※この文章には少しグロテスクな表現が含まれます。虫表現あり。
突然だが、これを読んでいる人は子供の頃、アリの後を追ったことはないだろうか。
アリを追って巣穴まで辿り着き、巣穴に水を入れたり、砂をかけて穴を塞いでみたり。アリでなくともダンゴムシを無理やり開いてみようとしたり、ミミズをスコップで叩いてみたり。
自分はアリの巣穴を砂で埋めたことはあるが、水を入れたりしたことは無い。そういうことをやる人もいると聞いただけの話だ。ダンゴムシを開いたのは小学生の頃の友人だし(そのダンゴムシは無理矢理開かされて逆に反り返って死んだ)ミミズをスコップで叩いていたのは小学生の頃の男子同級生だ。
ここで少し自分の話をしようと思う。
自分はどういう人間かと言うと、飲食店で「ごちそうさまでした」を店員さんに言うタイプの人間である。コンビニの店員さんにもタメで話しかけたこともないし、レジのあとは「ありがとうございました」を言う人間である。むしろこれが普通で当たり前の世の中であって欲しいと思っている。
動物は好きだ。猫も犬も兎もハムスターも可愛いと思う。動物虐待のニュースを見ると心が痛む。虫だって出来れば殺さずに逃がたいので部屋の電気を消して窓の外に懐中電灯で誘導することだってあった。
自分はミミズをスコップで叩いていた同級生を「やめろ」と止めた側だし、反り返されたダンゴムシをみて怯えた側である。花の蜜を吸ったこともあるし、たまに野生の桑の実を食べていたこともあるので普通と言うよりは野生寄りだったかもしれないが、「他者の痛み」に関しては普通の感覚を持つ、普通の人間である。と、思っていた。(アリの巣を砂で埋めた件はあったが、水を入れた話を聞いて自分はむしろそんな残虐なことはしないと思った)
話を戻す。
何故自分の残虐性が抜けてないと感じたのかについて話そう。 数日前に外掃除をしていたら職場の駐車場隅に不自然な土の盛り上がりを発見した。ホウキで軽く散らしてみるとアリがわんさか出てきた。どうやらアリの巣があるようだった。
アリくらいいるだろうと思って気にせず雑草を抜いていると次はムカデが出てきた。さすがにビックリして自分の方に来ないように気をつけつつ外掃除を終えた。
子供も多く来る職場なのでさすがにムカデはマズいと感じ、上司に報告したところ殺虫剤を渡された。バリア機能がどうとかで即殺す力はないが家の周りに撒けば寄り付きにくくなるという粉末殺虫剤だった。
アリの巣があった所に粉を出すと目に見えてアリがそこを避けていく。なんなら気づいていなかったムカデまでうじゃりと出てきて飛び退いたほどだ。
そこで薬剤だけ撒いて帰るのが普通の大人だったのだと思う。しかし自分は出てきたムカデに殺虫剤をかけた。嫌がって逃げて動き回るムカデの後を追った。即効性のない殺虫剤だからその場では死ななかった。
ムカデは隙間に逃げ込んだ。なのでそこが巣かと思って粉をかけてみた。(あとから調べて知ったのだがムカデは巣を作ることはないらしい。卵から孵る場所はあるらしいのでおそらくこの隙間がそうだったのだろう)
すると外に出ていた別のムカデが帰れなくなった。薬剤の周りをウロウロしている。そのムカデにも私は薬剤をかけた。同じようににげまわるムカデをさらに追って周りに薬剤をかけて袋小路にしてみた。
ムカデも移動するので完全には囲い込めずムカデは別の隙間の中に逃げていった。
自分も別の業務に移らなければ行けなかった時間なのでそこで殺虫剤を撒くのをやめた。
そう感じた自分を振り返って愕然とした。自分はもういい歳をした大人である。その大人が虫を追い回して逃げ惑う姿を「おもしろい」と感じたのである。
よくよく思い返すと近い事例がほかにもあった。これを読んでいる人は「Godus」というゲームを知っているだろうか。簡単に言うと自分が神となり人間を発展させるゲームである。地形を変えて人間を導き、発展させるシュミレーションゲームである。
このゲームの中で自分は神であるので、その指先ひとつ(文字通り指先ひとつ、タップ1回だ)で人を殺すことも、家を燃やすことも、隕石を降らすことだって出来る。
ゲーム的には自分の信者を増やすことが目的なので、用意された道に従い自分は土地を広げ、人に家を建てさせ発展させて遊んでいた。
このゲームには自分を信奉する信者とは別の民が存在する。その民とこちらの民の幸福度によっては、こちらの信者は向こうへ逃亡して人口が減ってしまう。その幸福度は簡単に確認できるので逃げられてしまわないように自分の信者の幸福度を上げてゆき発展させていくという遊び方なのだと思う。
だが自分は自分の信者の幸福度をあげるのではなく、相手の幸福度を下げる方に傾いた。なぜならゲーム的にはそっちの方が楽だったからである。
手始めに、ワンタップで殺してみた。それからギミックである底なし沼を発動させて溺れさせて殺してみた。最後に集落に隕石を降らして殺してみた。隕石の火で火事が起きて集落の燃えている木を慌てて消す動作、木ではなく民自体が燃えて逃げ惑う様を見ていた。
楽しかった。多分笑っていた。
ゲームとしては「文化的決着」というのがあって、手順を踏めばその民もこちらの信者に出来る。それを知ったのはその民が全滅してからだ。
そこで自分が思ったのは「あーあ」であった。別に信者を増やせてゲームがやりやすくなる機会を逃したからではない。
1人か2人この民を生かしておけばまた増えて、プチプチ出来たのにな。と思ったからだ。実際山火事を起こして全滅しそうになった時は雨をふらせて全滅しないようにしていた。隕石を降らしてちょっと余所事をしているうちにこの民は死んでしまった。失敗したなぁ。とそれだけ思った。
記憶力が残念なので最近の出来事だとこの2つしか思い出せない。思い出せないだけで他にも自分の残虐性を認識する事柄はあったのかもしれない。
こういう残虐性って子供の頃の上手く命を理解してない頃特有だと思っていたのでいい歳した自分がこんなことを楽しんでいる事にかなりビックリしたのでこの文を書いてみた。
でも多分反省してる訳では無い。またムカデが出てきたら殺虫剤をかけて逃げ惑う様を見るだろう。
どうしたらいいんだろう。ちょっとよく分からないのだ。このまま他人に気づかれない残虐性を抱えて自分は普通の人間であるように生きていくんだろうな。
うんち
うんち踏む
残酷性というのは、ある程度備えていないと、競争社会では生きてゆけない気がする。 現在生き残っている人類は、その遺伝子に残酷性を持っていたからこそ、こんにちの繁栄がある気...
ネギ星人の回の話か
残虐性を現実に向けないための必要悪なんじゃない? 何は殺してよくて何は殺しちゃいけないか、現代日本みたいに綺麗事言える余裕がある環境だと非常にグレーな気がする。 仮想現...
猫がネズミを嬲り殺すのと同じ本能だ。残虐さを人間がある程度は備えている。それを正していくのが文化規範。子供のうちは規範がないから残虐。それだけ。