はてなキーワード: 廃屋とは
少し脳圧が変わっただけで歩行が困難なほどボケる。薬を飲めば性格が変わってしまう。
というように脳は、というより思考は物理的な要因に大きく影響を受ける。
でも、幽霊ってなんだよ?
脳という器官がないのに、話したり、光として認識させたりするんだぜ?
「うらめしやー」とか、脳がないのにどうやって恨めしいと感じるんだよw
どー考えても妄想だよな。
お湯を沸かすのにどれほどのエネルギーがいると思ってんの?
ネタだろw かまってちゃんだろw
もし、それが本当なら、再現性があるなら、テレビ局に電話しろよ、しかるべき機関に相談しろよ。
科学の発展に貢献できるかもしれないぜ?
ずっと昔から幽霊の存在は信じられてきて、著名な科学者の中にもその存在の物理的特性を調べ上げ、
新たな原理の発見に繋げようと試みた者は数多くいたが、誰一人としてまともな成果をあげることができず、
かの現象は物理や生物の一般原理から大きく外れているにも関わらず、教科書に記載されるに至っていない。
だから、いない、と断定するのは非科学的あるものの、その存在は非常に疑わしい。
いや、オレはいないと考えている。
でも、たまにむかえの家(廃屋)の二階にいるアレは何なんだろうか?
オレの頭がおかしい、に3000点だなw
妄想や幻覚ってすげーよな
かれこれ、初代ポケモングリーンをやったのが最初で最後だったから、今回ポケモンブラックをプレイしたのはもう12年ぶりくらいなんだろうか。
いろいろ感じたことは、ポケモンとは今までのRPGの集大成だということだ。
とりあえずエンディングまでは辿りついた。
まだまだ冒険は終わりではないらしい。。
これからは順不同で自由度の高い旅が用意されているみたい。
出会いを求め、伝承を辿り、新たな発見を求めて冒険がずっと続いていく。
近作のポケモンでコンピュータRPG史上初めて導入された画期的な要素ではないけれど、このエンディング後のパートが大きいのは特徴的だ。
一本道の必須パート+エンディング後(あるいはエンディングの前から)に自由なパート
例をあげれば、クリアした後も、エンディング後にいけるようになる隠しダンジョンや、クエストとよばれる小冒険を続けることでストーリーテリングの楽しさが去った後もゲームの面白さを維持できる。
もともと、自由なパートが置かれる以前でもPG(ここではドラクエに代表されるRPG)の魅力の1つは探索だった。
今回、ポケモンブラックホワイトでエンディングまでに巡ることが出来る町はマップにある町のたった3/4ほどだ。
もちろん、通信機能を使ったクエストも用意されている。
ドラクエでいえば3、FFでいえば5、自由度の高い育成要素を加えたゲームは面白い。
反面、キャラに自由度を持たせることは、人格を定義しにくくなる。
ドラマパートでは勇ましいセリフを言うけれど、戦闘シーンでのジョブは遊び人だとか、移動シーンでは鎧を着てるのに戦闘シーンでは魔法使いのローブを着ているとか。
どんなにポケモンを鍛えようと、どんなポケモンを育てようと、主人公の人格に違和感はない。
パーティメンバーに過去の設定をつけないという意味では、DQ3のルイーダの酒場システム(Wizのが古いしギルガメッシュの酒場というべきか)と同じのはずだが、ポケモンのほうが自然とキャラへ感情移入が出来る。
流石にそこは人間と獣の差、獣はペットを飼う感覚で従えることができるが、共に冒険する仲間にはそれぞれ世界にたった一つの冒険する理由が欲しい。
戦闘員と主人公を全く切り離し、戦闘員を非人間にすることで完璧な解決を図ってる。
(3)狭い世界
RPGにおける世界の広さは、スーパーファミコン時代が一番広かったと思われる。
主人公が住む世界が地球規模(船や空を飛んで一周できる)で、さらにもう1つ、あるいは二つ同じように地球規模の異世界が次元をまたいだり時空をまたいで存在し、同じように人の営みが用意されていた。
ところが、それ以降は世界の広がりはない。
むしろ、ある外界から隔たった特定地方を舞台にすることが増えてきた。
おそらく、僕らの住む現実世界のようにいろんな人がいて、いろんな思想、派閥が存在する世界の諸問題は、魔王を倒せば解決するような単純なものではないからだ。
狭い、人の繋がりの密な世界の温かさ、かといって冒険が不自由なわけではない。
世界が狭いからといって、すぐに退屈してしまうことはない。
僕が子供の頃に近所の廃屋や林を探索していたときには退屈さを感じなかったように。
(4)古きよきターン制
ポケモン廃人がパラメータからダメージを計算できるように、極めて厳格なルールで動いている。
パラメータと行動の結果がほとんど予想可能なまでにすることで、カードゲームのような戦略性が生まれている。
そこに、僅かに1つ2つ、(僅かであるのがミソだ)乱数で決まる要素を加えることで、興奮が高まる。
テーブルトークRPGから伝統的な古きよきターン制だ。
しばらく気付けなかったが、風来のシレンのようなダンジョンRPGに通じるものがある。
なにを、何回、どういう順番で、行うか、それをプレーヤーに考えさせる。
MP制でなくPP制にしたのもそのせいだと思う。
もちろん、これが対戦という状況においてさらに頭脳戦の楽しさとなるだろうことは想像に難くない、
(5)通信要素
思えば、初代ポケモンのグリーンとレッドの2バージョンを用意することで、通信なくしてコンプリートできない仕様にしたのは画期的だった。
最近だと、インターネットにより携帯機でなくとも通信は可能になったけれど、ネットワーク利用で面白さを倍増させることに関しては、これ以上のゲームはなさそうだ。
面白さを倍増と書いたが、累乗といっていいかもしれない。
ラブプラスがDSの特性を最大限生かしたゲームとか言う意見を聞いたけど、そんなレベルを遥かに上回る。
やりこみ要素が強いのに、廃人も初心者も、小学生も大きなお友達も、みんな楽しめる。
以上、近作のポケモンでゲーム史上画期的というようなシステムはない。
ただ、集大成だ。
そのクォリティが高すぎて、RPGというよりもポケモンという新しいジャンルだと言っていい。
しかし、おそらくこんないろんな要素を絶妙なバランスで詰め込むのは他社には出来ない芸当だったと思う。
どうせ子供向けだろとか、グラフィックのドットが粗いとか、そう思って見向きもしてないだろうけど、みんなポケモンやってみてくれ。
遺書を置いて消えた人を探す手伝いをした。無事見つかったそうだ。ほっと一息ついたけれど、ふと思った。
それは本当に、「その人のために」いいことなんだろうか?
時折「いきてくのやだなあ、しんどいなあ」と思う自分としては、助けるのは簡単だけどその後のことまで考えてくれるの?と思ってしまうことがある。
私なんか転職回数は多いわ、恋人はおらんわ、人間関係ヘタで精神病んで三十なのに無職暦数年、あげくの果てに治る見込みのない慢性疾患もち。
医者は「やすんでいていいんだよ」っていうが、もう三年だ。まだ治んないのか。治ってない。家でたら三十分で鍵かけたか心配になる。引き返す。確認する。
仕事でたら手順が正しいかどうか何回確認するかわからない。
一応資格の勉強はしているけれど、受かったところで職につく見込みもあるわけじゃない。
暗いこと考えれば考えるほどイヤになってくる。手が汚いような気がしてきて何回も手を洗う。薬を飲む。
なんだかどーでもよくなって漫然と時間が過ぎていく。過ぎた時間はかえってこない。
死のうなんて意志もとっくに消えうせて薬で動いてるゾンビ状態だ。
それでもやすんでていいと医者はいう。
このあとはどうなるんだろう。治らなかったらどうなるんだろう。家族も全員死んでそのあとは廃屋になった自宅に一人で孤独死だろうか。
それより前に薬が切れて発狂か、慢性疾患で死ぬか。遅いか早いかの違いだ。
私はもう死ぬなんて気力もないけれど、昔自殺しようと思ったとき、仮に助けてくれた人がいたとしてその人に感謝できるだろうか。
状況は何一つ変わらない。私の病も職歴もなにもかも変わらない。なにかできるかもしれないと希望を抱くには年をとりすぎたかもしれない。挫折しすぎたかもしれない。
命を助けてくれる人はその後の面倒まで見てくれるわけじゃない。結局なにも変わらない、悪化したとしても逆はない事態があるだけだ。
それでも自殺をとめるなんてことが私にできるんだろうか。
「生きていればいいことがあるよ」たぶんそれでもそういって私は自殺を止めるだろう。
そんなことはあんまりないと知っていても見捨てることはできそうにもない。おそらく、見殺しになんか怖くてできないのだ。その人のためでなくて、自分が見殺しにしないということを証明するためだけに助けてるのだ。情けない。
年をくって簡単に助けるなんていえないんだとやっとわかったが、やることは変わらない。また私は安易に手助けするだろう。仮に私が生きていたら。
生きていればいいことがあるんだろうか。たぶん、あるんだろう。そう思わなかったらやりきれない。
http://anond.hatelabo.jp/20090218005155
村上春樹:「常に卵の側に」( http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html )でハアレツに寄せられたコメントの一部です。
http://www.haaretz.com/hasen/objects/pages/ResponseDetails.jhtml?resNo=4542207&itemno=1064909&cont=2
Title: To Mr. Murakami: a few words of reply from an egg
Name: A Philosopher
City: State:
First, let me welcome you to the region. Second, I would like to disagree with you about your description of literature as a skilful lie. A lie must, by definition, involve malice, deception, whereas literature is about imagination: there is no malice about that. Unfortunately, much of what you hear lately on international TV about Israel are indeed lies, not even fiction. You say that Israel is the wall and the Palestinians are the eggs, just because we have Tanks. You tend to forget that the Palestinians are part of more than one billion Muslims in the world, many of whom would like to get rid of Israel if they just could. You also forget that if the situation were reversed and the Palestinians were instead in possession of tanks, there wouldn`t be any eggs left in the middle-east. The wall we build is exactly to protect us, as eggs, from the wolf lurking outside. And If the terrorists didn`t use their own eggs as shield, they wouldn`t break either. All the best to you.
題:村上さんに卵からいくつかの回答
まずは、中東までご苦労さまでした。で、技巧に富んだ嘘として文学を称された件については賛成できません。嘘とはその定義によれば、悪意やごまかしを含んでいるのに対し、文学は想像力に関するものであり、悪意はありません。不幸にもイスラエルに関してあなたが国際報道で目にしたことはまったくの嘘であり、創作でさえありません。イスラエルは壁でパレスチナは卵だとおっしゃられますが、たまたま戦車が私たちにあっただけです。お忘れのようですがパレスチナは10億以上の人口を抱えるイスラム世界の一部です。その多くがもし可能ならイスラエルを消滅させたいと願っています。逆の立場で考えればパレスチナ人が戦車を持ったら中東から卵は消え去る事も思い出して下さい。外をうろつく狼から身を守るためだけに私たちは壁を作ったのです。テロリストが自分のところの卵を人間の盾に仕立てなければ、割れることもなかったでしょう。
http://www.haaretz.com/hasen/objects/pages/ResponseDetails.jhtml?itemno=1064909&resNo=4543094
Title: Like Quixote tilting at windmills
City: Barcelona State:
I don`t doubt that this fellow`s books may be addictive, but I do doubt the value of getting hooked on stories that are all, apparently, based on a false ontology of the world being clearly divided into "walls" and "eggs." As talkback #1 points out, even tank-drivers have their fragility, and to deny their humanity by summarily labeling them "walls," and considering them to be part of some chimerical menace called "the system," is to paint a thin veneer of chivalry over a rotten base of moral recklessness.
What`s been going on in Sderot over the last several years? Have Gazans, driven to desperation by the evil system-monster, been left with no option but to toss their eggs against the walls that surround them? Is it evil for people on the receiving end to retreat unto bomb-shelters (aka "walls") against which these eggs can`t help but break?
Mr. Murakami, walls don`t break eggs unless there is someone throwing those eggs.
題:まるでドンキホーテ
彼の本がやみつきになるのは私も否定しないが、与太話、明らかに間違った本体論、つまり「壁」と「卵」とに世界を分類するというのは何の意味もない。1番目のコメントが指摘するように戦車の兵士だって(卵のように)壊れやすい。あっさり彼らを「壁」とひとくくりして、「システム」という名のでっちあげた脅威にしたてるなんて、わけわからん理由で廃屋に挑む騎士のようなもんだ。スデロット(Sderot)でここ何年もなにが起きている?ガザの連中は悪のシステムモンスターのせいでやけっぱちのやけくそで自分とこの卵をぐるりと囲む壁に投げつけたというのだろうか?シェルターに追いつめられた(これも「壁」だよね、卵は仕方なしに投げつけられて壊れる)人々が邪悪だって?村上さん、誰かが卵を投げなければ壁は卵を壊さないんだよ。
http://www.haaretz.com/hasen/objects/pages/ResponseDetails.jhtml?itemno=1064909&resNo=4543134
City: Amsterdam State:
bit folish to say that the only option is that the hurt civilians are the eggs and the israeli tank and bombs are the wall. Never thought that the israel people are the eggs in a small basket called eretz jisrael which is surrounded by a rather large muslim wall?
No fiction here mr , just hard facts.
Kind regards from the Netherlands
題:壁と卵
負傷した人々が卵でイスラエルの戦車や爆弾が壁だとしか言えないなんてちょっとまぬけだね。もっと大きいムスリムの壁に包囲されたイスラエルの地(eretz jisrael)という小さなかごにいる人たちが卵だって考えなかったのかね?フィクションじゃないよ、ちゃんとした事実だ。
http://www.haaretz.com/hasen/objects/pages/ResponseDetails.jhtml?itemno=1064909&resNo=4543210
Title: re #5
Name: B
I get where you`re coming from because I`m tired of utopian solutions from dreamers in Europe.
But I believe Murakami is a guy who also understands the tank driver and our kids in Sderot. I know we`re not used to having media acknowledge our citizens as people, so we get defensive, but I give Mr. Murakami the benefit of the doubt.
From his speech I feel he`s criticizing the entire system that has our neighbors trying to destroy us in the first place and the world legitimizing it and the common acceptance of boycotting Israel because it`s the in thing to do. This guy is acknowledging our fight to overcome this as individuals and as societies.
This guy is deeper than our critics from Europe, and this guy is a novelist, not a critic.
In Norwegian Wood he painted a really accurate picture of some self-righteous university organizations, quite similar to many of our critics. All I`m saying is before dismissing him or arguing, see that he`s not picking fights or sides.. besides us eggs
ヨーロッパの連中が言うユートピア的解決にはもう飽き飽きしちゃうよね。
村上は戦車の兵士やスデロットの子供たちも理解していると思う。メディアはぼくらを人間あつかいしないから、防戦一方だけど。でも村上さんに対して性急な判断は控えたい。ぼくらのご近所さんがイスラエルを破壊しようとしている事、世界がそれを正当化しようとしている事、イスラエルボイコットの考えが一般化する事を強制するシステム全体を非難しているようにぼくには思えた。こいつは僕らの戦いが個人として、社会として克服されるって事を知ってる。
ヨーロッパの評論家よりずっとわかってるし、彼は小説家であって評論家じゃない。
ノルウェイの森に出てくる独善的な学生運動家は評論家連中みたいで、きっちり描かれている。彼のことをくさす前に、論争を挑んだり一方の側につくつもりがないのを理解しないと。
「今でもな、口だけは達者なんよ」
一見廃墟にすら見える店内で,100才にもなろうとしている彼女は呟いた.
この日僕ら双子の兄弟が、この駄菓子屋を訪れたのは全くの偶然だった.
10年以上前、僕らが小学校だったとき、その駄菓子屋は僕らの社交場だった.
親からもらった100円玉を宝物のように握り締めて、少年達がそこを訪れる.
10円ガム、20円のチューベット、5円のメンコ。
50円で当てたくじびきの一等賞。かけがえのない、価値あるゴミたち。
その頃、100円は確かに大金だったのだ。
また、キラキラに光るメンコたちもそこでは価値ある交換財として流通していた。
そこはまさに僕らの経済の中心地だったのだ。
のみならず、そこは政治の中心地でもあった。
放課後の夕焼け空の下、僕らは店の前で毎日真剣に討議していた。
例えば、とある日の案件は担任の先生が「バツイチ」であることについてだ。
2時間に渡る討議の末、ぼくらは「バツイチ」を「何かあまりよくないこと」であると定義した。
女の子を泣かしたか、など話題には事欠かなかった。
兎にも角にも、僕らは毎日その駄菓子屋に入浸っていたのだ。
最後にそこを訪れてから一体何年になるのか、思い出せないほどの時が経った。
ましてや大学で東京に行った僕はもはやその駄菓子屋の存在すら忘れていた。
再びその駄菓子屋を訪れたきっかけは、祖父の一周忌だった。
有難いお経を眠気に打ち勝ちながら聴き、
1万回ほどは繰り返されてるであろう親戚との会話を嗜み、
へとへとに疲れた法事の帰り道、たまたまその駄菓子の前を通った.
外から見る分には以前と何も変わらない様子の駄菓子屋の戸が開いていた.
「珍しい、ここ半年ぐらい戸が開いてなかったのに」
弟が気づいた。せっかくだ。十数年ぶりにあの店で何か買おう。
懐かしさも手伝い、我々は店の中に入ってみることにしたのだ。
戸の前まで来た、僕らは足を止める。様子がおかしい。
立ち込める埃独特の匂い、棚に張った蜘蛛の巣。
「ここ、もうやってないんとちゃうん」
そう呟きつつ中に入る。
おそるおそるカウンターの方を眺めると、
僕の存在に気づいた店主が、ゆっくりと顔上げる。
「すまんなぁ、もう何も売ってないんやわ」
と申し訳なさそうに言った、その時弟も店内に入ってきた。
ゆっくりと顔を上げてスーツ姿の2人を交互に眺めた店主はつぶやいた。
「あんたら増田はんか?」
店主は双子の僕らのことを、憶えていてくれた。
そのことに、驚きと喜び、そして懐かしさがこみ上げた。
「店、もう、やめてしもたんですか」
戸惑いつつ尋ねる僕に、店主は答える。
「もう、しばらく前からやっとらんのよ。
今日はな、たまたま用事があって、ついでに店よったんよ。
ここおったら顔なじみが来てくれるからなぁ。」
なお続けて、店主は語る。
「ちょっと前までは、アイスクリームだけ売ったりしよったけどな。
もう今はスーパとかで特価で売いよるから、こんなところで買ったら親に怒られるやろ」
僕らのかつての経済の中心地は、あっさりと巨大な資本主義の渦に飲み込まれていたのだ。
「けど、元気そうですね」
「今でもな、口だけは達者なんよ。もう体が痛ぁなって動かんもんな」
「そんなこといわんと、長生きしてくださいよ」
「いやぁ、あんたらもう結婚するような年のに、こんなに生きとって申し訳ないわ。
お迎えが来るんを待っとるんよ。」
意味がわかりつつも、こういう時どう言葉をかけて良いかまだ知らない僕は、
鸚鵡返しをしてしまう。
「お迎え?」
「中々な、父ちゃん、迎えにこんのよ。
早よう向こう行きたいけど、中々向かえがこんからな。
こっちから行くわけにもいかんからな」
店主が朗らかな笑顔で呟くと、ゆるやかな沈黙がしばし場を包み込む。
「会えて、良かったです。」
弟がフォローにならないフォローをする。
「また、来ます。」
入る前は何も変わってないように見えた駄菓子屋。
改めて見ると、戸は少し歪んでおり、壁の色は以前よりもずっとくすんでいた。
帰り道、頭の中で輝かしい思い出と、廃屋で朗らかに終わりを待つ店主の顔が交錯する。
あらゆるものが、目まぐるしく変化していく。
しかし、それでも店主は僕らのことを覚えていてくれた。
そこには、意味があるのだと思う。