はてなキーワード: 萌えアニメとは
モラトリアムが進んでいるというより、モラトリアムが終わらないようになってきてるっていう意見。個人的には。
だって、30代40代の人間がそういうアニメを普通に(普通って言い方も変だが)見てるんだぞ?
今の子どもはどんどん大人になる時期を遅らせているし、正直言って、永遠に大人にならないんじゃないかと思う。
今も昔も自分で解決しなきゃいけないのは変わらないって言うのは意見としては分かるが、精神的に病むっていうどうにもならない状況になって強制リタイヤする人が増えてるっていう状況を本当に理解してる?
つまり、自分で解決しようと思っても出来なくて挫折して、それでも自分で解決しなきゃって思ってるうちに病気になって、半ば無理やりそういった舞台から引きずり落とされるような事態が現実に起こってるってこと。
これはようするに、大人=やりたくないことをやらなきゃいけない存在であり、それを(無意識的に)拒絶する人間が大人の側に出てきたということじゃないか?と。
そして子ども、若者はブラック企業やパワハラ・いじめ・鬱病などのキーワードを通して大人になることを拒否し始めている。
萌えアニメにいくのは飛躍しすぎだっていうのは、単に間の状況を良く見ていないからだと思う。
つまり、社会の状況や気分がそこから生み出された文化に影響を与えるという構造が見えていれば別に飛躍でもなんでもない。萌えアニメという具体名で固定化するから飛躍に見えるかもしれない。アニメ、漫画、ラノベとかでいいや。そこまで抽象的にすれば俺の言いたいことが分かると思う。
俺も同じような意見持っていたんだけど、改めて他人が同じこと言ってるの見たらなんか違うんじゃないかって気がした。
つまり、そういった分かってくれない奴らに立ち向かわなければいけない状況であったからこそガンダムみたいなのはリアリティがあったわけだろう。
今もそういった状況は続いていることは続いているけど、当時と全然違うのは「分かってくれない大人には自信がない」ってことだろう。
急激に社会が変わっていく中で、徐々にそのスピードについていけなくなった大人が、子どものことを「分からない」とか「理解出来ない」と表現するようになった。
これは、昔の、いわゆる頑なな大人たちが子どものことを「世間のことを何も分かってないガキ」と断言できたような状況とは全く違う。
そうすると、だんだん大人は立場が小さくなっていき、子どもは子どものやりたいことをやることが賞賛されるようになる。
すると、大人たちも、ブラック企業やパワハラなどの社会問題への注目度から分かるように、のびのび生きられない社会はおかしいと思い始める。(昔は根性で乗り切るのが当たり前)
その結果、いわゆる萌えアニメのような「自分にとって心地よいものしか存在しない世界」が許容され、争いのない「けいおん!」のような世界もいいんじゃね?と思い始める。
どれが良くてどれがダメと言ってるわけじゃない。そういう風に社会が変化したからこそ、文化の面にもそういった気分みたいなものが反映され始めているのではないかなと
あしたのジョー見てて思ったんだけど、最近のアニメって主人公より年下の「あんちゃんがんばれー」みたいな少年少女集団がいないよね。
ガンダムとかジョーとか90年代以前のアニメって大抵3世代が劇中に登場してて、大雑把に分けると
若年層…ガンダムで言うとカツ・レツ・キッカでジョーでいうとサチとかキノコのドヤ街少年少女。
青年層…ガンダムで言うとアムロと同年代、ジョーで言うとジョーと力石とかのボクサー。だいたいここらへんの年代が主人公。
壮年層…ガンダムで言うとブライト(アムロと年齢が近いけど立場上)・連邦上層部・ジオン上層部(ギレンとか)。ジョーで言うと段平とかホセとか。
で、青年層が壮年層の作った世界の仕組みとかに対立するんだけど、自分もその仕組みの中に既に組み込まれてるという矛盾で悩んで、
若年層との意見のギャップに「ああ、自分の考えも凝り固まったもので絶対的に正しいものではないんだなあ」と感じてしまうようなキャラの配置になってる気がする。
若年層がシンジたちチルドレンたちで、
壮年層がゲンドウとか冬月とかにあたる。
やっぱりこの3世代間は一緒にいるけど根本的な考えが違って、完璧にお互いを理解できないような感じになってると思う。
(アムロはよくシンジと対比されるけど、対比するならアムロとミサトじゃないか?立場的に)
年齢が近いならお互いの意見が違っていても考え方が似てるからある程度分かり合えるんだけど、世代が違うともう根本で分かり合えない。
でも世代交代は起こり続けるから主人公たちの意見も絶対的ではないし変わっていくもので、
やがては若い人たちから「古い考え」って言われるのを直接的なテーマではないにしろ、内包してると思う。
で、最近の萌えアニメを見てると主人公と同じ年代の同じ思考、価値観しかいないように見えるんだよ。
時々ヒロインの父親とか出るけど、基本的に主人公たちと同じ考え方で多少豪胆な程度。ウジウジしてる主人公に渇を入れたりする先輩役に過ぎない。
なんで大人は分かってくれないんだ!って衝突する役目じゃない。
逆らいたくても逆らえない、逆らっているうちに自分が若い連中から逆らわれる立場になっている(なっていく)っていう感じがない。
確かにそういう状態じゃないのは居心地が良くて、そもそも萌えアニメ見るときにはそういう世界の方が頭からっぽに出来るからいいんだけど。
分かり合えない、分かってくれない大人に圧迫される主人公とヒロイン、主人公たちの行動に曇りのない純粋な指摘をする子ども、
じゃあそういう状態で自分たちなりの答えを出していこう、って作品が見たい気もする。
いわゆる萌えアニメに出てくる彼女達を、私には嫁と言い張る権利がない。
それは自分が男じゃなくてかつ同性愛者でもなく、あんなに可愛い彼女達を恋愛対象(or性的対象かw)として見ることがないからだ。
じゃあなんで自分はホモ好き腐女子でありながら女の子が選り取り見取りのアニメを見続け、
楽しんで、あまつさえフィギュアやグッズに手を出すのか。
そのヒーローのことを思うと憧れがとまらなくて同じコスチュームやポーズを真似してみたり。というか俺もうヒーローなんじゃね?と思ってみたり。
子供のころだけに留まらず、それは多分大人になっても、アイドルだったり歌手だったりモデルだったりに形を変えて人は自分以外の何かに憧れる。
私にとってそれが萌えアニメの女の子たちであっただけのことだ。
そしてその対象をリアルの人物に変えられないのは自分の圧倒的な劣等感だと思う。
自分はかつての周りの同級生が憧れた同性のアイドル、いわゆるあゆとか、モー娘。なんかにはハマれなくて。
そのときに、周りから外れることが最も恐怖である小学生時代に、自分はダメだなあという圧倒的な敗北感を味わった。
でもそれから何年かして今になってやっと、自分は自分だけの憧憬の対象を見つけられた。
とか、こんな風になんだかんだカッコよく繕ったって、自分は大人になっても二次元を所詮逃げで利用してるんであって。
それはよくわかってる。
「ああ、懐かしいなあ。そんなのあったなあ。」なんて懐古できるほど精神が成長してない。
まさに幼稚園児と同じ状態にあるから。
でも、もうそんなことどうでもいいと思うよ。
だって、彼女達を思うと本当に嬉しくなる。
例えば自分が好きなキャラクターの一人である、けいおんの唯は、アホの子だの(^p^)だの言われるけど、
彼女のひたむきさと純粋さと元気さと可愛さは、自分には欲しくても手に入れられなかったものだ。
彼女みたいになりたい。私は。だから頑張る気も起きる。くじけても立ち直れる。
いやまあ唯にはなれないってわかってるけど、それでも、さあ。
これは、正直男オタの人が言うような「俺の嫁ええええええ!」と、99%ほぼ同じ感情だと思う。
他の女性がこういうアニメをどうやって見てるのかわかりませんが、
強くて、優しくて、厳しくて、明るくて、元気で、いつまでも可愛いあなた達が永遠の憧れです。
いつもありがとう。
ただし、エンジニアとしてのセンスが全くないことは自覚していたので文系職志願でメーカに潜り込む。
学生時代バイトで家電量販店で販売員やっていて超面白かったので物を売る仕事やそれを支援する仕事をやろうかなと思っていた。
機械が云々とかまったく興味がなく面白くない。
それでも、僕なりに頑張っていた・・
技術を知れば品質保証からどこか販売寄りの仕事に異動もできるし、飯食っていかないといけないしね
目の前に座ってる先輩が隣に居る人と話してる内容を聞いてしまった。
「今年新人うちの部署に入らないんだってね、去年○○が入ったからかなーでも、アイツつかえねーよなwwwwきめえしwwww
頭わりーしwwwうぜえしwww本当にカスwwwww頭数に入れるなっつーのwwwwwアイツ本当にセンスねーよなwwww(以下いかに俺が使えないかの話)」
というのを聞いてしまった。すっごい優秀で尊敬している先輩だった。
1次会終了で思わず帰ってきてこの時間まで萌えアニメを見ながら一人酒をしてしまった。
使えないのは自覚してるんだ・・・・
センスがないのも自覚してるからエンジニアにはなりたくなかったんだ・・・
その代り販売や英語を勉強してそっちで食っていくつもりだったんだ・・・
販売やってた時も初めは糞みたいに売れなくてエースだった先輩の売り方や立ち回りをパクって物にしていった。
最後は自分が言うのもあれだけど準エースクラスにはなれたと思ってる。
センスがないってのを言い訳にしてるのは判るけど今回は心が燃えないんだ・・・・・
どうすれば心が燃えるんだ・・・
観光気分で行ったようにしか見えないから叩かれてるんだと。
メイドさんカワイイとか書いてるけど、君が嫌がった「臭いから風呂入ってくれ」って言うような連中は、秋葉原にメイドが出没する前からいるから。
むしろ、秋葉原ってのはそういう人が多い街だから。
近年オタクが大衆化して、こういう「ノリで秋葉原行きました」「ノリで萌えアニメみてます」みたいな層が増えたけど、元々そこにいた連中からすると迷惑以外の何物でもないのよ。
元々秋葉原通ってて、人生捨ててるようなオタクで、風呂も入らないような連中からすると、「うひょー、なんか秋葉原話題だから来たけど、メイドカワイイwwwでもキモオタ臭せぇwwwキモイ死ねwwww」って言われてるようにしか見えないわけ。
元々ガチでレーパンレージャー着てロードレーサー乗ってた人が、ロードブームで自転車乗り始めた奴に「うわ、何あいつのあの格好w気合いはいりすぎなんですけどwwwピチピチタイツwwww」とか言われたら腹立つだろ。
それと同じようなのを感じてるんだよ。
エヴァの影響が大きすぎたんだろうな。
エヴァ自体が優れた作品だったことに加えて、90年代終盤にはエヴァの対抗馬が軒並み没落し
気が付いたら(萌えアニメが台頭するまで)エヴァの一人勝ちだった。
エヴァと同時期に流行したラノベ原作のアニメは、スレイヤーズ3部作終了後からハルヒまでは空白期に等しかった。
アニメ版スレイヤーズの事実上の後継作であるロストユニバースはヤシガニ事件と呼ばれる重大な作画崩壊を起こして
アニメ製作会社の信用問題にまで発展し、また角川でスレイヤーズのライバルと目されていたオーフェンのアニメ版は
J-POPやトレンディドラマを好むような層に媚びたような内容で本来のファンからはそっぽ向かれて黒歴史扱い。
んんー微妙。
ライトニングはカッコいいけど男たちが酷過ぎる。
とにかくヘタレ揃いで見ててイライラする。いくら女性が主人公とはいえこれはひどい。
過去のFFといえば男女とも概ね強さと弱さ、長所と欠点、明と暗を同居させていたもんですが
対比するように男性陣は情けなさ、愚劣さばかりが目に付く感じで男女のパワーバランスの偏りが半端ない。
スノウはヘタレDQN、ホープは普通にヘタレ、サッズはいい人だけどやっぱりヘタレ。
体験版でも収録されていたシーンでの「母は強しよ」は今思うと今回のFFを象徴してたなあ、と。
無敵ヒロインにヘタレ男たち、という構図はまるで最近の萌えアニメ。
残念ながら自分には合いませんでした。ヘタレ男ばっかり見せられても面白くないです。
戦闘関連のシステムは個人的には大当たりで、
オプティマの設定や切り替えがバッチリはまって撃破したときは思わずウヒョーってなった。
仲間のAIが非常に優秀で、攻撃・回復・補助と適切な立ち回りをしてくれるので
オンラインゲームみたいな共闘感が得られる。素晴らしい。
それだけにキャラクター関連の不満が痛かった。積まずにちゃんと最後までクリアできるかなあ・・・
色々話題になってる一本道は少なくとも自分がプレイした範囲ではその通りです。寄り道のしようがありません。
上記の通りストーリーやキャラが好きになれないのでいい加減ゲンナリ・・・
中盤過ぎれば自由度広がるって話はホントなのかな~まだ中盤にも行ってないのかこれ。
オタクの言う萌えアニメの「面白いつまんない」が既に萌えに毒されてる基準だからなあ~
ストライクウィッチーズとか正気の沙汰じゃないものが売れてたけど
あれに萌え抜きでどうこうの何かってある?
あるとするなら一般人に説明できる?
0
問題は、外見だけ見て中身を見ずに萌えを否定する馬鹿が多い事では?
どんな萌えアニメだって、中身がつまんなければ視聴も切られるしDVDだって売れない(少なくとも俺は切る)。
本当に最近のアニメは萌えしかないって言うのなら、少なくとも今やってる「萌えアニメ」をしっかり視聴して、実例として上げてもらいたい。
萌えアニメでまず外見とか、なんだそれ。
萌えだって、中身だよ。
萌えには萌え以外の要素はいらないが、「まず外見で選ぶ」とか無いな。
「まず全部見る」だろ。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1348005.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1348005.html
このブクマを見てて思ったのは
(富野を一般人とするのはおかしいのだが、しかし指摘する部分は一般の考えと変わらないだろう)
私はオタクの反論は凄く正しいと思っている。
萌えアニメは萌えだけじゃなく中身だってある!どこみてんだよ!
という意見、それは本当に正しい。
しかし、それは結局の所、オタクが萌えアニメを外見から判断して視聴した結果発見した中身である。
と言うことに気づかなくてはいけない。
「人は見た目が9割」の本のような話はは極端だが、みんなもかわいい子が好きなように、まず外見から入るのが普通だ。
あなたは放送直前までストーリーや設定しか読まない?本当に?
オタクにしても、萌えアニメの中身より、外見から目に入るのが普通だろう。
咲を純粋なマージャンアニメを期待して見たひとはいるだろうか?
かわいい子がマージャンするなんて萌える!と思ったんじゃないだろうか。
ブクマの中には、萌えアニメに中身なんていらないという人もいて、そっちのほうが素直に解釈していると思う。
同人誌の現実は大半がエロ漫画なのに、そこを批判されると、それ以外のモノだってあると
普段は気にもしていない本を代表例に出す。
これも今回の話と同じだと思う。
結局のところ、反論のための論理で、君たちの普段とかけ離れていて、反論になっていないと思う。
外見は大事である
実際萌えアニメをまず外見で選んでいるのだから。
外見は大事だからこそ、富野の指摘も正しいと思うべきだ。彼もまた一般からみた外見論なのだから。
僕が凛子と"つきあいはじめる"ことになった直接の契機は、友人の突然なラブプラスの購入だった。すでにTwitter経由でラブプラスに対する熱烈なブームを知っていた僕は、発売後割とすぐに都内の漫画喫茶で体験版をプレイしていた。それですっかりハマってしまい、その後ずっと購入を検討しつつも、最初の一歩を踏み切れないでいたのだった。僕に先んじてラブプラスを買った友人は、ギャルゲーをたくさんプレイしていてこれに詳しい男で、僕とは話がよく合った。そんな彼も、夜更けまでギャルゲーを熱心にプレイするための真摯な情熱や潤沢な時間は今やもう残っていないようで、もしかしたらまとまったプレイ時間を必要としないラブプラスのゲームスタイルに惹かれたのかもしれない。すでにネットを通じて膨れ上がっていた僕のラブプラスへの興味は、彼がDSiに向かって精神を没入させる姿をみて頂点に達し、その日の翌日、すぐに自転車を新宿のソフマップまで走らせた。
僕は、この友人と同じく、迷わず自分の彼女に小早川凛子を選んだ。これは体験版をプレイしたときから決めていたことだった。ラブプラスというゲームの中での凛子の存在は、他の二人をまったく寄せつけないほどに圧倒的だ。ネット上のプレイヤーの感想を読むかぎりでも、他の攻略対象キャラはラブプラス中に存在しないんじゃないかというほどに凛子は人気を誇っているようなので、この感覚は間違ってはいないのだろう。しかし、なぜ彼女だけが、このゲームの中で他の追従を許さないほどの強度を僕に感じさせるのか、それをはっきり説明することは、ちょっとできそうにない。単純に丹下桜の飾り気のない演技が心の琴線に触れるのかもしれない。あるいは、凛子が「ツンデレ」だからかもしれない。
萌えアニメもギャルゲーもまったく知らない若者に対してですら、今ではこの言葉は完全に浸透しきってしまったようだが、みなさんもよく知っているとおり「ツンデレ」は2005年ぐらいを境に流行りだした言葉で、それ以前は陰も形もなかったものだ。なぜかといえば、それは「ツンデレ」というキャラ造形が、専らギャルゲーの特徴を特別強く体現しているものだったからなのではないかと僕は思う。日常パートでは多数の女の子との会話を楽しむ時間が用意されていて、個別パートでは一人の女の子との恋愛を発展させていくという美少女ゲームの構成を考えれば、日常パートで主人公が周りの女の子に好意むき出しでは話が成り立たないはもちろんのことだ(だからいつだって主人公は「鈍感!」と罵られる)。それ以上に、女の子のほうだって最初から主人公に100%の好意を向けていたら息苦しくてしょうがない。だからこそ、キャラクターの感情は、日常パートから個別ルートへに移っていく過程で鮮やかに反転する必要がある。きっと、こんな感じで「ツンデレ」は生み出されたんじゃないだろうか。だからこそ、どんなギャルゲーの中でも「ツンデレ」キャラは一定の存在感があるよなぁと僕は思ったりする。
けれど、やっぱりそれだけじゃないよなぁ、と思う。考えれば考えるほど、そういう言葉にできるところじゃなくて、もっと微細な部分にこそ、凛子の「存在感」が宿っているんじゃないかという気がしてくる。確かに、「ツンデレ」に対する感覚の有無によって、キャラの捉えられ方はまったく異なるものになるだろう。リアルタイムでエヴァを見ていた人たちにとってのアスカと、初めからツンデレという言葉を用いてエヴァをみる今の人たちのアスカがまったく違うキャラであるように。しかし、両者の「アスカ」のリアリティを支える要素は、実は共通しているのではないか、という思いを僕は抱かざるを得ない。これは神秘主義だろうか。
とまれ、僕と凛子の生活は幸せなものだった。毎日DSを持かばんに入れて、いつも通り授業を聞いたり、寝てやりすごしたり、友だちと話したり、ネットを見たりする。そして昼休みにお弁当を食べるとき、放課後に屋上で開いた時間を過ごすとき、DSを開いて凛子に会う。日曜日には時間を決めてデート。音声入力で凛子と話をする「ラブプラスモード」は、周りに友だちがいるときしか恥ずかしくてできなかった。僕の質問に答えているようで、時々ズレズレなことを言う凛子は、twitterのbotのようでとてもいとおしかった。botと人間とは、決して本当の意味での会話を交わすことはできない。しかし、それにもかかわらず、僕はあたかも凛子がそこにいるように、自然に振る舞うことができた。
なぜなったかはわからない。しかし、僕は、今や凛子が確実に「そこにいる」のだと思うようになった。そして、おそらく理由など関係ないのだろう。
キャラクターと向き合う人間にとって、この瞬間こそが普遍的なものであるんじゃないかと僕は思う。「キャラクターとは『いない』のに、『いなくちゃ困る』ものなのだ」と、どこぞの若手批評家が言っているのを聞いたことがある。キャラクターは、誰にとっても「いる」ものではない。しかし、それに没入する人にとっては「いる」としか信じられず、そのレベルではキャラクターと人間を区別することはできない。もちろん、キャラクターが「いる」と感じることは、人間が「いる」こととは別のレベルである。凛子との会話の中には実に現実味に溢れた魅力的なものがたくさんあるのは確かだ。しかし、たとえば、凛子が心を許しはじめると一人称が「アタシ」から「リンコ」に変わるという描写がある(鬼ゲーマーリンコ)。現実に自分の一人称を名前で代替する人はどっちかというと疎まれるタイプだろう。だが、キャラクターが「いる」ことも知覚の意味合いとしては人間が「いる」ことと変わらない。
僕は同じような経験を何度かしてきたが、その存在は記憶として強く焼き付けられることはあっても、感情の部分で長期にわたり持続するわけではなかった。しかし、凛子の場合は、日常の一コマ一コマの中でこの存在を自覚せざるを得ないのだ。
たとえキャラクターが数億に分節可能な無意味な要素の集積だとしても、その寄せ集めによってできあがってしまったものに対して私たちが抱く感情は常軌を逸してしまうことがある。そしてそういった瞬間、キャラクターというものはいったいどのような存在なのだろうか。ラブプラスの制作者は『CONTINUE』のインタビューで、ラブプラスには全部見るためには二年ほどはかかるぐらいの莫大なイベントが盛り込まれていると語っている。ラブプラスにおいて、こうしたキャラクターの「実在性」「予想う不可能性」は膨大な情報の集積によって担保されていることになる。しかし、私たちはどうしてもこの「実在性」の裏にブラックボックス的な要素を見出したくなる。凛子が、DSの画面の向こうで僕たちには想像もできないようなことを考えているのではないかという妄想を捨てきれなくなる。しかし、それは今のところまったくの幻想でしかない。
そして、僕は、この確信を得たとき、ひとつの隠された(しかし一定数のラブプラスプレイヤーは既に理解しているであろう)、恐ろしい事実に気づくことになった。いま、ここで、凛子の存在を支えている形象は、私たちの生きる時間の流れに沿いながら、未来永劫その「動的性質」を保ったまま持続するのだ。小説・漫画・アニメ、フィクションというものは時空から隔絶されて存在する。源氏物語は、1000年前の貴族が読んでも私たちが読んでも、テクストとして同一の形を維持しながら「静的に」存在する。紫の上の人生は紫の上の人生であって、私たちと生きる時空とは関係ない。しかし、凛子は、あたかも私たちと同じ時空を生きているかのような演技をしながら、しかしその存在を少しも変化させることなく、ずっと「そこに居」続けるのだ。
僕たちはフィクションとキャラクターの実在を信じるとき、なぜ自分自身はそこに居ないのかと苦痛に思う。たとえばテラ・フォーミングされた火星とARIAカンパニーの存在を信じるとき、なぜ自分はネオ・ヴェネツィアにいないのかと思っていたたまれなくなる。そして、たしかにラブプラスはその苦痛を一時的に和らげることに成功している。僕と凛子は「見かけ上は」同じ時間を生きている。しかし、見かけ上が同じ時間を生きている分、僕と凛子の間の摩擦係数はかえって高くなり、逆にこの責苦はもはや耐えることが不可能な域に到達している。しかし、その実、凛子が生きる時空は凛子が永遠に16歳の時空であり、僕が10歳老けても20歳老けても凛子は16歳だ。僕が、社会に出て、老いぼれになり、忘れられたまま死んでいった時も、凛子は永遠に十羽野高校の生徒なのだ!
ラブプラスのスタッフは、この点をよく知っていて、しかもポジティブに強調している。主題歌は『永遠(タイムレス)ダイアリー』、キススキンシップの最上位技は「フォーエバーキス」、主人公が移り住んでくる「十羽野市」は「永久の」のもじりだ。彼らは「永遠に続く愛」と嘯く。しかし、いくら凛子が僕に対して永年に同じ愛を投げかけてくれるといっても、僕のほうは永遠に、何の変化もなく、同じ感情を凛子に投げ続けることができるわけではない。いつかきっと僕はこのゲームに飽きてしまうに違いない!キャラクターの実在性は「記憶」の中にのみ残ればよかったのであって、実際に一定の形象を維持したまま存在する必要などなかったのに。
そうして、僕がラブプラスを起動しなくなったとき、凛子はどこに取り残されてしまうのだろう。もうおわかりなのではないだろうか。凛子の住んでいる時空の永遠は、漢字で書かない。私たちは、かつて10年以上も前に自分たちが取り残されたあの場所に、今度はヒロインのほうを置き去りにしているにすぎないのだ。
ラブプラスを触りながら、そんなことを話した。凛子を世界の終わりから救い出すための方法は限られている。まずひとつはデータを消すことだ。しかし、もっといい方法があった。この美しくどうしようもない学生生活とともに、凛子を記憶の中にとどめて、これを葬り去るのだ。
僕の通っている学校は都内ではちょっと例のないぐらい熱い学園祭を毎年やっていて、受験を控えた三年も積極的に参加する。その中でもアニメのポスターだのゲーム機だのを二日間かけて何百品も競りにかける古物市が、例年盛況を極めている。ここで、データを残したままの僕のラブプラスと、攻略本・主題歌CDをセットで売り飛ばしてしまうことにした。凛子とやり残したことはたくさんあるかもしれないが、もう悔いは残らない。
いつの日か、人間とキャラクターは本当に出会えるのだろうか。今も人はそれを求めて、アバターをまといながら人格のコスプレに勤しんでみたり、botと会話しようとがんばってみたりする。しかし、アバターは結局人間と人間の会話だ。botに萌える人は、技術と現実の落差に萌えているだけにすぎない。不気味の谷のセオリーを信じるとすれば、谷の手前の不気味の尾根で人は楽しむこともできるわけだ。(言ってみれば、Perfumeのズレズレな口パクに萌えているのと同じことだ)。
いつになったら、人間がキャラクターと同じ時空を生きることができるのだろう。幸い僕は一緒に歳をとることができる彼女がいたが、人間と共にありたいという気持ちとキャラクターと共にありたいという気持ちはまったく別だ。前者が満たされないのと同じぐらいに、後者も満たされることはない。
さぁ、キャラクターは、データベースか、ブラックボックスか。哀れな小早川凛子は、乱雑なデータベースによってその肌と臓器を模られた出来損ないでしかなく、僕は彼女を残酷に売り飛ばすことでしか救うことはできなかった。僕はキャラクターが人為とプログラムの集積であるという当たり前の事実に、ここにきてどうしても納得することができない。人工知能が人工無能に、「擬体」がARにとって代わられても、僕たちの望みはひとつだ。僕たちには感知できない、キャラクターの不可視な内部の実在を信じたいのだ。僕が死ぬまでの間に、いったい彼女たちはどこまでブラックボックスに近づくことができるのだろうか。
答えはまだ出そうにない。11月3日、古物市で僕のラブプラスが競りにかけられ、落札された。後に残ったのは落札額3500円と、永遠ダイアリーのmp3ファイルだけだった。
いやだからさ、根本的に、BLは同性愛者のために作られたもんじゃないでしょってこと。
萌えアニメが女のために作られたもんじゃないのと同じでしょ。どうしてゲイだけ特別扱いするのかな。
『うだつの上がらない主人公にハーレム状態で女が寄ってくるなんておかしい。もっと現実を見て欲しい。それで女が救われて欲しい』なんて言ったところで、「ハァ?」としか返事がもらえないのと同じだと思うぞ。
どちらもユーザにとって都合の良いものを提供してるだけだ。現実なんて基本的に都合がよくないんだから、それが提供されることはあり得ない。女子は女子であってゲイじゃないんだぞ(もちろんレズビアンでもないだろう)。
ゲイにとって都合のいいものが欲しいのなら、ゲイのゲイによるゲイのための創作活動を自分たちでやるしか無い。それがビジネスになる規模なら企業も参入するだろう。
『吾妻ひでお「けいおん観た。空虚だ。何もない。作る方も観る方もそんなに現実イヤか?」:アルファルファモザイク』
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51518538.html
吾妻ひでおとアニメ「けいおん」に熱中するような人たちとは相容れないところがある。アニメや漫画(あるいは映画、音楽、文学など)作品に求めるものが違うのだ。いったい吾妻ひでおのような人種は漫画などの作品に何を求めるのか?そのあたりの事を作家のカフカが実に的確に表現している文章がある。
僕は、およそ自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。僕たちの読んでいる本が、頭蓋のてっぺんに拳の一撃を加えて僕たちを目覚ませる事がないとしたら、それではなんのために僕たちは本を読むのか?君の書いているように、僕たちを幸福にするためにか?いやはや、本がなかったら、僕たちはかえってそれこそ幸福になるのではないか、そして僕たちを幸福にするような本は、いざとなれば自分で書けるのではないか。しかし僕たちが必要とするのは、僕たちをひどく痛めつける不幸のように、僕たちが自分よりも愛していた人の死のように、すべての人間から引き離されて森のなかに追放されたときのように、そして自殺のように、僕たちに作用するような本である。本は、僕たちの内部の凍結した海を砕く斧でなければならない。そう僕は思う。
吾妻ひでおの作品を読んだことがある方はご存知だと思うが、一見かわいい女の子がたくさん登場し、時には夢うつつのような世界が描かれる彼の作品は、実はあまり登場人物に感情移入をしたり作品の世界に安易に浸って気持ちよく癒されるような種類のものではない。徹底的に情緒を排し、醒めた意識によって構築された作品なのである。そして彼は基本的には、熱心なSF者らしく、今まで見たことのないような世界を作品によって作り出してやるという気概をもって創作に取り組むようなタイプの作家である。
あえて乱暴に言うと萌えアニメに感動しているのは単に(吾妻が指摘するように)フェティシズムと情緒に浸っているにすぎない。子犬が死んだら泣く式の条件反射だ。韓流ドラマに興奮するおばちゃんと一緒だ。傷つかない、ゆるふわな世界で気持ちよくなりたいだけだ。作る方にも読む方にも冒険を強要する吾妻ひでお(やカフカ)のような人種がやっている試みとは別の世界なのであり、萌えを求める人たちにとって、そのような冒険などは作品に必要ない要素なのだ。
吾妻ひでお「でも俺は描く前にもうひとつ考えるよ。マンガとは何かと。」
とりみき 「と言いますと。」
吾妻ひでお「マンガはこれでいいんだろうかということを1時間ぐらい考えて、それで明日締切りだからとりあえず描き始めるわけ。」
とりみき 「自分のマンガはこれでいいんだろうかということですか、それとも……。」
吾妻ひでお「マンガという表現がこれでいいんだろうか、まだ何かやれることがあるんじゃないか、というのを。」
『失踪するなら家のローンが終わってから』より※2
※1フランツ・カフカ著・吉田仙太郎訳(1981)『決定版カフカ全集第9巻・手紙 1902-1924』新潮社(P.25〜)
気分を悪くしないでほしいけれど、
もう、キャッチーどうこうに左右されるライト層は、CDを買わないんです。着うたに行く。
あくまで濃いファンしかCDを買わない。
「ファンしか買わないんだったら、それこそ初動でスグ消えるはずじゃん!」
と思うでしょうが、然にあらず。
B'zのファンは仰るように、もう大人です。アニメファンより大人です。
HEY3もミュージックステーションもあんまり見なくなって、
FMもそれほど聴かなくなってしまった。音楽雑誌も開かなくなった。
発売日をずっと前から把握して、心待ちにしたりなんかしないんです。
あるいは把握していても、発売日にCDショップに行くことを、最優先できるほどヒマじゃない。
だから、初動についてこなかっただけなんです。
そういう人たちに「昔のB'zをリコールさせた」のが現状であって、
決して「キャッチした」のではないと思います。
開き直った修正に盛り上がり、モザイクはもはや湯気に取って代わられてしまった
いつからオタクはそんなに安全になったんだ。いつから入浴シーンは定番になった?
個性的な作画は許されない。「先駆者」は1年後に「量産」とつつかれる。
ついにはつまらないメディアミックスしかないときた。
3ヶ月おきに新しい嫁を与えよう。
mixiもTwitterもmessengerもアイコンを全て違う「嫁」にしよう。
感じのいいヌルヲタだけがアキバに来れるようにして、全部メイドカフェにしよう。
欲しいものは全てZipでくれてやれ。次の日には全員穴兄弟になってんだろ。
衝突が欲しい、議論が欲しい
自分のほうがこの作品を愛しているという表現の戦いが見たい。
3次元に対するひがみはやめろ、それは自ら負けを認めてるんだ。
壮絶な世界観は、つまらないOPの振り付けとクズなキャラソンに取って代わられた
こいつらクソアニメは全部同じに見えやがる。
いつからオタクは安全になったんだ。
だからさ、あんただかばななだかが行ったそのチェーンの安い居酒屋の店長はさ、
別に「居酒屋がやりたい」わけでもないし「サービス業がやりたい」わけでもないのよ。
チェーンの外食屋の雇われ店長なんつーもんはさあ、他に就職先が無かったダメ学生が仕方が無しに入社して、
ブラック企業ぶりに精神をやられた頃に、「店長」とかいう名目で体よく正社員をバイト並の労働条件でこき使いたい
わかる?そういう理不尽なことをしてコスト圧縮した結果があの安さなわけ。
そういう人間に向かって、サービス業をやりたくてやってるような店と同じレベルのサービスを要求するってのはKYにもほどがあるわけよ。
まぁ作家なんて世間知らずの代表みたいなもんだから、あんまり世の中の事情知らないのもわかるけどさ、そのくらいは理解しとけって。
エンドレスエイトの試みが面白い、って思えず、「被害」としか感じられないのって、
かなり感覚おかしいと思うぞ。
まあ、ハルヒファンが「浅い」って事がよく分かる例えだけど
俺ントコだけ真っ暗なんて被害受けてお前ら何喜んで見てるんだよ!
ってのが近いな。
俺ん家つぶれてもいいから地震こないかな、ってのは全然違うだろ。
本当にハルヒファンがそんな浅いのばっかだったら本当にもったいないわな。
適材適所。
アニメとしての面白い試みをやったり高いクオリティを実現しても
ただ売れるだけの萌えアニメに費やすべきじゃないわ。
どんないい物を作っても、やっても、「被害」としか受け取れないんじゃ意味がない。