はてなキーワード: 住吉神社とは
邪馬台国には7万の家があったとされているから、その場所には諸説ある
ひとまず邪馬台国亡きあとに、大分・宮崎の範囲にあった豊日別(トヨヒワケ)は、十分な広さがあるので、ここだと仮定する
トヨヒワケ南部は日向(ヒムカイ、ヒムカ)だが、ヒミコの名に似ている
北部大分(オオワケ)は貿易港が発達しており海神の貴船神社や住吉神社が多い
つまり邪馬台国のヒミコは、ヒムカイの祖母山(天皇の祖母の山)あたりを本貫として、オオワケの海で貿易や漁業をしていたと思われる(玄界灘の伊都国も栄えていたが)
魏人は、伊都国からオオワケの別府(別の府)に着いて、おそらく温泉や船を試していたために、ヒムカイに至るまで「水行10日陸行1月」になってしまったので、距離ではなく日数だけ書いたんだ
むかし、「ツツ ノオ」3神が、神功皇后に新羅征伐を勧めたという話がある
ちょっと意味が分からないのは、貴船神社が海神を祀っているのに、住吉神社も海神を祀っていることだ
思うに、たしかに筒はツツと読むのだが、住吉は「墨江」とも書かれていたらしく、墨といえば文書だ
すると文章を書きしるすとか、一つにまとめるという意味で 綴(ツヅ)るという言葉がある
古代は、字は木簡などに墨で綴られ、木簡は紐で板状に綴られたりもした
だから、住吉神社の3人のツツノオの筒(ツツ) → 綴り(ツヅリ) ではないか?
「綴」はどうしてか、三国志にも出るし日本でもツヅルと呼んでいただろうに、古事記には出てこない漢字なのだ
古事記当時には、紙技術があった(技術者を連れてきていた)からだろうか
何をかいわんや
佃渡しで娘がいつた
〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう
ずつと昔からそうだつた
〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
水は黒玄(くろ)くてあまり流れない 氷雨の空の下で
この河の入りくんだ掘割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行つた
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ
佃渡しで娘がいつた
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞つていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちよつとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあつたか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあつた
〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる
わたしが生きてきた道を
いつさんに通りすぎる