなり、資格公務員目指すのがベターなのかな、と。

http://anond.hatelabo.jp/20090122002417

考慮されていない点

人口で割るということは、学生高齢者も頭数に入れているということで、それらの分を払うのは結局、親や子や年金支払者となる。こういった場合は就業者数で割る方が良い。結果、900億円÷6000万人=一人あたり1500円ほど。

問題点

この手の話で一番いわれるのが不公平感と労働意欲の問題。

例えば300万渡すとすれば、手取り年収300万以下の人は、働いているのに使えるお金が少ないのはおかしいと思うだろう。

では、年収300万以下の人には300万となるように支給するとしよう。しかし、それでもおかしなことになる。

働いても働かなくても同じ300万なら、働くだけ損ではないかと思うことになる。

さらに、例えばアルバイト学生はどうするのか。年収300万に満たないから支給するのか?

パート主婦はどうするのか。夫の年収が高くても支払うのか、支払わないのか。

別居なら?既婚のホームレスは?

そもそも働いているか否かで決める?ニートは?年金生活の人は?居住地が問題?浪人したらネカフェに住めばもらえる?

などなど。

簡単に900億の予算で3万人を救う、という単純な話ではなくなる。

http://anond.hatelabo.jp/20090122003910

というわけで、下手な基準を設けるのではなく、国民というのを唯一の基準にしてしまおう、というのがBIなわけですね。

そうすると、1億2000万人にいくら払うのか、財源はどうするのか、という話でもめるわけです。

2009-01-18

26歳。

両親は私が3歳の時に離婚して、それ以来、私は母と暮らしている。

今年に入って、父が脳梗塞で(言葉は悪いが)少しおかしくなった。

動くことは出来るが高次機能障害の状態だ。

はっきり言って、私は父の面倒を見ることは出来ない。

目標としてきた、資格試験も目前に迫っている。

私も若くはないから、何度もやり直すことは出来ない。

ストレスが折り重なってる。

父は離婚したにもかかわらず、何度も追いかけてきた。

10歳の時に離れることが出来たが、18歳の時にまたやってきた。

そして、浪人中の人間に金の無心。金などないからバイト

当然、勉強は捗らなくなる。それを繰り返し、結局、道から外れる。

今も父が探してこなければ良かったと度々思ってしまう。

度々というよりも今もそう思ってる。はっきり言って迷惑だ。

私には私の人生がある。

私は薄情か?

2009-01-16

http://anond.hatelabo.jp/20090116070709

正式な教職採用がかなりの狭き門ってことをちゃんと知ってて

教師になろうとしたんだろう?

非常勤の講師なんざ司法浪人してるバイトと似たようなもんだろ。

小学校のころ同級だった男の子スキーに行った。

http://anond.hatelabo.jp/20080913153317

http://anond.hatelabo.jp/20081201015818

http://anond.hatelabo.jp/20081226042010

の続き。

知らないうちに、彼らはスキーに行ったりしていたらしい。

小学校同窓会にて地元組で話が盛り上がり、近場に泊まりがけでスキーに行ったことがあるらしい。

なぜわたしがそれを知ったのかというと件のやつから「せっかくだから今年は一緒に」と誘われたからなのだが、転勤族の悲哀というか、卒業と同じタイミング学校を変わってしまうとこういうふうに図らずも仲間はずれになってしまうことがままあるのだ。

これまでは特に気にしたこともなかったけれど、今回ばかりはちょっとさびしくなった。

いいな、と思った。

わたしには「幼馴染」という関係に対する幻想のようなものがある。

子どものころからずっと一緒にいると、互いが少しずつ異性になってゆくようすを間近で見る機会が多くなる。

声が変わったり、胸が膨らんだり、背の高さが逆転したり、ちょっと重いものを運ぶときに軽々と担いでいる姿とか、ふとした瞬間の大人びた表情とか。

そういうのが、とても魅力的で刺激的なことのように思うのだ。

実際は特に意識することなんてないよ、と経験者が語るのを聞いたこともあるのだけど。

例の、本当の意味クラスの「注目の的」だった女の子は、彼と同じ私立中学校に進学していた。

そこは中高一貫校だったので、きっと高校も同じだったんだろう。

幼馴染コンプレックスうずく

いいな。いいな。

そしてほらまた。

スキーも一緒だったんだって。

彼女は、お父さんが開業医だった。

絵に描いたような優等生だった。

なんでもできる子だった。

わたしが彼女に勝っていたものといえば、英会話ぐらいだ。

わたしと彼女はたまたま同じ英会話教室に通っていたのだけど、わたしの気持ちと先生の教え方が上手に噛み合っていたようで、わたしは一人でやたらと順調に力を伸ばしていた。

海外の人が何かの交流で学校に来たときに代表でスピーチをしたりとか。

彼女と唯一張り合えるであろう技能はそのぐらいのものだった。

なんていうか、格が違う感じがする人なのだ。

ということで、スキーツアーに参加することになった。

かなり緊張していた。

彼らは定期的に会っているらしいのである程度気心の知れた仲を保っているのだろうが、わたしは卒業以来初めてなのだ。

知らない人たちの輪の中にひとりで入ってゆくことにほぼ等しい。

当時特に仲の良かった子を見つけてくっついていよう、でもきっとある程度関係ができあがってるだろうし、今更加わっても迷惑がられないかなあ、とかネガティブ思考全開で集合場所へ行った。

総勢7人。男性4人、女性3人。

意外と集まるものなんだ、とびっくりした。

なんか全体的にキャッキャキャッキャした浮わついた感じで、早くも不安でいっぱいになる。

なんだろう、この広瀬香美な雰囲気は、と思っていたら実際「(合コンあいのり)÷2」な、そんな趣旨の集まりに近いのだということをわたしは後になって知ったのだが、まあとにかく緊張していた。

久しぶりだから、一応

「きゃー!!ミッチョン!?久しぶりー!!!」

「今どこに住んでるのー!?」

みたいな盛り上がりはあった。よかった。

やっぱりみんな卒業して十数年も経つとだいぶ変わるんだなあ、というのが実感だった。

顔立ちそのものもだけど、化粧をしたり太ったり痩せたりハゲたり茶髪になったりしていて、確かな年月の重みを感じさせられた。

それからバスに乗り込んだのだけど、わたしは当時の仲良しグループの子ではなく「注目の的」の女の子、さとし(仮名女の子です)と隣どうしで座ることになった。

仲が良かったほうの子がすでに結婚していて、ご主人と一緒に来ていたからだ。ちなみにご主人は同級生ではない。

さとしは医学部に進学したそうだ。

浪人して入ったこともあってまだ学生で、本当はこんな風に遊んでる暇はないけど、と笑っていた。

彼氏もいて、まだわからないけど同じ医学部の人なので将来を考えることができたらうれしい、と言っていた。

「さとし、きれいになったね」

と、誰かさんではないけれど、わたしはさとしに言った。

本当にそうだった。

もともと色が白くて線の細い子だったけど、そのままの雰囲気で大人になっていた。

薄化粧をして髪をゆるく巻いたさとしは、小学生のころの何倍も美しかった。

さとしは少し肩をすくめて、小さく照れ笑いをした。

感じのいい笑顔だった。

さとしについてはいろいろな記憶がある。

5年と6年で同じクラスだったのだけど、5年のころ、さとしは取り巻きの子たちを引き連れていじめをしていた。

先生たちから全幅の信頼を置かれる優等生でありながら、陰で特定の子の持ち物を隠したり、寄ってたかってバイキン呼ばわりしたりしていた。

別に怖かったわけでもないのだけど、なぜかだれもさとしを告発するものはいなかった。

6年生になってその子とクラスが分かれると、さとしのいじめ自然となくなった。

週一回の英会話教室の帰り道は、さとしと帰っていた。

野良子猫を見つけて、近くのスーパー惣菜を買ってきて一緒にえさをあげたりした。

さとしは「けろけろけろっぴ」が大好きで、サンリオのお店に一緒に立ち寄ったこともあった。

そこで見るさとしは、本当に普通女の子だった。

何となく別世界の人のように見えるさとしにも親しみを感じるひとときだった。

卒業式が近くなり、毎日のように練習が続いていた日、わたしはヘアゴムを失くした。

当時はものを失くすたびに親からこっぴどく叱られていたので、また怒られる、と思っておろおろと周囲のクラスメイトに尋ねて回った。

ちょうど体育館への移動時間が迫っていて、誰もが

「ごめん、知らない」

としか言わない中、さとしだけが探すのを手伝ってくれた。

結局見つからなかったのだけど、わたしが

ありがとう、もう大丈夫だよ」

と捜索打ち切りを宣言しても

「いや、あそこにあるかもしれない

とか言って机の下をのぞきこんだりしていた。

今思うに、この生真面目さが、さとしの美点だったのかもしれない。

すごく責任感の強い子で、委員会活動などで任せられた仕事はいつでも完璧にこなそうとしていた。

いじめをしていた時期も、さとしはこういう一面を失うことはなかった。

むしろそういう子だから知らないうちにストレスがたまってしまって、子どもゆえの残酷さでその捌け口を「いじめ」に求めてしまっていたのかもしれない、と今は思ったりする。

さておきスキー場に着き、まずは滑ることに。

一通り体を動かし、食事がてら休憩所のストーブの前でさとしと話をしていたら、やつが来た。

いたって気軽に今日の天候がどうとか雪の積もり具合が、とか話し込むふたり。

かたや、ものすごい置いてきぼり感の漂うわたし。

相槌はかろうじて打つものの、いまひとつ会話に乗れてない。

ほどなくしてさとしが早々とゲレンデに戻ってしまったので、ふたりになった。

「今まで何回ぐらい集まったの?」

「うーん、もう5、6回になるんじゃないかな」

「そうなんだ」

「俺はスノボだけどね。ミッチョンは?」

「もうだいぶやってないよ…。大学生のとき以来」

「俺も毎回来るわけじゃないからなあw」

「それにしてもみんな、変わったね」

「あー、ミッチョンは久しぶりだもんな」

同窓会も出たことなかったし」

「そうだな。いなかったな」

「でも、いいものだね」

と言うと、こっちを見てにやっとした。

「そう?」

「うん」

するとどこかあさっての方向を向いて

「それならよかった。」

と低くつぶやくように言った。

自分が誘ったのだから、ということで気を遣って尋ねたことのようだった。

それから、同行している元クラスメイトたちの話をしていた。

夫婦で来ている彼らは婿養子なのだと聞いた。

なるほど、確かにあの女の子は古くからの金物屋さんの娘なのだ。

2年前にご主人がお店を継いで、モダンな感じの雑貨屋に改装して、小さなカフェまで併設したらしい。

それが当たって、地元でもちょっとした有名店になったのだとか。

「すごいよね。

 婿養子って肩身が狭そうなイメージがあるけど、そんなふうにお店を変えるのも大変だっただろうね」

「最初は反対されたらしいけど、最近はやってるじゃん。古い家屋の味を活かして今風の店にするの。

 それで、お父さんたちが今まで卸してきた品物をメインで売るのは変わらないってことも話して、

 プランナーと一緒になって説得して、お父さんも折れてくれたらしいよ」

「お店、今日休みじゃないんだよね?」

連休は書き入れ時だろうに、夫婦で来て大丈夫なのだろうか、とふと思った。

「俺も聞いたんだけどね。お父さんとお母さんが、自分たちで何とかやるからたまにはいいよ、って

 送り出してくれたんだって。」

わたしは、彼女の家に遊びに行ったときにお母さんがよく出してくれていた手作りケーキのことを

思い出した。

高級店のケーキとは違うけれど、素朴でシンプルで、ついたくさん食べたくなる味わいだったと思う。

行くたびに違うメニューのケーキが出て来ていたのだけど、いつも手作りだと言っていた。

カフェで、もしかしてあのお母さんの手作りケーキを出しているのだろうか、もしそうだったら、なんて素敵だろう、と思った。

彼は、この金物屋の若夫婦とも

商工会の集まりでときどき会う」

と言っていた。

自分はまだメインじゃないんだけど、あいつらはもう店主として堂々としたもんだ、と言っていた。

その縁でスキーにも一緒に行くようになったらしい。

つながってるなあ。

同じところに住み続けるとは、こういうことなのだろうか。

わたしには、わからない世界だと思った。

幼いころからずっと顔を知っている人と今でもこうして交流を保っているということが、とても幸せなことのように思える。

わたしはたまたまこいつが夢に出てくることから始まって今こうしてスキーに混ぜてもらっているだけで、彼らと同じ地域には住んでいない。同じ世界を知らない。

妻夫木仮名・そいつのこと)はさ」

「うん」

幸せ者だね」

「何、突然w」

「同じ土地で生まれ育つのって、幸せなことだよ」

「そうかな?」

「そうだよ」

「じゃミッチョンは幸せじゃないの?」

「え?」

「なんか、そういう話の流れじゃない?」

「ああ、いやそうじゃないけどw

 でもうらやましいよ、何となく」

「うん、まあその寂しさはわかる。ミッチョン卒業式のときめっちゃ泣いてたしな」

「そうだっけ?」

「覚えてないのかよw」

「あんまり」

「ミッチョンって普段はあまり自分の感情を表に出すほうじゃなかったじゃん。

 それがいきなり号泣だからな。

 小栗っち(仮名・担任の先生)も反応に困ってたよw」

「やめてよ、恥ずかしいじゃん!」

「わははw」

「でも、その割にあんまり皆のこと覚えてないんだよなあ…。

 なんでだろう。」

「あー。実は俺も。」

「薄情者w」

「お前もだろw」

軽い突っ込みにしても「お前」と呼ばれたのが、すごくうれしかった。

距離が一気に縮まった気がした。

わたしも、一応まだ仲間なんだよね?

そうだよ。だから心配すんな。

みたいな変な脳内会話が繰り広げられてしまい、ひとりでにやにやしてしまった。

「ていうか、小栗っちw懐かしいねー」

「元気にしてるんだろうか?」

「相変わらず熱血なのかな」

「ハゲてそうだよな」

「それ当時から言ってたよねw」

「言うとムキになるから面白くてw」

「剛毛はハゲやすいらしいよ」

「それじゃ、やばいじゃん、小栗っちw」

小栗っちは若い男の先生で、かなりの熱血教師だった。

当時から妙に冷めたところのあったわたしは、一度小栗っちから涙交じりで怒鳴られたことがある。

クラスの子達から学級委員に推薦されて、それを辞退しようとしたときのことだった。

もう3学期のことで、めぼしい人はすでに委員をしてしまった後で(学級委員は学期ごとに改選するのがうちの学校の決まりだった)先述のさとしはそのころ生徒会をやっていたし、他にこれと言って人がいないからまあミッチョンぐらい推薦しとくか、みたいな空気を感じ取って「なんだかめんどくさそうだなあ…」と思ってしまったのだ。

「やればできるやつなのに、俺はお前のそんなところが悲しい!」

というようなことを言われた。

子供心に「そんなこと言われても」とか生意気なことを思っていたが、でも小栗っちはいい先生だった。

今のわたしとそう変わらないぐらいの年だったはずだけど、難しい年頃の子どもたちをよくまとめていたと思う。

芋づる式に、いろいろな人の記憶が蘇る。

過去記憶はいつだって甘美で優しい。

なんだか、せつなくなる。

ところでわたしは妻夫木聡のファンではないのだけど、最近、やつの顔に少し妻夫木聡の面影があることに気がついたのだ。

長めのまつ毛と潤いのある目元が特によく似ている。

にこっと笑ったときの口元も似ている。

このところ、妻夫木聡テレビで見ると「どきっ」とするようになった。

「あー寒いマジでやばい!」

とか言いながら、他の元クラスメイトが来た。

平野仮名男の子)と大田(仮名男の子)だった。

当時にぎやかし担当の人たちだったが、わたしは彼らとほとんど接点がなかった。

今日は同行者だからこうしてとりあえず話しかけてきたのだろうけど、正直に言うと話題がない。

妻夫木ここにいたんだ」

「久しぶり。ミッチョン俺のこと覚えてる?」

「覚えてる、久しぶりだね」

「やーミッチョンきれいになったなー」

「え、いや。ありがとう。大田も…大人っぽくなったね」

「ハゲてきてるって正直に言っていいよ、ミッチョン」

「うるせぇよ平野メタボ平野

「まだメタボじゃねぇw」

笑いながら、同じ褒め言葉でも言う人によってこんなに心に響かないものなのか、と思った。

もちろんまだ20代だし、ハゲもメタボも言うほど目立ってはおらず、顔立ちも整っている人たちなのだ。

茶髪日焼けして華やかな格好をしている彼らは多分人目を惹くだろう。

実際、さっきだってゲレンデでよその女の人に声をかけて何だか楽しそうに盛り上がっていたのを見た。

子どものころは大田も平野運動がよくできた子だったし、女の子にも人気があったと思う。

あの

「誰か好きな人いる?」

に、よく出て来ていた二人だった。

でもわたしは彼らと会話のテンポが合わず、話していて何かと気後れしてしまうことが多かった。

彼らが当時「ミッチョンって何となくしゃべりづらい」と言っていたのも知っている。

その流れで、苦い記憶を思い出してしまった。

平野たちのふとした発言がきっかけで一部の女子に陰口を叩かれ、あからさまに仲間はずれにされていた時期があったのだ。

その中に、さっきの金物屋の娘の子もいた。

しばらくして和解できたので、忘れてしまっていたのだ。

なんという芋づる。

「だいぶあったまったし、俺そろそろ行くわ」

妻夫木が言い、立ち上がりながら

「ミッチョンも行く?」

とわたしに声をかけてくれた。

「あ、うん」

と返事をしたときにはもう妻夫木は歩き始めていた。

「じゃ、またあとでな」

「おー」

「またね!」

すたすたと立ち去る妻夫木に、わたしはあわてて着いていった。

妻夫木といっしょにいるほうが、どう考えても居心地がよかった。

背後では平野たちの明るい話し声が続いていた。

大田は知らないが、平野は当時、妻夫木とかなり仲が良かった。

妻夫木やさとしが進学したところとは志望先が違っていたが、受験組の一員だった。

このスキー旅行を毎年企画しているのは平野だ、と妻夫木から聞いた。

「ああ、平野こういうの好きそうだね」

とわたしが言うと

「半分は女目的らしいけどw」

と笑いながら言っていた。

「さっきもナンパしてたね」

「今夜あたり、何か仕掛けるんじゃないの」

「仕掛けるってw」

「あいつそういうの得意だもんw」

と、気がつけばふたりで並んでリフトに乗っていた。

わたしは「高いところに宙ぶらりん」のシチュエーションが大変苦手だ。

だからバンジージャンプは死んでもできない。するとしたら死ぬときだと思う。

加えて、隣が妻夫木だ。

楽しそうに話を続ける彼の横で、わたしは硬直していた。

よほど返事が上の空だったのだろう、

「どうした?」

と少し覗き込むようにわたしの顔を見た。

「なんでもないよ」

笑顔を作って答えたが、その笑顔がこわばっているのが自分でもわかった。

「…いや、なんでもなくないだろ。トイレ?」

「ちがうってw大丈夫大丈夫

「いや、本当にどうした…あっ!」

妻夫木が、何か思い当たる節があるかのように声をあげた。

「ミッチョン、高所恐怖症だったなw」

「いや、あの…はい…」

「わははははw」

「ちょっと笑わないで!揺れる!」

「ほーらほーら」

「いやああああ!揺らさないで!!やめてえええ!!!」

「わはははは…」

もう本当に恐ろしくて、リフトを吊り下げているワイヤーにひしとしがみついてしまった。

すると妻夫木が、さすがにばつが悪そうに

「もしかして、本気でいやだった?」

と聞いてきた。

「怖いです…やめてください…」

と言うと、妻夫木はしょんぼりした。

「ごめん」

「ううん、わたしもごめんね」

「いや、ほんとにごめん」

気まずい。

でもやっぱりリフトは怖い。

なるべく自分がいる場所を認識しないように、上のほうを見るように心がけていた。

「…なんで上向いてるの」

「下見ると怖いもん」

「…ククッ」

「笑わないで!」

「いや、だってお前の格好、おかしいってw」

「おかしくない!」

「おかしいよwなんか怖がり方がすごいもんw」

「あんたに言われたくないよ!」


あとで気がついたが、このときが「お前」「あんた」が復活した瞬間だった。




夕食およびお風呂の後、男子部屋に集まって皆で飲むことになった。

女子部屋からの移動中に

りょうちゃん(仮名・金物屋の子)ち、お店きれいになったんだね」

とわたしが話しかけると、りょうちゃんは気さくに答えてくれた。

「そうそう、旦那がなんかがんばっちゃってさー」

するとさとしが

「すっごいかわいいお店だよ。わたしもたまに行くもん」

と話に入ってきた。

「さとし、いつも抹茶ロール頼むよねw」

「あのロールケーキはすばらしい。○×屋(地元デパート)で売ってほしい」

「何言ってんのw無理でしょw」

さとしがわたしのほうを見て

「ミッチョン、もしこっち来ることがあるなら連絡してよ。いっしょにりょうちゃんのお店行こう」

と言った。

「ありがとう」

とわたしが笑顔を返すと、さとしはにっこりと笑った。

ケーキりょうちゃんのお母さんのお手製なんだよ」

「ああ、やっぱり!」

「なんでわかるの?ミッチョン」

「いつもご馳走になってたじゃん。さっき妻夫木から『カフェもできた』って話聞いて、りょうちゃんのお母さんってお菓子作るの上手だから、もしかしたらそうなのかな、って思ってた」

「ああ」

りょうちゃんは、何かしたり顔でにやっとした。

何だろう、とそのときは思っただけだったけど、後でその意味がわかった。

りょうちゃんは、わたしが妻夫木を「狙っている」と思っていたみたいだった。

「狙っている」というか、まあ確かに大はずれでもないのだけど、なんというか、そういうニュアンスじゃないのだ。

ちょっと違うのだ。

積極的に関係を進展させたいとは思っていないのだけど、でも、縁を途切れさせることなく続けていくことができればどんなにいいかと思っている。

まあ、それが「狙っている」ということになるのならば、りょうちゃんの読みも正しいということになるのか。

男子部屋ではすでに小宴会が始まっていて、りょうちゃんの旦那さんが

「おー!来た来た!女性陣はこっちにどうぞ!」

と、いそいそと座布団を準備しながら場所を空けてくれた。

あとでりょうちゃんに年を聞いてみたら、わたしたちより7歳上の人だった。

部屋は10畳ぐらいの和室で、エアコンストーブでぽかぽかと暖かかった。

「いやー美人揃いだなあwおふたりともまだ独身ですか?」

と旦那さんが早くも鼻の下を伸ばしているのが印象的だ。

「はいはい始まったw」

と、りょうちゃんがすかさず釘を刺した。

さとしは面識はあったらしいが、ちゃんと話すのはこれが初めてだった、と後で言っていた。

「ほら、この子がさとし。ときどきお店に来てくれてるじゃん。」

「ああ!あの医学部の!」

「よろしくお願いしますw」

「いやー!すごいね!才色兼備ってやつだね!」

「ひろし、うるさいよ」

旦那さんの名前は「ひろし」らしい、ということがこのへんでわかった。

「で、こちらは…」

「ミッチョン。小さいころ、家が近所でよく遊んでたんだよ」

「ああ、あの英語が上手だったっていう」

「いえwよろしくお願いします」

「ふたりとも頭がいいお友達なんだな。お前バカなのにな」

「ひろしには負けるけどね」

りょうちゃんwとりあえず乾杯しようよw」

「あ、ごめんね、こいつがバカなもんで」

「もういいからw」

というふうな感じで、せわしなく繰り広げられる夫婦漫才を残りの5人が遠巻きに鑑賞しつついじる、という流れが出来上がった。

さとしを平野に取られてしまい、ひとりで所在なくぼんやりしていると

「楽しんでますか?」

と、妻夫木が横に座ってきた。

「うん、りょうちゃん夫婦おもしろいねw」

「ひろしさんがムードメーカーだから」

「でもこの集まりって不思議だよね。皆もともとバラバラのグループだったのに」

「ああ。さとしは俺が呼んだんだよ」

「そうなんだ」

平野がね」

と、妻夫木はちらりと、平野とさとしのほうを見やった。

「さとしと会いたがってて」

「どうして?」

「さあ…。いろいろあるんじゃない?」

「男同士でそういう話したりしないの?」

「しない」

「そういうもんかなあ」

「うん」

大田が乱入してきた。

「ちょっとミッチョン!飲もうぜ!」

「大田お前大丈夫?w」

大丈夫大丈夫!はいミッチョン!」

と、大田に紙コップを渡されて並々と清酒を注がれた。

「あ、ちょっと!大田!」

妻夫木がふいに焦ったように声を上げて、瓶を取り上げてしまった。

わたしはなぜかわからないけど、とっさに「妻夫木を安心させなきゃ」という気持ちが働き、あえて

ありがとう。いただきまーす」

と明るく宣言して口をつけてみた。

あーあー、という顔をして、妻夫木がわたしを見ている。

そんなに焦らなくても、わたしは実はお酒には強いのだ。

妻夫木はそれを知らないから「清酒をいきなり女に飲ませるのは危ない」ぐらい思って焦ってるんだろう、とそのときは思った。

それにしても清酒は普段あまり飲まないものだけど、ひとくち含んでみるとなんだかとてもおいしく感じて、一気に飲み干してしまった。

「あー。これすごくおいしいねー。どこの銘柄なのかな?」

本心からしみじみとつぶやくと、妻夫木と大田が驚いた顔をしてこちらを見ていた。

「ミッチョンって、お酒強いの?」

と大田がおそるおそるといった様子で尋ねてきた。

「まあ、それなりにw」

と答えると、ふたりは顔を見合わせて

「それなりに、どころじゃないよなあ…」

「ミッチョン、なんかイメージ変わったわ」

と大田が半笑いでつぶやいた。

どんな可憐な(しかし誤った)イメージをわたしに持ってくれていたんだろう、と思った。

一通り話をして大田が立ち去った後、妻夫木に聞いてみた。

「女の人がお酒好きなのは、よくないのかな」

「え?なんで?」

「大田、引いてたし」

「ああ、気にするな。あいつ未だに異性に変な幻想持ってるやつだから」

「でも妻夫木もびっくりしてたじゃん」

「ああ、俺?」

「うん」

「いや、俺は…」

「何?やっぱりよくない!?」

「いやいや、そうじゃなくてw」

「何?」

やや酔っていて、しつこく絡むように聞いてしまった。

「いや、だからね」

「なんだよー」

「いや、うれしいな、って」



あっ、と思った。

このお酒妻夫木が持ってきたもので、妻夫木のおうちはもともと醸造所から発展した会社だ。

「ほら、ほんとにうまそうに飲んでくれたじゃん。

 やっぱり、作り手としてはね、うれしいじゃない」

さっき飲んだのは、妻夫木のおうちが作ったお酒だったんだ。

そして

「あー。失敗した…」

とかぶつぶつ言っているのでよく話を聞いてみて、もっとすごいことを知った。

妻夫木は今、若い人向けの新商品を開発する部署で働いていて(これは前から知っていたんだけど)、実は今日、販売直前まで来ている試作品のような販促品のような、まあそんな扱いのものを持ってきていたそうだ。

それを黙って周りの人間に飲ませてみて、反応を見てみたかったらしい。

「俺んちの酒ってわかってたら、みんな多分気を遣ってよく言ってくれるだろ。

 でもそんなの、おもしろくないじゃない。

 黙って飲ませて『うまい!これどこの酒?』って言わせてみたかったんだよなw」

そのために隅っこに隠しておいたお酒を、酔いどれの大田が見つけ出して勝手に飲み始めてしまったのだった。

でも最後のほうは、もう抑えきれない笑みがこぼれていた。

妻夫木はうれしかったのだ。

事情を知らないわたしが、図らずも思い通りのセリフをつぶやいてくれたことが。

わたしは、なんだか胸がわくわくして、たまらなくうれしくて満ち足りた気持ちになった。

妻夫木にぎゅーっと抱きつきたくなった。

妻夫木は、すごい。

妻夫木、かっこいいよ」

と、背中をばしばしと叩いた。

「は?」

妻夫木は、本当に立派な社会人だね」

「なにそれw」

「うん、かっこいいよ」

「わけわかんねぇw」

「こんなにおいしいお酒を作ってる妻夫木は、すごいやつだよ。

 自慢の友達だよ。

 もうたまんないよ。すごいよ」

と、ほろ酔いの頭で語彙がうまく出てこないもどかしさを感じながらも、一生懸命わたしは感動を伝えた。

妻夫木は目を細めて

「おう。サンキュ」

と、わたしの頭をがしがしと撫でてくれた。

それが今回の旅行で一番思い出に残っている出来事だ。

妻夫木はすごいやつだ、と思った。

そして、わたしみたいな平凡な人間と仲良くしている理由が、よくわからなくなったりもした。

妻夫木は、わたしの何がよくて友達でいてくれてるんだろう。

我ながら卑屈だなあ、と思ったけれど、こんなことを考えていると、妻夫木に誘われたというさとしの笑顔が、小学校のころの羨望の念とごちゃごちゃに混ざって、頭の中に霧がかかっているような、すっきりしない重たい気持ちになってくる。

さとしを誘いたかったのは、平野だけなのかな?

さとしみたいな子だったら、きっと妻夫木とも釣り合うんだ、とか意味のわからないことを思った。

こういうことをうじうじと考え込んでいる自分がとてもいやだ。

さとしだって、こんなふうに思われるのはきっと迷惑だ。

そういうことを考えたくなくて、今は仕事をとにかく頑張ることにした。

妻夫木みたいにすごいことはできなくても、自分なりにやるべきことをきちんとこなし続けていたら、いつかはこのもやもやも晴れるかもしれない、と思ったりしている。

次はいつ会えるのかな。

休日はひとりで過ごすことが多く、あまり人を誘うことがないので実は誘い方がよくわからない。

自分から誘ってみれば、何か変わるのかな。

2009-01-15

僕とゲームセンター

僕はゲームオタクではあったのですが、もともとゲームセンターにはあまり行かない人間でした。

もう今では三十路を越えた僕が小学生の頃のゲームセンターは、今とは違いチンピラの溜まり場であったことと、当時は小遣いも少なく持てる全てをコンシューマゲームファミコン全盛期ですし)の方に注ぎ込んでいたことが要因でしょう。

僕は大学入試で失敗し、浪人してしまいました。それ自体はまぁいいんですが、さすがに浪人中、家でゲームをやり狂うのは周囲の目が厳し過ぎます。となると後はゲーセンしかない、というわけです。日本橋ゲーセンに行きやすい、という適当な理由で予備校難波大阪予備校という二流予備校に決めました。

んで、その頃からゲーセンに通い始める訳です。それまでは、ゲーセン情報を殆ど入手してなかったので、グラディウス等の一部のシューティングファイナルファイトスト2の大フィーバー、そしてテトリスくらいしか知りませんでした。ですがこの時期は今思えばそれなりにアタリ年で、確か前半は

後半は、

などなど格ゲー周りだけみても山盛りです。KOFとかもありましたが、キャリアが浅いので興味はほとんど持てなかったです。STGは地味に19XX(結局、ラスボス倒せてないな…)を、パズルゲームマジドロ2(このゲームは名作です。)と何故か戦玉(仲間内で流行ってた)を遊んでました。そもそも、今まで殆どゲーセンで遊んでないのでレゲーすら新作ゲームみたいなもんでして、もう無限に遊ぶゲームがあるような錯覚に陥りましたよ。まぁ、広く浅く遊んでしまったのが、ちょっともったいなかったかなぁとは思いますが。

それで、さらにセンター試験直前の12月31日(30日だったかも)に日本橋の今は亡きフェラーリというゲーセンが1プレイ10円とかバカなことを始めたからもう止まりません(どのゲームも難易度バカ高くして対戦も1本勝負にしたり残機 0設定にしたりと小細工はしてましたが)。毎日のように予備校に通いながらゲーセンに出勤という日々が続きました。こういったお祭りのような日々は大学以降も続く訳ですが…。

で、今はどうだと言いますと、ゲーム自体やらなくなったわけではなく、たまにゲーセンに行ってはCAVEの縦STG三国志大戦を嗜む日々です。ゲーマースキル的には中の中と凡庸ですが、それでもゲームは、ゲーセンという空間は楽しいものです。とオチもなく終わります。

あ、話は違いますが、今のゲームオタクならXBOX360は持ってなきゃ嘘だろう?と思ってます。まずはXBOX360を購入しよう。話はそれからだ。

http://anond.hatelabo.jp/20090115141458

52年(1977)のがヤバいよ。

不安

不安だ。

こんな時間まで起きているからかもしれない。

悩みはたぶん自分の将来のこと。

これから就職活動

問題は、全く自分が何したいかわからないこと。

そこそこの学歴がある(東大京大とかじゃないけど。)けれど、

全くおかまいなく不安だ。

今までの人生どこで間違えたのだろうと思ってしまう。

これから何をすればいいのか、誰も教えてはくれないし、自分で見つけるしかない。

働けるだけでも十分なのだろうか?

トップランナープロフェッショナルなどに出ている人たちは、みんな

楽しそうに仕事をしている。

なぜなら、その仕事が「好き」だからに他ならない。

大部分の人は、自分仕事を好きだとは思ってないだろう。もちろん。

きっと、自分は「自分自身」に期待しているのだ。

今まで評価されてきたことを、これからも同じくらい評価してほしいと感じているのだろう。

けれど、何が好きかわからない状態で、何を選べばいいのだろうか?

現在、働いている社会人の皆さんをすごいと思う。

「選択」して前に進むんでいるだけでも尊敬してしまう。

自分が甘やかされて育ってきたのだろうと思う。

ただ、もう「とりあえず」で選ぶのは嫌なんだ。

とりあえず、銀行商社・ITなどもう嫌なんだ。

嫌嫌ばっか言って本当に子供みたいで自分で嫌になる。

体も震えてくる。

少し病気な気もするけれど、病気に逃げている場合じゃない。

周りはどんどん前に進んでいるなかで。中途半端に立ち止まっている自分

嫌気がさして、そのグチを増田で書いている。

申し訳ありません。

(追伸)

皆様トラバありがとうございました。

全部読まさせていただきました。

たぶん、このようなグチを誰かに聞いて欲しかったのだと思います。

友達に話してもあまり真剣に聞いてもらえないしなという気持ちもあったかもしれません。

一晩寝て、今はだいぶ安定しています。

日本社会はおかしな社会で若いときに人生の大筋を決定することを求められる。(年功序列制度の弊害)

多くの人の人生は22歳前後ですべて決定する。


私は日本システム的には18歳前には自分の道を

決めなければならないのではないかと思っています。

なぜなら、大学に入ってから例えば医者建築家理系研究者になることは

難しいからです。

私は、高校時代は理数系が苦手な訳ではなかったのですが、なりたい将来を見つけられず

大学で出来るだけ自由な時間をもらって色々経験したいと思って文系を選びました。

浪人して入った大学では、常に「はやく何をしたいか見つけなければ」という強迫観念

みたいなものを持っていて、ただ単純に大学生活をエンジョイできていなかったと思います。

大学では特に建築に興味を持ったのですが、今からなるには時間お金もないし、

何よりも今から建築を学び直す覚悟というものが僕にはありませんでした。

いいなぁというぐらいの気持ちしかありませんでした。

周りの友達は、ただ単純に企業名や知名度で就職活動をしています。

それを、否定する気は全くありません。

ただ、性格的に自分自身がネームバリューでなく、仕事内容を楽しめるかが

重要なのだろうと考えているからです。

就職活動では、人事の方が文系はどこの会社行ってもやっていることは一緒だよ。と、

おそらく、知名度高いほうがいいよということなのだとは思いますが、

くそれで自分自身の1回しかない人生をかけられるなと思ってしうますし、

そんなもんだよという姿が輝いていないと思い失望してしまいます。

あなたはそれで本当にいいの?と思ってしまい、

それがそのまま自分に返ってきて、「あぁぁぁ。。」となってしまいます。

トラバでは、具体的な考え方などを書いてくださってありがとうございます。

「好きなこと」→「とりあえず、これだけは嫌だという仕事を排除」に、

考え方をシフトしていこうとは思っています。

その不安な気持ちを正直に、増田の親父に話してみるといいよ。


父は特に何も言わないでくれているのですが、やはりそれなりに大手志向です。

父自身が大手に勤めているので、やはり大手のほうが色々いいよとは言っています。

「お前が小さいときに書いた将来の夢は『お父さん』だったんだ。

それは、ただ夢がないんじゃなくて、仕事よりも家族と過ごす時間を大切にしたい。って

お前が考えていることなんじゃないかな。」と言われました。

自分自分に悪い所とか自分っていう現実とぶつかり合ってるだけマシ

それで不安になったり、どうにかしようとして悩んでるのは向上心があるからだろうから

怖がってないで何でもやってみれ。


ありがとうございます。

救われます。

自分」を自分の中に探しているがために、窒息しそうになります。

村上春樹の井戸ではないですが。。。

自分」は他人の視線の一部でもあると思うので、また色々な人に

話を聞いてもらおうと思います。

トラバできてんのかわからねぇ。

出来ています。ありがとうございます。本読みます。

本は結構好きで、特に鷲田さんとか好きです。

あと若干ハルキストです。

皆様、色々意見を下さってありがとうございました。

この不安は、自分だけではなくて誰でも通ってきたことなのだと分かっていても、

実際にレスがあるとそのことが実感できました。

まだまだ、不安はなくなりませんが、「とりあえず」頑張っていこうという気持ち

をもてるようになりました。

ありがとうございました。

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