はてなキーワード: 大白蓮華とは
2世学会員の話が増田や知恵袋に出てくると大体熱心なタイプの話ばかりで、こういう熱心な人たちばっかりだと誤解されたくないし被害被ってるので、悲しき2、3世側の話も聞いてほしい。
自分は3世。父方母方ともに祖父母が入信していて、2世の親同士が創価大学で出会い結婚したという超筋金入りのサラブレッドだ。
小さい頃から月一の座談会(地域の学会員の集まり)、少年部(小学生の集まり)、新年に行われる勤行会みたいなイベントをものをごくごく当然のものとして受け入れてきた。
そして小学1年生の頃、半ば強引に創価学園に入ることを母親に約束されて、中学受験をして創価中学に入った。ついに純血のスーパー創価人3の誕生だ。ジジババは大喜び。
学校では
・記念日的なものの日に式典(バカ長い卒業式みたいなの)を行う
・たまに信仰してる超大物(海外ハリウッド俳優やサッカー選手)がくる
ことがあったけどそれ以外は普通だった。
生徒のタイプはまちまちだが、本部職員の子供や学会で役職のついてる人の子供よろしく、入信している芸能人の子供など、ただ創価学園に入れたい!というパンピーの親とは別の創価的なハイクラスタの子供が結構いた。
聖教新聞が学生鞄に入ってるとか、大白蓮華(学会の機関誌みたいなやつ)昼休みに読んでるようなガッチガチなのもいたが、そうでもないやつとの割合が半々くらい。
なので入ったらゴリゴリの信者になるというような場所ではなかった。特に何の違和感もなく学生生活を送っていた。
けれど、高校生になってアルバイトをするようになり「得体の知れない何かの一部」というレッテルをはられる経験をしたことで考え方がガラッと変わった。
アルバイト入りたてのコミュニケーションの一部で、「高校どこなの?」と聞かれ「創価高校です」と答えた時に明らかに怪訝な顔をされた。
相手も人間なので、コミュニケーションを著しく変えることはなかったが、自分にとっては忘れられない体験だった。
自分もネットで調べたりしてたので体外的にどう思われてるかは知ってた。選挙の電話やばいとか入信勧誘されるとか。
でもそういう得体の知れないものという目線がまさか自分に向くとは思ってなかった。たまたま親がそうだっただけで、自分自身は何もしてないのだから。
でも知らない人にとっては「創価」という言葉を聞くだけで「うわっ」となってしまうものなんだなということをしっかりと認識したタイミングだった。
イメージだけでラベリングされてしまう何かを背負っているというのがとても苦痛に感じた。
就活、結婚いろんなものに響いてくる。親族には悪いけど、そんなに信仰してるわけでもないのに、嫌な思いをし続ける必要がなぜあるのかと。
このままエスカレーター式に大学まで創価に行ってしまったら、本当に全部創価になってしまうことに危機感を感じ、普通の私立の大学にいった。
創価大学に行かなかったことでジジババは露骨に悲しんだが親も何も言わなくなり、そもそも学会員と接する機会がほぼなくなったので、気負いすることもなくなった。
けれどもこれから結婚とかの話が出てくるとめちゃくちゃ話はややこしくなるのが目に見えていて辛い。
今いる彼女も、知り合いたてでfacebook見た時に友達が創価高校だらけで舌巻いたらしい。最近は自分の気持ちを知ってくれているので創価いじりしてくるくらいにはフランクになったが、「お父さんに行ったら絶対やばい」と言っている。
彼女には辞めてと言われるが、親からしたら「別に何も強制してないのにわざわざ辞めるの?」という感じらしい。
こちらとしては相手に迷惑かかるくらいなら辞めても全く構わないけど、自分側の親族とこじれるのも好ましくない。結婚とかを考え始める歳になるとこんなに辛くなるとは思わなかった。
こういう創価の家系に生まれたけど、信仰してない、してないのに創価ってだけで辛い思いをしている人は本当に沢山いる。
けどそういう人はそもそも隠したがるので、web上にも出てこない。だから全国の創価好き、創価を愛する者たち、創価を憎む者たち、全ての創価関係者に伝われっ!
先に言っておくと、擁護でも批判でもありません。ずっと昔から考えてきたことが、まとまりそうな気がしたので書いています。
両親は創価大学で出会って結婚した。二人とも朝晩の勤行を欠かさず、会合にも積極的に参加している。聖教新聞と大白蓮華を取っていて、隅から隅まで読む。
私は正式に抜けたわけではないが、勤行はしない。会合の案内のラインが来ればそれなりに対応するが、行くことはない。公明党には入れるときもあれば入れないときもある。仏壇に手をあわせることが年に2、3回はあるが、自分からすることはない。しかし、御本尊を破れと言われたらかなりためらうだろう。お地蔵様を壊せないのと同じだ。
勤行をしない私、会合に行かない私に、両親はとくになにも言わない。選挙の時だけお願いねと言われる。ありがたい、と思っている。
小学生くらいまでは会合にもそれなりに出ていたし、朝晩に三唱くらいはしていた。中学生のころ、御書の説教臭さがいやになったり、ネットの書き込みを見たりして、だんだんと会合に足を向けなくなった。反抗期を利用して三便もしなくなった。今では、抜けた理由を聞かれたら、「方針が合わないので」「公明党と意見が違うので」と言うだろう。
そういう私だ。
頭がパーンとか、そういうたぐいの書き込みを見ると腹がたつ。強引で失礼な勧誘に合ったと聞いたら、申し訳なくて胸がふさぐ。友人が何気なく言い放った「私宗教ぜんぶ嫌いだから!」という言葉に傷つく。両親のことを愛している。学会がなければ私は生まれなかったと思う。新年勤行会のばんざい三唱はクソ食らえだ。「知ってる?誰それさん創価だって」と言われて苦笑いする。同じ創価二世の友達とため息をつく。池田先生がなにをしてくれたって言うんだよ。会合に参加しているのはいい人たちばっかりだ。いったいいつまで、こういう板挟みに苦しまなければならないのだろう。
東日本大震災のとき、その夜、「宮城沖で数百と推定される遺体発見」というニュースを見て、怖くて眠れなくなった。どうしたらいいのかわからなかった。津波の映像がなんども頭をよぎった。数百人、数え切れない量の人が海で死んだ。その一人一人に人生があった、その恐ろしさに震えた。その人たちを悼みたい、その人たちが死んだことを悲しみたいと思った時、布団の中で丸まって「南無妙法蓮華経」と何度も唱えた。それしか悼む方法がなかった。そしてそういう自分にショックを受けた。私は死者を悼む方法をこれしか知らないのだ。信仰心はなくても、方法だけが自分の中に残っている。
いいとこどりをするんだ、と決めた。信仰心はなくてもいい。都合のいいところだけ使えばいい。オリジナルの祈りの言葉、オリジナルの生きることへの姿勢が見つかるまで、意味なんてなくても唱えていい。熱心な信者だった祖母を、これ以外の方法で弔うことができただろうか。両親が死ぬ時、友人葬以外でやりたくない。でも、公明党に投票しなくったっていい。義理なんて感じなくていい。両親を愛していい。でも信仰を拒否していい。勤行はしない。
わたしはもうすぐ大学を卒業して、親元を出る。大丈夫だと思う。
同じようにしている人に大丈夫だよって言ってもらいたくて書いた。早く大丈夫になって、同じようにしたいと思ってる人たちに、大丈夫だよって言いたい。
でも大丈夫じゃないかもしれない。10年後くらいに信者に戻ってるかもしれない。いやだな。大丈夫だって言ってください。
あとこれだけ言いたかったんですけど、池田大作、短歌下手すぎじゃないですか?誰も何も言わないの?
それだけです。