2010-05-29

たすけるということ

遺書を置いて消えた人を探す手伝いをした。無事見つかったそうだ。ほっと一息ついたけれど、ふと思った。

それは本当に、「その人のために」いいことなんだろうか?

 

時折「いきてくのやだなあ、しんどいなあ」と思う自分としては、助けるのは簡単だけどその後のことまで考えてくれるの?と思ってしまうことがある。

私なんか転職回数は多いわ、恋人はおらんわ、人間関係ヘタで精神病んで三十なのに無職暦数年、あげくの果てに治る見込みのない慢性疾患もち。

医者は「やすんでいていいんだよ」っていうが、もう三年だ。まだ治んないのか。治ってない。家でたら三十分で鍵かけたか心配になる。引き返す。確認する。

仕事でたら手順が正しいかどうか何回確認するかわからない。

一応資格勉強はしているけれど、受かったところで職につく見込みもあるわけじゃない。

暗いこと考えれば考えるほどイヤになってくる。手が汚いような気がしてきて何回も手を洗う。薬を飲む。

なんだかどーでもよくなって漫然と時間が過ぎていく。過ぎた時間はかえってこない。

死のうなんて意志もとっくに消えうせて薬で動いてるゾンビ状態だ。

それでもやすんでていいと医者はいう。

 

このあとはどうなるんだろう。治らなかったらどうなるんだろう。家族も全員死んでそのあとは廃屋になった自宅に一人で孤独死だろうか。

それより前に薬が切れて発狂か、慢性疾患で死ぬか。遅いか早いかの違いだ。

 

私はもう死ぬなんて気力もないけれど、昔自殺しようと思ったとき、仮に助けてくれた人がいたとしてその人に感謝できるだろうか。

状況は何一つ変わらない。私の病も職歴もなにもかも変わらない。なにかできるかもしれないと希望を抱くには年をとりすぎたかもしれない。挫折しすぎたかもしれない。

命を助けてくれる人はその後の面倒まで見てくれるわけじゃない。結局なにも変わらない、悪化したとしても逆はない事態があるだけだ。

それでも自殺をとめるなんてことが私にできるんだろうか。

  

「生きていればいいことがあるよ」たぶんそれでもそういって私は自殺を止めるだろう。

そんなことはあんまりないと知っていても見捨てることはできそうにもない。おそらく、見殺しになんか怖くてできないのだ。その人のためでなくて、自分が見殺しにしないということを証明するためだけに助けてるのだ。情けない。

 

年をくって簡単に助けるなんていえないんだとやっとわかったが、やることは変わらない。また私は安易に手助けするだろう。仮に私が生きていたら。

生きていればいいことがあるんだろうか。たぶん、あるんだろう。そう思わなかったらやりきれない。

この年になってこんな中二病まがいの愚痴を吐くとは思わなかった。

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