2018-05-24

自分について

高校生の時、周りが就職や進学などでいろいろ騒いでいる中、自分は何がしたいのか、まったくわかっていなかった。また、それに対しての焦りも感じておらず、どうにかなるだろうと、漠然と思っていたものだ。では、その高校生の時になにをしていたかというと、特になにもしていない。中学校の頃はバスケットボールをしていたのだが、高校に入ってからはやめてしまった。友達と遊ぶのが楽しかったのだ。

自分友達というのはいわゆる「悪友」で、よく酒を飲んだりタバコを吸ったり夜遊びしたりしていた。(もちろん、シンナー暴走族といった、本格的な悪友では無かったが。)週末になると「ドーバン、ドーバン(土曜の夜のこと)じゃけーけーや(だから来いよ)」と呼び出しがかかり、深夜の駅前の街で違う学校の奴や女の子たちと酒を飲んだり、道の真ん中に円状に座ってボケ合戦をしたりして盛り上がっていた。2年生の頃から付き合っている彼女がいたので浮気することはなかった。

あるとき、町中に「fan」というファッションビルができた。スカスカファッションビルで、小さな舞台テレビ局内包しているもので、ヒマ人だった自分たちは、そこに女子校女の子たちがよく遊びに来るという情報を聞きつけていたので、学校帰りによくそファンクに立ち寄っていた。女の子とも仲良くできるし、行けば誰か知り合いがいたので、ファンクに行くのは楽しかった。そんな日々を過ごしていると、小さな舞台撮影をしているのを見学していたら、「漫才師募集テレビに出てみませんか」という告知が。趣味コンビを組んでいた(学校旅行とかで披露するため)自分おもしろがって応募する。そしてその場でショートコント3分ほどやった。コンビ相方が変わったがテレビに隔週で出れる事になった。なぜかギャラはいつも3000円分のお食事券だった。

そんな生活だったから、もちろん成績も悪く、また、勉強する気もまったく無かった。周りも同じだった。

卒業後、とりあえずなんの目当ても無く東京上京する。親の知り合いの娘が自分と入れ違いで岡山に帰るということで、そのままその部屋を借りることになる。家具スクーターをもらって、経堂という世田谷区小田急線沿線の駅に住む事になった。

本当になんのアテも無かったので新宿ビアホールアルバイトをしていた。始めてのアルバイトはけっこうきつく、ビアジョッキをよく落としたりお客さんにかけてしまったりした。それでもあまり怒られる事はなく、東京って優しい人が多いなーと思っていた。アルバイト大学生ほとんどであったが、友達大学生が増えてきても、まだ大学に行ってまで勉強する意味がわからなかった。いまだにあまりからないのだが。アルバイトは他にも飲食店を何度かやった。

高校卒業時、服、特に裏原宿系」と言われるものに興味を持っていた。そこでそういった服を扱う広告制作会社就職一年間ほどそこで営業広告制作取材などしていた。れっきとした下働きであったが自分用のパソコンも与えられ、そこでコンピュータの使い方、(イラストレーターフォトショップなど)を覚えた。しばらくして、なんか違うということで、やめた。それが20歳のころ。

とりあえず働かなければ、ということで派遣アルバイトプレイステーション2メールサポート、という非常に地味な派遣バイトを始める。時給が1500円とすごく良かった記憶がある。そのバイトでは、周りにパソコンに詳しい人が多かったから、ホームページの作り方を教えてもらう。プログラム視覚的に色や形になるのが面白い。なかなかホームページを作るのは楽しく、そのころ友達趣味で作っていたTシャツインターネットで売り始める。けっきょく一枚しか売れなかったのだが、インターネット面白さに目覚めたので、ウェブ制作会社就職する。半年ほど働いて、会社がつまらない仕事ばかりするので辞める。22歳。

ウェブ制作派遣アルバイトをしつつ、個人グラフィックウェブ仕事を受注しはじめる。そのころフラッシュサイトを作れる人が少なかったらしく、仕事にこまることは無かった。グラフィックフライヤーメモ帳DVDパッケージなどを作った。ウェブサイトはいくつかコンペに勝って受注することができた案件もある。しかしながら、クライアントディレクタープロデューサーと、、、何層にもなっている仕事の進め方にうんざりして、つまらなくなってきていた。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん