2021-05-31

反出生主義と神とフロイト

まとめ


デカルトから始まる近代的自我

デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。

あらゆるものを疑ってかかったとしても今思考している自分のこの思考自体存在否定できない。

よって思考している自分存在している。



自我というもの存在確立したデカルト三段論法西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我存在規定できるという点だった。

でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在証明する時代要請があったのだけれどそれについては後で触れる。

フランス革命と神の死

時代は流れてフランス革命が起こり国民国家誕生する。国民国家誕生すると神が死ぬ

どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈正当化されてきたのかということを説明する必要がある。

王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。

神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民支配する権利がある。



中世神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、

彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要公共事業として神の存在証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。

ところが、王が打倒されて国民自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。

これがいわゆるかの有名な「神は死んだである

そして神に変わったもの国民自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対ものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。

これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。

神と反出生主義になんの関係が?


神が存在すると反出生主義は成り立たない。

なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。

これには同意意志確認も入り込む余地がない。

神様が決めたことだから仕方がないのである

なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。

フロイトによる無意識発見


更に時代は進みフロイトが登場する。

フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析手法全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。

フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神科学まな板の上に載せたこと」それ自体

2つ目は今回話題にしたい「無意識発見」。

フロイト夢分析過程人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去トラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。

患者自身自分理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。

これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我コントロールしているとされていたのだから

フロイト無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。

あの映画オチヒロインは忘れていた過去トラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。

これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、

犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか

梅干し写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。

映画映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラ写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。

こういう感じで無意識人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。

フロイト原始的欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識概念さらに発展させていった。

不随意運動からエス

表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。

たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。

心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいいから鼓動も不随意運動には入る。

呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているとき随意運動意識していないとき不随意運動といえる。

表層意識には上らないのでこれらも無意識だ。

ところで人間意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。

脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞代謝とか。

さらさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。

さてそうすると、どうなるかというと、人間自分意識自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間活動の大部分は無意識コントロールしていることになる。

意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。

ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから

ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかい名前をつけた。

なんでコギトが間違ってるのか


意識ではなくエス人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。

「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。

反出生主義は全てを理性で説明しようとしすぎる


反出生主義の理屈を雑にまとめると、

「生きるのは苦痛である苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである

「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」

「よって生むのは無責任であり生むべきではない」

理屈の通った三段論法に見える。

しか人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。

第一登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識存在しない。つまり無意識である

無意識相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論無意識エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。

で、重要なことはその「エス自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである

今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。

精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子排出だって不随意運動なのでこれらはエスである

胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識自我もない。

だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である

それらはエスであり、自分自身である


それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。

自意識肥大化


自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルト呪いがとけていないのだと思う。

「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。

生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓勝手に動いている。

体中の細胞栄養を取り込んで代謝をせっせと行っている。

どう見ても肉体は生きようとしている。

やっていることと言っていることが違う。

でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかいかである

自己境界定義自我から少し広げることをおすすめする


自己定義自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。

エス定義自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。

流石にそこまで悟ることは難しいが、自己定義自分不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。


哲学やっとこうぜ


若いうちに哲学やっとくといいよ。

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