はてなキーワード: ジハドとは
オサマ・ビン・ラディンは自分の手に視線を落とすのが常だった。
通訳を好まない彼がインタビューで伝えたのは、その顔と裏腹な言葉だった。
2001年9月11日「ゴミのように」空を舞う不信心者を見て自分は心から愉悦を覚えた。
自らの手を血に染めることはほとんどなかったが、
愛用のカラシニコフはアフガニスタンの戦闘でロシア兵から奪ったものだという。
サウジアラビアのアメリカ基地、イエメンのアメリカ軍駆逐艦、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館。
いずれの場合も「子供たち」の攻撃を遠方から見届けるのが彼の常だった。
賞賛されるテロリズムも批判されるテロリズムもある、と認めながら、
これは「聖なるテロ」だとしてイスラムを擁護した。これはイスラムを守る「聖なるテロ」だとした。
9/11について当初は関与を否定したが、誇る気持ちが強くなったのか、
同胞19人を指揮したことをのちに認めた。
建設業こそが50億ドルといわれる富をビン・ラディン家にもたらし、2500万ドルの遺産を彼に残したのだ。
1980年代に購入した掘削機、ダンプカー、ブルドーザーをときには自ら運転しながら、
アフガニスタンでソビエトと戦うムジャヒディンのための塹壕を掘り、
それは1989年の不信心者らの撤退まで続いた。
1990年代に逗留したスーダンでは、道路を作ったこともある。
アフガニスタンでゲストハウスを作り、武器を提供した際に作ったのが、マクタブ・アル・キダマト(「サービス部局」)、
この仕事の大半を支えたのはアブドラ・アッザム、彼の宗教的恩師だった。
そのネットワークは以後、アイマン・アル・ザワヒリらによって引き継がれたが、
個々の人員登用、到着期日、戦いの大義などを多数の文書に残したのはまぎれもなく彼だった。
彼は自らが行った非道を伝えるメディアに目を配り、世界の報道機関を手玉にとった。
ブランドを作り、組織を世界規模のフランチャイズに育て上げた。
「アル・カイダ」の旗を持つ兵士が二人いればアメリカの将軍が押し寄せてくる、と彼は誇らしげに語った。
電話もインターネットも時計すらも追跡の恐れがあるとして触れるのを避け、
それは、成功を収めた堅実な投資に現れていたのと同じ注意深さだった。
沈思黙考して夜を明かし、一日を読書に費やすこともあった。
礼儀正しく敬虔な御曹司が到達したのは、知識人でも夢想家でもなかった。
それをもたらしたのは、1982年レバノンに侵攻したイスラエルと、
1990年、サウジアラビアの聖なるメッカとメディアに到着したアメリカ軍だった。
不信心者を追い払い、
パレスチナを成立させ、
それが彼の望みだった。
一言に洗練させるとすれば、暴力に訴えるジハドと言えただろう。
彼の言い方では、目には目を、の「相互主義」を実現させること。
五人の妻のうちの一人によれば、彼にはこんな一面もあったという。
BBCワールドサービスが好きで、毎週金曜には友人とハンティングに行く。
ときには、預言者ムハンマドのように、白い馬にまたがって行く。
彼は、そうなぞらえられるのが好きだった。
人生で最高のできごとは全能の超大国という神話をジハドによって打ち砕いたことだと、彼は言ったという。
十年以上に渡ってその首にかけられた賞金が彼を縛ることはなかった。
トラボラの隠れ家や山々を渡る護送車への爆撃も、
アラーによって御される彼には届かない。
アメリカ人が生を愛するのに対し、ムスリムは死を愛するのだと彼は言った。
十字軍の特殊部隊に対して彼が抵抗したかどうかはさだかではない。
いずれにしろ、その弾丸は彼を讃えるものでしかなかった。
最重要指名手配のテロリスト、オサマ・ビン・ラディン、5月2日、54歳で死す。
Obituary: Osama bin Laden, the world’s most wanted terrorist, died on May 2nd, aged 54
May 5th, 2011, The Economist