はてなキーワード: 田中とは
男性教諭だろうが女性教諭だろうが、小学生のときって先生って「怖い」「偉い」「逆らえない」イメージで、近づいてキャッキャウフフ…とかなかった。友達もそうだった。(ちなみにいま20歳)
寧ろ男性教諭に怒鳴られっぱなしだった。「おい佐藤(仮)!!お前掃除もっとちゃんとやれ!!」みたいな。まあTぼうき股にはさんで「魔法使いー」とか言ってた私が悪いんだけど。
ときどき男性教諭の機嫌が悪く、給食中も「なんか田中先生(仮)今日機嫌わるくない?」「わるいよね」「今日はみんなふざけないほうがいいな」「そうだな!」みたいな…
小学生のとき、体操服を忘れたことがあって、怒られる……どうしよう……人生オワタ……と思って大泣きして一緒に通学してた上級生を心配させたりした。「忘れました」と報告するのがガクブルもんだった。
女性教諭も怖かった。授業前に、ワーワー騒いでても、先生が廊下を歩く音がすると「おいっ!先生きたぞ!!皆静かにしろ!!」って誰かがいって、シーンと静まりかえってた。でも先生にはたいていバレてて、「さっきまで授業始まったのに喋ってたでしょう。先生たちが会議で遅れたときは、ちゃんと自習していなさいといったでしょう」と言われ「ハイ……」みたいな
そのくらいには先生の権威があったように感じるんだが、近頃はてなで見る先生像はやたらにか弱い。ここ数年でそうなったのだろうか??
無意味か?
実際トラバ先を間違えてる人もいるしそれで気付く場合も多いよ。
「え、誰?さっきまで自分と話してた人?」→「あれ?あ、ごめん、間違えた」
とか。
そうでなくとも、相手が誰なのかは分からずともその質問をすることによって「少なくとも内容的にさっき話してた人と違う(たとえ同じ人だったとしても、あまりに内容が違う)」→「だからそんなことを言われても自分には答えられない」ということを表明することができる。というか、実際「誰?」って言ってるとき別に本気で誰なのか名前を問おうとしているわけじゃなくて、「え、俺そういう話はしてないんだけど?」というポーズであることが多いと思うんだけど。それをまともに「「誰?」なんて聞いて「僕は田中太郎です」ってかえってくるとおもってるのか、かえってきてもそれが真実とは限らんだろ!」と反応するほうが変な感じ……ちょっといちいちまともに受け取りすぎじゃないの?あんなの元を言えば呟き程度の事でしょ。
大体、誰?って言ってる時その「誰か」というのは「どのレスを書いた人か」という程度の意味でしかないと思う。別に名前とかを問うているわけじゃなく。
真偽がわからないじゃないか、というかもしれないけど、それはあんまり関係ない。
それで「あのレスを書いた」とかえってきたらとりあえずそれ前提に話せばいいし、(たとえ同じ人じゃなくてもその「前提」の話が通じるなら別に同じこと)
それ前提で話しててもやはりまた違うものが返ってくるなら、だめだこりゃってことで話を打ち切ればいいだけ。
要は、「今まで話していた話と、話の前提が全く違う、別個の話をする奴が現れた」ことが問題なのだから
「あなたはどの話を前提にしているのですか?」それが分かればいい。それを聞くための「誰?」なんでしょう。
たとえ「あのレスを書いたの俺だよ」といってそれが間違っていたとしても、上で書いたように、別にソレはそれで構わないんだよ。
この弁護士は、かなりのトンでもっぽいですね。
ググッただけだけど、香ばしいところには必ず顔を出している人みたい。
北の膿理事長とかお相撲さんのレベルがヤバイんではなくて、妙な弁護士が取り入る隙を作っちゃったのが最大の失敗って感じだね。
http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/news/0110/30/justice.html
http://f26.aaa.livedoor.jp/~nanase/bengosi/9809.htm
株式会社MTCI
http://www.new-mtci.com/haikei5.html
MTCIってなんなのっていうと。
http://yasai.2ch.net/venture/kako/965/965568500.html
M○○Iが料金滞納か? 業界で囁かれるXデー
ISP業界では悪名のほうで名を馳せる(?)あのM○○Iが、KDDの電話料金を滞納し、差し押さえられているとの噂が業界を駆けめぐっている。料金は1700万円(!)と、嘘か真か詳細が喧伝される。なお同社の関係者によれば、「社員の給与も遅配し、40%だけが支払われた」とのこと。
また、先の株主総会では怖い筋の面々を前列に並べていたそうだが、結局、総会はスムーズに進行した(専門誌記者)。現在、会長は病院に入院中とのことで社員も連絡が取れないとか。
http://nnarazaki.exblog.jp/726077/
NOVA株800万株のゆくえ
http://nadesico.mokuren.ne.jp/xoops/modules/yybbs/viewbbs.php?start=28&bbs_id=1
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。
俺は「グリコ・森永事件」が起きた1984年に中学三年生の春を迎えた。
その年に俺の中学で起きた「ちょっとした事件」に直接関わっていたが、黙って暮らしてきた。「時効成立なので」という訳ではないが、小文をしたためさせてもらう。
俺の住んでいたところはグリコ・森永事件の現場(東は滋賀県、西は兵庫県西宮市)の両端の間に位置し、多感な時期であったこともあり、何か、事件の犯人は近くに住んでいるのではないかと感じていた(そういう噂も内々にもあった)。
俺の行っていた中学は行区内にいわゆる「文教地区」ではないところもある、関西では一般的な「柄が少し悪い」学校だった。
中三の時期、俺の学年は田中(仮名:以下略)がワルで仕切っていた。学年にもう一人、佐藤(仮名:以下略)という、中二からメキメキ、ワルさを極めを力をつけている奴がいた。当然、田中および取り巻き(俺も末端ながらその一人だった)は佐藤のことを「いちびってる」として「そのうち、締めよう」と考えていた。佐藤は仲間とつるむタイプではなく一人で田中グループの人間をシバきまわしたり、「カツアゲ」していた。俺も佐藤に小遣いをむしり取られたことがあった(ちなみに田中には「制度」として上納していた)。
グリコ・森永事件が広域事件として、社会を騒がせていた時期、俺の中学も小さい宇宙の中で、ちょっとした「抗争」が起きようとしいた。
案外、田中は早く動いた。中学の屋上に佐藤を夜に呼び出して、シバキ回して「ヤキをいれよう」ということになった。俺も参加するよう言われた。でも、何か怖くて、その晩はバックれた。後で田中の子分に「小心者」と罵られ暴力を受けることは覚悟していた。
Xデーは訪れた。翌朝、佐藤は中学の校舎の裏側のコンクリの上で、落下死体として発見された。田中の周辺からだいたいのところは聞いた。田中と佐藤で屋上で殴りあいをして、田中は佐藤を組み伏せた。田中側は複数だったかもしれない。
当時、俺の中学ではシンナー、トルエン遊びが流行っていた。田中たちは下になった佐藤に無理やりシンナー、トルエンの混合物を目茶苦茶に吸引させた。田中は容赦ない奴だったので、その前に佐藤の肋骨を数本、踵で体重をかけて、内臓にめり込むよう折っていたし、腕もへし折っていたようだ。
激高した田中とその取り巻きはぐったりした佐藤を校舎の屋上のフェンスから投げ落とした。現場に俺は居合わせてなかったが、田中の「肋骨折り」は以前も目撃したこともあり、怒り狂った田中の凶暴さは知っていたので、佐藤を「落下」させることくらいはやりかねないと思った。
佐藤の落下死体があったことから、朝から警察が来てものものしい雰囲気だった。田中らは逮捕されるだろうと思った。少年院とかに行くだろうし、本人たちもそういった人生を選択していると思った。佐藤が死んだことには、少し「ぞっと」したが、所謂「想定内」であった。
その日の夕刊に警察発表の記事が社会面に載った。一段扱い、小さな記事であった。
とひっそり、単独事故死ということで片付けられていた。
その後、田中とその側近たちは登校しなかったし、先生も佐藤の転落死などなかったように静かに中学義務教育を継続した。
俺は、怖かった。佐藤が殺されたことよりも、何百倍も「転落死」として処理されたことが今でも怖い。丁度、グリコ・森永事件の犯人が捕まらなかったのと同様、国家権力をもってして、外傷を受け複数の骨が折られた死体も「事故死」とする方が都合がいいこともあるのだと、中学三年生のときに知った。
よく殺人で捕まった犯人が累犯として他の犯行も認めたという報道もある。きっと真実もあれば、コントロールされた「事実」もあるのだろうとずっと思っている。
高校に行って、社会人になったが、静かに人生を送るように極力つとめるようにしている。まあ、それが、日本における市民の普通の生き方なのかもしれない。
田中および一番側近の村上(仮名)はその後、任侠の見習いをしているとも聞いたが18歳の時、死んだ。深夜、国道を田中のスピード運転でカーブを曲がり切れず対向車線にはみだして、タクシーと正面衝突。田中と村上、そしてタクシーの運転手さんまで即死だった。田中はアルコールを飲んで運転していた。
先日、実家が引っ越すので荷物を整理して、中学校の卒業アルバムを見つけた。佐藤はもちろん、田中、村上他の写真もなく、彼らは最初から存在していないようにアルバムされていた。
こんなところかな。異論は認める。
追記
確かに、写真部Flickrたんは忘れていたけど、キャラ付けが思いつかないね。six apartとwordpressは迷ったけど、どっちでもいいかな、と。EITFものど元まででかかったけど、思い出せなくてRFCにした。それ以上は、きつくなるだけなので、ここまでで。
それにしても、マジでみんな列挙型ネタ、好き過ぎ。こういうネタやったらウケるだろうなぁ、と思ったらほぼそのまんまはてブに反映されててワロタ。「○○するための××をN個」なんてすぐにはてブホットエントリ入りするし。例えば、ネタ系列でも、同じような事をプログラミング言語とかでやってみたら、またすぐにエントリ入りするだろうね。戦国時代な数の多いジャンルでやると、すぐにウケると思うよ。
私立T女子学園は、正にその通り(個人的にあずまんがよりもT女だったので)。ああいうギャグ群像劇がモデル。
Google信者なので、世界征服ネタは思いつかなかったけど、普段は良い顔しているけど、自分に批判的な言動には「な・ん・だ・っ・て?」みたいに目を光らせてみるというのも良いかも。あとは、Googleモテネタとか。
とか、そんな感じ。
ちなみに、この手のマンガを考えるときに、超大金持ちを混ぜておくというのは、話を膨らませるための一種の王道。こち亀の中川とか、うる星やつらの面堂終太郎とか、そういうの。御坊っ茶魔くんとか、有閑倶楽部なんて、それだけをネタにしたような作品だし。ここで言えば、microsoftがT女の田中小夏みたいな立場。例えば、
とか、そんな感じ。富豪刑事とか、デスノートのL絡みも似たようなもんでしょう。同じようなシチュエーションは、発明家でも使えるので、そちらで考えてみても面白いです。上記で言えば、
とか、そんな感じ。ネタ振りがYouTubeで、たしなめるのがGoogleかな。話の切っ掛けは、性格の幼いキャラにして、その後、やや大人なキャラが突っ込み入れて、その後、別の展開と言うのがセオリー。Twitterとか、YouTubeがそういう先陣を切るキャラでしょう。
あとは、三段論法を壊すというオチもこの手のギャグでありがち。ここで言えば、TechCrunchが、矛盾する情報に悩んであさっての方向で結論を出したりとか、Wikipediaが、あまりの情報の多さに、却ってとんちんかんなことを言い出したり。ちょっとひねらないと面白くないけどね。
というわけで、皆さん、楽しんでいただけだでしょうか。ネタが当たって、僕は楽しかったです。
見付けた店員に「いちばん安い地デジ下さい」「これです」「ちょっとメモ控えさせて下さい」
矢張り地デジというだけあって、いちばん安い割には高いな。地上でデジタルだもんな。
正午。小乃島電機に到着。
見付けた店員に「いちばん安い地デジを」「これです」「・・・」
同じメーカーの同じ型のテレビが少し高い値段で売られていた。これで良い。ここからが勝負だ。「山江田の方が安かったよ?」
困惑する店員。「・・・ざ、じゃぁ、この位で如何でしょうか?」「ちょっとメモを」
先程の店員に「小乃島の方が安かった」「・・・ず、ずゃぁ、これで」「メモを」
夕暮時。再び小乃島電機に到着。ここで決めよう。
先程の店員に「山江田の方が」「これ以上は無理です!!!」「じゃあこれにします」
近くのファミレスで晩飯を済ませる。大人たちは、長い戦いの勝利に酔い痴れていた。
2007.11.29(その3)
森田実の言わねばならぬ[757]
「稲は実るにつけて俯き、侍は出世につけて上向く」(日本の諺)
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11月中旬、東京の中心地で行われた経済人の会合に招かれた。40分ほど前に会場のホテルに着くと、主催者はすでに待っていてくれた。
しばらく3人の経済人と懇談した。それぞれかなりの大物経済人である。ひとりの経済人が言った。 「森田さん、最近、中央官庁が非常に強くなりましたね。戦後、中央官庁がこんなに強くなり、こんなに民間にきびしくなったのは初めてではないですか。国民は今の流れは“官から民へ”と思っているかもしれないが、実態は逆です。官と民の力関係は、官の側が強くなるばかりです。日本の現実は完全な(中央)官僚独裁国家ではないでしょうか」。
この見方は、私と同じである。最近、私の耳には各方面から「中央官僚が強くなった」「きびしくなった」「威張るようになった」「横暴になった」という話が断片的に入ってきていた。しかし今までの情報は経済界の中枢部からの情報ではなかった。今回の情報は日本の財界の中枢部にいる人の情報だった。財界中枢部にも冷静な判断力をもった人がいるのである。
数日前に、かなりハイレベルの経済人の集まりに講演に行ったときにも、同様の話を聞いた。ある経済人が言った。
「最近、公益法人法が大幅に改正されたのですが、実は法律ができあがってから、その法律のなかに当然入るべき“公益法人の定義”がなかったことに気づいたというのです。欠陥法律をつくったのです。そこで監督官庁で研究会をつくって、公益法人の定義についての議論を始めたのです。法律づくりがずさんなのですね。次々と法律をつくるものですから十分な審議が行われず、そのためにこんなひどいことが起こるんですね。ただ、公益法人法改正後、中央官庁の干渉はきびしくなりました。いちいち口を出してくるようになった。公益法人の自由度は狭まっています。最近、中央官庁は次々と法律をつくったり、改正したりしていますが、その都度、中央官庁の力は強くなっています。小泉内閣は“官から民へ”“民にできることは民に”と言っていました。国民はこれを中央官庁の権限を弱めることだと思いましたが、錯覚でした。逆でした。実態は、新法ができたり、改正されるたびに中央官庁が強くなっているのです。いまの日本は中央官庁の官僚独裁国家になってしまいました」。
小泉内閣以来の構造改革の結果、アメリカ政府とアメリカの巨大ファンドと日本の中央官庁の指導層が勝者となった。最大の勝者とみられていた日本の財界の地位はいまや傾きかけているのである。日本の「民」は中央官庁に負けたのである。中央財界からこのような告発がされ始めたことは、大変な進歩である。
山本尚利
1.猪瀬流の日本国批判
猪瀬直樹著「日本国の研究」「続・日本国の研究」文春文庫には、日本
の政官財の構造問題が事例中心に詳細に書かれています。誰でも、コレを
読めば腹が立ってくるでしょう。猪瀬氏は日本国の研究成果が認められて、
小泉内閣の下、道路関係四公団民営化推進委員会の委員に抜擢されました。
政府委員会は、これまで官僚からみてイエスマンの権威者を委員に選ぶの
が普通でした。小泉首相は、官僚の敵を委員会に入れたのです。この判断
は画期的でした。おかげでこの委員会はもめにもめて、マスコミに格好の
ネタを提供してきました。小泉首相は、同委員会に構造改革派を入れて、
国民の前に、道路族・国交省と小泉首相の対立の構造を鮮明にして見せま
した。この作戦は図星となり、2003年11月の衆院選挙で小泉は見事勝利、
国民に承認されたのです。衆院選挙後は、元のシナリオどおり、道路族と
手打ちして、道路公団問題のゲームは終わりました。小泉首相は、国民の
中に、悪役、道路族議員を支持する沈黙の人々が少なからずいることに着
目し、国民に紛れ込む無言の抵抗派を喜ばせたのです。まったく狡猾なパ
ーフォーマーです。日本において構造改革への抵抗派はバカではないので、
道路建設の無意味さを百も承知ですが、背に腹は変えられないほど切羽詰
まっているにすぎません。道路建設がまさに生命維持装置と化しているか
らです。構造改革派の猪瀬氏も委員に選ばれて、テレビへの露出頻度が上
がり、小泉首相へ大感謝です。ツケはまたも国民に押し付けられます。日
本国批判は、一定程度、ビジネスになることを猪瀬氏は証明してくれまし
た。これも小泉首相のおかげです。
小泉首相の手口は、野党的批判を身内に取り込んで、野党の攻撃を無力
化するものです。「自民党をブッコワス」というスローガンも同じ手口で
す。ほかの自民党議員より、若干スマートなだけですが、一時的には新鮮
な手口に見えました。
さて、前述の猪瀬氏は、日本の官僚、そして官僚に操られる自民党議員
がいかに私利私欲を追求しているかを克明に告発しています。彼は日本国
批判の急先鋒でしょう。日本国民の資産は、政官財の支配層によって、好
き勝手に食い荒らされていることが、猪瀬氏によって克明に検証されてい
ます。小泉首相は日本国批判のシンボル、猪瀬氏を取り込むことによって、
正義の味方、月光仮面を演じることに成功しました。小泉首相自身は、た
たき上げの鈴木宗男氏と違って、政治家ファミリーの2代目ですから、正
義の味方を演じるに十分、身辺はきれいであったのでしょう。小泉首相が
登場するまで、金権まみれの政治家しか首相になれなかったのが、運良く
構造改革の波に乗って、幸運にも首相の座を射止めることができたのです。
正義の味方は常に、悪役を必要とします。構造改革を標榜する月光仮面、
小泉首相の場合、官僚や族議員が悪役にさせられます。ところが小泉首相
の手口は常に、WinWinです。彼は悪役にこっそり耳打ちします「実は獲ら
せるから協力してよ」と。道路問題はこの手口で見事、成功しているよう
に見えます。その結果、小泉首相への評価は二分します。100点満点では
ないが、ソコソコ、健闘していると観る人、彼はごまかしている。インチ
キだと批判する人。
彼の新鮮な手口を今、もっとも勉強しているのは官僚でしょう。官僚が
小泉首相から学んだもの、それは国民ダマシのテクニックでしょう。その
秘訣は与党への批判派を取り込んで、野党を無力化する手口です。改革す
る振りして、実は何も変えない。インフルエンザの耐性菌のように、従来
の薬が効かないという厄介な代物です。しかし、この手口が通用するのは
一時です。批判丸め込み手口が流行すると、国民の不満は不完全燃焼する
ことになります。国民に精神状態が慢性不健康となります。これは、まっ
たく始末が悪い。
日本の官僚批判は、猪瀬氏の日本国の研究にまかせます。ところで、日
本の官僚の特徴とは何でしょうか。それは匿名の独裁性にあり、出る杭を
打つ習性です。官僚の天敵は、政治家ではなく、個人のカリスマ的独裁者
です。小泉首相が官僚の料理方法にどれだけ精通しているかは、実のとこ
ろ、よくわかりません。もし、小泉首相が名実ともに、日本国のカリスマ
独裁者になろうと野望を抱いたら、たちまち、官僚から引き摺り下ろされ
るはずです。かつて学歴のない田中首相は官僚から内心、軽蔑されていま
した。そこでロッキード事件によって無残に引きずり下ろされた。この事
件は、米国の事情と官僚の利害が一致したことで田中おろしが奏功したの
でしょう。その娘、田中真紀子氏は天性のカリスマ性を引き継いでいるの
を、官僚の勘で悟られ、たちまち外務大臣の地位を引き摺り下ろされたこ
とは記憶に新しいところです。
戦前の日本の官僚(軍部官僚含む)は、虚妄の独裁者、天皇を祭り上げ
て、好き勝手をやったとみなせます。ヒトラーとか、フセインとか、金正
日とかの個人のカリスマ独裁者は、官僚の匿名独裁が維持される限り、日
本では生まれにくいでしょう。しかしながら、民主主義精神の醸成がプア
な日本において、当分の間、日本の国家運営には、必要悪として所詮、な
んらかの支配者を必要とするのでしょう。そこで、日本では当分、官僚支
配か、カリスマ独裁者支配かの二者択一しかないかもしれません。戦後の
官僚は、天皇のカリスマ性を利用しないで、自民党という利権集団を担ぐ
だけで実質的官僚独裁を維持できたのです。この実績により、一部の官僚
は非常に傲慢となっている一方、子羊国民を内心、愚弄していることでし
ょう。米国覇権主義者は、日本には、想像以上に民主主義が根付かず、実
質的官僚独裁国家であることを悟っています。そこで、官僚人事権に介入
して、官僚経由で日本を支配しようと考えていると思います。小泉首相は、
米国覇権主義者と官僚に間で、適当に泳がされているという図式が見えて
きます。しかし、小泉首相はそれほどバカではないので、米国エリートと
日本国の有能官僚の駆け引きのテンションを巧みに利用して、首相の座を
守っているのです。
日本国民に民主主義が定着しない限り、日本の統治には、結局、官僚独
裁か、カリスマ独裁かの二者択一しかない。これは完全に必要悪です。ど
ちらが、子羊国民にとってリスクが低いかの選択です。カリスマ独裁者の
悪例は隣国北朝鮮を見ればよい。
リスクの点では、チェックアンドバランスがソコソコ機能する官僚独裁
の方がまだましです。支配者がある程度、好き勝手をすることは、避けら
れない。人間は神様ではないですから。カリスマ独裁の場合、10人に9
人は悪徳支配者でしょう。だから、世界支配を目論む米国覇権主義者にと
って、カリスマ独裁の方が、ある意味で攻撃しやすい。しかし、彼らにと
って、日本の匿名官僚制ほど不気味なものはないでしょう。フセインや金
正日の方がよほど御しやすい。敵が見えますから。ならず者国家と名指し
もしやすい。一方、日本は、民主主義を装う匿名官僚独裁国家ですから始
末が悪い。敵が見えない。かつて、日本は顔が見えないと言われました。
米国として、本音では、北朝鮮ではなく、日本こそがならず者国家なので
す。にもかかわらず、日本は民主主義の衣をまとっているので、ならず者
と面と向かって名指しできない。米国にとって、実に腹立たしい大嫌いな
国、それが日本です。旧ソ連の共産党独裁、中国の共産党独裁、ともにカ
リスマ指導者を頂きます。米国にとって、この方がまだわかりやすい。と
ころが、日本では、明治以降の天皇制時代でも、天皇がフセインや金正日
のように振舞っていたわけではなく、裏に匿名官僚集団が控えていたわけ
です。だから、敗戦後、戦犯天皇の死刑を回避すると決めたマッカーサー
の主張が通ったのです。イラクのフセインなら到底、独裁者の無罪は通用
しません。米国が日本にもっとも警戒心を抱いているとすれば、その警戒
の対象は不気味な官僚独裁でしょう。そこで米国の現ブッシュ政権は、戦
前日本のしたたかな権力構造をモデルにしているように見えます。ブッシ
ュ大統領を戦前日本の天皇のように扱っている。9.11テロ事件以降、ブッ
シュ大統領のオドオドした表情に、それは見て取れます。彼の個人的キャ
ラクターは育ちのよい、お人好しカウボーイです。決してヒトラーのよう
な実質独裁者には見えない。その意味で現代の米国の政治体制も民主主義
を装う特定資本独裁と言えます。日米政治体制を比較すれば、軍事・石油
資本のリモートコントロールに傾斜している現代の米国の独裁体制の方が、
日本の官僚独裁よりも、はるかに危険で悪徳であると思います。米国の影
の独裁者集団は、あるときは、共産主義者を敵だと騒ぎ、あるときは、テ
ロリストを敵だと騒ぎ、結局のところ、最後は戦争に持ち込むことが最優
先している。こうして戦争をビジネスとして、国際軍事競争力を維持する
ことを通じて、世界を支配するには、米国は世界中で定期的に戦争を引き
起こすしかないのです。刀は使わなければさび付きますから。テロリスト
のオサマ・ビンラディンも、フセインも一時、米国の手先となって、初め
て米国の本質を知り、ともに、過激な反米独裁者と化したのです。彼らの
間違いは、「目には目を」の戦略です。この発想では、永遠に殺戮が繰り
返される。その点、インド独立の父、ガンジーの非暴力主義のほうが絶対
に正しいのです。
さて現代の日米関係は、端的に言えば、上記のような危険な米国の影の独
裁者集団と日本の官僚集団の駆け引きです。戦前の日米対立構造と、その
本質は少しも変わっていないでしょう。大きな違いはただひとつ、戦前の
日本の官僚独裁が、軍事力をもつ軍部官僚に支配されていたのに対し、現
代日本の官僚独裁は軍事力を持たない点です。戦後、日本の軍事勢力再発
の封じ込めに成功している米国覇権主義者は、獲物としての日本に関して
は、1400兆円の日本国民の資産(レント)を狙っているでしょう。ただし、
獲物としての優先順位は、中東の石油資産の次くらいでしょう。だから、
日本は戦争に巻き込まれなくて済んでいるのです。石油が取れない日本は、
天然資源の資産価値はゼロです。このハンディキャップは、プレデター
(肉食獣)から狙われないという意味において、不幸中の幸いと喜ぶべき
です。さらに、イラクと北朝鮮は「ならず者国家」としては一括りにされ
ていますが、プレデター米国にとって獲物としての価値には天と地の差が
あります。北朝鮮は、イラクのように石油はない。日本のようにお金もな
い。獲物としては、まったくおいしくない国家なのです。それでは米国に
とって北朝鮮の価値は何でしょう。それは日本を、恐怖心を煽りながらコ
ントロールする上において、北朝鮮はある程度、利用価値があるにすぎま
せん。この点を、日本国民はよく認識しておくべきでしょう。私利私欲に
目ざとい官僚はわかっていると思いますが。日本における子羊国民の究極
の選択とは、その虎の子資産を、日本人の匿名官僚集団に好き勝手に食い
荒らされるか、それとも米国プレデターに好き勝手に食い荒らされるか、
どちらの被害が少ないかの選択です。どちらにしても、支配者というもの
はそれ相当のピンハネをするのが世の常です。前述の猪瀬氏の官僚批判を
逆手にとれば、私利私欲のかたまりのような悪徳官僚の方が、清廉潔白で
まじめな官僚よりプレデターの横取りをある程度防いでくれる可能性があ
ります。
MASK2の放映がひどい。
TBSだからある程度予想はしていたが、さすがに声優にお笑いタレントを使うとは思わなかった。
これまでで一番ひどい放映だったのはディープインパクトだったが、個人的なその記録を更新するのは間違いない。
テレビの放映が一番いいのは日テレか朝日。TBSは落第だ。これは声優に限らず。
番組の最後の方で「この後すぐこのシーン!」って感じでネタバレしまくりだったり。
それなりのクオリティを保てるならまだしも、とてもじゃないが主役の田中は全然ダメだろう。素人目に見ても。
映画でやるならまだ字幕を見る手段があるだろうが、地上派でこれをやるのは原作レイプどころの話ではないだろう。
そして、これを一般人が評価できる手段が欲しい。
反対を唱えられるのは視聴率計測器を持っている人だけじゃないか。
不買運動とか言ったって、そもそも買ってない物に対してはどうしようもないだろうし、損をするのは自分だし。
テレビを消しても損をするのは自分だ。自分が損をする方法でしか評価できない。
こういう奴らが尋常ではない高給を貰っているかと思うと非常に腹が立つ。
昨日会社で泣いちゃったー
それはもうわんわん泣いちゃったー
みんな優しいから、気付かないふりしてくれた
今まで私の一挙手一投足にあれだけ神経すり減らしてたのに、
週明け会社に行ったら態度が変わって
「もうなんでもないよ」って感じで普通になってた
とにかくこれからは「普通にしていく」っていう強い意志を感じた
それも、今までの仲いい感じじゃなくて会社の先輩、後輩としての「普通」
振られたのに、平気じゃないけど平気そうにできたのは、あなたが振ったくせに未練がましく辛そうに悲しそうにしてたからだよ
そりゃーどう思ってるかなんて分かんないよ
まだ、きっとなんでも無い風にしてるだけかもしれない
でも、悲しかったなー
私を呼ぶ呼び名も「エリちゃん」から「田中」に変えて、笑みも返してくれない
そうやって乗り越えて、彼女を作って私はなんでもなかったことになってくのかな
ほんとうに私を振り切って行っちゃうんだ
私はまだこんなに好きなのに?
想いがたとえ通じていても
どうして私じゃだめなのか
どうしてうまくいかないのか
よく分かってる
だから、結ばれないのは仕方ない
分かってても、近くにいたら苦しい
せめて振った事を後悔していてくれたら、それだけで救いになるのに
私と同じように、結ばれなかったことを嘆いて欲しい
・・・不毛な過去にしがみつくことを彼にも強要するなんて私すごい自己中!!
だめだそんなんじゃ
そうやって早く忘れて、他の誰かと幸せになって
こんなめんどくさい女じゃなくて、
一緒にいて心地いい人、好きな人を見つけて
楽しい毎日を送ってね
自分でも変だと思うけど、
私は当分は、他の好きな人を見つけるより、
報われなくても近くにいてあなたを想うほうが幸せだからそうするね
特に人の名前とかそういう理由を見出しにくいものは覚えるとっかかりすらつかめずずっと苦労している。
これすげぇ気持ちがわかるwwww
理由がないとダメだよな。何かもっと単純な法則から演繹できるもんじゃないと。
俺が化学得意じゃなくなったのは、反応式の左辺が与えられたときに右辺が一意に決定する理由がわからなかったから。
化学の先生に聞いたら、それはそういうものですとか、センスがあればわかります、とか意味不明なこと言われて益々わかんなくなった。
その先生本人は微分積分が苦手で…とか言ってるアホだったが…。
物理は覚えること少ないぞ。
高校の力学は原理3つしかないし、波の辺りは波がなんなのか理解すれば公式は全部自明になったと思う。
キルヒホッフの法則とかは要するに電荷が保存しますよって話だし、云々。みたいな感じで…。
俺もほとんど暗記がだめ。
特に人の名前とかそういう理由を見出しにくいものは覚えるとっかかりすらつかめずずっと苦労している。
なんで田中が田中なのかわからないからいつまで経っても田中が覚えられない。
いや、覚えるけどさ…。多分人並み外れて覚えが悪い。
そんな俺は化学系。
なんでかって物理の公式を覚えるのが嫌だったので。
化学の反応ならそれぞれの物質の反応には理由があるのでまだ覚えられた。
ただ色が何色になるとか、そういうのは苦手だったけどね。
物理も深く踏み込めば理由までたどりつけたのかもしれないけど、
仕事が暗記だとは思わないな。
ただ、人の名前を覚えないと出世に響くのは確かかもしれないけどね。
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株式会社カルチャーブレーン(CULTURE BRAIN INC.)は、主にコンピュータゲームを製造、販売している会社。1980年10月5日設立。
本社は東京都葛飾区宝町2丁目30番16号。東京事業部および第二本社(登記上本店)は東京都江東区亀戸3丁目47番17号。
代表作に飛龍の拳シリーズ、スーパーチャイニーズシリーズ、ウルトラベースボールシリーズなどがある。
目次
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* 1 主な開発タイトル
o 1.1 アーケード
o 1.2 ファミリーコンピュータ
o 1.3 スーパーファミコン
o 1.4 プレイステーション
o 1.5 セガサターン
o 1.6 NINTENDO64
o 1.7 ゲームボーイ
o 1.8 ゲームボーイカラー
o 1.9 ゲームボーイアドバンス
o 1.10 ニンテンドーDS
* 2 関連項目
* 3 外部リンク
主な開発タイトル
* 飛龍の拳スペシャル ファイティングウォーズ(1991年6月21日)
* 飛龍の拳S ゴールデンファイター(1992年7月31日)
* 飛龍の拳S ゴールデンファイター ハイパーバージョン(1992年12月11日)
* スーパーチャイニーズワールド2(1993年10月29日)
* スーパーチャイニーズワールド3(1995年12月22日)
* コンピュータ脳力解析ウルトラ馬券(1995年5月26日)
* 動物キャラナビ占い2 個性心理学+恋愛占いパズル(2003年9月18日)
* プロ麻雀「兵」シリーズ 女流雀士に挑戦??私たちに挑戦してネ!!??(1999年11月2日)
* 忍たま乱太郎64 ゲームギャラリー(2000年4月21日)
* スーパーチャイニーズランド1・2・3(1996年9月13日)
* スーパーチャイニーズファイターGB(1996年12月28日)
* 忍たま乱太郎GB えあわせチャレンジパズル(1998年6月19日)
* スーパーチャイニーズファイターEX(1999年12月24日)
* 女流雀士に挑戦GB ??私達に挑戦してネ!??(1999年12月17日)
* ハムスター物語GB+マジハームの魔法少女(2002年8月9日)
* フェレット物語 ディア・マイ・フェレット(2000年4月28日)
* 「アカギ」 ??闘牌伝説/闇に舞い降りた天才??(2006年3月3日)
* おしゃれプリンセス2+動物キャラナビ占い個性心理学(2002年12月20日)
* かわいいペット!ゲームギャラリー(2003年9月26日)
* かわいいペット!ゲームギャラリー2(2004年12月17日)
* 仔犬といっしょ! ??愛情物語??(2003年8月1日)
* 昆虫の森の大冒険 ??ふしぎな世界の住人達??(2005年8月11日)
* スーパーチャイニーズ1・2 アドバンス(2004年6月24日)
* スウィートメルヘンのケーキ屋さん+動物キャラナビ占い個性心理学(2002年11月1日)
* ツインシリーズVol.1 めざせデビュー! ファッションデザイナー物語 / かわいいペットゲームギャラリー2(2004年8月12日)
* ツインシリーズVol.2 おしゃれプリンセス4 / 恋愛占い大作戦(2004年10月22日)
* ツインシリーズVol.3 昆虫モンスター(ムシモン) / スーチャイラビリンス(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.4 ハムハムモンスターズEX / ファンタジーパズル ハムスター物語魔法の迷宮1+2(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.5 わんわん名探偵EX / 魔法の国のケーキ屋さん物語(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.6 わんにゃんアイドル学園 / 仔犬といっしょスペシャル(2004年12月10日)
* ツインパズル「1.きせかえわんこEX 2.レインボーマジック2」(2004年12月17日)
* ハムスター物語3EX、4、スペシャル(2003年11月28日)
* 魔女っ子クリームちゃんのごっこシリーズ(1)「わんにゃんアイドル学園」(2003年12月26日)
* 魔女っ子クリームちゃんのごっこシリーズ(2)「きせかえエンジェル」(2004年3月25日)
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阿迦手観屋夢之助 (あかでみや ゆめのすけ)は、日本のゲームクリエイター。カルチャーブレーンのプロデューサーである。現在、公式には本名などを明かしていないが、カルチャーブレーンの代表取締役である田中幸男と同一人物である。(過去にゲーム誌等で「田中幸男」として取材記事が掲載されたことがある)
ゲームソフト「シェラザード」、「ベースボールシミュレータ」はアメリカ『ゲームプレイヤーズガイド』『EMG』にて1989年、1990年に国際賞(を自称しているが、単なるアメリカの一雑誌の賞に過ぎない)を受賞したが、それ以後目立ったヒット作はない。2008年度新卒採用にも自称国際賞受賞歴を掲げるほどの名誉だったらしい。
ゲーム以外にも映像・TVCMプランナー・雑誌編集長・広告アートディレクター・イベントプロデューサー・インテリアデザイナーとして国際的に活躍する「マルチクリエーターのパイオニア」を自称するが、ゲーム以外では具体的にどういったプロジェクトに携わったのかは一切不明。かつては同社が運営していた専門学校であるカルチャーブレーン専門学院にて教鞭をふるっていたこともあった。
近年ではゲームボーイアドバンスでの開発に専念していたが、おしゃれに恋してでニンテンドーDSに参入した。作品としては大手ソフトハウスのオマージュ作品が中心となっている。開発費の高騰が続くゲーム業界において中小ソフトハウスが生き残る術を提示しているとも言える。
また麻雀に造詣が深く、プロ麻雀「兵」シリーズはかつてはマルチハードで展開していたほか、近年ではアカギのゲーム版も制作している。
なお、氏やカルチャーブレーンにとって不利になることをネット上に記載すると、おおよそ会社代表の名義で送ってくるとは思えないような文体で削除を求められるため、注意が必要である。