「坂村健の目:被ばく影響、科学界の結論」という記事がはてブでは人気のようだがこれはそんなに良い記事だろうか?
福島について人々が不安を口にするのは「一部の専門家といわれる人」や「マスコミ」に責任があるというきわめて乱暴な論であり、「ネットでは、この報道の少なさに違和感を覚えるという多くの書き込みがされている」という詭弁のテンプレのような表現まで使われている。
震災から6年半を経てなお福島に対する悪印象が消えないのは、廃炉の問題が定期的に悪いニュースを提供し続けているからだろう。
期間は何十年、費用は何十兆円かかるかもはっきりせず、震災当日はおろか現在の炉の内部の状況すら完全には把握されていない。メルトダウンした核燃料の取り出しはおろか、凍土壁による汚染水の閉じ込めすらうまくいっているか不明という状況だ。
防護服を来た作業員の映像を見るたびに、我々は今現在も自分たちの国土には汚染された部分があるのだということをはっきり自覚させられるし、数々の報道は現地の労働環境や下請け構造が決して健全なものではないことを物語っている。
日本の誇りであるとされたロボット技術も炉内の過酷な環境下では通用せず、投入されたロボットたちは次々と倒れていった。
「アンダーコントロール」や「東北でよかった」といった政治家たちの失言も、福島に残された廃炉という課題を日本の指導層がいかに軽視しているか強烈に印象づけた。
こうした福島に関する報道を目にするたびに、私たちは自らの恥部を大写しにして見せつけられているような気分になるのだ。安全対策の提言を企業組織が無視しなければ防げた事故、二転三転する廃炉のプロジェクト管理、汚染された国土、労働の不健全な受注構造、科学技術大国日本の凋落、言葉の重みを理解しない政治家、こういった日本という国の恥部の数々を凝縮して次々と我々の前に突き出してくるのが福島の廃炉の問題なのだ。
「フクシマ」というカタカナ表記が気に入らない人々が多いようだが、英語で fukushima と検索すればトップに出てくるのは街についてではなく事故についてだ。日本国外では福島はもはや地名としてではなく、チェルノブイリやスリーマイルと並んで原子力事故を表す固有名詞としての意味合いの方が強くなっているのである。日本語での表記を行う場合に、通常の意味での「福島」と、特に汚染された地域を表す「フクシマ」を使い分ける意味があるのかは書き手や読み手の感覚の問題として残るが、後者の方がより意味が絞られ情報量の多い単語であるということもまた事実である。
どれだけデマが流れ、マスコミが誤報を流そうが、仮に現在の福島に何も問題が残っていなかったとすればそれは時間が解決する問題である。どれだけ時間がかかろうが事故は歴史の一部となり、人々は福島についていたずらに不安を口にすることもなくなるだろう。
しかし現在も我々の国土には回収不能な核燃料の塊を内部に抱えた福島第一原発が依然として存在している。福島について人々が口にする不安は、6年前の記憶に基づいたものではない。それは今起こっている出来事についての不安なのである。
これはああ言えばこう言うのうちのひとつ。 どうして風評によって福島の人々を苦しめて幾人を死にまで至らしめたことについて、ごめんなさいと言えないのだ。
国語辞典を見てほしい。「幾人」という言葉はそのままでは「何人」と同じように、人数がどれほどか尋ねるために使われる。「幾人を死にまで至らしめたことについて」という部分は...
ほとんどタイポみたいなもんなのによくもまあ長々と。