社会は一層利便性を増し自由になっていくわけなので、1世代前、2世代前にあったような「不自由さを提供するサービス」というのはもうない。
お前はこの村社会に帰属しなければ飢え死にますよ、とか、一定の年齢になったのでお前はこの人と生殖しなさい反論は許しません、とか、お前はこの家の労働単位として一生働きなさい――みたいな「サービス」はどんどん無くなっていってる。だいたい日本では根絶されたのじゃ無かろうか?
僕たちはその代わりにコミュニティ参加の選択権や、自由恋愛や結婚の相手を選択する権利、職業の自由を手に入れた。ばんざーい。
しかしそこに現れるのは自己責任であり競争なのである。もはや僕たちは「どんなボンクラでも村システムの労働単位として悩み無く生きる」という選択肢をもっていない。全部自分で決めて、決めるのはまだ良いんだが、自己の能力で入手しないといけないのである。あるいは自己の能力においてお前は入手できなかったのだと罵倒されるしかない。
インターネットをはじめとしたIT技術によって巨大視野を入手した僕たちは、巨大なビルボードのなかで自分の現在ランクを常に再確認しながら、手持ちのカードをやりくりして様々な自由選択をし続けなければならないのであった。
ポイントはコミュ力。それがあると色々上手くいくらしいと風の噂で聞いた。まあとにかく意識の高い西東京ではそうだという話だ。
でもねコミュ力とかぼかした言い方いい加減やめましょうよ。それ政治力っすよ。集団の中で自分の意見を通すための技術、能力。それは政治力と呼ぶべきですよ。あるいはコミュ力と呼ばれているものは政治力の下位能力に過ぎませんよ。みんな本当は判っているくせに。
そして政治における低位の技術とは他の参加者を中傷してそのランキングを下げることなのだ(より上に行くとこのかぎりではない。中位では自他共栄戦略の方がなにかとメリットが大きい)。
ビルボードランキングにおいて一億総政治技術者時代を迎えた現代人は、早い時期からそれを学ぶのであった。たとえば小学校のクラスにおける派閥とイジメという形で。はっきり指摘しましょうぜ。イジメは、政治能力の格差によって起きるのだ。僕たちはこの自由が増大した社会において、政治能力が低いと生け贄にされるということをよく知っているはずではないか。
そしてそのサバイバルは小学校を卒業した後にもずっと続くのであった。恋愛という自分-あなたな1on1関係というのはもう完全に幻想で、そういう完結した一対のカップルというのは基本的にオタクの憧れでしかないのだ。通常、恋愛というのは、(多くの場合異性の)参加する一定サイズのコミュニティの中で発生する。友人関係10人とか、職場の同僚関係とか。そのコミュニティの中でお互いがお互いの政治力の照射として作り上げた居心地の良さに惹かれあい、上手くいけば結ばれる。いきなり天から美少女が振ってきて/鏡から女神が出てきて/お兄ちゃんと呼ぶ娘が同棲してきてと言うのはロマンチックだけど現実的ではない。恋人の前にまず友人。交友関係というのは大事。友だちの多い人ほど彼女が出来やすいのだ。やっぱり政治能力は何処までもついて回る。
事実としていまや全員がビルボード・サバイバーなんだから、その件については素直に見つめて、政治の季節に納得した方が良いと思う。特に日本の教育は奇妙に潔癖なので「正しければいい」とか子どもに教えがちだけど、実はあんまりそんな事はなく付け届けはいまでも有効な戦略だったりする(付け届けの種類を考えることそのものが政治センスだったりするんだが)。
ビルボードがあるかぎり、そこに勝者と敗者、強者と弱者が存在するのは避けえないけれど、でもだからといって、全体の平均レベルというものは存在する。敗者だからとふてくされて自棄になりテロじみた行為を繰り返してもランキングは上がらないのだった。
そういえば、社会人力とか、大人力なんてことばもあった。