はてなキーワード: シャイロックとは
https://anond.hatelabo.jp/20240829195553
を読んだ。部コメもたくさんついて、ツリーでも教養のメリットって何よ的な話題が盛り上がっているので、個人的になぜ教養が必要か感じていることをざっくりまとめてみる。
話のきっかけとして全国の地名や名所・名物を知っていれば、初対面の人との会話のきっかけになる。
「××市のご出身ですか、カニがうまいところですよね。え、地元の人は漁師さんから余ったやつをタダでもらえるんですか?うらやましい!」
的な感じで無難な話題の引き出しのストックが増えるので、うわさ話や下ネタのような『ゲスい』話題に頼らずに関係構築ができるようになる。
地理的な知識だけでなく、文学や映画、音楽等のカルチャーでも同じことは言えるけど、古典作品に限らずファーストガンダムや北斗の拳といった昔のアニメや漫画も現在では教養扱いになっているといえると思う。
また、テーブルマナーのような知識を知ることで、場にふさわしい行動をとれて恥をかかないという側面がある。一例として、フィンガーボールは指を洗うものという知識があれば、中の水を飲んで会食に居合わせた人たちから奇異の目で見られずに済む。
そんなわけで、教養は人と仲良くなるためのプラス要素を増やす材料にもなるし、不快な行動をとって嫌われることを避けるためのマイナスを減らす材料にもなる。
コロナ禍後に旅行支援の企画がたくさん行われたので、その機会に旅行に行った人も多いと思う。
旅行に行く際に、教養がなければ新し目できれいなホテルや温泉に泊まって、「あー温泉入って飲み食いして楽しかったな」で終わってしまうと思う。 (それでも十分な娯楽だと思うけれども)
この時に、高知のカツオとか、氷見のブリとか、地域の特産品を知っていると東京や大阪といった都市圏では体験できない食の奥深さに触れることができたりする。
また、建築に関する知識があると、駅前の建物が建築家の○○の作品だとわかって旅先で散歩するだけでも楽しくなったり、その町出身の小説家を知っていれば、作家の△△はこの環境で育ってあの作品を書いたのだなと感慨にふけることもできる。
岩をくりぬいた住居が立ち並ぶ不思議な光景があったとして、「カッパドキア」という地域を知っていれば「カッパドキアのような光景」というだけでカッパドキアを知っている人同士には話が伝わる。
シェイクスピアのヴェニスの商人を知っていれば「シャイロックのような強欲な商人」という表現だけでどんな人物か伝えることができる。
まあ、この文脈で差す教養のメリットでもやはり、オタクカルチャーが教養化しているなと思う。「シャイロックのような強欲」という言葉も、「範馬勇次郎のような怪物」という言葉も、イメージが沸く人の間で概念を簡潔に伝えるという目的は同じだからだ。
ネットミームにしてもそうで、事故が起きうる危険なシチュエーションの概念を指すネットミーム「現場猫」なんてのは広く使われるようになっているし、これも現代では教養の範疇になっているといってよいだろう。
ここ数年の間に、世界では新型コロナウィルスが流行したり、ロシアのウクライナ侵攻といった事件が縦づ付けに起こった。
こういう大事件が起きた時には専門家がメディアに登場するわけだけども、どんな専門家の発言が信頼できるか見抜くのにも教養は役に立つ。
「大喪の礼」ということばを「たいものれい」と呼んだ政治学者がいたが、教養があれば「この人は基本的な知識が不足しているのにメディア露出しているんじゃないか?」と疑うことができる。
また、研究者がどういうライフスタイルを過ごして、どういう活動が実績として評価されるか知っていれば、専門分野外の話題にも軽々しく回答する有識者や、メディア露出を優先するあまりに研究業績が一切ない「ひやっしー」のような人を怪しいと判断することができる。
自分で調べたわ
原作版:
融資課のエース滝野は詐欺師石本に脅され5億の架空融資を通してしまう。
そのことがお客様窓口課の西木にバレた滝野は石本に相談。その後、西木と石本が失踪。
石本が西木を殺害したとして滝野は詐欺と殺人教唆の容疑で逮捕されてしまう。
不審に思った銀行員が調べたところ、石本と最初に取引を始めたのは西木だったことが発覚。
西木の遺体は見つかっておらず、架空融資の5億も影も形もなくなっており、
という疑惑を残して話が終わる。
映画版:
融資課のエース滝野は詐欺師石本に脅され10億の架空融資を通してしまう。
お客様窓口課の西木はその件を不審に思い調査をはじめ、石本と銀行店長九条のつながりを見つける。
石本と九条が共謀して滝野をハメたことに気づいた西木は自身の顧客の負債物件を石本に10億円で売りつける。
負債物件の闇が暴かれ価値は暴落、滝野が自首して九条と石本は逮捕されるのであった。
全然違う話じゃねーか!
池井戸、よくこんなクソ改変通したな。
シャイロックの描き方の変遷って知っとお?
そらもう典型的な「強欲・非常なユダヤ人商人」そのまんまっすよ
テンプレ的すぎてひねりのなさで拍子抜けするような
そこから100年、200年、300年、400年……
なんか苦悩する悲劇の悪役にしたり
単純にユダヤ人差別的じゃポリコレ的に糾弾されるからという問題で済まず
ひねりを加えようと工夫してきたということであろう
同じような話はあちこちにあって
かちかち山や桃太郎みたいな日本の昔話は元々は残酷だったとかエロかったとか
時代状況によって改変された話は腐るほどある
戦時中に書かれた桃太郎なんざ軍服着て東南アジアに白人退治に行くんだぜw
都合良く話の書き換えをやってる
それはどうせ、どう頑張っても無理なんだよなあ
ま、1000年前、2000年前から、世の中ずっとそういうもんなんじゃないの
(以上いっさいポリコレを支持してない)
いわゆる陵辱エロゲ規制問題で、私はid:mojimoji氏、id:hokusyu氏をはじめとする諸氏の言説、たとえばこれやこれやこれにいたく感銘を受けた次第であります。
全くその通りで、陵辱エロゲは女性を性的に暴行・侮辱することを肯定的に描く表現であり、しかもそれを正当化する術をどこにも持っておらず、擁護派はあろうことか「表現の自由」と強弁してヘイトスピーチを正当化しようとするばかり、全く同情の余地はない、「生きるに値しない表現」です。このような明晰かつ明快な論法にまずは敬意を表したいと思います。
その上で私は、このような糾弾の声、表現の純化と浄化の声をさらに強くすべく、エロゲ以外の分野の規制をも求めて声を上げていくことを提案したいと思うのです。特に、世界的に良識の名の下に女性への暴力を肯定している例を私は知っており、ぜひとも一緒に声を上げていただきたいと思うのです。
私が具体的に糾弾したいのはとある演劇作品です。主人公は典型的なレイプ魔で、女性を甘い言葉で誘わしては慰み者にするという、ただそれだけで特徴づけられる人間です。要するに陵辱エロゲと何も変わりません。そして他の登場人物は、その言語道断な主人公に阿諛追従する男、そんな主人公にいくらでもなびく都合のよい女、それに対して何も手出しのできない情けない男と、いかにもこの種のエロゲヲタにとって都合のよい人物像ばかりが並べられているのです。
然るに、この演劇作品は日本ばかりか世界全体に流通しており、あろうことか一部では絶賛する声まで挙がっている有様です。北欧のある非モテの文筆家は、これを世界最高の芸術作品とまで評しています。また、フランスの進歩的な知識人の間では、この主人公を、権威を打倒し自由を追及する男として肯定的に評価する声さえ挙がったといいます。
どうして良識的な人々がここまで騙されてしまったかは私にも理解に苦しみますが、憶測するに結末として主人公が罰せられることになっているからでしょう。しかしよく見れば主人公以外の登場人物の喜びようは余りにもおざなりであり、このような話の筋は単なるとってつけたような免罪符であることに想像の余地はありません。
この作品に言及する声は意外なところにまで及んでおり、ある分野で世界最高の芸術家と評される人物は、話の筋に眉をひそめつつも、作品の質自体には賞賛を惜しんでいません。他にも、多くの分野からこの作品を崇拝する者は後を絶たないのです。
しかもあろうことか、世界最高のミュージシャンとも賞賛される人間がこの演劇に音楽を付けてしまったのです。これにより、この作品の評価は時が経つにつれ、上がることはあっても、下がることは全くないという有様です。
みなさん、この反動的な作品を規制し、上演禁止に追い込むようにご協力願います!
なお、作品の題名は「ドン・ジョヴァンニ」で、出典はスペインの伝説ですが、演劇化を試みたのはモリエールという男です。この戯曲をアレンジした台本に音楽を付けたのはモーツァルトというオーストリア出身の音楽家で、これを賞賛した北欧の知識人とはデンマーク出身のキェルケゴールという男、一定の留保を付けつつも作品を賞賛した芸術家はベートーヴェンという名前です。これらの反動文化人の作品を抹殺すべく、同志の皆様もぜひご協力願いたいと思うのであります。
表現というものの価値は意図と関連づけて測られるものではなく、表現の質として測られるのである。そして、作品から読み取れる作者の意図というものは決して一通りに決まるものではない。たとえば、「ヴェニスの商人」を読んでシェイクスピアが反ユダヤ主義者だったかどうかを判断するのは難しい。事実、シャイロックというユダヤ商人は、屈折した苦悩を持つ人物として見事に描かれており、反ユダヤ主義を糾弾する文脈でも演じることは大いに可能だからだ。ナチスを経験したヨーロッパでさえ、「ヴェニスの商人」を禁書にしようなどという馬鹿はどこにもいまい。
こう言うと、「エロゲに芸術性などあるものか」と言われるかもしれない。だが、紛れもないポルノである春画でさえ芸術性を評価する者はいるのだ。また、偉大な芸術作品の多くは、発表当時理解されなかったことも多い。これだけから見ても、法的立場から表現を規制することの愚かしさがわかろうというものだ。原則として、表現はただ表現によってのみ批判されるべきなのである。
なお、ショスタコーヴィッチという旧ソ連の作曲家は、スターリンによって作品を「革命的」だとか「反動的」だとかいろいろ評価を変えられ、作曲活動に大きな影響が出たことも付記しておく。笑うべきことに、当時問題になった作品はオーケストラだけで演奏される交響曲で、歌などによる言語表現すら一切含まれていなかったのだ。