はてなキーワード: 石原吉郎とは
京アニの犯行に対する傍観者の反応に危険なものと嫌悪感を感じたんで書く。
Twitterを見ていると世界でも最高峰のアニメーター33人だとか、日本のアニメ産業の根幹を揺るがす事態だとか、戦後最悪の放火殺人みたいな反応ばっかだ。
確かに彼らの作品は素晴らしいし、多くの人を救ったともいえる。
しかし、それでもこの言い方は間違っている。
経済とか数字上での被害の凄惨さを周知するのはマスコミにでもやらせればいい。
人の死を被害額やら人数の大小で語るのは、人を数でとらえるということ。それでは強制収容所の管理人と同じだ。
お前の親友、恋人、家族、親、子供、だれでもお前に近しい人にお前はそんな言葉をかけるのか。
彼らの業績のすばらしさはもちろん分かってる。だがお前は彼ら一人一人を、作品で価値づけるのか。
私たちは、一人一人の被害者を、33人という均質な集団ではなく、ひとりひとり名前を持つ33の個人が33通りの殺され方をしたと考えるべきだ。
想像力を働かせるんだ。ある名前を持ったひとりの人に、その人の死に、お前が向き合うんだ。大衆を煽る必要はない。お前なりに一人一人と真剣に向き合う、一人一人を真剣に痛むことが大切なはずだろ。
最後に引用して終わる。作者の石原吉郎はシベリアで収容所生活を送った経験を持つ。
望郷と海
ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかにひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなけらばならないものなのだ。
目をつぶれ
目をつぶれ
クラリモンドの肩のうえの
記憶のなかのクラリモンドよ
目をつぶれ
目をつぶれ
シャワーのような
記憶のなかの
赤とみどりの
とんぼがえり
顔には耳が
手には指が
町には記憶が
ママレードには愛が
そうして目をつぶった
ものがたりがはじまった
自転車のうえのクラリモンド
幸福なクラリモンドの
幸福のなかのクラリモンド
そうして目をつぶった
ものがたりがはじまった
町には空が
空にはリボンが
リボンの下には
クラリモンドが
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http://anond.hatelabo.jp/20111021225623
とりあえずこれまでで。
確然と膝があるところで
それはきわまり
その膝をめぐって
さらにきわまった
膝をめぐってきわまった位置から
もはや追いかえす
ことはできぬ
条理を積みかさねて白昼を
待つまでもない
およそ覚悟のようなものへ
踏みこんで行く
一途な膝を正面にして
呼吸(いき)をのむように
夜は明けて行くのだ
膝を組み代えるだけで
ただそれだけで
一変する思考がある
世界が変るとは言わぬにしても
すくなくともそれに
近いことが起こる
ささやかな動作が
もつ重さを
ときにおそれるために
生まれてきたのではなかったか
私たちは
南京事件関連のブクマに感じる危険性は、現代の色々なところで見かけるある危険性とつながってる。
まず「どんなに分かりやすく語ろうとしても難しくなる話」というのはある。どんなに分かりやすくしようとしても大学の数学を幼稚園児に分かるように話すのは難しい。そして、理系における知識というのはその「差」がまだ物理的に理解できる部分もあるのだけれど、文系における知識差というのは分からない人には本当に分からない。どこに差があるのかを理解することすら難しい。
たとえば数学における大学生と幼稚園児の差は傍目にも歴然だけど、哲学における大学院生と幼稚園児の差は感知すること自体がまず難しい。
そして、そういう領域に関わる「歴史や政治、道徳や思想の入り組んだ問題」について、不用意に語る人が多すぎるのが自分には気になって仕方ない。彼らが語れる「つもり」になっていることがとても気になる。そしてそういう場合「分かりやすく説明するよ」という詐欺師が横行することが更に更に気になって仕方ない。「分かりやすい説明が存在しない問題」について「分かりやすく説明する」というのは、端的に言って詐欺だ。
この「分かりやすく説明してよ」と求める素人、そして「分かりやすく説明するよ」と主張する詐欺師、という組み合わせが、南京事件ブクマの周囲で最近みかける困った取り合わせだ。自分なりの真実を知り、理解するために必要なのは、たとえば石原吉郎の本を読むようなことだ。「虐殺を、その数が大きい、がゆえに批判する人は、虐殺者と同じロジックに囚われている」といった彼の主張を理解できている文系知識の達人は残念ながらその界隈には一人もいないように見える。それは、その視点無しにいかなる虐殺論も成り立たないような基本的な考え方である、にもかかわらずだ。
こういう現象、最近ネットのあちこちで見かける。ホントに気になる。LifeHack界隈とかにも。ほんとーにイライラしてます。イライラ。
ま、そういうことですよね。
元増田の感覚とは違うだろうけれど、ふと俺はこの詩を思い出したよ
涙 石原吉郎
レストランの片隅で
ひっそりとひとりで
食事をしていると
ふいにわけもなく
涙があふれることがある
なぜあふれるのか
たぶん食べるそのことが
むなしいのだ
なぜ「私が」食べなければ
いけないのか
その理由が ふいに
私にはわからなくなるのだ
分からないという
ただそのことのために
涙がふいにあふれるのだ