はてなキーワード: 自律とは
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090330/1238349203にid:tari-Gが答えないのは単に読み難い文体の問題だということだから、本人に代わって文体を書き換えてみるよ。
これで逃げ場がなくなったね。
知的誠実を他者に要求するtari-Gクンへ
さーて、書かなければならないことはあるけれど、それはそれとしてまず売られた喧嘩を買っておきますか。
にゃー語は脳が受け付けないので斜め読みだが、多分野にわたり山のように文献があるテーマを全く未消化で駄文を書くのはいいんだ。こういうのは「先人の業績」や「被害者」「死者」等への冒涜にならんらしい…ケッ 2009/03/27
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090326/1238051100
このtari-Gクンは、永訣の朝、公開オナニーにダンス・ダンス・ダンス - 地下生活者の手遊びで遊ばせてもらった、negative_dialektikクン(以下、否定弁証法クン)を擁護していたお方です。
で、このtari-Gクンに、「ホロコースト」は使ってはならないか?あるいは日曜歴史家 - 過ぎ去ろうとしない過去のコメント欄で2009/03/26 10:31に、idコールまでして答えたくないと思われる論点を挑発的に問うてみたら、そちらには答えがなく、上記のブクマコメがかえってきたということです。
hokusyuのところのコメ欄でのtari-Gの発言などを考慮すると、実にカロリーの高いエサなので、おいしくいただくといたしますか。
では、エサをいただくにあたっては、いつものように逐語的にお料理させていただきます。
tari-Gクンは猫かぶり文体を読んでいたはずだけど
「にゃー語は脳が受け付けないので」
ほうほう、僕の猫かぶり文体が読めないと。まあ、それ自体は珍しくないよな。
ただ、はてなブックマーク - tari-G のブックマークを開いて、tikani_nemuru_M で検索してみると、現時点で14件ヒットします。そのうち6〜7件のブクマについては、否定弁証法クンの騒ぎが持ち上がる以前にブクマされたものだね。
特に、舌打ちにのたうつ40♂ - 地下生活者の手遊びにつけていただいたtari-Gのブクマには「うんうんそうそう」というタグがつけられていますにゃ。少なくとも、このブクマをつけた1月17日時点では、「ない語は脳が受け付けない」ということではなかったみたいだね。
ま、そういうこともあるだろ。
急所をつかれると、突然に気にならなかったものが気になるようになることは、よくあることですからね。いままでも、猫かぶり文体を理由にして逃げ回る恥知らずは数えきれないほどいたし、卑劣な弱者に逃げ場をつくってあげるために、このような文体を使っているというところもありますしね。
だから、hokusyuのブログエントリのコメント欄で、僕からの質問に応えなかったのもそういうものだと思って見逃してあげるつもりでいたのにね。
わざわざ自分でクチバシ突っ込んできやがりましたので、何の遠慮もいらないだろう。
しかも、
「にゃー語は脳が受け付けないので斜め読みだが」
などと言い訳を前面におしだしてやがりますね、みっともねええええ(げらげら
hokusyuのブログのコメント欄では、こちらからの質問に逃げておいて、僕のエントリにブクマコメで文句だけはつけたいのかー。しかも、「ない語は脳が受け付けないので斜め読みだが」と言い訳全開にしてだと?
こんなヘタレが、「ホロコースト産業」の何が問題か - 過ぎ去ろうとしない過去のコメ欄で、「知的誠実」だのといっちゃってるわけですにゃ。
tari-Gくんは文献を示す義務がある
「多分野にわたり山のように文献があるテーマを全く未消化で駄文を書くのはいいんだ。」
なるほど、僕の前回エントリは[なにこれ], [これはひどい], [ご都合主義]とタグ付けされたうえに、「多分野にわたり山のように文献があるテーマを全く未消化で」書かれた駄文というわけだな。うむうむ。
まず、僕自身はシロウトであるし、この問題について包括的に書くつもりもないということは前回エントリでも最初にことわっていますよね。
もちろん、シロウトであるからといって、研究が積み重ねられているものを無視するどころか否定するようなことを書いてよいということにはなりませんね。無知を盾にとって、ホロコースト否定論とか南京事件まぼろし論にくみする言論を垂れ流すのは確かに無恥だな。ホロコーストや南京事件については、その規模や細部についてはともかく、そうした事実があった、ということについては学問的にも確定しているわけだしね。
ところで、前回の僕のエントリを駄文と評するのは問題ないし、包括的に文献を読んだつもりもまったくないのだが、「多分野にわたり山のように文献があるテーマを全く未消化」と断言するのであれば、当然のことながらどのような文献のどのような論点を未消化なのか指摘できるよね?
いやね、フツーならばブクマコメのこの程度の指摘に対して、いちいち「ソースだせや」なんて言うつもりはないんだけどさ、tari-Gクンってば、↓のようなことをいっていますよね。
海外の著作に言及する場合、自分が依拠しているのが、原著を参照せずに翻訳書だけなのか、それとも両方参照しているのか。依拠している文章が、翻訳書なのか原著なのか。引用訳文が翻訳書からなのか独自訳なのか。そういった極めて基本的なことを明確にしたら?。
あと、hokusyuさんは、「通説である」とか「多くの研究者に支持されている」を極めて多用するけど、そういう場合は、必ずちゃんとその根拠を明示しなよ。少なくとも、それを裏付ける著作名と研究者名ぐらい列挙しなさいよ。
学問的手法に忠実云々ということをあれだけ強調していながら、実際には、そういう最も基本的な事からして全然できてないのは、ホント困るわ。
学問というのは、自律の世界なんだから、まず自分に厳しくしないとダメだよ。
出典の紹介等について、私が「一番」「甘い」というのも全く根拠不明で意味不明だが、誰に言われようが、自分の言葉の典拠や論拠を明確にするのは当然でしょ?世界のどの研究者もしている当たり前の学問的手続きを、自分の言説にまず適用するのは当然じゃないの?誰に言われようが関係ないじゃん。情けねー。
一般読者達向けに、惜しみなく情報を提供しようとは思わないの?そもそもそこがよく分からないな。なんで知識を出し惜しみするの?
てか、はっきり言って、議論の質を本気でよくしたいなら、他の選択肢はないよ?
hokusyuが見てて不快なのは、学問的誠実さが本当にないところ。自分が得た情報をできるかぎり共有して判断して貰うという、最も基本的姿勢がない。結局、客観性へのこだわりがないんだよね。「信じればいい」という主観だけ。
と、議論相手にここまでソースを出すことを要求するtari-Gクンが、「多分野にわたり山のように文献があるテーマを全く未消化で駄文を書く」と断言している以上、僕の前回のエントリが、多分野に渡り山のようにある文献のなかで、特に必須なものをどう未消化なのか、具体的に言えないはずもないだろう。「てか、はっきり言って、議論の質を本気でよくしたいなら、他の選択肢はないよ?」
僕が誰を冒涜できるのだろう?
「こういうのは「先人の業績」や「被害者」「死者」等への冒涜にならんらしい…」
何をいっているのかぜんぜんわかんないのだが。
ホロコーストがあった、ということは歴史学的にもまともな学者には完全に合意され決着がついていることがらなので、ホロコースト否定論が「先人の業績」にまるで敬意をはらってないということになるのは当然だな。
ところで
人工妊娠中絶について、生命倫理学的に決着がついていたっけ? で、僕がそれに反するようなことを書いていたかにゃ? 僕が「先人の業績」を冒涜しているというのなら、ちゃんと根拠をだして説明してくんないかな。
それに
「被害者」「死者」等への冒涜 って何のことかにゃ? 僕のエントリが、どのような理路で、「被害者」「死者」等への冒涜 になるのか説明してくんないか?
tari-Gクン、チミな、他人に対して知的誠実だの学問的誠実だの、根拠をだせだのとさんざんいったのだから、求められたことを説明するのは当然だろ?
以前は猫かぶり文体も読めていたようだし、猫かぶり文体で書かれた文を、頼みもされないのにわざわざDISりにきたんだからさ、説明の責務があるのはアッタリマエだろ?
ここで僕の予想を書いておくと、tari-Gクンはまともに応えることはできないと思う。他者に要求するものが自分に向けられることを想定すらしてないだろう。
そして、他者に要求することを自分はまるでできないということと、否定弁証法クンのような歴史修正主義にくみする者を擁護することと、多分つながるところがあるのだね。
もちろん
自らがhokusyuに要求しているようなことをtari-Gクンができた場合、僕は鼻水を垂らしながら全力で謝罪するつもりです。
再掲
それと、ついでといってはなんだけど、hokusyuのところのコメ欄に書いたものを再掲しておくので、こちらにも応えるように。>知的・学問的誠実を他者に求めるtari-Gくん
>id:tari-G
「歴史問題は、政治問題化してしまうのです。ホロコーストの歴史的実態について再検討する必要がある、と口にしただけで、反ユダヤ主義者のレッテルを貼られてしまいます。南京での中国人の被害者の数も、中国共産党政府の主張する30万人とか40万人とかいう数字をそのまま受け入れなければ、大日本帝国の軍国主義復活を目論む右翼分子とレッテルを貼られそうな勢いです。冷静に、歴史的に、事実を確定しようという学問的姿勢や努力は、政治的に圧殺されてしまいます。」否定弁証法3/17
と、上記の主張は端的にデタラメだよね。「冷静に、歴史的に、事実を確定しようという学問的姿勢や努力は、政治的に圧殺」ってのは事実と異なる主張だよね。
で、歴史に関する記述が政治的に歪められているという上記断定は、歴史修正主義が大喜びする「どっちもどっち」という判断を直接的に導くよね。tari-Gも、「どっちもどっち」は歴史修正主義の手口だと認識してるだろ?
さて
3/17の否定弁証法クンの主張は明らかに歴史修正主義にとって都合の良いデタラメの垂れ流しであるがゆえに、これを厳しく批判する論調がでてきたわけですね。
しかも、直後の否定弁証法クンの反応は、具体的な反論に対して「史上最大のタブー」「「信者」と議論するのは、ご遠慮しておきます」と、明らかに陰謀論を採用して議論を拒絶していたわけですね。ここも批判されて当然だろ。
でな、今回は否定弁証法クンがデタラメを垂れ流したので叩かれた、というだけの話だぜ。しかもそのデタラメは歴史修正主義を利する典型的なデタラメだね。
こうした批判に対して
>これはhokushyさんのような圧殺的行動への批判であって、具体的な修正主義的主張とは全く意味が違うのは明白です。tari-G
って意味がわかんないんだが。
いいか? 先にデタラメ垂れ流したのは否定弁証法クンだぞ。それを批判すると、後付けで「圧殺的行動への批判」となるわけ? 時間的前後が無茶苦茶。
しかも、デタラメを批判すると圧殺的行動になるってのも支離滅裂。デタラメを批判したらいかんの?
おまけに、「具体的な修正主義的主張とは全く意味が違うのは明白」って、どこに根拠があんの? チミの脳内で明白なだけだろ?
というわけで、僕はこの1点でチミのお相手をさせていただく。
「教育=学校に通わせること」というだけではないよね。教育を受けさせるのに、より効率的な場所が学校というだけであって。
物事や人が良い方向に向かうために、何が必要か考え、必要な知識を学び、それを実行できる教養を得ること。
また、その教養を得ることに対して喜びを感じる心を育てること。
それがつまり教育なのであって、そういった教育を受けた人間であれば、何もなくとも向上心を持って自らの能力を自ら高めることができ、その集まりである社会は、同じように自律したものになると。
また教養のある人間であれば、その子供たちにも適切な教育が施せるであろうと。
そんなようなことがこのコラムは言いたいんだろうし、同意する。
でもそれって結局、教育を受けさせる人間(多くの場合親だろう)に教養があれば教養のある人間が育ち、その逆もまた然りってことになっちゃう?
目に留まったコラムがあったので急ぎ訳してみた。かなり意訳しているので英語を読まれる方は原文にあたられたい。
「一人一人が自律した社会を手にするための唯一の道(としての教育)」
(It is the only way to have an empowered society)
寄稿者―ヌズハト・フサイン(著者はナショナル・ブック・トラストのディレクター)
私の曾祖母はおそらく教育を受けていません。彼女には四人の娘がいましたが、息子はみな早くに世を去り、土地も一切ありませんでした。当時は、土地と息子を「社会的な安全の担保(social security)」とみなす固定観念が世間に広まっていましたから、曾祖母夫婦としては、それがないのを気にしていたに違いありません。彼女が確固とした先見の明を持っていた人なのか、それとも深い絶望から決意を固めたのか、私にはよくわかりません。でも彼女は娘を学校に通わせ、仕事に就かせました。それは今では極めて普通のことですが、彼女の時代には革命的で、周りから馬鹿にされるようなことだったのです(注1)。
曾祖母の信念の力は、彼女に自律する力を与えただけでなく、三人の娘を含む九人の子全員に教育を受けさせねばならない、という考えを祖母に植えつけました。祖母自身は、8年生まで進学しました。それが、アムローハ(Amroha)の町で、当時女性が到達できる最高学年だったのです。それでも、彼女の学びへの情熱を育むには十分なものでした。それは本当の意味で教育を受けたということです。祖母は本を読み、ラジオを聞き、テレビを見ました。おそらく、彼女がしたことは、曾祖母の手で蒔かれた真の自律の種を根づかせた、ということなのでしょう。
次の世代、彼女の娘(つまり私の母)が、私に教育を受けさせるのは、過去と比べて容易でした。今の私にしてもそうです。昔、私がインド警察職に就くにあたって、家族の反応はどうだったのかと聞かれたことがあります(注2)。この質問は固定観念にとらわれたものです。私はこう答えました。「家族は僕に教育を受けさせ、僕を支え、UPSC試験を受けさせ、合格させてくれたよ」と(注3)。事実祖母は、私がインド警察職に通ったと聞いて、その道に進むようにと背中を押してくれました。私は、この話をするにあたって、教育を大切にする家庭に生まれた自分が、とても幸運だったと認めざるをえません。あのような質問をされるまで、私は家の外の、また別の現実に向かいあわずにすんだのです。しかし、今日ここで書きたいのはそのことではありません。私が取り上げたいのは、とても基本的な問題です。教育とは何か、教育を受けたとは何を意味するのか、というものです。
教育とは何でしょう。
こう言っておいて何ですが、まずは、教育を受けたということが何を意味しないか、ということから考えてみましょう。教育を受けたということは、免許や学位を集めるかたわら、現状に疑問を差し挟まないようにする姿勢を学ぶのではありません。また、個々人の偏見から抜け出さないようにする姿勢を学ぶのでもありません。私にとって、本当の教育とは、人を研鑽と自律の道(the path of evolution and empowerment)へと送り出すものです。私たちはたくさんの科目を勉強しますが、時が経つにつれて大体は忘れてしまいます。しかし学んだ後に残るもの、残るべきものが重要なのです。それは、今までの到達点から更に先へと進もうとする態度(the need to stretch the boundaries)、新しいことを試みながら勘所をきちんと押さえようとする態度(the need to try and find equilibrium)です。例えば、良くバランスの取れた人(a well-rounded personality)と聞けば、XやYやZの専門を学んだ人というのではなく、ある種の心構えと教養を持った人を思いうかべるでしょう。
最後に強調します。教育がなすべきことは、私たちが持っている学びへの情熱に火をつけることです。ええ、貧乏の重みで足がぐらついているときに、教育のような問題について考えるのは難しいです。貧困に立ち向かうのにお金が必要なのは言うまでもありません。ですがその上で、金銭的な支援は常に仕事(work)と結びついていなければなりません。そうでなかったら、それは自尊心をむしばみ、ひいては単に大勢の依存者を生みだすだけになってしまうことでしょう。ただし、お金と仕事を結びつけることが重要なのと同じように、教育で心を豊かにすることもまた必要なのです。ですから、教育は実際に私たちの能力を伸ばし、自律した社会を作り出すのです。それは、正しいことと間違っていることとを区別できる人と社会です。教育は、私たちが持っている想像力を刺激します。私の場合、教育は先へつながる機会への扉を開いてくれました。教育は搾取に対するセーフティ・ネットです。教育をうけた男/女は、より良い生活を送るため、より良い市民であろうと努めるために、学んだ成果を生かすことができるでしょう。見聞を広めた人は、広めたぶん難しい問題に取り組んでいくことでしょう。そして彼らは、子どもたちがより良い機会を得られるよう取り計らうことでしょう。そう、かつて私の曾祖母がそうしたように。
出典:インドの新聞『ザ・ヒンドゥー(The Hindu)』2009年3月9日付
http://www.thehindu.com/mp/2009/03/09/stories/2009030950160100.htm
述べられている時代も教育史的背景も調べられていないので、過去の教育事情を推し量る参考までに識字率のデータを挙げる。
それぞれの調査に制約や統計の取り方の特徴があるようであるが、ここでは全て無視して数字を並べる。その上、元データにも当たっていない孫引きである。詳しくは以下のurlから参照した表1の注記を見よ。一例を挙げれば、1981年に、調査対象者の年齢の下限が5歳以上から7歳以上へ変更されたとのことである。つまり、以下に挙げる識字率はどれも15歳以上の総成人人口に対する割合ではないことにも注意せよ。
赤井 ひさ子、「独立後インドの初等教育及び初等教員養成」、『東海大学福岡短期大学紀要』、9号、2007年、p. 3. によれば、識字率自体は、1951年は18%、1971年は34%、1991年は52%、2001年は65%と報告されている。女性の識字率はそれぞれ9%、22%、39%、57%で、男女間格差も大きい(小数点以下は四捨五入した)。
http://www.pub.ftokai-u.ac.jp/bulletin/2007/2007akai.pdf (pdf注意)
簡単に言えば、インド警察職は、インド行政職などと並ぶいわゆるエリート公務員である。
いつの話かわからないので、その背景も不詳であるが、おそらく以下のような近年の事情からおぼろげに想像されるようなものなのではないだろうかと推測する。
http://www.hinduonnet.com/fline/fl2324/stories/20061215002503300.htm
http://www.hinduonnet.com/fline/fl2519/stories/20080926251908700.htm
http://www.hinduonnet.com/fline/fl1908/19080210.htm
最後に日記を書いた日からかなり状況が変わった。
精神的に駄目になってしまった。
結局プレッシャーに打ち勝つことができなかった。
先生に研究の一時ストップの許可を貰い、実家に帰ると話をした。
甲状腺は結局問題がなかった。
ショックだった。
このままでは自分の体調は治らない。
最後の望みが絶たれた気がした。
自律神経のほうの問題ではないかとのことだ。
自分はそんな病気、精神病などにはなるはずがないと思っていたが、
人間堕ちるときは一気に堕ちるものだということを身をもって実感した。
色々と調べてみると、やはり自律神経失調症の症状と自分の症状が一致していた。
汗がとまらないことも、全て関係しているようだ。
でも、心療内科に行こうとは思わなかった。
僕は落ち込んだ。
今までの人生の中で一番落ち込んだかもしれない。
非常に辛く、毎日脅えて過ごした。
多分、人を信じすぎたんだろう。
過剰に人を信頼することによって自分が傷つけられた。
その頃からかな、元気がなくなったのは。
他人を心から信用できなくなった。
友人関係もほとんどなくなった。
高校のときの知人も何人かいるが、正直心から信用できる友人ではない。
繋がっていることに価値を感じられない。
体よく利用されているだけだとしか思えない。
でも今から考えると元気だったんだろうね。
その当時に起きたことが今起きれば、自分は今よりも簡単に死んでしまっているかもしれない。
その当時の辛さに比べれば、今なんて全然大したことではない。
それでも、自分は潰れてしまった。
僕はもっと強くなりたい。
誰に、何を言われても動じないような強さが欲しい。
欲しいと願っているうちは手に入れられないものが世の中にはたくさんある。
だから、僕は毎日自分を成長させていかなければならない。
もっと、もっと高いところにいきたいんだ。
人生なんてこれの繰り返しなんだろうな。
登ったと思えばまた新たな山が見つかる。
城が見つかる。
自分の城を見つけることは果てしない試みだ。
何書いてんだろ。
自分でもわけがわからない。
株価の低迷で含み損が発生していて、本業の利益を全部食われてしまっていて、赤字決算になって役員賞与が貰えないという事で、株価を公的資金で維持して欲しいという主張である。無論、こんなに正直には言っていない。建前として、金融機関の自己資本比率が低下して融資ができず、資金繰りに困って倒産する所が出てきているから、株価を維持する為に銀行等保有株式取得機構のような仕組みで、公的資金で買い上げろとしている。
しかし、失われた10年の間、ダム論で企業を優遇しても、景気は回復しなかったし、融資も商工ファンドやサラ金といった、高金利の性質の悪い所が増えたばかりで、金融機関は、国債や地方債や外債を買ってばかりで、融資なんてしていなかった。不動産デベロッパーですら、外資系金融機関からしかファイナンスができなかったし、外資系金融機関がクレジットクランチを起こした後は、資金がショートして、未完成物件の投げ売りやら民事再生やらでごたごたしている状態にある。
こんな状況でPKO(Price Keeping Operation)を再びやってくれというのは、持ち合い株の含み損を減らしたいというだけでしかない。
そもそも、金融機関や事業会社が、他の企業の株式を抱えているという点が間違っているのであって、株価の低迷で持ち合い株の含み損が発生し、決算が軒並み悪化して、さらに株価が低迷するというスパイラル現象は、株式の持合によって状況を悪化させているというだけでしかない。株価の低迷が原因であるが、それを、自律的回復が難しいほど波及効果を発生させてしまうようにしたのは、持ち合い株という手法を選択しているからでしかない。
時価会計以前は、持ち合い株は簿価で帳簿に載せられ。株価が上昇している時には、簿価を時価にして益出しするという手口で、本業の失敗を糊塗できていた。それを覚えてしまっているのであろう。そして、与党株主を増やすのにも、株式持ち合いは有効であった。
株主と向かい合う事を避け、過去の成功体験にしがみついているから、こういう発想しか出てこないのであろう。
公的資金で株式を買い上げた後を、どのように考えているのであろうか。企業の国有化が望みなのであろうか。買った株式は、いずれ、市場に出さなければならない。買った時以上に株価を引き上げるには、無能な経営者・管理職の首を切り飛ばすのが、まず重要である。公的資金で株を買え、でも、株主権は行使するなというのであろうか。だとすると、公的資金で株を買う以前の問題として、そのような企業は市場から退場させるべきとなる。
昔の経済人には、国家を支え人民を食べさせているのは我々だという矜持があった。政治や行政は税金で雇っている召使いに過ぎないと言う、プライドと実力があったのだ。税金からお仕事を貰い、規制や許認可で参入障壁を築いて縄張りに汲々とするような小商人ばかりになってしまったのは、どこで間違えたのであろう。
1、性質
・完全主義者、潔癖、感情に左右されやすい人が陥りやすい。
・一番問題なのは、何度もいやな気分を体感的に反芻する傾向があること。
・これは仕方ないからと割り切れない。腹をくくれない。
・客観的な視点で状況を把握できない。とくに自分のこと。
2、条件
・季節の変わり目は発症しやすい。
・環境が著しく変化した場合も良くない。引っ越し、転職、学校が変わるなど。
・精神的な落ち込みによる不眠。
・体調不良。
・年齢による新陳代謝の低下が始まるあたり。20代前半。若いうちは蘇生できたものができなくなる。
・精神的にショックを受けることがいくつか重なる。
※上記がいくつか重なると、どかんと来る。とくに体調不良と精神不安が重なるとかなりやばい。
3、うつ病の最悪な点
・基本的には感情をコントロールするべき脳内分泌を司る器官が過度に使われ壊れること。
・わかりやすくいうと長期にわたる凹みと体調不良で、いやな気分になる分泌物を出す蛇口が馬鹿になってで続けるといった状態。
・例えば今イメージできる最悪な出来事のいやな気分を思い出して頂きたい。蛇口が壊れることで常にその最悪な気分のままということ。
・さらに最悪な点は、うつ病になってしまうことでまわりの環境が、自分が望むものからかけ離れることによる不安が、その状態を悪化させうるということ。負のスパイラルに陥りやすいということ。
4、治療と対策
・結論から言うと治ります。上記でもわかる通り、蛇口が壊れている訳ですが、例えば胃酸過多と同じ状態と言えます。胃酸過多は治りますよね。ただ、癖になることはあります。でも治ります。それはどうすればいいか。食べ過ぎないことです。ですので一番の対策は凹みすぎないことです。
・認知療法で、物事を客観的にとらえる術を身につける。
・自律神経訓練法で、とても落ち着いた状態を身につける。
・かなり具体性がありませんが精神的な成長も必要です。自立心など。
・薬物療法とはあくまで緩和です。蛇口を止める、もしくは相殺するなどです。でも根本原因は物事を悪くとらえたり、いやな気分を何度も反芻する、客観的に物事を判断できずにドツボにはまったりする癖です。そこをどうにかしないと良い方向には向かいません。
・周りの人間の理解と協力が必要です。ただ、うつ病に陥りやすい人の周りには理解が乏しい人が多いようです。かなりエネルギーが必要になるので、一番理解してくれそうな人から少しずつが良いでしょう。
・その他、カウンセリング、NLP、催眠療法などがありますが、用途が異なります。主治医に相談したり自分で調べてみましょう。ただし、ネット界隈で調べることはお薦めしません。できれば簡単な本から始めましょう。
・ネットで同じ境遇の人とコミニュケーションすることもできます。が、程々にしましょう。依存する傾向があり、獲得するべき価値観とは逆行することが多いようです。
・病院の先生も様々です。この人なら信用できるなと思える先生を見つけた方が良いでしょう。ただし、相手も人間ですので100%をむやみに求めてはいけません。
5、注意
・いろいろ書きましたが、うつ病のパターンも重さもつらさも人によってかなり差があります。体質もあります。元から体力がある人とない人では出方も違うのです。一般化することはできません。今回書いたことはうつ病の60%ぐらいが当てはまるとかその程度のことです。
・もっと原因が深い場合があります。また、他の病気や精神疾患が絡んでいることもあります。信用できる先生と相談することが一番大切です。当テキストはあくまで参考程度でご活用ください。
~動物臭ことってどんなこと? 他人を気にしないこと~
動物はそこらに糞尿を垂れる。なぜならば,「他人」という概念がないからだ。
当たり前のことを書くけど,「人間は何故服を着るの?」ということは大切に問題だ。
全裸であれば,他人に不快感を与える可能性があるからだ。肉体は,よほど清潔にしていなければ匂いもするし,不潔感もある。
現代のように毎日シャワーにあびれる環境ではなく,昔のようにこまめにフロに入れない時代であれば,皮膚病もあるし,とにかく清潔ではなく,相手に不快感を与える。それが「清潔にされた特別な美女」でない限り。
このため,人は衣類を着用する。
衣類を必要とする理由は,自分のためではなく他人のためだ。
あなただって,もしも無人島に一人しかいなくて,助けに来る気配もないとする。まわりには動物しかいない。気候が温暖であり,岩場やとげのある植物もないようなところだったら,それでも衣類を着るだろうか?
いま貴方はどんな部屋にすんでいる?
頻繁に友達や恋人が訪れる部屋ならば,掃除が行き届いてるいることだろう。部屋が不潔であることは,来客に対して失礼であるからだ。
しかし,誰もこなければ部屋は汚くなる。
他人という存在を知覚し,理解するからこそ,つまり「社会」という概念があるからこそ,言葉遣いも正確になって誤解のない表現をつかい,几帳面になり,物事にたいして正確になる。
他人を意識するからこそ,他人に共感するからこそ,他人の権利や心情を理解し,他人の権利を侵害しない。つまり,違法な行為をしない。
動物には「他の者」という概念がない。世界には自分一体だけだ。だから,誰にも関心を示さないし誰からも関心をもたれないと思っている。
従って,他人の権利という意識もないから,女が欲しいとおもったら犯すし,空腹になれば盗むし,感情的になれば殴るし,違法な行為をする。
能動的にしなくても,自分の義務を全うしない。法律に何がかいてあっても,「ただの紙」と思う。
人間であれば,常に他人の目を意識する。だから,感情的になるような不愉快なことがあっても,社会秩序と自分の権利義務の範囲で行動する。
動物と人間の違いは,「他人の目がある」という意識があるかないか,ということにある。
だから,私たちは,不潔な格好をしていたり,いつも「へらへら」とわらっている気色の悪い表情の者や,円滑に会話することすらできないほどの無知,その他の「反社会的行為」が起きる。
結論をいうと,人間は犯罪をしないし,動物は「躾」や「鎖」がない限り,必ず犯罪(違法行為)をする。
動物には意思がない。だから,いきなり性行為を強要したとしても,「嫌だ」という意思がないのだから強姦にならない。
従って,動物同士には,窃盗も強姦もない。「とられたら嫌だ」とか「おかされたら嫌だ」という意思がないからだ。
しかし,これを人間相手にしたとき深刻な被害が生じる。
他人の心(犯されたくない,殺されたくない,傷つけられたくない,盗まれたくない等)は,そもそもそこに心があるからこそ,「読みと力」が発達する。
相手の意思を確認する能力,それが共感能力であり,これは人間の前頭葉にあるミラーニューロンによって機能する。
言葉とは,相手の表情や筋肉の動きからではなく,より的確に「相手の心」を把握する手段だ。だから,人間だけが言語を発達させた。
「他人と連携するため」に。
だから,法律も守らないし,法律という意識がそもそも存在しない。他人の所有権という概念を理解できない。そして,たいてい,言葉がろくに話せない。
単語を発することが出来るが,オウムのように何かを模倣して繰り返すか,コピーのみできる。どれも「不適切」な用法で。
だから,人間社会は言葉を話せない者,聞けない者を人間として認めない。
(ただし,その人が幼児または動物にかこまれて半生を生きたため言語能力が発達していない場合除く)
動物世界では,反対に言語を自由にあやつる者を「動物として認めない」。
さて,以上までは社会科学の立場から論じた。
自然科学の立場から,「動物」を論じることが今,世界中で起きている。
事の発端は,「恐怖の大魔王」が世界を滅ぼすという予言のあった1999年,人類の起源そのものをかえてしまう発見がポルトガルであったことだ。
人間(サピエンス)と,旧人(ネアンデルタール)の混血化石が発見されたことだ。
2002年,米ワシントン大のアラン・テンプルトン博士が,人類の常染色体の10座標から,原人,旧人の血統を発見した。
2008年,この研究発表に対して様々な反論がくわえられたが,ついに断念,人類の「混血」が確定した事実となった。
混血の頻度は,西欧がもっとも低く,ついで東欧,中央アジア,東アジア,の順となっている。
ネアンデルタールは,人間に似た形をしているが人間ではない。共食いが大好きだし,空腹になればまず子どもや妊婦を殺して食べる。
感情的になればすぐ相手を殺すし,つまるところ他の動物となんら違いはない。
ボスの座をめぐって,殺し合いをするチンパンジーの習性と全く違わないし,子どもの脳(栄養価の高い)を食べて空腹を満たすチンパンジーの母親となんらかわることはない習性を持つ。
言語ははなせないが,石器などから人間の真似をすることはできる。勿論,劣化コピーとなる。
旧人はお互いに交流しないと連携しない。だから,交易はない。たいてい,近親相姦によって子孫を増やす。
遺伝的に等しいので,近親相姦をしても問題がないのだ。
進化の速度がはやい人類は,劣性遺伝があるので,近親相関は奇形児の生む確率が高い。しかし,旧人は進化の速度が遅くて均一しているので問題ない。
勿論,「旧人との混血なんて無いはずだ」と感情的にただ叫ぶ者もまだ世界には多い。
だが,考えてもみてほしい。
人間であるあなたは,「全て人間だ」つまり自分と同じだと思えるだろうか。「全て」に対して。
人間の「裸の理性」(思いつき)によって為されたことは失敗し,長い歴史と時間の積み重ねによって得た英知が,「偏見」にあると論じた。
確かに,一つや二つ異常をみたところで,人は先入観を抱かない。
歴史的に連続した「異常」によって,偏見が形成される。偏見は,すぐにはつくられない。
もちろん,偏見の中にも,時代の変化によって不適切なものが含まれてくる。その場合は,再び時間の経過によってその事象が偏見の中から削除される。
あなたは,今までの人生の中で,明らかに「人間ではない存在」を多く見たり,或いは新聞やニュースの伝聞で聞いているはずだ。
犬は犬に対して異常とはおもわない。しかし,人間が犬の行動をもし「人間がしていたら」と思うと,「異常だ」と思う。吠える,噛む,糞尿をたれる。
しかし,「あれは犬だから」と認識することで自然だと考える。だが,もし犬が形態的に人間とあまりかわらない形をしていて,かつコピーされうような人間の言葉をある程度再生できる能力を有した状態で,「犬の行動」をしたらどうなるか。
「異常」とあなたは感じるだろう。
なぜならば,人間の中には,吠えたり噛んだりする者はいないからだ。
参考までに,一つの「事実」を示そう。
「プレ・ネアンデルタール」というのがいる。これは人間とそっくりだ。何故ならば,人間から分離して別の進化(まはた退化と呼ぶべきか)を遂げてから間がないからだ。
そして,旧人には渡航能力がない。まだ島と大陸が同じだったとき,または氷河期に海面が凍結していたときに徒歩で移動した。
従って,原則,アフリカとユーラシア大陸にしか旧人はいなかった。
イギリスや日本にも徒歩で移動できるが,島であればそこにいるだけの旧人を殺してしまえば,後から「次は来ない」。
以前まではの内容は,いままで散々日記に書いてきた。過去4年間にわたって書いてきた。
ここからが,「旧人と接しつづけた人間は,どうなったか?」という新しい考察だ。
人間は猿から進化したといっても,その「進化した様子の化石」がいまだ発見されず,「失われた輪」であり,想像の産物に過ぎない。
一方で,神などの知的な存在が人間をデザインしたという説も,具体的な根拠がない。進化論もID論も物証がない。
「彼らが,次の旧人ではないか」と。
次の,というのは現時点で彼らの中にホモサピエンスがいることに違いはない。しかし,明らかに彼らは島嶼部の人類と形態的にも試行的にも異なる。
専門的なことをかくが,島嶼部の人類および「アダム」の時代とされる初期のホモサピエンスの頭示数は81以上-86未満であるのに対して,大陸の人類は頭示数が86以上であり,サピエンスと形態的に変化しているのだ。学術的には「過短頭」と呼ばれる。
もはや,目でみて「大陸の人間だ」とわかるようになるまで形態的な差が生じてきている。
ここで私は考えた。
もし,生まれたときから旧人と共に生活し,それが何世代にもわたってしまえばどうなるのか。
恐らく,心を持つこと自体不毛であり,精神的につかれてしまう。他人をおもいやる気持ちをもっていても相手は自分を尊重しない。
愛しても愛されない。守っても守られない。盗まなくても盗まれる。犯さなくても犯される。傷つけられなくても傷つけられる。殺さなくても殺される。
この時,「他人を思いやる気持ち」(共感能力)を持つ人間は,精神的に疲弊して,やがて死んでしまうのではないか。死ななくても,子孫をつくる気力さえなくなってしまうのではないか。
こうして,人類の中にも,旧人と共に暮らしてきた者は,「共感能力をなくす」つまり,退化するということで,旧人に対応したのではないか。
動物に対応する方法は二つあって,動物を殺して統制して飼い慣らすか,或いは自分自身も動物になってしまうことだ。
能力の高い人間は動物を統制して対応し,能力の低い人間は同化したのではないか。その際に,全てを捨ててしまったのではないか。
つまり「人間性」を。
朝鮮人,シナ人への偏見は,「非人間性」を持つ。それは今更説明しなくても報道をみればわかる。
彼には明らかに退化している。人間としての機能が退化している。「他人を思いやる心」が無い。共感能力が無い。法がない。
退化することで,自然淘汰を免れ,旧人と共に暮らす進化ベクトルをおせんだのではないか。
ここで一つの答えがある。
どうして,プレ・ネアンデルタールは人間から分離してしまったのか。後期型ネアンデルタールは明らかに人間と違う形態をしているが,初期型ネアンデルタール,つまりプレネアンデルタールは人間と極めて似通っている。まだ分離して間がないからだ。
このため,「進化している」と当初勘違いされた。実際,ネアンデルタールは80万年前に人類から分離して「退化」したのだ。
なぜ退化したのか。
そこには「原人」がいた。原人にふれた人間が,「他人を思う心」をなくすことで適応し,それが旧人へと「退化」したのではないか。
彼らは知能の問題から,人間と動物を見極める能力を有さない。だから信じては裏切られ,ということを繰り返し,そのうち考えることも信じることもやめて,機能そのものを遺伝から削除した。
退化した。
それが生きる術だった。
島嶼部の人間は,旧人を殺せば次はこないため,人間同士で生活し,人間特有の機能をそのまま進化させた。
協力すること,信じること,愛すること,理解すること,尊重すること。
アルフレッド・セイヤー・マハンによれば,シーパワーとランドパワーはあきらかに区分することが出来るとする。
それは地政学上の問題では論じることの出来ない,思想・思考の違いがある。
ホモサピエンス,つまりアダムの子孫が住む地域は,日本,イギリス,台湾,およびこれらのイギリス人の子孫が入植した地域に限られる。
自分が信じても相手は信じてくれない。自分が誠実にしても相手は適当。与えた分だけ相手に着服される。
そんなことを繰り返していては,自分が死ぬ。だから,死ぬ前に彼らを殺すか,或いは自分自身が「彼らと同じになる」しかない。選択肢は二つしかない。
私は,旧人を殺すことが正しいと思う。
それは私の生育環境に人間が多かったことが原因していると思う。
私のこの意思は,ここに矮小ながら発信している。
あにたは私の意思に共感するだろうか?
もし共感したならば,もっと私を知って欲しい。私の考えや発想を暗記するほどに知って欲しい。そして私の目的をより理解してほしい。
それがあなたの利益になるのだから。
一体だれが,愛のない世界,他人の協力のない世界に生きたいのだろうか?
「他人を信じ合い,協力すること」でビルがたつ。製品が出来る。
これを壊すことなく,維持発展させるには,旧人・原人を皆殺しにすることだ。
最近は「DISりたい奴の文章を勝手に増田に転載してブックマーカーに叩かせる」という手法がはやってるらしいので、某所で見かけた電波文を載せてみました。
人格障害は器質的な要因によるものと内分泌異常の2種類がある。混合の場合もある。
後者の場合、内分泌系の異常からくる自律神経失調やストレスにより症状を起こす。
心理療法的な治療だけでは医学的に効果が薄く、内分泌を調整する投薬などによって治療する。
精神科では精神的な診療・治療を始める前に、血液検査などを行ってこれを調べる。
カウンセリングは薬に比べるとプラシーボ効果程度と統計されている。
前者の場合も完治は無理でも投薬で症状を緩和する。
どっちにしてもカウンセリングだけより効果あるはず。メインの治療は薬物とカウンセリングの両方を併用。http://en.wikipedia.org/wiki/Recovered_memory_therapy
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%AE%89%E5%AE%9A%E5%89%A4
会話のキャッチボールが成り立っていなくても、コミュ力がなくても、人間がいなくても、「他人と関わること」から逃げても、コミュニケーションは作動する。
コミュニケーションは、人間の意識や主観や行為を参照せずに進展していく。コミュニケーションを人間的な単位に還元することはできない。人間が想定する「コミュニケーション能力」などお構い無しに、コミュニケーションは作動していく。あくまでコミュニケーションとは、<コミュニケーション>についてのコミュニケーションなのだ。だからこそ学術的なコミュニケーションは、各人が知識人の「本の受け売り」にならずとも進展していくことができるのである。先行研究の観察が接続可能性の担保に必要となるとはいえ、それぞれの人間が先行研究を理解しているか否かは何の問題にもならない。観察されるのは、理解度や各人の意識の合意形成などではない。観察されるのは、観察である。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090122/1232605196
id:ekkenのような誹謗中傷や罵倒を垂れ込んでいる奴のも、ある種のコミュニケーション。ekkenがコミュってのも実感がわかないが。
社会システムは、コミュニケーションを継続させることによって存続している。コミュニケーションが中断されれば、そこに社会は無い。よって、自己を存続させようとする社会システムからすれば、学術だろうとコンフリクトだろうと、コミュニケーションが継続していればありがたいものなのだ。だから、免疫システムとしてのコンフリクトは、まず社会システムの存続の負担を免除しているのである。
一方、コンフリクトによって負担を免除されているのは、社会システムだけではない。学術的なコミュニケーションを継続させることの負担についても、免除されている。たとえば、ニクラス・ルーマンやヘーゲルの先行研究が観察されることによって学術的なコミュニケーションの接続可能性が担保されたとしても、ルーマンやヘーゲルの先行研究の観察が理解されなかったとすれば、それ以降、ルーマンやヘーゲルについての学術的なコミュニケーションを継続させることの負担は増大することになる。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090122/1232605196
コミュニケーションは学術、政治、経済、法、教育、芸術、宗教とかに区別される。全部ひっくるめた会話のキャッチボールとか、全部ひっくるめたコミュ力とか、全部ひっくるめた人間性とか、そんなものはない。
このことは、各種の社会的部分システムにも相当する。学術的コミュニケーションは、いつも<学術的コミュニケーション>についての学術的コミュニケーションである。政治的コミュニケーションは、いつも<政治的コミュニケーション>についての政治的コミュニケーションである。
機能的分化社会では、政治的コミュニケーション=システムも学術的コミュニケーション=システムも、互いに全体性を記述していく。だが、互いに全体性を記述するからこそ、その全体性は真の全体とはならず、特殊部分化された<全体性>だということになる。それ故、双方は互いに全体性を記述するものの、政治の全体性に学術が倣わなければならない理由も、学術の全体性に政治が倣わなければならない理由も、無い。「審議会」のような場でできることは、精々のところ、一方が他方の作動の前提に攪乱を与えられる程度のことである。だから、一方が他方の作動を制御することは、原理的にあり得ないのである。よって双方のシステムは、互いに自律的に作動していく。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090128/1233124298
勿論、政治システムは、<世論>の心情や苦悩やカタルシスや怨念や「一般意思」や「憲法意思」などといった心的要因や人間的な単位を理解しようとしている訳ではない。政治システムは、こうした心的要因や人間的な単位について、政治的にコミュニケートしているに過ぎないのである。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090128/1233124298
学術的コミュニケーションと政治的コミュニケーションにおける接続可能性の差異は、市民的な対話や「言葉のキャッチボール」などといった猿知恵を、いとも簡単に粉砕してしまう。こうした学術と政治の対話に期待することができない以上、対話に期待する<理性的な啓蒙>よりも、機能的に差異化された各コミュニケーション形式への参入離脱可能なポジショニングを採ってもらうべく、各システム作動を学習させる「社会学的啓蒙」を選択したほうが無難かもしれない。と言っても、この「社会学的啓蒙」それ自体が既に学術システムの構成物なのだから、この結論は学術の学術に対する自己言及だということになる。こうした状況は、前半で取り上げたハーバマス・ルーマン論争の時期から、既に一般化していたことだ。この意味で、未だに右と左の区別に縛られ、厳密な根拠づけや理性的な合意形成を目指すような政治的討論を試みるのは、完全に周回遅れである。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090128/1233124298
要は、「会話が成り立たない」という会話も学術的で成り立たないから、「会話が成り立たなくても作動していくそれぞれの部分システム」への参入と離脱を両立しろってこと。
アホウもここに極まれりといったところだろうか。
だからってアホウにアホウと言っても、アホウはアホウのままだと思う。
トライブにとっては、学術システムこそが外部環境に位置づけされる。双方のコミュニケーションは互いに影響を与えることは無く、自律的に作動している。したがって、こうしたトライブの戯れを批判し、啓蒙することは不可能である。経済学者や活字好きのご老体は、はてなブックマークに馬鹿や危険因子が存在していると批判していた訳だが、彼らにできたのは、あくまで馬鹿や危険因子が存在していることを発見し、記述するところまでである。彼らを啓蒙することなど、できるはずもなかった。何故なら、トライブのコミュニケーションを決定付けるのは、トライブだからである。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090122/1232605196
最後に日記を書いた日からかなり状況が変わった。
精神的に駄目になってしまった。
結局プレッシャーに打ち勝つことができなかった。
先生に研究の一時ストップの許可を貰い、実家に帰ると話をした。
甲状腺は結局問題がなかった。
ショックだった。
このままでは自分の体調は治らない。
最後の望みが絶たれた気がした。
自律神経のほうの問題ではないかとのことだ。
自分はそんな病気、精神病などにはなるはずがないと思っていたが、
人間堕ちるときは一気に堕ちるものだということを身をもって実感した。
色々と調べてみると、やはり自律神経失調症の症状と自分の症状が一致していた。
汗がとまらないことも、全て関係しているようだ。
でも、心療内科に行こうとは思わなかった。
僕は落ち込んだ。
今までの人生の中で一番落ち込んだかもしれない。
非常に辛く、毎日脅えて過ごした。
多分、人を信じすぎたんだろう。
過剰に人を信頼することによって自分が傷つけられた。
その頃からかな、元気がなくなったのは。
他人を心から信用できなくなった。
友人関係もほとんどなくなった。
高校のときの知人も何人かいるが、正直心から信用できる友人ではない。
繋がっていることに価値を感じられない。
体よく利用されているだけだとしか思えない。
でも今から考えると元気だったんだろうね。
その当時に起きたことが今起きれば、自分は今よりも簡単に死んでしまっているかもしれない。
その当時の辛さに比べれば、今なんて全然大したことではない。
それでも、自分は潰れてしまった。
僕はもっと強くなりたい。
誰に、何を言われても動じないような強さが欲しい。
欲しいと願っているうちは手に入れられないものが世の中にはたくさんある。
だから、僕は毎日自分を成長させていかなければならない。
もっと、もっと高いところにいきたいんだ。
人生なんてこれの繰り返しなんだろうな。
登ったと思えばまた新たな山が見つかる。
城が見つかる。
自分の城を見つけることは果てしない試みだ。
何書いてんだろ。
自分でもわけがわからない。
まず長期に渡って財政出動を維持するのは、借金がふくれあがる為に不可能という前提を置く。
で、成長率の落ち込みが最初から一時的なもの、つまり単なる景気の波や金融危機などが要因であれば、
財政出動には景気が自律的に回復するまでの「つなぎ」としての意味はある。借金も小規模で済む。
けれど、労働力人口の減少や技術革新の停滞などで長期的に成長率が落ち込む場合には、
前提条件から財政出動を止めた場合、成長率は元の低い水準に戻ってしまう。
こういう場合は金融緩和でインフレ期待や通貨安を引き起こし、持続的に景気刺激する必要がある。
アメリカは労働力人口も伸び続けているし、技術革新が急激に停滞したという証拠も今の所ない。
だからクルーグマンがアメリカは後者のケースにないと判断して、「つなぎ」としての財政出動に
肯定的になってもおかしくはない。一時的とは言え今回の景気落ち込みは酷い物だから、
政府はやれる事をやるべきだという主張だろう。
ちなみに日本のように長期に渡るデフレに陥っている国でしか使えない荒技ではあるけど、
「長期に渡る財政出動は不可」という前提は、インフレ税を財源として、すなわち日銀による
国債買い上げを財政出動と併用する事で回避可能。今も急激に物価が下落中だから
チラホラ政府紙幣を使えと言うような主張も出ているようだけど、あれも大体は同じ事。
消したようなのでバックアップしておく。
http://anond.hatelabo.jp/20081216205541
僕の周りにいる人間はみんな馬鹿でして、ああこいつなんて頭が悪いんだと思ったことは数知れず、いや、数はどうでもよいのですが、僕が人を見下すことにかけてずば抜けた才能を持ち合わせているのかについて多少書いておこうかと。
小学校に入学したときから卒業するまで、ずっと「今学期先生にクラスみんなの前で名指しで何回褒められたか」を数えることを欠かしませんでした。授業中積極的に手を上げた、1回、進んでクラス委員を引き受けた、1回、今学期は12回だったので前より減ってしまったな、とこのような調子でした。クラスみんなの前でというのが大切な条件であり、例えば班を組んでいる中で褒められたものは数に含めません。どのように振舞えば先生に褒められるか考え、意図した行動で褒められればよしやったという気分になりました。3年生と4年生のときには、帰りの会でその日のクラスメイトの善行を褒め非のある行いを諌める制度がありまして、そこでもできるだけ僕の名前が出るよう、音楽の時間には楽譜の読めないクラスメイトのために楽譜にカタカナのド・レ・ミを振ってやったり、給食係の後片付けを手伝ったり、分度器を2セット持ってきて忘れたクラスメイトに貸し与えたりと、さまざまな恩を振りまいていました。恩のパターンを増やしてできるだけクラスメイトが僕を褒めやすくするよう気をつけ、また適度に僕もクラスメイトのよかったところを褒め、褒められてばかりの状況にしないよう気をつけました。おかげで先生の僕に対する心証はすこぶるよろしく、三者面談ではクラスの中心になってよく頑張っていると必ず褒められ、毎学期の通信簿も上々の出来でした。いや、さすがに小学生の僕でも意図してここまで厭らしく点数稼ぎを行っていたわけではなく、どのような振る舞いをすればよく見られるのかということを意識しないまでも身体に染み付け、そう振舞うように僕は自律していたのでありました。
僕が勉強しなくてもよい成績を取れることに気がついたのは中学生の時分でありまして、テスト前に1週間くらい勉強すれば普段はなにもしなくても簡単に高順位が取れる、勉強時間では周りの生徒より少なかったかもしれません。そのころは親や先生や友人にちやほやされて気をよくしていたものですが、高校に入ってからは同じやり方で学年トップが取れるようになりまして、周りの皆様は僕のことをさらに頭がよいとみなすようになったものですから、すっかり天狗になってしまい、それと同時に頭がよいことは僕のアイデンティティであり触れえざる自尊心のよりどころとなりました。これで周りの人間と普通に接することができれば僕は普通の秀才君になれたのですが、元より卑しい性根の持ち主ですから、必死に勉強して自分より成績の劣る生徒を見下すことに快楽を覚えるようになって、それでもその卑しい性根を表面に出さなければまったく問題のないことなのですけれど、そんなことできるわけもなく、勉強の話になるとどうしても自分を売りたくなってしまいます。河合塾の模試で全国20位くらいになったときが絶頂期でした。教壇の前で先生から模試結果と図書券をもらった日には、一日中にこにこと気色の悪い笑みを浮かべ、友人が僕に模試の話題を振ることをまだかまだかと期待していたのでした。そんなことをしながら僕は自尊心をさらに肥大化させるのですが、臆病な自尊心と尊大な羞恥心といったところでしょうか、恥をかかされることを極度に恐れ、周りもそれは察していたようで何か壊れやすいガラス細工の置物のように僕を扱うようになりました。
それなりによい成績を維持し続けることができたので、大学も難関と呼ばれるところに合格し晴れて入学、さあ知の世界とやらにはどんな人間が集まるのかと期待していたものの、1年くらいたつと、あれっ、どうも違う、こいつらは自分と同じくらいの学力のはずなのにどうにも頭が悪いらしいと感じるようになりまして、そうなるとさあ持ち前の腐った性根の出番だ、友人との会話にちょっと難しい言い回しを使ってみたり、アーレントだとかフーコーだとか少しかじっただけの知識をべらべら披露してみたり、そうすると友人は僕のことを頭がいいと尊敬するようになるので、僕の悪癖は余計に拍車がかかるのでした。小難しい言い方をするやつは頭がいいと見せかけたいだけで本当は馬鹿だなんてよく言われますが、これは案外あたっているような気がします。
大学生はみなTOEICを受けるというので僕も受けてみところ、1回目は何も対策を採らずに740点くらい、世間では皆様が730点を突破するのに必死こいているのに僕は易々と通過してしまい、2回目は3日勉強して830点くらい、何だ簡単ではないか、TOEICが難しいといっている連中は馬鹿ではないのかなどと今でも思っているのですが、とにかく程ほどの得点が取れたのでTOEICには飽きてしまいました。TOEIC830点なんて何のことはない、実はTOEICで流れてくる英語が聞き取れるだけで、普通の英語は英会話教室の教師のようにゆっくり話してもらわないと聞き取れませんし、会話などできるわけもなく、外国人の教官に質問するときはあらかじめ質問文と対応を考えておいてそれをそのまま述べるという情けない有様でした。それでいてリスニングやスピーキングの特訓をして英語力をつけようともしないのです。なぜならばれて恥をかく心配がほとんどないから。己が羞恥心それだけが汚されないために勉強してきた人間なのです。そのような恐れがなければ当然努力するはずもありません。
僕の怠惰な性格はとうとう大学へ通うことすら妨げるようになりました。と、ここで疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。「大学へ行かないで引きこもるのは恥ではないのか?」そこは舌先三寸、まず「自殺したい」と言って心療内科にかかって抗鬱剤などを処方してもらい、家族や教官に「鬱になった。医者に薬を出してもらった」などと言えば、大概は「無理をしてはいけない、しばらく休むといい」と心配してもらえます。最近はこのように鬱でもないのに医者にかかって「自分は鬱だ」と言い訳をする人が増えているらしいのですが、自分の両親は落ち込んだ表情と声色を使って「鬱で死にたくなった」と言っておけば簡単に信じ込むことは心得ておりましたので、当初の見込みどおりに鬱を装い実家へ帰省、こうして日本にまた一人のニートが誕生したのでありました。いや、人を騙すのは簡単だ、両親が二人とも馬鹿でよかったと、そんなことをたまに考えることがあります。
未だに僕の邪悪な性根、穢れた精神は誰にも知られておらず、嫌味なやつと思われることはあってもここまで腐りきっていることは誰も想像できないでしょう。裏表のある人なんてのはかわいいもので、外見は変哲もない人間、中を見たら中はダニ、ゴキブリ、ハエ、蟲、蟲、蟲、糞便、尿、吐瀉物、血液、汚泥、悪臭、ありとあらゆる汚物が満ち満ちており、誰も想像しえぬほどの穢れた、醜く、忌まわしき、獣の、ああ、言葉では言い尽くせないほどの本性を僕が隠し持っていると考えるだけでも、気持ち悪い、殺したい、殺したい、殺したい、なんとかしないと。
鏡で自分の顔をずっと見つめていると段々おかしな気分になってきて、鏡に写っているのは本当に自分の顔なのか、実はそうでもないような気がしてきて、そんなはずはないのだけれど、物理法則は絶対のはずなのだけれど、頭の中が掻き回される感触、ぐるぐる、ああ気持ち悪い、見ていると吐き気がする。
少し落ち着きました。ついでにネット上での活動も懺悔ついでに書いておきましょう。一丁前にウェブサイトやブログも運営しておりまして、そこでもまた例のごとく、どこかで聞きかじった知識をつぎはぎしてさも自分で考え出した理論であるかのように雄弁を、そうネット上では雄弁をもって披露していました。それらしいことが書いてあるので馬鹿がどんどんブクマしてくる、まともな人が見れば「これはひどい」タグをつけるところでしょうが、若干のアカデミズムをちらつかせておけば文盲を引き付けることは十分容易いのです。「こいつら本格的に馬鹿だなあ、これでネットリテラシーとか言ってたりするのかなあ(笑)」などと思いながら、一方では人がたくさんいる掲示板を首尾よく荒らす方策などを練っていたり、はてなにいくつかアカウントをつくって気に入らない記事にネガコメ攻勢をかけるなど、裏ではネットの荒れ模様を作り出すことに労力を費やしていました。2ちゃんねるで6年くらい続いていたスレッドを糞スレ化することに成功したときは快感でした。FAQに載っているような質問をパターンを変えてしつこく繰り返す、自分で投稿した質問に対して「テンプレ読め、ぼけ」などの煽りを入れるとたいてい誰かが加わってくれます。自作自演と見破られないように手を変えながら同じことを、徐々に間隔を詰めて繰り返し、返答の煽り具合も過激にしてゆけば、次第に通常の質問でも荒れ出しついに人がいなくなってしまうという手法でした。かなりたくさんの人数を操作できたので非常に満足しました。よもやあの○○さんがこんなことをしているとは思わないだろう、あはははは。
ネットは僕の本性を活かすには恰好の舞台でありました。リアルな僕の存在を知られる可能性は警察沙汰にならなければ限りなく0に近いので、僕は本性に従った行動をほぼ無制約に起こすことができ、それは大変素晴らしい所でした。甘美。エクスタシー。こんな馬鹿げた駄文も匿名でなければ流すことはできないわけでありまして。
人間はみな、かくも恐ろしき二面性を持ち合わせているのでしょうか。僕はいつからか自分の本性に薄々感づいていましたが、自分の内面を覗いてみたついさっきはっきりそれを自覚したため、言葉にして綴ってみたら気持ちの悪い感覚が離れず、自分の身体の中はどうなっているのだろうか、本当に筋肉があって臓器があって人間の身体なのだろうか、皮膚を切ってみたら肉は少し見えたけれどバラバラにしないと本当のことはわかりそうにないので、しかし自分でバラバラにして自分の目で中を見るような器用な技は持っておらず、諦めるしかないのかなあ。考えれば考えるほど、螺旋の階段を下りるように、闇の底へ、もう戻れない、何もないのか、いつまで続くんだこれは。
http://venacava.seesaa.net/article/110052372.html
首のコリを治せば、自律神経失調症の9割が治る。
持続的なめまいや頭痛、体調不良などを訴える自律神経失調症患者に対し、首の筋肉の凝り、異常などを解消すると、9割以上の患者で症状が治まることを、東京脳神経センター(東京都港区)の松井孝嘉理事長(脳神経外科)が7日の日本自律神経学会で発表した。
全身にはりめぐらされている交感神経と副交感神経。それらの活動が低下したり、または過敏になったりすることで、嫌な症状が出ることがあります。
交感神経は胸髄の1番目から腰髄の2番目までの間から出ています。副交感神経は、3,7,9,10番目の脳神経と2,3番目の仙髄から出ています。
首のコリ、とは要するに首の部分の血流障害などによって、自律神経がうまく働いてないということですかね。ですのでその部分を改善してやることによってかなり症状は緩和されるということでしょうか。
現代人のデスクワークは、腰や首に大きな負担をかけますからねぇ・・・。15分ごとに休みをとれといっても、難しいといえば難しいでしょう。それ以外のこと、例えば運動やら入浴やらで、十分に首周辺をいたわってやることが大事のようです。
その方法が有効な時もあるが、一般的な話にしてはいけない。
【この辺追記】
というか増田に書くと、一般的な話で語ろうとしている、俺に押し付けようとしている、みたいに取られて
まあ死ねばいいのに みたいなコメントも付くから、あんまり自分のためによろしくないように思う。
自分自身への決意とか自律で書いたのだとしたら敢えて増田に書かなくていい。
(もちろん書いてもいいが、論破or罵倒トラバが付く可能性があるデメリットは引き受けなければならない)
そういう俺の可能性は無限wwwwな人って、自分の抱えられる限界作業量を大幅に超えるようなタスクを引き受けて、
それでも頑張れる、頑張れるはずなんだ・・・とやっちゃうと周囲に迷惑をかけることもある。
頑張ってはいけない、と言わなければいけないタイミングもある。
読み返してみたけど段々まとまりが無くなってきてるなぁ。
あっ、元増田ことDursanです。
ちょっと整理したいんだけど。
多分、「体罰全てに対して不寛容な人」とおいらの間でかなり「体罰」の定義が異なっている気がする。
なんか、鉄拳制裁っ!!的なものだけ指して「体罰」っていってない?
まぁ、大枠で言えばそれも容認なわけだけどね。
しかし考えてみてよ。教員の訓練を受けて、で喜んでそれをやるSチックな人ってかなり稀有でない?
普通は鉄拳制裁なんてしないほうが効率的だし、教室運営もスムースだ。何より労力のコストパフォーマンスが違う。
単なる恐怖政治なんて、労力、精神力のコストパフォーマンスからみたら非効率そのもの。
でも、なぜ「体罰」容認かというと『体罰』が発生する前提条件として以下の2点を取っているから
・世の中にはどうしても強権を発動しないと、学校が出せる条件提示では話すら聞かない人がいる。
・強権を発動し、なおかつ身体的接触がある場合、その身体的接触には全て『体罰』が発生する可能性があるから。
これどのような状況を想定しているかというと、
児童から児童への身体的な示威行為(殴る、小突く)が発生しました。
注意しても聞かないので、まず身体的な接触で制止します(腕を押さえる)。
このとき、制止された児童が暴れて負傷しました。
これ、たぶん『体罰』認定されるよね?
そしたら教師って、訓戒程度にしろ罰を受けるよね?
ちがう?
では示威行為を受けている児童を避難させるかい?
そしても別の標的に対して行うだけだし。
なにより、何もしていないのに教室から出される児童がかわいそうだよね。
先生が割って入って示威行為を受けてやるかい?
それでは示威行為が悪いことだとは気がつかないし、
なにより、強制的に制することが出来ないと教えることになるよ。
おいらが想定しているのはそういう極端な状況でも
教師が自律的な判断をすることのリスクを極力減らすということ。
もし、教育基本法(体罰を規定してるのってこれだっけ?)が改正されて、
この辺りが体罰認定されなくなったら、「体罰」を容認しないかも。
もちろん学校単位で体罰全否定という学校があってもそれは否定しない。
十把一絡げでやろうというから反対なのだ。
と、ここまで書いたけどやっぱりまとまってない・・・・
あと、なんでおいらが上記のような極端な状況にこだわるかというと
韓国「韓国と日中で共同基金設立する!まずは首脳会談!」→日中「ええ?そんなの必要ないし」→韓国「日中が主導権争いをしているなら、韓国が仲介する!韓国の役割は光り輝いている!」→日中「お断りしマース」→韓国「日中韓の外貨準備高を合計すれば1兆8000ドル!(実際には2兆6000億ドルくらい。慌てて計算間違いをしている)」
何回も否定され、断られているのに、同じ「提案」をするしか能がない韓国政府。
既に見切られている。
韓国のファンダメンタルズはいいのに投機筋に狙われているだけだ!と韓国政府は言うけれど、おおよそ1年近く経常収支が大幅に赤字化している国のファンダメンタルズがいいはずがない。
今回の韓国経済危機は投機筋の仕手戦だけが原因ではなく、まさしく市場の正当な評価。
自国の市場でもないのに、市場の自律性を毀損してどうして日中両国が介入する必要がある?
ウォンは各国通貨に対して、全面安になっているけど、とりあえず対ドル相場が焦点だとしたら、日本政府が介入するとすれば、ドルでウォンを買うことになる。
今必死でドルの買い支えをしている国際協調から真っ向から対立することになり、それだけでも日本の介入はありえないよ。
日韓の通貨スワップでは100億ドルを貸与できるけど、例のIMF危機の時の貸与が全額返還されていないから、実際には38億ドルくらいが上限、これはIMFで規制されているので、どうにもならない。
韓国政府は他国をあてにする前に、まず自国でやれることがあるでしょうに。
第一に、サービス収支の赤字だけでも200億ドル以上になるのだから、サービスの海外移転を原則禁止にすること。つまり海外渡航、留学の原則禁止。一部の先進国しか認められていない特権的な贅沢を享受しておきながら、他人の援助に期待するのはむしがよすぎる話。
これをやりたくないから騒いでいるのだろうが、やるべきことはやってから言いなさい。