はてなキーワード: 萌えアニメとは
「amamako」のいつものアレ。
前半が「たまご野郎」への個人攻撃で、後半は「姉の服を勝手に借りて着ている場面」だけを持ち出して擁護を批判。
本人はバランス良いつもりだろうけれど、どっちも擁護を攻撃しているから、全体通して作品への否定なのですよ。
むしろ「自分がなにか特別な属性を持たない(何者でもない)」という全否定形でしか語れない、そういう苦しみにこそ、僕は目を向けたいけど、まぁそれは別の問題か。
「別の問題か」
違うでしょ?
それこそ言っておきたかったんでしょ?
「放浪息子」を気持ち悪いと感じちゃうような、自分のことを「特別な属性を持たない」と思っていて、それこそ「本当に苦しいんだ」と言いたいのでしょ?
作品とそれに伴う状況を利用した、いつもの「自分語り」ですよね。
これで思い出したのは、「けいおん!」とか「ハルヒ」「エヴァ」を語るときに、「いかに自分が普通であるか」を必死に語る奴。
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20101229/p1
夕方普通に流せるよね、っていう意見は僕もそう思うんだけど、ちょっと引っかかるところもあったりする。
それは、イカ娘が「見やすすぎる」感じがする点なのだ。
藤子アニメとかアッコちゃんやサリーちゃんみたいなああいうアニメって、ちょっと胃が痛くなるような展開とか妙に説教じみた話があって、あー、見たくないなーって思うようなことがあったような気がするんだけど、イカ娘にあんまりそういうのってないような気がする。たとえば、あっこちゃんともこちゃんが喧嘩する的な展開とか、頭が良くなくても元気ならばそれでいい的な結論とか。
そもそも、ああいうのが「夕方アニメ」に必須な物かっていう話にはなると思うんだけど、ともかく、今回アニメ化された分ではそういうのって無かったように思えるし、イカ娘の設定的に容易に行き着きそうな「海の環境を守ろう」的な結論にたどり着くような話は作られそうに無いように思える。
ところで、この「見やすすぎる」感じというのを僕が最初に感じたのは、「カードキャプターさくら」を見たときだ。この作品でさくらと知世は終止仲が良い。知世のコスにこんなの着れるかー!とか切れたりしない。その他に、この子達絶対泥遊びとかしないよなーとか。いや、それはどうでもいいんだけど、萌えアニメってそういう部分があってイカ娘も確実にそこにのってるんじゃないかな、とか。
ともかく、うまくまとめられないけど、これを書いているうちに年を越してしまってもうビール飲んで寝たいのでこれで投稿しちゃうことにする。あけましておめでとうございます。
http://anond.hatelabo.jp/20101127215622
あてはまるのは6しかないアニメに興味のない人間だがイカ娘は大好きだ。
「けいおん」が嫌いすぎて夜も眠れないのだが最初に断っておくと「けいおん」のアニメはまったく見ていないし、原作も一巻を読んだだけなので、
以下は同じように「けいおん」もしくは萌えアニメの嫌いな人間が読んでちょっと溜飲を下げるぐらいしか価値のないゴミだということ言っておく。
「けいおん」の何が嫌いかと言って例えるなら町内の運動会をNikeが全面的にバックアップして、足型からあつらえたシューズやミリグラム単位で
軽量化したウエアを提供したということ。
そして選手たちのムカデ競争や玉入れなどを見ながら用具の効果や製品を使用している一流選手との関連性などを真剣に語っている人たちが気持ち悪い。
オリンピックやワールドカップでなくてもそれをやるのはせめて高校野球くらいからでしょ。
むしろ「(^ω^)ペロペロ」と萌えで片付けている人達のほうによっぽど好感が持てる。
原作を読んでまず思ったのは「この作品は共学の高校が舞台だったっけ」ということだった。
アニメ化にあたって女子高と特定されたようだが、すくなくとも読んだ範囲では作者は意図的にどちらか特定できない状態で作品を進めていたようだ。
つまり男子生徒や男教師が出てくる気配は微塵もないとしても主人公達のすぐ近くに男性の読者の視点が存在している可能性がありえということなのだ。
そして一巻の終わりの方で文化祭での初ライブの話があるのだが、この場面は舞台が共学か女子高かでは随分印象は違う。
共学であれば舞台でパンツ丸出しになった澪の気持ちに充分感情移入できる。しかしこれが女子高で同性だけに見られたのならショックは半分以下。
仮に父兄や他校の男子の前だとしても、日常で顔を付き合わせる異性でないと割り切りもできるだろうし、少なくとも同じ学校の男子生徒に見られた時の
ダメージには遠く及ばない。
アニメ化にあたって作品の一つの側面の可能性をばっさり切り捨てた制作会社が空気感を大切にしていますというのは多分悪い冗談なのだろう。
だいたいパンツ丸出しってなんだよ。漫画のその場面では構図になんの説得力もないし。
第一、初めてのライブで演奏の出来不出来や他人からの評価に落ち込まないでいられるってどんな天才たちですか。
逆にそこで落ち込んだり反省したりすることを描写をすれば、次のライブに向けて努力しようという流れになり、それは作品の世界とはそぐわないため
握りつぶすためのパンツでしょうか?。
とりあえず不愉快な気分にならないゆるい女子高生の世界としてはそれで十分だが、少なくとも限られた人間関係や事件や軽音部が舞台であるという
アニメ化によってそれらは解消したんでしょうか?。
でも、最初に戻るけど、例えそれらを解消して登場人物の行動に十分動機を持たせ、物語として隅々までつじつまを合わせ、なおかつ背景や設定を描きこんだ
原作では隠されていた登場人物の家族の問題やいじめや性の問題などが読み解けるようになって、まるで別の物語になるというのならともかく、結局のところ
作ってみた。ついでに当てはまる数であなたないしあいつがどのような分類になるかも適当に作ってみた。
2.ガンダム作品は大体見た。あるいはロボもので語れる作品、シリーズがある。
6.ツンデレとかテンプレートに従って作られたキャラが可愛いだけで人気だと思うと吐き気がする。
7.アニメは作画で見ている(特に動き)。しかし、30歳以下で良いアニメーターを5名挙げろといわれたら答えられない。
8.アイドル声優のせいでアニメ作品、業界の質が下がっていると感じている。
9.京アニ、シャフト作品が嫌い、あるいは1本通して見たことがない。
10.ニコニコは見るが、コメントは消す。あるいはランキングは見ない。
このうち8個以上当てはまったら、あなたは「萌えアニメ嫌いだけどアニメは好きな人」です。
7個以下で、1~5の数が6~10の数よりも上回った場合、あなたは「あらゆるアニメが好きな人」です。
今から十年前のことだ。
あの頃は、今よりずっと人付き合いが苦手で、でも一人でいるのも恥ずかしく、必死で友達を作ろうとしていた。
いじめと呼べるほどのものではない。ただ昨日までは机を突き合わせて一緒にお昼を食べていたのに、今日になると突然私の机だけがはじかれているとか、聞こえるギリギリくらいの声で悪口を言われるとか、そういった地味な仲間外れが度々起こった。一大決心で他のグループに入れてもらっても、仲良くなるとそこでは売春や万引きが当たり前だということが判明。自分に合う友達はなかなかできなかった。
卒業間近にはようやくあるグループの中になんとか入ることができたけれど、「高校生活、うまくいかなかった」という感情が残ってしまった。そして最終的に仲良くなった子たちとも、卒業後何年かしてちょっとひどいことが起こって、付き合わなくなった。
卒業アルバムは捨てた。学生時代のものは、もうほとんど何も残っていない。
「死にたい」って言葉ばかり並んだ、あの頃のノートだけは捨てられずにいる。
毎日お茶したり、お昼を食べたり、放課後には当たり前のように集まってじゃれ合っている。
憧れの日々。
1期と2期を通して見ていたら、一緒に高校生活を楽しんでいるような気分になった。
そしてふと思った。ムギって、ちょっと浮いてるよね。
なんだかんだ言って幼馴染って特別な絆なんだ。律は澪で、唯は和ちゃん。あずにゃんは後輩だからまぁいいとして。あの「みんな仲良しだけど特別仲良しはいなくてちょっと浮いてる感」が、うまくいってる時の私とちょっとダブった。ただし逆のベクトルで。ムギの場合は一人だけお嬢様だけど、私は一人だけ貧乏な家の子だった。みんなは大事に育てられてる子たちで、私はその逆。
決めた。
私は高校時代を、この桜が丘高校軽音部で過ごした。
毎日みんなと一緒にお茶して、いっぱい笑って。
中でもムギと特に仲良しだった。
そういうことにした。
だからもう苦しむ必要はないんだ。
職場での世間話の途中で学生時代の話になったり、テレビに高校生が映ったりする度に落ち込んだりしなくていいし、彼氏が友達の話をする度に自分たちを「うちら」と呼ぶことにいちいち傷つかなくたっていいんだ。唯が「卒業アルバムは一生残るんだよ」って言ってたけど、私の卒業アルバムは大嫌いな人たちが載っている捨てたアルバムじゃなく、みんなに髪を整えてもらって撮った桜が丘のアルバムなんだ。
多くの人にとってはただの萌えアニメかもしれないけいおん!だけど、私にとっては青春だ。
けいおん!ありがとう。
大好きを、ありがとう。
ずっとずっと苦しかった三年間の思い出を、書き換えてくれてありがとう。
俺が前に書いた表題の床屋談義について(http://anond.hatelabo.jp/20100923234530)。
暇なはてな民の方々からそこそこ意見が寄せられてきたのでここらでみんなの意見を踏まえつつ再論する。人によってはSFという言葉に過剰反応したり、「SFロボットアニメ」の定義がわかんねえよとの声があったが、語義を巡る議論に深入りするのは主眼ではない。ここでは差し当たって「巨大なロボットとそれを指揮するキャラクターが物語の中心となる近未来アニメ」という意味として便宜的に使わせて頂くのを許して欲しい。近所のレンタルビデオ屋にある「SFロボ」のコーナーはこれで並んでおり、一般的な認識ともそう離れてないと思う。(これだとたとえば、「鉄腕アトム」や「攻殻機動隊」は近未来だけどOUTとなる、一方で「パトレーバー」はINとなる。)
で、上記のように定義づけると、「トランスフォーマー」のように「テレビくん」で販促しているようなキッズ向け作品に関しては好調なものはあるものの、従来の大きな柱であった「アニメージュ」で取り上げるようなティーンネイジャー以上をターゲットにしている部類では、陳腐化は間違いない。
たとえば最も有名なタイトルであるガンダムシリーズは、作品数の減少が顕著だ。90年代には「V」から「∀」まで5つのテレビシリーズ(加えて複数のOVA、映画)がリリースされた。しかし、00年代に入ると、テレビシリーズの新タイトルは「SEED」(続編含む)、「00」の2つだけだ。
ガンダム以外にも、90年代には「エヴァンゲリオン」「機動戦艦ナデシコ」など今も語り継がれる新タイトルのヒットがあった。今冷静になって振り返るとこれロボット出す必要あんのか、という作品までロボットが登場していた。具体的には、「神無月の巫女」や「エスカフローネ」、「サクラ大戦」(これはアニメというよりメディアミックス作品だが)などだ。00年前後までは「ロボット」は登場人物を引き立たせる定番の構成要素だったと言っていいかもしれない。
しかし00年代にはいって、男の存在を抹消した萌えアニメの隆盛と入れ違うようにしてSFロボットアニメのプレゼンスが消えていった。中でも象徴的な出来事は07年の「グレンラガン」だった。久しぶりにガイナックスが制作するSFロボットアニメで、内容的な出来も(個人的には)期待を裏切らないものだったが、その影響力は同時期に放送していた「らき☆すた」の方が完全に上回っていた。「エウレカセブン」や「創聖のアクエリオン」は、事前プロモーションやメディアミックスで力をいれていたものの、作品としてはことごとくコケた。この2作品が今でも人々の記憶に残っている理由は、アニメの成功ゆえではなくパチンコで行きを吹き返したおかげだ。
結局、世紀が変わった当たりからSFロボットアニメは定番タイトルの続編が少なく新タイトルもろくなヒットが出てこなかった、ということになる。
はてな民からのコメントに、「企業が興味を示さなくなったから」というのがあったが、これは結果と原因を取り違えている。企業側の主導で消費のトレンドを作るのは電気製品などではよくあるが、アニメのトレンドは消費者が主で企業が従、がこれまでの流れだった。重要なのはなぜ消費者が興味を示さなくなったかだ。
それは「21世紀の現代に適応できた新しいSFロボットアニメ像を提示できていないから」。繰り返しになるが、やはりこれが一番大きいと私は思う。「ロボが出てくる未来のおはなし」だけではもう飽きた、というわけだ。前回のエントリに対し、別のはてな民も『電脳コイル/ゼーガペイン見たときに思ったのが「これ、ロボアニメである意味あるか?」だったなぁ』と回顧している。SF的な未来世界の中に「巨大な人型ロボット」の存在は間違いなく時代遅れになりつつある。
実際、ストーリーはすでに出尽くされ感がある。たとえば、
14歳の少年・早瀬浩一は、ある日“事故”により、少女と出会い、巨大人型メカ「ラインバレル」を手に入れた。何も出来ず、正義に憧れているだけだった少年の周りは、彼が圧倒的な力を手に入れたことでめまぐるしく動き始める。新しい仲間と出会い、友人と別れ、守るものを背負い、自らを囲む世界と向き合い、やがて少年は成長してゆく。
これは2008年に放送された「鉄のラインバレル」のストーリー紹介だが、これにたいして海外の掲示板にすら「俺たちは同じようなアニメを幾つもみてきたんだよ!」って放送当初からキレていた人がいた。
設定や描写も現代では通用しなくなっている。空気のない宇宙でバキュンバキュンする銃撃戦は15年前までならOKだったが、今そんなことやったら恥ずかしくて目も当てられない。ネットでも炎上する。それと、お互いを「○○少尉」とか軍隊風の呼称で呼ぶことも、あのコクピット内の絵面(ごちゃごちゃした巨大なマッサージチェアみたいなところに腰かけて膝の横辺りにある操縦桿を握る)もそう。そもそも2足歩行があれだけ一般的な形式であり続ける工学的な理由は何?陸上を移動するならば足よりも車輪の方が機能的じゃね、と外人でなくてもそうツッコミたくなる。
もっと根本的に、少なくとも目の肥えた「大きなお友達」にとってはSFの持っていた神通力が衰退したことも大きい。前回のブクマコメントにあったように、SFはかつてテクノロジーの未来を提示する役割を果たしていたけど、今やSFにその力はなくなってしまった。小さな通信端末はもちろん、ファーストガンダムでアムロがいじくっていた電子書籍端末も今年Ipadが出てきた。20世紀にワクワクしていた未来技術の世界は、21世紀の今になって確実にワクワクできなくなっている。深刻なのはそれを21世紀の私たちがワクワクできるような形に上手くリニューアルできていないことだ。「SFロボットアニメがどうこうより科学の発展に大した希望をもたなくなった」という悲観的なコメントもあった。
だから結局、オーソドックスなSFロボットアニメが受入れられなくなってきたから、今はなんとかして新しいそれに代替するSFのあり方というか表現方法を模索してる、という段階なのだと思う。1つの流れとしては、『プラテネス』みたいな、自分と割と身近な人が宇宙に行って、みたいな話だ。ロボットなんてシロモノをあえて登場させず現実的な想像力で捉えられる範囲で、人間同士の関係を描写する。もう1つの流れは、SFロボットアニメの突飛さをあえて逆手にとり、腐女子的な暴走ノリを表す手段として借用する流れだ。ちょうど「コードギアス」がそれをやって大いに受けたし、近々放送される銀河美少年のやつもおそらくその形だと思う。「ガンダム00」?あれは本来やるべきワクワクするような未来世界を提示できずに単純な現代の延長でお茶を濁した失敗作であり、SFアニメの屈服だ。
まあ「バカにしている」は合ってるんじゃない?
主なつぶやき
・唯は将来零細企業の事務職OLくらいしか働き口を求められず、仕事もまったく出来ないウスノロで、上役男性に好きにされて生きていくんだろうな。
その日も上役に求められフラフラになって歩く帰り道、出会った野良猫の背を撫でながらHTTの曲をぼんやり口ずさむ姿しか浮かばない。そう思うと泣けた。
・違法動画問題で出版社やアニメ制作会社が動かない明確な理由はわからないけど、現状では裁判で勝ち目がないらしい。本当によくわからないけど。
・憂には姉より大事な対象(男)が出来てしまい、以来距離が開いている。たまに心配の連絡もよこすが、唯は気丈に振舞い逆に妹の幸せを願うのだった。
・給湯室で唯が上役にガンガン突かれているカットにはトンちゃんが水槽で泳ぐ画とエアポンプの作動音をフラッシュバック気味に挟む。意味は持たせない。
篠房六郎がなんとかいう萌えアニメに批判的な批評して叩かれてるのは無茶苦茶だと思ったけど
(篠房の発言は「脚本のここがおかしい」とか「この演出を自分ならこうする」みたいな話で、
あれに文句があるならきちっと質問や反論して作品論交わせばよいだけ)
そのTAGROの発言はファンに嫌な思いをさせるだけの気持ち悪い発言だと思う
http://anond.hatelabo.jp/20100816074122
長すぎて導入と結論しか読んでないけど主旨は捉えた(つもり)
その上であなたに言いたいのは、
「「処女厨」趣味ってのは現実の相手を選ぶときの基準ではない」
と言うこと。
あなたが言ってるのはネットで観測される「処女厨」趣味についてだろうと決め付けた上で、
著名な炎上でいう「ナギ様」も「綾たん?(平野綾のオタ間の愛称が何か知らん)」も
萌えアニメやギャルゲーのメインヒロインの非処女設定というのは
風早君が爽子に愛想尽かし「イライラするんだよ!」と毒づいて他の女の子に行くようなもので
フィクションの理想像を踏み越えたからフィクションの消費者に拒絶される。
せっかくの超長文の前提を崩すのは心苦しいが
それこそ増田での不毛な「処女厨」論争の大半はこの前提を踏まえてないことに端を発すると思うので
いい加減みんなここを弁えて欲しい。
そういうのとは別レイヤーに、リアルに結婚相手を選ぶ上での処女志向というのは確かにある。
例えば宮○真司氏のように、援交少女や家出少女を長年賛美しておきながら
http://ameblo.jp/aquariangospel/entry-10207545885.html
という「処女性」の高い物件を選ぶような人物・戦略と言うのは普遍的に存在するけど、
重要なのはまずこの二つが方向性やレイヤーの違うものだと言う区別をキッチリつけること。
そもそも後者、「現実の結婚相手選びの基準としての処女志向者」は
むしろ隠し持っている。
当人がある程度の改善を持ったとしても世間一般に存在する魅力的なプレイヤーが多々存在している中で
良いパートナーを見つけることは至難であると言ってよい。
つまり改善に手を出しても得るものがなく、救いであるエロゲと萌えアニメがなくなるだけじゃん。
精神的貧困ビジネスと貧困ビジネスが共通化しているところについては多々あるが
以下の点において貧困ビジネスよりもやっかいな部分が存在する。
実際の貧困層であれば収入の面で数値を設ける事によって対象者を判定しやすい。よって対策も起こしやすい。
しかし精神的貧困者については表向き数値で表現する事は難しい。
本人を見れば一発でわかる訳だが数値としては表現しにくい。
よって対策を起こす為に評価を行うことが難しい。
基本的にどちらも当人の考え方や能力によって解決できる事は間違いない。
貧困においては他者との関係が存在しないわけではないが、当人によって完結しやすい。
よって職業訓練校や就職斡旋などで具体的な対策を行う事が貧困の解決になる。
当人の成熟による他者との折衝を行う事がどうしても必要となるため当人だけでは解決しづらい。
加藤のように都合よく受け入れる全てを受け入れる母親のような存在を精神的貧困者は求めがちであるが
そのような存在は異性サイドはそのようなものを望む人間等ほとんどいない。
当人がある程度の改善を持ったとしても世間一般に存在する魅力的なプレイヤーが多々存在している中で
誰もが羨み望むような良いパートナーを見つけることは至難であると言ってよい。
そのことはマラソンと同じで後でスタートした者が不利であることは事実であるがm
しかし、現状何もしないよりははるかに可能性としては高い。
また、母親のようにすべてを受け入れるような存在や処女等という
40歳女性が年収1000万の男性を婚活で望むかのような無謀で現実から乖離した考えを修正する事が大事なのである。
現実に自分に釣りあった相手であれば十分な需要は存在するのだ。
(加筆しました)
軽く書いただけでもただの貧困よりも根が深い事がわかる。
書き続ければこの数倍は出てくる。
またあえて貧困と共通しているところは省いている為、現実はもっと悲惨だ。
エロゲ・萌えアニメって人間本来の性欲を対象に向けてる性質上卒業出来ない層がいるじゃないですか。
また卒業出来ないという事は現実の側でも満たされていないという可能性が非常に高い。
現実で異性関係で改善を行うには試行錯誤と失敗とまたチャレンジをある程度繰り返さないといけないわけですが、
更に現実での欲求を満たすための原動力や動機をエロゲ・萌えアニメで潰してしまっているんですよね。
でもほんとにエロゲで満足してる(と表向きは言っている)人は将来どうするんだろ。
今の時点で一人で死ぬことを覚悟しててそれで満足なのかな?
40,50になっても萌えアニメで○○は俺の嫁!とか言ってられるのかな?
やっぱり普通に生きてるのが楽だな、俺は
精神的に貧困な人間を対象にしてるビジネスなんだな~と最近つくづく思う。
貧困ビジネスとは「貧困層をターゲットにしていて、かつ貧困からの脱却に資することなく、貧困を固定化するビジネス」という意味。
これってエロゲまんまじゃん。
金銭的ではなく、精神的な面で未熟で異性を渇望している精神的貧困層をターゲットとしている。
かつ脱却に資することなく、精神的な貧困者を固定化するビジネス
定義が完全に一致。
例えばエロゲとかしていたとしても、
大人になって社会的にきちんと成熟できた人はどんどんやめていってしまう。
大体学生から社会人数年目までになった辺りで”卒業”する人がある程度の割合で存在するが、
そうでない精神的に未熟なままの層はエロゲや萌えアニメから脱却できず精神的な貧困層が固定化されるという訳だ。
貧困ビジネスを考えた人はこうも書いている。
良い貧困ビジネスというモノはない。貧困は克服されなければいけないモノであって、貧困ビジネスも克服されなければいけないのだ。
これは精神的貧困にも当てはまるが、社会的に人は成熟すべきなのだ。
しかしエロゲなどを買いあさる重症者は現実から逃避し続けている。
エロゲ等ただの絵に過ぎないのに、それをありがたがるエロゲ購入者
彼らは配偶者を得ることなく無縁死する事が現時点で確定している訳であるが、
秋葉原の加藤の例もあるように無縁死する前に犯罪者になる可能性も非常に高い。
事態は貧困ビジネスよりも深く暗い問題を抱えているように思える。
処女厨ってのはね
ちょっと考えりゃわかるんだけどさ
実際に観測されてネタ元になってるいわゆる「処女厨」的な騒動って、
・この間の人気アイドル声優
・1年ぐらい前の美少女アイドル神様が出てくる萌えアニメのヒロイン
とか、
「処女厨」的な欲求や願望が、生身にベクトルの向いた、現実とか生活に属するものなら
「処女厨」がスパークするのはネットの祭なんかじゃなくてもっと実際の交際とかドメスティックな場面の筈だけど
そういうのってないと思うし個人的には身近や交友関係の限りで聞いた事が無い
処女厨が願望する「処女」っていうのは心の中で念願する女神様みたいな物で
自分の彼女や嫁になるような生身の普通の女になんか、そんなの端から期待してないんだよ
だから、
ややこしいところでたまにネットに、
「嫁は処女じゃないと」って熱く語ってる人がいるけど
好きな二次元キャラを「嫁」と呼ぶ文化と同じく、生活の話と見せかけて女神様の話をしてるだけ
ほんとうの結婚を念頭に置かない話で敢えて「嫁」っていう語り方をしてるのは、
その語り手が実際の結婚に対して持つリアリティや期待感が薄いだけ
http://anond.hatelabo.jp/20100606171830
「分かり合えるか」「分かってくれるか」を問題とするんならジェネレーションギャップはひとつのパターンに過ぎないんであってな。
意図的な人物配置がされていない「現実」を見てるんであれば、「ある程度分かり合える」上の世代も下の世代もいるし、「分かり合えない、分かってくれない」同世代もいる、なんてことは当然見えるはずなんだけど。「萌えアニメがすっからかんなのはジェネレーションギャップを描いてな」いから?とかいわれても、違います、以上!としかいいようはない。
あしたのジョーが面白えのはそれはそれでいいんだけど、アニメだけ見て物事が判った気になってもらっても「気の毒な人だなー」とゆうことにしかならないよな。「俺はそのへんの漫画じゃなくてベルばら読んでるんで歴史に詳しいです!」みたいな話だからさ。
2008年夏にストライクウィッチーズが起こした奇跡はまだ記憶に新しい。
ヤマトからガンダムそしてエヴァへと続いたSFアニメ、エヴァ以降に生まれ席巻した萌えアニメ、その両方を奇跡的なバランスで兼ね備えた名作である。
00年代末期にして生まれた00年代の代表作である事は誰もが疑わない事であろう。そのDVD第一巻の売上は推定累計15000本の大ヒット。
だが後の「けいおん!」の50000本、「化物語」の80000本と比べると見劣りしてしまう。
この2作品は実に特殊である。化物語の特徴的な演出は普遍性があるとは言いがたいし、けいおん!に至っては本放送当時、多数の同業者が首を傾げた事実がある。
そんな言わば傷物の作品が何故これほどまでの売上を誇る事が出来たのであろうか。
結論から言ってしまうと「女性アニメオタクにも配慮した結果」である。
化物語も個性あふれる多種多様なヒロインが登場する作品であるが、原作からして女性ファンが多く、アニメも人気男性声優を起用する事で
否応なしに女性を惹きつける事に成功している。
けいおん!は劇中に女性キャラしか登場させず、ヒロイン達も非常に媚びた言動をするキャラクターであり、一見男性向けのように感じるが
その実、女性の嫌がる性的要素を徹底的に排除してあり、加えて、京都アニメーションの高い演出力によるリアルな描写に反した
いかにもアニメ的な言動をするキャラの“ちぐはぐさ”が、逆に「これはフィクションなんだ」と無意識に訴えかけ、女性に抵抗を感じさせない。
そして決定的なのがキャラクターデザイン。いわゆる「萌え絵」と言うものが浸透した現代において明らかに異質な絵柄。何と言うか、非常に“ブサイク”
まるで平安美人のようである。この絵柄は近年の京都アニメーション作品の中に蔓延し「涼宮ハルヒの憂鬱」第二期の中にも見え隠れしている。
特に「らき☆すたin武道館」におけるこなた達を見れば、いかに“けいおん顔”がブサイクであるかは誰でも容易に一目瞭然である。
だがしかしこのブサイクさが重要なのである。「家庭教師ヒットマンREBORN!」におけるヒロインへの女性からのバッシングを代表するように
女性オタクは非常に嫉妬深い。アニメキャラクターへも容赦なく負の感情をぶつけてくる。
けいおん!はあえてキャラクターの外見をブサイクにする事でそれを回避する事に成功しているのである。
そういった様々な配慮により、女性の目にも耐えうる作品になっているのである。
こう言った要素の片鱗は08年秋から始まった「とある魔術の禁書目録」に感じられ、翌年の「とある科学の超電磁砲」に引き継がれる。
09年「けいおん!」から始まり「化物語」「とある科学の超電磁砲」と女性配慮アニメが台頭する中にあっては
男性主観の象徴である百合アニメ、そのブームの延長線である「咲-saki-」が失敗し、「大正野球娘。」が不発に終わったのも時代の必然だったのである。
時代。そう、ストライクウィッチーズ誕生の奇跡によってアニメは一つの限界を向かえ、新たな時代へと進まざるを得なかったのである。
そして10年代に突入した現在、女性配慮の意思を受け継いでるアニメがある。それが「WORKING!!」「Angel Beats!」である。
WORKING!!も「けいおん顔」のようなブサイクさを踏襲し、化物語のように男性キャラクターを兼ね備えている。EDで男性キャラクターを立たせているのは
「バカとテストと召還獣」でも見られた手法だ。そして「種島ぽぷら」のような扇情的な造形をし、女性の逆鱗に触れるようなキャラクターは不自然なまでに隅に追いやっている。
こういった細かい「配慮」で非常に少ない放送局でありながらDVD売上30000本に届こうかという勢いを叩き出している最中である。
そして「Angel Beats!」だ。このアニメも近年のアニメとしては男性キャラクターが多く、直井というキャラに緒方恵美を起用するなど女性に配慮しているアニメである。
しかしこの作品の真価は非常に特殊な設定で、00年代に流行った要素を意図的に詰め込んでる感があるのは誰もが思うところだろう。
真っ先に思いつくのが涼宮ハルヒ以外何者でもないヒロインのデザインと、SOS団を思い起こさせる「死んだ世界戦線」略して「SSS」だ。
意図せずにこうまで類似した設定を作るものだろうか? あえてやっているとしか思えないのである。
では何故そんな、ともすればバッシングの的になる事をあえてやるのか?
一つ思う。
00年代の要素すべてを一途に消費させ、新たな10年代のアニメを始まらせるためではないか。
そんな「架け橋」になろうとしているAngel Beats!が、「女性配慮」という00年代末期に「けいおん!」「化物語」が起こしたばかりの新時代の要素をも
内包している事に驚きを隠せない。……これは偶然だろうか?
古き時代と新しき時代を繋いだAngel Beats!、その終了によってアニメはようやく10年代のスタートを切る事が出来るのだろうか。
7月からは待望のストライクウィッチーズ第二期が開始される。
他にも「みつどもえ」や「侵略!イカ娘」「神のみぞ知るセカイ」そして「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」のアニメ化が決定
話題作が目白押しだ。
それらの中から「10年代のストライクウィッチーズ」が現れる事を、ただひたすら祈ることしきりである。