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はてなキーワード: 増毛町とは

2023-12-22

anond:20231222100821

増毛郡

ましけぐん

増毛郡は、北海道留萌振興局の郡。 人口3,794人

ようこそ増毛町ホームページへ. 増毛町. 今から250年以上も昔、宝暦年間に漁場が開かれて以来、ニシンの街として栄華を極めた増毛

500本6,600円でしっかり増毛 - お近くの店舗増毛体験

2022-06-18

anond:20220618115144

栄町千葉県印旛郡栄町

廃止

栄町 (新潟県) – 新潟県南蒲原郡栄町(現:三条市

地名

さかえちょう

北海道地方

栄町 (函館市) – 北海道函館市地名

栄町 (室蘭市) – 北海道室蘭市地名

栄町 (根室市) – 北海道根室市地名

栄町 (千歳市) – 北海道千歳市地名

栄町 (登別市) – 北海道登別市地名

栄町 (北広島市) – 北海道北広島市地名

栄町 (八雲町) – 北海道二海郡八雲町地名

栄町 (洞爺湖町) – 北海道虻田郡洞爺湖町地名

栄町 (羅臼町) – 北海道目梨郡羅臼町地名

東北地方

栄町 (三沢市) – 青森県三沢市地名

栄町 (宮古市) – 岩手県宮古市地名

栄町 (久慈市) – 岩手県久慈市地名

栄町 (大槌町) – 岩手県上閉伊郡大槌町地名

栄町 (塩竈市) – 宮城県塩竈市地名

栄町 (気仙沼市) – 宮城県気仙沼市地名

栄町 (岩沼市) – 宮城県岩沼市地名

栄町 (酒田市) – 山形県酒田市地名

栄町 (寒河江市) – 山形県寒河江市地名

栄町 (南相馬市) – 福島県南相馬市原町区地名

栄町 (会津若松市) – 福島県会津若松市地名

関東地方

栄町 (ひたちなか市) – 茨城県ひたちなか市地名

栄町 (水戸市) – 茨城県水戸市地名

栄町 (常陸太田市) – 茨城県常陸太田市地名

栄町 (牛久市) – 茨城県牛久市地名

栄町 (常陸大宮市) – 茨城県常陸大宮市地名

栄町 (宇都宮市) – 栃木県宇都宮市地名

栄町 (足利市) – 栃木県足利市地名

栄町 (佐野市) – 栃木県佐野市地名

栄町 (鹿沼市) – 栃木県鹿沼市地名

栄町 (高崎市) – 群馬県高崎市地名

栄町 (桐生市) – 群馬県桐生市旧地名現在浜松町 (桐生市)の一部。

栄町 (館林市) – 群馬県館林市地名

栄町 (上尾市) – 埼玉県上尾市地名

栄町 (朝霞市) – 埼玉県朝霞市地名

栄町 (春日部市) – 埼玉県春日部市地名

栄町 (川口市) – 埼玉県川口市地名

栄町 (鴻巣市) – 埼玉県鴻巣市地名

栄町 (草加市) – 埼玉県草加市地名

栄町 (深谷市) – 埼玉県深谷市地名

栄町 (吉川市) – 埼玉県吉川市地名

栄町 (行田市) – 埼玉県行田市地名

栄町 (春日部市) – 埼玉県春日部市地名

栄町 (飯能市) – 埼玉県飯能市地名

栄町 (千葉市) – 千葉県千葉市中央区の地名。またこ地域存在する風俗街のことを指す。→栄町駅 (千葉県)

栄町 (船橋市) – 千葉県船橋市地名

栄町 (松戸市) – 千葉県松戸市地名

栄町 (佐倉市) – 千葉県佐倉市地名

栄町 (東京都北区) – 東京都北区地名付近には都電荒川線の駅栄町停留場 (東京都)もある。

栄町 (練馬区) – 東京都練馬区地名

栄町 (板橋区) – 東京都板橋区地名

栄町 (西東京市) – 東京都西東京市地名

栄町 (東京都府中市) – 東京都府中市の地名

栄町 (立川市) – 東京都立川市地名

栄町 (東村山市) – 東京都東村山市地名

栄町 (小平市) – 東京都小平市地名

栄町 (羽村市) – 東京都羽村市地名

栄町 (横浜市) – 神奈川県横浜市神奈川区地名ポートサイド地区の一部。

栄町 (三浦市) - 神奈川県三浦市にある地名

栄町 (相模原市) – 神奈川県相模原市南区の地名

栄町 (小田原市) – 神奈川県小田原市地名

栄町 (秦野市) – 神奈川県秦野市地名

栄町 (厚木市) – 神奈川県厚木市地名

中部地方

栄町 (新潟市西蒲区) – 新潟県新潟市西蒲区地名

栄町 (長岡市) – 新潟県長岡市地名

栄町 (柏崎市) – 新潟県柏崎市地名

栄町 (小千谷市) – 新潟県小千谷市地名

栄町 (加茂市) – 新潟県加茂市地名

栄町 (十日町市) – 新潟県十日町市地名

栄町 (妙高市) – 新潟県妙高市地名

栄町 (長野市) – 長野県長野市地名

栄町 (福井市) – 福井県福井市地名

栄町 (静岡市) – 静岡県静岡市葵区地名

栄町 (三島市) – 静岡県三島市地名

栄町 (磐田市) – 静岡県磐田市地名

栄町 (上市町) – 富山県中新川郡上市町地名

栄町 (豊明市) – 愛知県豊明市地名

近畿地方

栄町 (河原町通) – 京都府京都市上京区地名

栄町 (大宮通) – 京都府京都市上京区地名

栄町 (京都市下京区) – 京都府京都市下京区地名

栄町 (河内長野市) – 大阪府河内長野市地名

栄町 (小野市) – 兵庫県小野市地名

栄町 (加西市) – 兵庫県加西市地名

台湾

栄町 (台北市) – 台湾台北市旧地名

栄町 (嘉義市) – 台湾嘉義市旧地名

栄町 (高雄市) – 台湾高雄市旧地名

さかえまち

町名としての栄町(さかえまち)

北海道地方

栄町 (札幌市) – 北海道札幌市東区の町名

栄町 (釧路市) – 北海道釧路市地名

栄町 (北見市) – 北海道北見市地名

栄町 (岩見沢市) – 北海道岩見沢市地名

栄町 (留萌市) – 北海道留萌市地名

栄町 (苫小牧市) – 北海道苫小牧市地名

栄町 (滝川市) – 北海道滝川市地名

栄町 (富良野市) – 北海道富良野市地名

栄町 (当別町) – 北海道石狩郡当別町地名

栄町 (北海道森町) – 北海道茅部郡森町地名

栄町 (余市町) – 北海道余市郡余市町地名

栄町 (南幌町) – 北海道空知郡南幌町地名

栄町 (長沼町) – 北海道夕張郡長沼町地名

栄町 (上川町) – 北海道上川郡上川町地名

栄町 (美瑛町) – 北海道上川郡美瑛町地名

栄町 (上富良野町) – 北海道空知郡上富良野町地名

栄町 (増毛町) – 北海道増毛郡増毛町地名

栄町 (羽幌町) – 北海道苫前郡羽幌町地名

栄町 (枝幸町) – 北海道枝幸郡枝幸町地名

栄町 (幌延町) – 北海道天塩郡幌延町地名

栄町 (美幌町) – 北海道網走郡美幌町地名

栄町 (訓子府町) – 北海道常呂郡訓子府町地名

栄町 (湧別町) – 北海道紋別郡湧別町地名

栄町 (白老町) – 北海道白老郡白老町地名

栄町 (様似町) – 北海道様似郡様似町地名

栄町 (鹿追町) – 北海道河東郡鹿追町地名

栄町 (新得町) – 北海道上川郡新得町地名

栄町 (本別町) – 北海道中川郡本別町地名

栄町 (足寄町) – 北海道足寄郡足寄町地名

栄町 (浦幌町) – 北海道十勝郡浦幌町地名

東北地方

栄町 (青森市) – 青森県青森市地名

栄町 (弘前市) – 青森県弘前市地名

栄町 (五所川原市) – 青森県五所川原市地名

栄町 (能代市) – 秋田県能代市地名

栄町 (米沢市) – 山形県米沢市地名

栄町 (新庄市) – 山形県新庄市地名

栄町 (上山市) – 山形県上山市地名

栄町 (長井市) – 山形県長井市地名

栄町 (小国町) – 山形県西置賜郡小国町地名

栄町 (福島市) – 福島県福島市地名。市の中心街にあたる。

栄町 (郡山市) – 福島県郡山市地名

栄町 (会津若松市) – 福島県会津若松市地名会津若松市市街地の一部地域

栄町 (白河市) – 福島県白河市地名

栄町 (須賀川市) – 福島県須賀川市地名

栄町 (二本松市) – 福島県二本松市地名

関東地方

栄町 (沼田市) – 群馬県沼田市地名

栄町 (日野市) – 東京都日野市地名日野宮神社がある。

中部地方

栄町 (新潟市中央区) – 新潟県新潟市中央区の地名

栄町 (上松町) – 長野県木曽郡上松町地名

栄町 (富山市) – 富山県富山市地名

栄町 (氷見市) – 富山県氷見市地名

栄町 (砺波市) – 富山県砺波市地名

栄町 (七尾市) – 石川県七尾市地名

栄町 (小松市) – 石川県小松市地名

栄町 (勝山市) – 福井県勝山市地名

栄町 (多治見市) – 岐阜県多治見市地名

栄町 (関市) – 岐阜県関市地名

栄町 (中津川市) – 岐阜県中津川市地名

栄町 (中津川市) – 岐阜県本巣郡北方町地名

栄町 (浜松市) – 静岡県浜松市中区の地名

栄町 (焼津市) – 静岡県焼津市地名

栄町 (袋井市) – 静岡県袋井市地名

栄町 (岡崎市) – 愛知県岡崎市地名

栄町 (常滑市) – 愛知県常滑市地名

栄町 (豊橋市) – 愛知県豊橋市地名

栄町 (瀬戸市) – 愛知県瀬戸市地名

栄町 (半田市) – 愛知県半田市地名

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2017-07-19

増毛町出身者にとっての「増毛

北海道地名増田を見て思った。増毛町出身の人にとって「増毛」という語はふるさと以外の何者でもなかっただろう。しか増毛を出たらば「増毛」は増毛町意味しなくなる。街にネットに「増毛」は満ちている。見かけるたび最初のうちはふるさと苦笑いとともに思い出していたのが、いつしか面倒になっていくのではないか。「増毛」を「ぞうもう」と読むたび、ふるさとは彼の中から薄れていく。髪の毛とともに薄れていく。

2017-04-02

国鉄分割民営化30周年だから

http://anond.hatelabo.jp/20170209010308

古い記事に反応しても見られない気もするが、まあ民営化30年記念で書いておく。

まず、競争起きまくってる。なんで京阪神しか目が行ってないのかが疑問(京阪神に住んでて、他の地区のことに興味が無いのか?)だが、例えば豊橋-名古屋-岐阜での東海名鉄の熾烈な争いとか、福岡での九州西鉄の争いとか、私鉄との争いは激しい。それと、航空機バス(そして何より自家用車)との競争がある。バスとの競争という考えがないの、いかにも都会の人間(都会ではバスは補助輸送機関だしな)という感じだが、地方ではバスはかなり強い。JR北海道が一時期特急スピードアップ血道を上げていたのは、そうしないと高速バスとの競争で優位に立ちようがなかったからだし、この前廃止された留萌線留萌-増毛間は沿岸バスとの競争で完全に負けてた。留萌-増毛JRが勝ってたのは運賃が数十円安いことだけで、本数や所要時間、停車位置(駅があるのは町外れ、バス高校病院の目の前まで行く)などその他の全てでバスが勝ってた。増毛町も、町の高校生留萌高校まで通うのにはバスのほうを推奨(バスの定期買うと町が半額補助してくれる)してたくらいだ。特に停車位置問題ってのはすごいデカい。「お前はお年寄りを駅から病院まで数km歩かせるのか?」という話だからな。

あと、そういう外部以外での競争もある。例えば国鉄エンジン技術が凄まじく低かった(現代の目から見てではなく、当時の海外メーカー国内トラックエンジンメーカーと比べて。重さの割に出力弱い上に排ガスがひどく、しかも出力全開にすると排気管のオーバーヒートで出火しやすいという安全上の問題まであった)にもかかわらず内製にこだわり続けてたが、民営化したらカミンズ社(アメリカ)のエンジンとかを導入するようになった。これによって非電化ローカル線特に東日本管内)は随分スピードアップした(国鉄時代時刻表JR時刻表を見比べてみると分かる。というか、こういうふうに、民営化でどう変わったかをちゃんと調べてみたことある?)

しかしこの辺はハッキリ言って瑣末なことだ。根本なのはこっちだ。

>あれから30年経ち、支線はほとんどが廃線になったり、第三セクターになったり、代行バスになったりで地方青息吐息である

赤字ローカル線廃止三セク移管も含む)しまくっていたのは国鉄の方。JRになってからは、廃止は圧倒的に抑制された。Wikipediaあたりでいいから、いっぺん国鉄JR廃止路線廃止年月日を調べてみるといい(なお、民営化直後87~90年の廃止路線は、三セク会社設立代行バスの準備の都合で民営化後まで実施がずれ込んだもので、廃止を決定したのは国鉄)。

国鉄ローカル線廃止基準は「輸送密度(1日1km当たりの利用客数)4000以下」(例外規定がいろいろあり、2000~4000くらいのはあまり廃止にならなかったが)。それに対しJR北海道がこの前廃止を発表したのは「輸送密度200以下」だ。時代の変化などを差し引いても比べ物にならないくらJRの方がローカル線廃止消極的なの。国鉄なら5秒くらいで廃止してた路線JR北海道(他のJR各社もそう変わらん)はここまで維持してきたの。

お前さんたぶん、市場原理とか新自由主義とかが嫌い(まあ俺も嫌いだが。俺は、地方ではバスのほうが鉄道より交通弱者に優しい場合が多いから、鉄道に使う公金をバスに突っ込むべきと思ってるだけだ。あと介護タクシー福祉タクシーな。「地方交通弱者のことを考えて~」みたいなことを言って介護タクシーのかの字が出ない奴、何考えてるんだ?)で、「市場原理なんだから地方弱者)を切り捨てたに決まってる」と思い込んで、民営化でどう変化したのかとかをきちんと文献やデータにあたって調べる手間をかけようと思わなかっただろ。お前さんはただ単に、新自由主義者よりもさら地方のことを考えてないというだけだよ。

ブクマ見て追記

民営化外国製エンジンの導入に因果関係はあるのかな

国鉄時代は「工作局」という内部部署製のエンジンにこだわってた。分割民営化されたら東海が「これでもう俺たちは中央工作局)から自由だぜ」と言わんばかりに速攻で公開コンペ始めてカミンズ採用し、他社もそれに続いた。北海道だけは国鉄エンジン換装にそこまで積極的じゃなかったが、そしたらこの前燃え特急間引き運転することになった(国鉄エンジンをいまだに使ってる車両使用停止にしたら車両が足りなくなったため)のは記憶に新しい通り。国鉄のままでもいきなり工作局が干されて公開コンペが行われるようになってた可能性が0%とは言わないけど、まあ分割ないと難しかったのでは。一組織だとどうしても中央意向が強くなりすぎるので。

廃線国鉄再建法によるもの殆ど

70年ごろの「赤字83線」でも結構廃止されてるし(角栄首相になったために途中でストップかけられたが)、水害で不通になったらわずか1ヶ月後に即廃止(ひどい)の柚木線とかもあるじゃん。だいたい、国鉄は「政治の道具」にならなければ廃止しなかったんだから自分意志廃止するJRより良かった……という話にしたところで、「国鉄のままなら『事業仕分け』的な政治の道具にされてJRよりもたくさん廃止されてた可能性が高いですね。民営化してよかったですね」ということになっちゃうのでは……? 国鉄のままで、そういう政治の「悪い介入」を避けれたはずとするの厳しくない?

2008-03-26

[]

両親と私、弟二人は、昭和十年に移民団として南洋群島パラオ本島に行き、ここから私の人生が始まりました。

北海道から汽車で揺られ、横浜へ港から一週間の船旅で、小笠原諸島を通過する時は大シケで、全員が船酔いでぐったりして、ココール港に入港して下船し、旅館に落ち着き、二日後に連絡船で私たちの永住する朝日村へと三時間の旅で、ここから一時間歩いて草と小枝を切って前日区分した場所に着き、まわりを見渡すと大樹が多く、先ずは伐採から始め、そして草を刈り、住む所にバラック小屋を建て、火をたける場所を作り、原始的な生活から始まる。

入植をして半年を過ぎる頃には、どうにか農作物が作れるようになり、パイナップル畑を作り、苗を植え、次々と入植者も入り開けてきて、パイナップル工場も出来る。野菜波止場までかついで出荷をする。そのうちにリヤカを買い、運搬は楽になり、農家も安定をして、家畜を飼い堆肥を作り、私たちの住む住宅を建て、安定したのもつかの間で、昭和十八年、大東亜戦争が始まり、三月二十八日から三十日の三日間は大空襲で、ココールの町は火の海と化して、食糧及び燃料は壊滅状態で、これからが大変な生活で、内地からの定期船が入らず、自給自足で半年くらいまでは良かったのですが、その後は米が不足して、大人はどうにか我慢が出来るのですが、子どもたちが可哀想で見られず、毎日の空襲で農作業も思うように出来ず、結局は夜の仕事と変り、月夜は良いのですが、闇夜は手探りで作業を続けました。

ますます戦火も激しくなり、この最中に婦人と未成年疎開本国に引揚げることになり、私は十五歳で引揚げることが出来ずに残り、父は兵隊へ入隊をする。私は軍属として志願兵で入隊しました。この時に始めての体験、軍隊生活で親の有難さを痛感しました。夜は毛布の中で泣いた事が何度かわかりませんでした。

戦争は激しくなるばかりで、私の立ちは兵事部で。伝令でした。空襲の合間に書く分隊情報を届けるのですが、木のあるところは良いのですが、またま平野空襲出合い、何度か命拾いをしてきました。

その内に食糧の不足と共に栄養失調で亡くなる人が出始め、兵隊と一般の人と次々と亡くなり、いても立っても居られない気持ちでした。兵隊でも上官は米のご飯ですが、部下はご飯が当たらず、死ぬ兵隊などは米の飯を食いたいといわれた。言葉は、耳の奥にこびりついています。

食事の方も、兵隊はサツマイモの葉のオジヤに、サツマイモ、そして米つぶが数えるほどしか入ってなくて、お腹だけがふくれて、髪の毛は抜け、痩せて可哀想でした。又、夜はサツマイモ畑を荒らす人が多くなり、夜警取締りが始まり、私も夜警に出たが、婦人と子どもたちは逃がしてやったことが記憶に残っております。

戦争は激しさを増して、引揚げたオフクロと弟たちの船が魚雷でやられたと聞いたので、あきらめていましたが、生きて帰りたい気持ちで一杯でした。

ある日、私と上官は、農民との集会の最中空襲に合い、私とひざを合わせていて、討たれ戦死をしましたが、人間とは運、不運があると思いました。人間的に立派な方で、私を弟の様に可愛がってくれ、この時だけは替われるものであれば替わってあげたい気持ちでした。その後に来た上官も良い方で、私の面倒を良く見てくれ有難かったので、感謝で胸が一杯です。

その内に終戦となり、引揚げる時まで一緒で、食糧が不足をして、栄養のあるものは口に入らず、上官と山鳩を取って食べ、命をつなぐことが出来ました。私は人との出会いの運が良く、引揚げる時は別でしたが、本籍が増毛町で、父と一緒に帰り、父の妹を頼りに行くことが、常夏の所から北海道の真冬には勝てずにネコのようにまるくなり、一ヵ月後には死んだはずのオフクロ、弟妹、全員無事に再会できる事は、この上ない幸せでした。

この頃はニシンが大漁で、浜はごった返しで景気も良く、このまま世話になることは出来ず、私は一足先に赤平炭鉱に居る伯父を頼って行く。すぐに採用してもらえなくて、組で働き、半年後に本採用になり、家族全員が来て生活をする。このときも食糧に苦しみ、買出しに農家に米を買いに行き、随分足を運びどうにか生き延びることが出来ました。

その後父と母、弟妹たちも来て、開拓農家を始めて開墾をして農業をする。私も日曜日には手伝いに行き、苦労した甲斐があり作物がとれ、希望がわきました。

炭鉱も景気が良く、父は二、三年辛抱をしてくれ、身の振り方を考えると言われましたが、とうとう定年まで勤務をし、人生の半分が過ぎ、昭和四十九年八月十三日の運搬事故では九死に一生を得たことは、生涯忘れることはできません。今考えると運が良かったと感激で一杯です。闘病生活を振り返り、リハビリーの苦しみは忘れることは出来ません。人の三倍も努力を続け、玉の脂汗を流したことが良くてどうにかもとの体に戻り、所信をして長生きをしていきたいと肝に命じている今日この頃です。

このように体験したことは、私にとってはプラスとなり、今後は日本は二度と繰り返してほしくない戦争を、息子を始め、孫、ヒコの代まで続けてほしいと願っております。

この文を永久に残して、世界人類平和であってほしいと念願する次第です。

どうか、全世界平和にと、声を大にして、叫びたい気持ちで一杯です。

 
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