2010-12-27

佃渡しで 吉本隆明

佃渡しで娘がいつた

〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉

そんなことはない みてみな

繋がれた河蒸気のとものところに

芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう

ずつと昔からそうだつた

〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉

水は黒玄(くろ)くてあまり流れない 氷雨の空の下で

おおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるし

この河の入りくんだ掘割のあいだに

ひとつの街がありそこで住んでいた

はまだ生きていてそれをとりに行つた

そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

 

佃渡しで娘がいつた

〈あの鳥はなに?〉

かもめだよ〉

〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉

あれは鳶だろう

むかしもそれはい

流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を

ついばむためにかもめの仲間で舞つていた

〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉

水に囲まれた生活というのは

いつでもちよつとした砦のような感じで

夢のなかで掘割はいつもあらわれる

橋という橋は何のためにあつたか

少年が欄干に手をかけ身をのりだして

悲しみがあれば流すためにあつた

 

〈あれが住吉神社

祭りをやるところだ

あれが小学校 ちいさいだろう〉

これからさきは娘に云えぬ

昔の街はちいさくみえる

掌のひらの感情頭脳生命の線のあいだの窪みにはいつて

しまうように

すべての距離がちいさくみえる

すべての思想とおなじように

あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる

わたしが生きてきた道を

娘の手をとり いま氷雨にぬれながら

いつさんに通りすぎる

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