はてなキーワード: 周瑜とは
前漢の武将。衛青に従って匈奴征伐に出陣したが遅参してしまい「慣れない搦手の部隊に回されたせいで道に迷ったじゃねぇか!」と逆ギレして憤死。
『三国志演義』に登場する呉の武将。諸葛亮にことごとく策を読まれた上に「どうせ俺に勝てないんだから曹操に隙を突かれる前にやめたら?」と言われて憤死。
三国時代の魏の武将。有力な将軍であったが関羽に敗れて降伏した。のちに魏に送り返されたあと、関羽に命乞いしている場面の絵を見せられて憤死。
『三国志演義』に登場する魏の政治家。戦いの前に諸葛亮に論戦を挑むも「逆賊曹操に取り入って私腹を肥やしたくせにまだ手柄が欲しくて戦場に出てくるのかこのジジイ」と罵られて憤死。
『三国志演義』に登場する魏の武将。陣中で病にかかり重体となり、それを察した諸葛亮がここぞとばかりに送った挑発的な内容の手紙を読んで憤死。
三国時代の呉の武将。老害と化して後継者問題を引き起こした孫権が周囲の讒言を信じて何度も問責してきたため憤死。
梁の武帝。当初は名君だったが仏教に傾倒して国を衰退させ、宇宙大将軍が率いるたった1000人の反乱軍に敗れて首都を包囲され降伏、幽閉中に蜜を求めたが与えられず憤死。
東ローマ帝国の武将。東ローマ帝国の最大領土を築き上げたが、皇帝から必要なときに呼び出されてこき使われるだけの不遇な人生を送り、最後には無実の罪で逮捕されて憤死。
兄・桓武天皇から藤原種継暗殺事件に関係した疑いをかけられて流罪に処され、無実を訴えて絶食し憤死。
中国の名将について検索をかけたときによく挙げられている人物を紹介する。
春秋 | |
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孫武 | 世界史上に名高い兵法書「孫子」の著者。伍子胥と共に呉王が覇者となるのに貢献した。 |
戦国 | |
呉起 | 孫子と並び称される兵法家。いわゆる「呉子」。魯・魏・楚などに仕えたが、強引な改革で周囲の恨みを買って殺された。 |
孫臏 | 「孫臏兵法」の著者。友人に裏切られて罪人となり脚を切断されたが、逃げ出した先の斉で将軍となり、「馬陵の戦い」で復讐を成し遂げた。 |
白起 | 秦の名将。包囲殲滅戦の名手にして虐殺者。「長平の戦い」では四十万人もの捕虜を生き埋めにした。そのあまりの強さから王に恐れられて賜死された。 |
李牧 | 趙の名将。匈奴に大勝を収め、秦の大軍を退けたが、離間の計によって王に疑われて殺された。趙が滅亡したのは李牧の死からわずか三ヶ月後のことだった。 |
王翦 | 秦の名将。趙や楚を滅ぼし、始皇帝の中華統一に多大なる貢献を行った。猜疑心の強い始皇帝に誅殺されることもなく天寿をまっとうした。 |
楚漢 | |
項羽 | 反秦軍の中心となり西楚の覇王と号す。戦では無敗を誇ったが、それまでさんざんに勝ってきた劉邦に最後になって敗れ、自害した。 |
韓信 | 漢建国の功臣。漢の三傑。「背水の陣」で有名。魏・趙・斉を降して劉邦の天下統一を大いに助けたが、皇帝即位後は冷遇され、謀反を企んで処刑された。 |
西漢 | |
李広 | 対匈奴戦の名将。弓の名手として知られる。若い衛青が台頭したのち、その下で不甲斐ない戦いをし、それを恥じて自刎した。 |
衛青 | 対匈奴戦の名将。苦労人で人格者。低い身分から取り立てられ、匈奴と戦って連戦連勝し、その功績により大将軍にまで出世した。 |
霍去病 | 対匈奴戦の名将。衛青の甥。天才肌で直情径行。若くして匈奴との戦いで活躍し、衛青を凌ぐ名声を得るが、24歳で夭折した。 |
東漢 | |
劉秀 | 東漢の初代皇帝。「昆陽の戦い」では100万と号する軍勢をわずか1万の兵で撃破した。皇帝としては一代にして創業と守成を成し遂げ、功臣を粛清することもほとんどなかった。 |
班超 | 中央アジアを平定し、東漢の最大版図を現出した。西域に三十年間も留まったのち、洛陽に帰還して一ヶ月後に亡くなった。 |
三国 | |
曹操 | 東漢末における群雄のひとりから三国鼎立中の最大勢力にまでなり、後の魏・晋の礎を築いた。兵法家、詩人としても名を残す。 |
周瑜 | 呉の名将。美男子で有名。「赤壁の戦い」において魏の大軍を破った。 |
南北朝 | |
韋叡 | 梁の名将。身体が弱かったため、戦場では鎧を付けず輿に乗り、竹杖で指揮していた。南北朝最大の決戦「鍾離の戦い」にて百万の大軍を破る勝利の立役者となった。 |
陳慶之 | 梁の名将。わずか7000人の「白袍隊」を率いて北伐を敢行、連戦連勝で洛陽まで陥とした。「千軍万馬も白袍を避ける」と賞された。 |
唐 | |
李靖 | 唐建国の功臣。内戦においては中華統一に貢献し、外征しては騎馬民族を騎馬戦術によって滅ぼした。中国史上屈指の名将とされ、李靖に仮託して兵法書「李衛公問対」が書かれた。 |
李世民 | 唐の二代皇帝。李淵の次子として、隋末唐初の戦乱において多大なる軍功を挙げ、そのまま兄を追い落として皇帝となった。政戦両面における名君として知られる。 |
郭子儀 | 安史の乱を平定し、吐蕃やウイグルの侵攻を撃退するなど、幾度にも渡って国を救った。子孫、財産、長寿に恵まれ、万民から敬愛された。 |
宋 | |
岳飛 | 対金戦の名将。忠臣として名高い。私兵を率いてたびたび金軍を破るも、和平派によって冤罪を着せられ殺された。 |
明 | |
常遇春 | 明建国の功臣。常に先陣を切って戦った猛将で、日頃から「10万の兵士を率いて天下を横行したい」と語っていたため「常十万」と呼ばれた。 |
徐達 | 明建国の功臣。謹厳実直にして冷静沈着。総司令官として北伐を行い、元をモンゴル高原へと追いやった。朱元璋からは功績第一と称賛された。 |
朱棣 | 明の三代皇帝。甥の二代皇帝に反発して挙兵、圧倒的不利を覆して正規軍に勝利し、帝位を簒奪する。皇帝となった後も、自ら軍を率いて積極的な外征を行い、明の最大版図を築いた。 |
戚継光 | 私兵を率いて倭寇討伐に功を挙げ、また北方に赴いてモンゴルの侵入を防いだ。倭寇に対抗するため、中国全土の武術をまとめあげ、日本の剣術を研究したことでも知られる。 |
清 | |
左宗棠 | 自らを今孔明と称した。太平天国の乱の鎮圧に貢献し、洋務運動を推進した。さらには回民蜂起の鎮圧、捻軍の鎮圧、新疆の奪回など、清軍の大黒柱として活躍した。 |
歴史関係で三国志が話題に昇った時、非常に地味だったという記憶がある。
何故なら、呉といえば大事な戦が孔明の引き立て役となった赤壁、周瑜が頑張った荊州南郡、呂蒙が頑張った樊城、陸遜が頑張った夷陵、孫権が大敗した合肥と
数えるほどしかなくて、その中でも孫権自身が直接赴いた戦争が合肥くらいで、
その上、張遼に始まって満寵や曹休(石亭でのやり返しは陸遜・周魴による)、王凌などにボコられて負けたくらいのエピソードしか持たない
戦争に行けば必ず負ける郭図のような人物だったらしい。
そのため、甘露寺での劉備との同盟といった正に英雄と呼べる場面もあるのに
張昭の家を放火したり陸遜を根拠なく憤死させたり二宮の変での優柔不断さが原因で呉の滅亡を早めたりと
対する曹操が徐州大虐殺、劉備が長坂で妻子を捨てて逃げた事なんかよりもずっとクズだし、
何よりも孫権は上二人の英雄に比べて戦争に強いイメージがなければ、政治家として優れてたかすら疑問だ。
何せ、これまで暗愚扱いされてきた劉禅は宦官政治で朝廷が腐敗したとしても少なくとも40年は国を維持してきたとして
良君として再評価されつつあるのに対して、
孫権は二宮の変や晩年の後継者選び等の老害ぶりを発揮したおかげで若い時の事績が霞む程の暗君ぶりや兄孫策の偉業を評価せず
皇帝即位後、父は皇号だったのに兄には王号しか与えなかった事からも孫権自身の人間性を物語るのに十分だ。
そのため、彼に関して三国時代の三人の名君の一人に挙げられるとこれまで評価されてきたが、筆者はそれには否としたい。
偶然三国時代に入ったため、たまたま呉国の君主だった孫権が英雄扱いされてしまっただけだろう。
かつて劉備の代理として孫呉に訪れた際、共に赤壁を打ち倒しましょうと言ってすり寄った。
実際には漁夫の利を得た形で約束違反である荊州を簒奪した。漢朝廷にすら許可を取らなかったため、後に曹操に利用されて公式に周瑜を南郡太守、荊州総督を任せる等として荊州統治を孫呉に委ねたのだ。そうなると当然荊州の正当支配者は孫呉になり劉備は違法にそこを占拠してるに過ぎなくなる。そこで孔明は一計を案じて周瑜を誅殺し孫権から荊州を借りる形を取って劉備を統治者とした。当然条件付きで蜀を取れば荊州を全て返還するという劉備・孔明両名のお墨付きである。しかし蜀、そして漢中を奪っても返さなかった。孔明は嘘吐きである。これがきっかけで荊州争奪戦および関羽処刑事件に繋がるのである。また、後継者問題では自身の優位を絶対にするため、劉備信者の魏延らをあることないこと誹謗し続けたのである。これは一政治家としてあるまじき愚行であろう。ともすれば、これを手本とする日本の某政党は嘘吐きであることを肯定しているも同じである。
嫁に関して「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらう羽目になるぞ」という諺が存在するほどで人を見る目が全くない。
後に重用された悲劇の名将魏延も反骨の相(史実では不明)としており、一方で劉備が重用するなと言っていた登山家馬ショクへは自身の片腕以上の待遇だった。また、後蜀将として蜀漢を直接滅ぼす原因を作り滅んだ後も劉禅に迷惑を被って死んだ姜維へも彼は特別待遇にしていた。そう、孔明は老練の将軍よりも口先だけの若造を重用する傾向にあったようだ。だがそんな彼でも老練を重用することがあったのである。名前は李厳。後に李平と改名する政治家である。彼は孔明いわく「陸遜に匹敵する名相」だったが、才覚は確かにあったらしい。しかし性格に難があり、孔明はたびたび彼への諫言を聞くことになるが無視し重用し続けた。その結果231年の北伐の大惨敗を引き起こすことになる。とんだ見立てである。実は李厳だけではない。後に魏に投降したのち蜀に再び寝返り新城の戦いで司馬懿に瞬殺された孟達も孔明は重用した。実は孟達も才能はあったが、李厳同様性格に難があった。日本プロ野球選手に例えると中村紀洋である。孟達の面白い所は劉備に信任された上庸を守らず更に関羽からの援軍要請を無下に断り見殺しにした所であろう。彼は李厳と同じく才覚はあったが考えるところは常に目先の小利だけである。その結果、関羽は死にその責任を負わされることになった孟達は曹丕の元へ逃げそこで厚遇を受けた。しかし曹丕が死ぬと冷遇された孟達は蜀に帰りたいという非常に自分勝手な判断のもと蜀に保護を求めて降伏してきたのである。それを大いに喜んだ孔明は自らドツボにハマる事に気付かず結局孟達の死をきっかけに北伐は失敗に終わる。逆に彼が冷遇し続けた魏延は殿軍を務めるなど蜀を守る役目に徹して彼以上に功績を挙げてしまった。孔明は自分が貶めようとした者が成功するのを見ていられなかったのだろう。死の間際にこれまた後に蜀を滅ぼした姜維に後事を託して五丈原で病没した。その託した後事が問題で当時重用していた文官楊儀と確執のあった名将魏延を排除したのである。これを機に蜀は滅ぶ道を辿ることとなる。オチとしては魏延を廃した楊儀も後に謀反を起こして流刑となったことくらいか。
結局孔明は人を見る目が皆無で、結果として劉備に信頼されておいて蜀を守りきれず滅ぼす遠因を作ったのである。
漢の四相と称される孔明だが、それは内政だけの話でこと軍事においては亡きホウ統や法正に劣る。後の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で有名になる司馬懿は電撃戦を得意とし曹操にも警戒された天才で普通なら孔明では太刀打ち出来ない相手なのだがここでも孔明は嘘吐きの才覚を遺憾なく発揮するのだ。また、火刑オタクの陸遜は孫武に勝るとも劣らないと称された天才で孔明も対呉では慎重論を唱えたほどだ。実際には孫呉は派閥政権なので内側から崩せば安易に滅ぼすことも可能だった。また曹魏にしても司馬懿の専横を煽る批判文を口先だけは超一流の馬ショクがやって見せたように続けていたら内部亀裂は免れておらず面白いことになっていただろう。孔明は情勢音痴だったのだ。また地理にしても荊州や益州では無双だった孔明も長安への道についてはこれまでにない慎重な姿勢を貫いていた。これを地理に詳しい魏延にたびたび批判されていたことは有名で、子午谷を通る国士無双の名将であった韓信の攻略法を提案し続けたものの、却下し続けた。その結果が成果の見えない3度の北伐である。しかも孔明は人を見る目がなかったので要所要所を劉備にすら諫言された将を大将に据えて任せており、その都度名将魏延を殿軍にするなどして引き離すといった愚行を演じている。こと軍事においては後世の学者からしても魏延の方が上回っていたと指摘されることがあるが、実際その通りだったのかもしれない。孔明は何も成果を挙げられていないのだから。しかも北伐にかまけて劉禅の教育を怠り漢王朝滅亡の原因である宦官制を敷いていたことが後に蜀を滅ぼすのだから孔明は実は内政も言われてるほど優秀ではなかったのかもしれない(宦官は劉備提案かもしれないが)。
結論として孔明は、無能だが口先だけは一流の人間を重用し、まともな武将を片っ端から左遷しちゃうクソ政治家である。ま、そんな政治家を神としちゃう某政党も流石だとは思いますけどね。
以上、孔明は歴史捏造が生んだ最大の恩恵者であり、また稀代の嘘吐きである。某政党もこれを真似たのだから面白い。後に筒井康隆がその政党が政権を取ると日本が終了するといった旨の小説を書いているが、これは単なる偶然の一致なのだろうか。
ちょっと昔の話。今よりも僕はずっとずっと言い訳をするのが好きで、理屈を説明するのが好きだったんです。
でまぁ、当時も今と変わらず領土がないんで、
孔明と飲みながら「領土がない、だから天下統一ができないんだ」と文句言ってたのです。
江夏で。
したらまた、この孔明が「じゃあ、わかった」と言うのです。「今から赤壁に行こう」と。
水上戦なんかしたことないオレは焦りました。「いや、ちょっと待って」とあわてます。
でも孔明は、少し遠くで飲んでいる孫権と周瑜を指さし、「あそこ行って同盟を組もうぜ」と言い、席を立ちます。
オレは「いや、向こうも迷惑だし」とか「さすがにうざいっしょ」とか言って止めます。
孔明は「襲われたら小舟をつけて趙雲を待機させておけばいいんだよ」と言ってましたが、オレが動こうとしないので行くのをやめました。
「じゃあ、孫権と組まずに、曹操と組むか?」と孔明は言います。
「逆にそっちの方が難易度高いだろ」とオレは顔をしかめます。
「でも領土がないんだろ? だったら作るしかないだろ」と孔明は口調を強めます。
「そうだけど、もっと普通に漢中王を名乗りたいっていうか」とオレ。
「なに、普通って?」
「帝の詔とか、実は前漢の血筋とか、そういう…」とハッキリ言えない自分。
「じゃあ、オレが今から上奏してきて、それでお前を漢中王にしたらいいか? それも漢朝の勅令だよな」という孔明。
「それは…、だけど、ほら、お前もこの前言ってたじゃん。大義名分のない戦でついてくる武将って反骨の相が多いとか」
「は?」
「その…」
「…反骨の相じゃねぇよ。ノリが良い将だよ」
「あ、そうだったね。…でもオレ、ノリの良い将、少し苦手だし。そこまでして領土が欲しいってわけでもないし…」
孔明はオレの顔をじっと見つめながら、一言、
「だせぇ」
と言いました。
彼は言います。
言い訳をして、さも「こういう事情なんだ、だからしょうがないんだ」って言うけれど、
天下を三分する勇気もないやつが、領土がないとか言うんじゃない。
どうせ荊州に行けば「劉表には跡継ぎがいるから…」って言うし、
赤壁につれていけば「ああいう水上戦は苦手だし、東南の風も吹きそうにない」とか言うだろうし、
蜀のかわいい劉璋を狙えって言えば「いや、劉璋とは同姓で義に背くし」って何かにつけて言い訳するんだろ?
だったら「自分には他国の領土に侵入する勇気がないんです」って素直に認めて文句言うんじゃねぇよ。
そっちの方が、よっぽど何かってときに力になりたいってと思うし、
つーか、できない理由並べて、今の自分を否定させずに、わかってもらおうとするその魂胆がだせぇ、と。
あれは恥ずかしかったなー。すげぇ。恥ずかしかった。
その場は言い訳もできず笑ってごまかしたけど、家に帰ったら孔明の顔とセリフが思い浮かんで、
新野城の中で「でもさ、でもさ」と必死に言い訳考えてた。
オレにはオレの事情があるんだ、しょうがねぇじゃんかよって。孔明の「天下三分の計」聞きながら(笑)
ひとしきり考えたら、そんな自分を「だせぇ」って思った。
「要は、勇気がないんでしょ?」で始まる太平洋戦争 - ARTIFACT@ハテナ系
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20080414/startpacificwar
「要は、勇気がないんでしょ?」で飛び込む赤きサイクロン - welchmanの日記
http://d.hatena.ne.jp/welchman/20080414/1208183341
要は、勇気がないんでしょ? - Attribute=51