2022-07-22

努力特異点

 努力を質や成果に転換することは非常に重要で、それが無い努力には基本的には意味がない。

 それは厳然とした絶対事実であって、我々はその事実を厳粛に受け止めなければならない。質に転換することのない無為努力に対して、我々は常に自戒しなければならない。

 しかし具体的にどうすれば努力が質なり成果なりに転換するのかと言うと難しい。努力の転換、あるいは変換、その神秘さえ分かれば我々は今いる場所よりもずっと遠くに行けることに間違いはないのだけれど。


 技術的特異点という言葉SFの筋書にのみ使われるのではなく、現代において現実味を帯びて語られている言葉でもある。AI自分よりも優れたAIを無際限に産出し続ける状態へと移行すること、これが技術的特異点である。これが実現すると、AIは無際限に進歩を遂げることとなり、その高度さは到底人間の及ぶところではなくなる。

 努力特異点というものがあるとすれば、恐らくそれは、努力努力の質に対して向けられ、無際限に努力の質が進歩していくあるポイントのことを指すのだろう。努力を続けることによって、努力の質自体をより良質なものへと転換していくことのできる努力。そんなものがあると良いのだけれど。そんなものが本当に存在するのだろうか。

 逆に考えてみよう。短期的に効果はあるかもしれないが、やればやるほど努力の質を下げていくタイプ努力。そういうマイナス努力というものは実際に存在する。例えば、過度にカフェインを飲んで集中力を高めた状態で何らかの目的に取り組むこと。時にこういう努力短期的な成果に繋がるけれど、一方でカフェインによって酷使された肝臓やら副腎やらは徐々に彼の努力の足かせとなっていく。つまり、これは努力の質を下げるタイプ努力であると言えよう。このような努力によっては、努力特異点に到達することは夢のまた夢である

 逆に、努力の質を上昇させる努力というもの存在しているとすれば、それはどんなものであろうか。そして実際に存在し得るのであろうか。

 結論から言えば、そのような努力は恐らくは存在している。つまり、先程の努力の逆を考えてみれば良い。体の状態悪化させる一種の薬剤やサプリメントとは逆に、身体状態を良くする栄養価の高い食事や深い睡眠、好ましい人間との有意味な会話、適度な運動、適度なストレス、そういったもの人間努力の質を高めることには論を待たない。こういう努力は、努力の質を漸進させる努力、人を努力特異点へと誘なっていく努力であると言って相違ないだろう。

 とは言え、そのような努力あくまで補助的であり、また、そのような努力によって漸進される努力の質にも限界はある。そういう意味で、もっと質の高い、努力の質を高めるための努力必要になっている。


 最近分かってきたのだけど、この「努力の質を高める努力」に有力なのは、「脳のモードを切り替えること」だと気付いた(気がする)。


 脳のモードを切り替えるというのはどういうことかと言うと、例えば、ある時に文章を書いている。文章に集中することによって、その文章を書いている人間脳味噌文章モードへとシフトしている。そのようなモードは、きっと人間料理モードに入っている時とは異なっているはずだ。

 このように、とある事柄に対して集中し、ある種の「モード」へと入り、然る後に、例えば絵を描くことな将棋の棋書を読むことなりといった別の「モード」へと、脳を切り替えること。

 こういう努力の仕方が、恐らくは努力の質を大きく高めることへと繋がっていくのである。と最近になって感じた次第である


 ちょっと話は変わるが、漫画おおきく振りかぶって』にて、野球選手故障について語られるシーンがある。野球選手故障は何故起きるのか、また、どのようにして防ぐことができるのか、という重要質問に対して、作中で以下のように語られている。

 つまり野球選手は左右の筋肉バランスが崩れがちであることが、故障の原因なのではなかろうか、と作中では結論されていたのである

 例えば、右投げのピッチャーは当然右腕を酷使する。その結果、左右の筋肉の配置のバランス、あるいは骨格の配置のバランスが、非対称になる。筋肉や骨格のバランスが崩れる。

 本作によれば、このバランスが崩れた状態こそが、選手故障を招きやす状態であり、少なから故障の原因となりうる状態なのである

 そのため、右投げの選手は左右の腕に同様のトレーニングを、左右対称的に施すことによって、筋肉対称性バランスを保ち、故障を予防することができるのではないか、と作中では仮説が述べられていた。

 例えば、テニス選手野球選手同様に手足を酷使するが、バックハンドとフォアハンド双方の筋肉を鍛えるため、バランス良く筋肉が育ち、故障しにくい対称的な骨格と筋肉を手に入れることができるのである――とも作中では述べられていた。


 当然ながら、あくまでこの「左右のバランスを保つことによって故障回避できる」という説は仮説に過ぎず、検証必要な仮説であり、すぐに信用することはできない。

 とは言えこの仮説においてポイントとなるのは、ある行為をする際に、直接的に使う筋肉以外の筋肉を育てておくことが、時に重要になるのではないか、という主張である。右投げの投手が主に使う筋肉以外の筋肉、例えば左腕の筋肉が、右投げの選手身体運動において補助的な効果を発揮するのではないか――それも、好意的効果を発揮するのではないか――という主張。大元の仮説の当否には怪しいものがあったとしても、このような主張は興味深く、特筆に値するポイントであるように思われる。

 それを踏まえた上で、話を元へと戻す。


 つまり、脳のモードを切り替えて、様々な脳のモードを鍛えることによって、ある物事に集中する際に際立って用いられる脳の部分『以外の』部分も鍛えられ、そのような努力によって、例えば文章を書く際に際立って活性化される脳の部分『以外』の部分についても鍛えることができ、そのような一見直接的に関係なく連関の無い脳の鍛え方が、却って補助的に、ある分野の知的活動寄与するのではないかということなである。つまり文章を上達させたいのであれば、愚直に文章だけを書き続けるのではなく、様々な別分野の努力をすることで、様々な脳のモードを鍛え上げ、文章を書く際の補助的な効果を促進していくことが重要なのではないか、ということなである

 かつて俗説で、人間は生涯において脳の三割程度の能力しか用いていない、というものがあった。このような俗説は現在否定されているが、翻って、脳はどんな行動をするにせよ『全体的に』用いられるものなのだ、という主張を導くことができるだろう。つまり文章を書く際に活性化する脳の部位以外の部分も、文章を書く際にはある程度使用されている。となれば、このような部分について鍛えるために、例えば文章を書く以外の努力をすることが有力なのではないか、ということを私は言いたいのである

 絵を描く時には、恐らく脳の中には際立って活性化する部位があり、あるいは将棋チェスを指す際にも、恐らく絵を描くために活性化する部位とはまた異なって活性化する部位が存在することになるだろう。そうだとすれば、様々な努力モード体験することは、脳の様々な部位を活性化させることに繋がる。したがって(あるいは翻って)、そのような様々な部位を活性化させる努力は、絵を描くことでもなく、将棋チェスを指すことでもない別の行為をする際に、補助的な役割を果たすのではないか、ということなである


 色々なことに集中して、モードを切り替える努力が、脳の成長には欠かせないのではあるまいか。それらの努力こそが、我らが努力特異点寄与する努力ということになるのではあるまいか

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