コロナの前まで、色々なアーティストのライブや音楽フェス、作品のリリースを楽しみにして、自由に使える所得と時間のほとんどを音楽に費やしてきた。「推し」と言えるアーティストやクリエイターも何組かいた。
ところがコロナでの活動休止や制限を余儀なくされている彼らが発信する言葉に含まれる選民意識が、数ヶ月で耐えられる限界を超えた。
まず始めは、音楽や演劇などの文化への手厚い支援を求めて声を上げながらも、別の産業を軽く見たり、和牛券を揶揄したりオリンピックに反対したりと別の分野への補助に反対していると、なんて自分勝手なんだろうと呆れてしまったことだ。
中には、社会や理解のない人は精神性が低いといい、文化が消えるだの消えれば社会のレベルが下がるだの言う人までいた。文化はそれだけではないのに。
事業の存続性や生活の困窮なら、産業に関係なく理解できたものを。アーティストは仙人のように霞を食って生きているふりをしなくてはいけないのか?
そして東京都知事戦だ。
どの候補も、支持できるところと支持できないところ、その政策の裏で起こりうる問題(そのお金を徴収するために誰が苦しむのか等)はそれぞれあった。
これは勝手な推測だが、選挙に行った都民のうち、少なくとも複数のメディアに触れて情報を収集していた者は、候補者の政策や思想を、すごく良い・良い・悪い・すごく悪いのように評価して、総合点で投票する候補を選んだのではないか。
しかし、自身の支持する候補選ばれなかった人々の中には、当選した小池さんを含めた他の候補に入れた人々を、社会についてきちんと考えていない人として扱ったり、社会が未成熟だと天上から嘆いたり、差別主義者などと決めつけ危険視する人もいた。
小池さんに投票した人を「素直な人」だと分析する記事もバズったが、記事の内容もTwitterで同調する人も、「愚鈍な人」と扱っていると感じた。
そんな的外れな指摘は無視すればよいが、好きなアーティストが何人も含まれていたために無視しきれなかった。アカウントのフォローをやめると、音楽についての話が聞けなくなってしまう。
意見が違うことは人ならば当然だ。それは違いであって優劣ではない。
そして、個人もアーティストも関係なく、社会問題や政治について考えを持って言及することは良いことだと思うが、他人を下に見ている意見は、その対象に自分が含まれなくても見聞きすると不快になる。
普段は、様々な立場で暮らす人が、ありのまま、平等に快適に暮らせることを願い、思想や表現の自由を主張していている人だと、失望すら感じる。
ダブルスタンダードになってしまうことは人ならば誰しもあるので、それ自体は責められない。
しかしあなたたちは一体、何様なのだ。なぜ愚かだとか差別主義者だとか思われながら、あなたの作品を聞いて活動を応援し続けなくてはいけないのか。
信者ビジネスの被害者 正気に戻ってよかったね