2024-01-18

自分の何もかもがゆるせない


クソみたいな家族の元育った。

ドラマ登場人物か?というくらい暴れるアル中無職父親、全員父親の違う子供を5人も産んだアバズレオブザイヤー獲得の母親。16歳も年の離れた妹にヘラヘラしながら性的虐待する兄。学校に行かずシンナーばかり吸って気が向くと妹に万引きをさせるこちらも年の離れた姉。

私は毎日何が何だかからないまま起きて眠っていた。心の支えは飼っていた犬猫だったが、犬はそのうち山に捨てられ猫は「人にあげた」と母が言っていた。多分捨てた。

父親は私がまだ保育園児のころに酒飲み運転事故って人を巻き込んで死んだ。記憶にあるのは父親が暴れだしたら姉と2人、トイレに逃げ込んでいたこと。1枚だけ写真があったが、顔にも見覚えはない。知らない顔の濃いジジイだ。その写真も今は持ってない。

母親は私が小学生のころにくも膜下出血で倒れて俗に言う植物人間になった。そこから20年以上も生きて数年前死んだ。生きすぎなので死んでから反省して欲しい。

母親が倒れたことで兄弟バラバラになり、1番下の私は独身の母の妹に引き取られた。もちろん伯母も変わった人間だったが、母よりはマシだった。静かな人で、スナックママをしていた。彼女のことは、好きでも嫌いでもなかった。でも少しはありがたいなと感じていたと思う、きっと。

私が中学生になったころ、ある夜スナックから自宅に電話が掛かってきた。常連のおじさんだった。

お店に来たら、伯母がカウンターで倒れていたらしい。脳梗塞だった。

すぐに発見してもらえたこともあって、伯母はごく軽い呂律の回らなさや手の動かしにくさは残ったものの、日常生活に支障のないほどに回復した。しかしさすがにスナックを続けるわけにはいかず店をたたんだ為、その後生活に困ることになる。

生活に困った伯母はパチンコ屋でひっかけたおっさんとあれよあれよという間に結婚した。

脳梗塞後、伯母は少し人格が変わって常に人の悪口ばかり言っていたし、私にも毎日切れていたので2人きりの空間他人が入ってくることに少しホッとした。

私は、小学生のころから本や図鑑ばかり読み、机の上でする勉強が大好きだったが、中学生になるころには勉強に取り憑かれていた。学年1位でなければ伯母にビンタされるということを抜きにしても、私は常に1位でいたかった。

勉強一生懸命するものの、きちんとグレ始めていたので不良とばかり遊び、酒もタバコセックスもとっくに覚えていた。まぁ初めて見た男の硬くなったモノといえばクソ兄貴のモノだったけど。よくたまり場で不良たちに勉強を教えていた記憶がある。みんな素直に聞いているのが面白かった。

高校生になった頃から、「大学には行かせない」と伯母に言われ始める。私には小学生のころから夢見ていた大学があり、その為に楽しんで勉強をしていた。伯母はなぜか「奨学金などという借金も許さない」と本当に頑なで、ガキながらにマジで意味不明だった。

家に帰れば毎日叔母と言い合いになるし、別にもはやどうでも良かったがおっさんにはずっと家庭内セクハラをされていてキモかった。お風呂中にわざと洗面所に来て話しかけられる、トイレに入ると7割の確率ノックされる、セックスの話をされる、私の下着を間違えたと自分タンスにしまっている。きもっ。

高校2年の時、頭の中でパーンと音がした。朝起きたら、パーン、と乾いた音がして、ほんとうにしんそこ何もかもがどうでも良く思った。

私みたいな人間は何をしても無駄だし、クソみたいな両親からまれたんだからどうせ私もクソなのはわかってるし、私にはキラキラした未来などないということに突然気がついてしまった。無駄だった、全部。どうでも良いや、未来などない。

その日から家に帰るのをやめて、男の家を渡り歩いて勉強もやめた。学校はたまに行っていたけど、伯母は特になんのアクションも起こしていなかったので何も言われなかった。何度か家に戻った時は、きもおっさんがアタフタと話しかけてくるものの、伯母は私を完全無視していた。

休みがちになり、成績も一気に下がった私を心配した先生たちが何度か「困っていることがあったら相談してみろ」、こいつらに相談したところで何がどうなるのか私にはわからなかった。

1人だけいた友人と私を心配してくれていた先生たちのおかげで、卒業式には参加できなかったもの卒業証書を貰うことができた。

高校卒業後は正式に家を出て、そこからデリヘル水商売渡り歩き、22歳の時に介護資格をとってからはずっと福祉仕事を続けている。

数年前には社会福祉士養成学校入学し、現在は何故か結婚までして主婦しながら社会福祉士をしている。

ところで、私は18歳から22歳までに3回中絶している。アバズレの子供らしく、ずっと男に依存して生きてきた。

セックスを献上することが何よりの喜びであり、生きる意味だった。男がいなければ自分に生きる意味はなくなり、文字通り男がいなければ生きていけなかった。男の言うことは絶対だったし、逆らうことなどできなかった。自分のために。

3回目に中絶した時、麻酔から覚める途中に「いたい!!!いたい!!!」と子供の絶叫が聞こえて私はぎゃあと叫んで体を起こした。はっきりと聞こえた。

中絶などなんとも思っていなかった私にも、少しの罪悪感があったのだろうと思う。

22歳のある日、珍しく朝に目を覚ましたらパーンと音がした。その瞬間、自分の全てに嫌悪感が湧いてきた。自分は何をして、どこにいるのか?いつまでこんなふうに生きていくのか?自分が嫌で嫌で涙が出たを

もう取り返しがつかないことはわかっていたけど、とにかくこの渦から抜け出さなければいけないと初めて感じた。

その日から大きく変わったことのひとつが、食べ物を美味しく感じたことだ。それまでの私は本当に食に興味がなく、空腹になるので限界がきたら仕方なく何かを摂取していた。

それなのに、ふと食べたにんじんがとても美味しかった。ピーマンも美味しい。マグロのお刺身も、チキンナゲットも、お米も、何もかもが美味しかった。

食べ物が美味しい、というだけで生きている意味になる感覚だった。

もう男への依存は憑き物が落ちたようになくなり、生きる意欲が湧いていた。

そこで人生を何とか立て直すために選んだのが、介護資格を取ることだった。

介護仕事といえば、学歴職歴関係なく、ほぼどんな人間でも採用される。しかも、こう言っては悪いが働いている職員の質も良くないので、普通に仕事ができればすぐに昇進できるだろうと思った。

福祉仕事を始めてからは、どんどん人が好きになり、比例してどんどん自分を嫌いになっていった。

普通人間みたいな顔をした私を好きになった人たちと友達になり、そんな顔をした私を好きになった男の人と結婚までしてしまった。

私は、クソみたいな人に育てられたクソ人間エリートであり、現にクソなのだ。育ちや過去言い訳にし、勝手に病んで、勝手に全てを諦めて、馬鹿みたいな生活をして、人を3人も殺して、平気な顔で生きているのに。凄くヤバい人間なのに。人間以下なのに。

今になってやっと、心臓がズタズタになる。人を殺したことも、大学を諦めたことも、私を育ててくれた伯母と縁を切ったことも、統合失調症になった姉から連絡が来た時に冷たくしたことも、母親に早く死ねと思ったことも、とにかく私のなにもかもが終わってる。

私という人間は、私の周りにいたどんなクソよりも極悪で、それは誰のせいでもない、私の問題だ。

それがわかっているから本当につらい。過去のせいにしたり、誰かのせいにして生きていきたい。でも、ちがう。

優しい人の手を振り払ったり、チャンスをないがしろにしたりして生きてきたのは私自身だ。

何もかも私が悪い。

これからも一生自分を許さないし、早く消えたい。

誰にも話せなかった自分のことを、ここに残した。

  • AI創作するにしても破綻がないマシな話つくってから投稿してくんない? 矛盾しかねーじゃん

  • 1行目で女だとわかった

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