はてなキーワード: 秦軍とは
漫画的表現だからというのを差し引いて考えても、原さんの漫画には常識の概念がなさすぎて酷い
漫画だから史実通り、白起が趙軍を実質的に終わらせてるから、完全楽勝モードだったと表現する必要はないが
ヤンジャン読み始めて3年くらいになるけど、原さんがアホすぎてもうついて行けないと思い始めている
ヤンジャン読者の間では有名な話だが原さんには地理感が全くない。
距離が分からないのか地図が読めないのか知らんが、展開の都合の為なら、敵軍が味方の後背に急遽ワープすることも普通だ。
当然、何の説明もない。まぁ出来るはずもないんだがw
黒曜編などはその典型で、見渡す限りの湿地森林帯で都合よく大軍が展開できる場所で対峙する秦軍の後輩に李牧がワープしてくる
敵の後背を突くために、敵の索敵を交わしながら、大軍の進軍に時間のかかる湿地森林帯を、補給線を確保しながら迂回しなくてはいけないはずだが
何故それが可能になったのかという説明もなく、ご都合主義で無茶したもんだから大いに批判された
http://mudasure.com/blog-entry-2366.html
https://ailbainpro.com/kingdom/post-1730
なんせ、千単位の人間が対峙している敵軍の目に触れる事無く突如現れる位は、普通にやってのける
下で触れられてる場面だけではない。しょっちゅうこの手の無茶をする
http://mykit.pw/matome/2801882646879623757
日本の戦国時代の著名な川中島の合戦の死傷率は双方20%~30%程度であったとか
関が原も両軍合わせて8万程度が参加して、8千人程度の死者数だったという研究がある
二次大戦の研究によると、近代的な規律の保たれた軍隊でも死傷4割を越えれば戦闘活動は不可能だったとされている
もともと何万人もいた軍隊が5000人程度になっても、最後には変わらず一騎打ちで勝った方が総取りとかいう展開に何故かなる。
もはや最近は読者も呆れていて、幾ら原でも史実にない事は出来ないだろうという事だけが信頼の置き所になってる始末だw
http://www.saikyo-jump.com/archives/53893059.html
これらを考えると、キングダム世界の将軍は数万単位のアンデッドを即時召喚できるネクロマンサー同士の戦いという事になるだろう
ネクロマンサーが魔法でワープして、ワープした先で大軍を召喚すれば地理の概念など要らないし
アンデッドだから食べないから補給線など考える必要もなく、何人倒されても士気が下がったり指揮系統が崩れて戦闘継続が不可能になる事もない
将軍たちは、あの時代では最も優秀なネクロマンサーだった、という事だろうw
売り上げも爆下げだし、そろそろ筆を折ってはどうだ?大きすぎる矛盾を抑えて描くの無理だろ?
中国の名将について検索をかけたときによく挙げられている人物を紹介する。
春秋 | |
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孫武 | 世界史上に名高い兵法書「孫子」の著者。伍子胥と共に呉王が覇者となるのに貢献した。 |
戦国 | |
呉起 | 孫子と並び称される兵法家。いわゆる「呉子」。魯・魏・楚などに仕えたが、強引な改革で周囲の恨みを買って殺された。 |
孫臏 | 「孫臏兵法」の著者。友人に裏切られて罪人となり脚を切断されたが、逃げ出した先の斉で将軍となり、「馬陵の戦い」で復讐を成し遂げた。 |
白起 | 秦の名将。包囲殲滅戦の名手にして虐殺者。「長平の戦い」では四十万人もの捕虜を生き埋めにした。そのあまりの強さから王に恐れられて賜死された。 |
李牧 | 趙の名将。匈奴に大勝を収め、秦の大軍を退けたが、離間の計によって王に疑われて殺された。趙が滅亡したのは李牧の死からわずか三ヶ月後のことだった。 |
王翦 | 秦の名将。趙や楚を滅ぼし、始皇帝の中華統一に多大なる貢献を行った。猜疑心の強い始皇帝に誅殺されることもなく天寿をまっとうした。 |
楚漢 | |
項羽 | 反秦軍の中心となり西楚の覇王と号す。戦では無敗を誇ったが、それまでさんざんに勝ってきた劉邦に最後になって敗れ、自害した。 |
韓信 | 漢建国の功臣。漢の三傑。「背水の陣」で有名。魏・趙・斉を降して劉邦の天下統一を大いに助けたが、皇帝即位後は冷遇され、謀反を企んで処刑された。 |
西漢 | |
李広 | 対匈奴戦の名将。弓の名手として知られる。若い衛青が台頭したのち、その下で不甲斐ない戦いをし、それを恥じて自刎した。 |
衛青 | 対匈奴戦の名将。苦労人で人格者。低い身分から取り立てられ、匈奴と戦って連戦連勝し、その功績により大将軍にまで出世した。 |
霍去病 | 対匈奴戦の名将。衛青の甥。天才肌で直情径行。若くして匈奴との戦いで活躍し、衛青を凌ぐ名声を得るが、24歳で夭折した。 |
東漢 | |
劉秀 | 東漢の初代皇帝。「昆陽の戦い」では100万と号する軍勢をわずか1万の兵で撃破した。皇帝としては一代にして創業と守成を成し遂げ、功臣を粛清することもほとんどなかった。 |
班超 | 中央アジアを平定し、東漢の最大版図を現出した。西域に三十年間も留まったのち、洛陽に帰還して一ヶ月後に亡くなった。 |
三国 | |
曹操 | 東漢末における群雄のひとりから三国鼎立中の最大勢力にまでなり、後の魏・晋の礎を築いた。兵法家、詩人としても名を残す。 |
周瑜 | 呉の名将。美男子で有名。「赤壁の戦い」において魏の大軍を破った。 |
南北朝 | |
韋叡 | 梁の名将。身体が弱かったため、戦場では鎧を付けず輿に乗り、竹杖で指揮していた。南北朝最大の決戦「鍾離の戦い」にて百万の大軍を破る勝利の立役者となった。 |
陳慶之 | 梁の名将。わずか7000人の「白袍隊」を率いて北伐を敢行、連戦連勝で洛陽まで陥とした。「千軍万馬も白袍を避ける」と賞された。 |
唐 | |
李靖 | 唐建国の功臣。内戦においては中華統一に貢献し、外征しては騎馬民族を騎馬戦術によって滅ぼした。中国史上屈指の名将とされ、李靖に仮託して兵法書「李衛公問対」が書かれた。 |
李世民 | 唐の二代皇帝。李淵の次子として、隋末唐初の戦乱において多大なる軍功を挙げ、そのまま兄を追い落として皇帝となった。政戦両面における名君として知られる。 |
郭子儀 | 安史の乱を平定し、吐蕃やウイグルの侵攻を撃退するなど、幾度にも渡って国を救った。子孫、財産、長寿に恵まれ、万民から敬愛された。 |
宋 | |
岳飛 | 対金戦の名将。忠臣として名高い。私兵を率いてたびたび金軍を破るも、和平派によって冤罪を着せられ殺された。 |
明 | |
常遇春 | 明建国の功臣。常に先陣を切って戦った猛将で、日頃から「10万の兵士を率いて天下を横行したい」と語っていたため「常十万」と呼ばれた。 |
徐達 | 明建国の功臣。謹厳実直にして冷静沈着。総司令官として北伐を行い、元をモンゴル高原へと追いやった。朱元璋からは功績第一と称賛された。 |
朱棣 | 明の三代皇帝。甥の二代皇帝に反発して挙兵、圧倒的不利を覆して正規軍に勝利し、帝位を簒奪する。皇帝となった後も、自ら軍を率いて積極的な外征を行い、明の最大版図を築いた。 |
戚継光 | 私兵を率いて倭寇討伐に功を挙げ、また北方に赴いてモンゴルの侵入を防いだ。倭寇に対抗するため、中国全土の武術をまとめあげ、日本の剣術を研究したことでも知られる。 |
清 | |
左宗棠 | 自らを今孔明と称した。太平天国の乱の鎮圧に貢献し、洋務運動を推進した。さらには回民蜂起の鎮圧、捻軍の鎮圧、新疆の奪回など、清軍の大黒柱として活躍した。 |