はてなキーワード: 政治力とは
子供なんて理性の無いその辺の野生動物みたいなもんだからなあ。動物の本来的な行動として弱肉強食になるのは避けられないだろう。
ましてDQN親に育てられたような奴は、親が(大人になっても)動物に毛が生えた程度の知能(と理性)しかないわけで、「まともな人間」であることを期待するなんて愚の骨頂だよな。先生がDQNというケースだってよくあるわけだし。
DQNを隔離するDQN島でも作れば多少はマシになるかもしれないけど、当然現実的じゃないし、DQNの親が金持ちだったりした場合政治力で負けるよね。
動物園で動物を管理するような手法で子供を管理すれば無くなるかもね。人権屋が暴動を起こすし、ロクな大人が育たないと思うけど。
本当にその通りだよな。
どうせ綺麗事なんて意味無いんだから、はっきり言えば良いんだよ。
結局、大人やら上級生やら、はたまたクラスメートやら、そういう奴を上手く扱う政治力が無いからイジメで苦しむわけでさ。
そういう相手に、政治力を発揮しろなんてアドバイス全く無意味だろ。
それらを上手くやるような奴は、相手だって選ばねぇよ。
選ばれたとしても、自力で解決できる。
「他人のことなんて考えるな、最下層に甘んじるな」
「他人を貶めてでも生き残れ」
綺麗事でクラスがまとまるなら、そいつは「運が良い」だけなんだから、そんな言葉に耳をかすな。
イジメから逃れる一番簡単な方法は、生贄を用意することだ。
なんでコミケってこういう時期にしかやれないんだろね。
FAQ。ググれ。
行って見たいんだけど、どう考えたってお盆で自由に行動できない。冬も冬だって忙しいし。
個人的な事情はおいといて、大多数の人が数日間のまとまった休暇を取れるのは盆暮れ正月しかないから。
会場の確保の問題もあるんだろうけど、こんな時期はガキしか動けないだろ。
そして会場の確保こそが最大の問題。現在の東京ビッグサイトでも既に限界を迎えてる。これより大きい施設は日本国内には存在しない。
荒天対策が不可能なので無理。あと公共交通機関の選択肢が乏しい土地にろくなノウハウなしに大量の人を呼びこもうというのは机上の空論であり愚策としか言いようがない。
同上。
会場の費用なんか来てくれるだけでありがたいってんで、タダみたいなもんで出来るはずだよ。
タダでは人は動かない。みかじめ料を取らないイベントは基本的に小規模だから可能なのであって、大規模なものは事前の環境整備や当日の警備や交通整理に莫大な投資が必要なのでむしろタダで引き受けようなどと言い出すものは全力で止めるべき。
国体じゃないけどさ、毎年毎年、開催地変えてやってみてくれ。
ご自分の力でご自由に。コミケにはお客様や外部顧問はいない。いるのは参加者だけ。どうぞ自ら参加者になって実現してください。
それだけやると政治力だって手に入れられるぞ。いずれ下火になるんだから、今、熱い内に頑張ってみろよ。
コミケが25年に渡って「発展」してきたのはオールジャンルかつノンポリを貫いて来たから。そもそもこれ以上「発展」されても困るので、下火になるぞなんて脅しはむしろ歓迎される。好きなことができればそれで十分なのが本来のコミケだし。コミケを開催できる以上の政治力は必要とされていない。
なんでコミケってこういう時期にしかやれないんだろね。
行って見たいんだけど、どう考えたってお盆で自由に行動できない。冬も冬だって忙しいし。
会場の確保の問題もあるんだろうけど、こんな時期はガキしか動けないだろ。
富士の裾野とか、渡良瀬遊水池とか、屋外でもやってくれよ。盆暮れしか出来ないってどうなんだよ。
北海道なんかもムダに土地余ってんだからなんとかなんだろ。どっかに誘致してもらえよ。
会場の費用なんか来てくれるだけでありがたいってんで、タダみたいなもんで出来るはずだよ。
国体じゃないけどさ、毎年毎年、開催地変えてやってみてくれ。それだけやると政治力だって手に入れられるぞ。いずれ下火になるんだから、今、熱い内に頑張ってみろよ。
嘗て日米貿易摩擦が熾烈だった頃、プレストウィッツが書いた『トレーディングプレイス』(邦題は何でしたっけ?)がベストセラーとなって、日本のマスコミが派手に騒いでいた。
未来学者のハーマン・カーン博士が「二十一世紀は日本の世紀」と激賛し、TIMEも日本の大特集、日本のGDPがやがて米国を抜くのは時間の問題だと言っていた。
覇者アメリカにとっての感覚は、いまも同じで「いずれ中国がアメリカをGDPでも超える」と危機意識を煽る。
1982年から85年頃、アメリカ人の学生や若者と話していると、日本に行きたい、景気が良いから米国で働くより実入りが良いんじゃないか。本気で相談を持ちかけられた。
80年代後半、米国の不動産事情をしらべに行った折、白人の業者が斡旋してくれた数件の物件を見学したあと、おもわず『安い』といったら、じつに不愉快そうな、複雑な表情で反応した。
ラジオ番組でロスのマネー局と二元中継を週一回持たされていた折、日本の失業率が上昇したと数字をあげると、相手のアメリカ人が「それは良いニュースだ」と言ったのにも驚かされた。
やがて日本のバブル経済が破裂し、株は往時の四分の一に暴落し、日本経済は沈没し、失業は恒常化し、新卒にまともな職場はすくなくなり、派遣社員とかアルバイトでしのぐ『負け組』が増えた。
中国人の観光客が増えると売り上げが伸びるといって期待したら、風呂に不潔なまま入って泳いだり、浴衣もポットも持ち帰り、廊下は痰で汚れ、ろくなことはなかったと嘆く温泉旅館が或る事態を象徴する。
日米関係は米国が政治力で捲土重来を期して、いまでは『日米関係は米中関係の従属関数』といわれ、日中関係はあからさまに中国優位関係、日本従属関係となった。つまり、トレーディングプレイスがおきたのだ。
さて同類のパターンとは言えないが、アフリカのルアンダでいまおきていること。アンゴラは奴隷貿易の時代、もっとも栄えた。新大陸へ奴隷として売られた黒人は数百万に達した。
いかなる具体例があるか。
旧宗主国のポルトガルへアンゴラから留学生が大量に行って、卒業するとアンゴラへ帰る。いやポルトガルの同級生が「ルアンダに職がないか。アンゴラで働きたい」と打診があるようになった。
2006年にポルトガルからアンゴラへ移住したポルトガル人は156人だった。
2009年にそれが23787人に増えた。すべては石油とダイアモンド算出によるアンゴラ景気の良さ、経済成長は8・5%。
アンゴラの企業が旧宗主国ポルトガルの企業を買い占め、逆にポルトガルの学生がアンゴラで職を求める時代へ突入していた。
ホセ・エドアルト・ドス・サントス(アンゴラ)大統領の娘イザベラは国有石油企業ソナンゴルの大株主であり、近年は盛んにポルトガルの銀行に大型投資をくりかえして次々と株主におさまり、なんとポルトガルの最大の投資家は旧植民地アンゴラからとなった。
大統領一族が政府要職をしめ、空港におさめるガソリンの流通から、はてはルアンダのホテルを経営し、ごったがえす国際ビジネスマンの弱みにつけ込んで一泊五百ドルをふんだくる。
だから中国人は安いビジネスホテルを建てて対応した。中国からしてみれば、内戦時代からゲリラ組織を支援してきたのであり、キューバが義勇兵をおくりこみ、中国は武器などで支援した。
いまアンゴラの不動産開発の一翼を担当するのも中国企業であり、大手「中信集団」が契約、全体で35億3500万ドル。中信集団はアンゴラで幼稚園、中・小学校、発電所、汚水処理工場、マンションなどのインフラ建設に従事している。
ルアンダのチャイナタウンは推定人口が四万人、華字新聞が二種類以上でている(キューバですら百年以上前の印刷機をつかって華字新聞が唯一許可されているが、キューバ在住の中国人はすくなく、かろうじて留学生が購読対象とか)。
しかしアンゴラの庶民は大統領一族と中国があらゆる事業、入札そのほかのビジネスに密接に繋がり、一族の汚職があると推定し中国人を嫌っている。
04年には「シナ人は帰れ、中国企業はされ」と叫んだ反中デモが発生した。
それが原因かどうか。自信に溢れだしたアンゴラは、これまで容認してきた中国企業のアンゴラにおける専横と、中国人エンジニアしか雇用せず、地元民の雇用がないままに建設してきたプロジェクトに横やりをいれはじめ、いくつかの中国が推進するプロジェクトは中断に追い込まれているという。
TVshack.net, Movies-Links.tv, FilesPump.com, Now-Movies.com, PlanetMoviez.com, ThePirateCity.org and ZML.com.
アメリカでこれらのサイトが著作権を侵害しているとして閉鎖されました。
閉鎖されたサイトはいずれもいずれもネット上にアップロードされているファイルを検索できるサイトです。
アクセスすると連邦捜査局のものと思われる「このドメインは映画や音楽,ソフトウェアなどの著作権を侵害していたため閉鎖されました」という画像に差し替えられています。
実際には違法に映画のファイルがアクセス出来るサイトを閉鎖したようです。(例えばトイ・ストーリー3)
このニュースを扱った記事はたくさんあったのでその内1つを置いておきます。
http://www.theregister.co.uk/2010/07/01/us_movie_piracy_crackdown/
上の記事のコメント欄
http://forums.theregister.co.uk/forum/1/2010/07/01/us_movie_piracy_crackdown/
コメント欄には
「著作権を侵害するサイトへのリンクだけで閉鎖されたならどうしてGoogleは閉鎖されないんだ?」
「結局アメリカの法律はロビイストのために造られるんだよ」などといったコメントが並んでいます。
取り消し 下記参照今回閉鎖されたサイトには違法ファイルは置いてありません。あくまでもファイルの場所を検索するだけのサイトです。
それらのサイトを閉鎖させるというのはけっこう踏み込んだ判断だったのではないでしょうか。
WinnyやShare使用者を逮捕した日本でもそうですが最近はインターネットへの規制も強まって来ている感じですね。
一時の無法地帯ぶりがまるで嘘のようです。
日本語版の記事もありました。こちらの方が上の記事より新しくて詳しいです。
この記事によると閉鎖されたサイトは映画を違法に配信していたらしいですね。
それなら閉鎖されるのも当然かも。
なんとなくネットでそんなに議論が盛り上がっているようにも見えないのは気のせいか。
単に私がワールドカップとか相撲に気を取られたりしていたからか。そうですか。そうですね。
とある方が2年前にこんなことを言っていました。
2008-09-21 “政治影響力”方程式:チャンスなのにね。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080921
若い世代が自分たちの政治影響力をアップしようと思えば、上式の左側の4要素のどれかをアップさせればよい。人口はもう無理、でしょ。ニーズの多様性は操作できるものではない。操作できるのは“投票率”と“結束力”です。そしてね、ちきりんは思うわけ。これはチャンスでしょ?と。このふたつは若者が得意な“IT”とか“web2.0”とかがすごく有効な分野じゃん!と。携帯電話から指紋で個人認証し投票できるようになったら若者の投票率は大きく変わるよね?誰に投票すべきかの議論がウエブで自由にできるように選挙関連法律が変更されたら大きな影響があるよね?
<中略>
でも現実にはそういうの、あんまり見ない。なんで盛り上がらないのかしら。もったいない感じだわ。若い人が政治に求めるべきことは雇用対策やら福祉、景気対策ではないはず。ただただ「電子投票制度の導入」と「ネットによる選挙活動の解禁」にその主張を集中させて実現させることが今は一番大事なのです。ここさえ突破すればあなたたちの政治力は2倍にできるかもしれないのよ。雇用だの税金だのに関する制度は「政治力をもった後に」どうとでもできるでしょうが。
1年前に同じことをおっしゃっている方がいるので、
たぶん問題は解決していないんですよね。
2009年07月28日 若年層は衆議院選挙にいこう:世代別投票率及び人口の比較とその有効投票数へのインパクトの試算
http://www.kotosaka.com/article/124457691.html
若者は選挙にいこう。良く言われる事だし、色々なデータもそろっているし、これを取り上げているブログも多いが、奇麗な図表にして、大事な事だから二度言う事は重要だと思うので声を大にして言いたい。20代から40代は選挙にいこう。我々は未来にしわ寄せを受ける世代で、到底ばらまきを許容出来ない世代なのだから。
よく調べていないけど1週間くらい前にこんな記事があるんだから、
やっぱり問題は解決していないんですよね。
2010年06月26日 「若者の政治離れ」が叫ばれ「投票率は間違いなく下がる」、おまえら選挙行くよな?政党決めたか
http://netouyonews.net/archives/3326075.html
「若者の政治離れ」が叫ばれるなか、「20代の投票率80%」を目指して活動しているのが学生団体 「ivote」だ。
2009年衆院選から1年弱で、若者の政治に対する意識はどう変わったのか。同団体代表の原田謙介さんに聞いた。
-投票率は厳しいですね。
まぁネット選挙に関しては民主党も自民党も推進ムードになったのだから、
世の中変わってはいるんだろうけど、結局できていないし。
というかそもそも投票に行きますか?
同意するっていうか、ちょっと話が変わるけれども、事業仕分けの時に世間(含むはてブ)で「研究者も大衆に解りやすく説明できなきゃいけない」みたいな話が出てたけれども、もしそういう説明能力・予算獲得能力が組織の「トップの」条件とされるならば、理系の研究グループにおいて、研究能力に関わらず、つまり学問研究について無能であっても、政治力に秀でた奴が組織のトップに就くことになり、すなわち理系の中の文系人が理系人を支配することとなり、文系様は偉いですねっていう一般社会の不条理が研究界にも拡大されることとなり、理系人はかえって社会的地位を損なう気がしたので、政治力のある奴が下っ端で一生を終えるような世界を設計するべきようにも思ったのだけども、そもそも政治力は人の上に立つ過程で発揮される資質である以上、政治力のある奴つまり真理より心理を好む奴つまり文系人が上に立つのは人間社会の構造的限界なのかもしれないと思ったりした。
http://anond.hatelabo.jp/20081211025651
こんな事があった。
端的に言えば、学生の頃はとても大学の環境を楽しみ、愉快に過ごしてたのに
社会に出たら、中高生の頃のようなくだらない価値観に縛られて惨めな思いをしてた新入社員、新社会人の話だ
誰も覚えてないだろうけど、エピローグを書くと
結局自分の全力を出して仕事をやって、同期に後ろ指を指されつつも、色んな部署へお呼ばれする社内のパソコンカスタマーセンターになったり、社外の窓口のコールサポートやったり
担当してた人が退職したツールの使い方を自力で調べたり、新しい言語学んで、勉強しない同期の中で一人だけ抜きんでた存在になったり
今まで3時間かかってた業務を10分で終わらせるツール作って正社員の仕事をアルバイトに任せられるようにして、課長クラスの人間に気に入られたけど同期や年齢が近い先輩にすげぇ睨まれたり
技術系の先輩から色んな技術を教えてもらえたり、仕事は盗め派の古い人から様々な仕事を盗んで全部マニュアル化して一目置かれるようになったり
さらに、年配社員の政治力とか掴んで、部署移動して転勤して、人によっては閑職に追いやられたと思うかもしれないけど、俺としては一気にスピード出世したつもり
大企業本社で一番下にいるより、支社の中堅ポストのが自由にできて楽だよねって意味で
新社会人の皆様へ、何が言いたいかと言うと
・社内で遊ぶ友達は作らないでも大丈夫、むしろ全都道府県に遊べる友達作って転勤や出張を余裕でこなせるようになりましょう
・同期と揉めたりして辞めたいって思っても、長く続けてるうちに環境に変化があったりします。安易に辞めるより、苦境の中で学べるまたとない機会に色んな事を試しましょう。合い言葉は、「この会社辞めて本命の会社入った時の為に失敗の練習だ!」です。
・頭がいい同期に恵まれてる、エッリートな高学歴正社員様達には当てはまりませんが、偏差値50前後の僕らオバカ大学卒の人が集まる会社では、ちょっと勉強しただけで2、3歳年上の人間を上回るスキルを得れたりします。それでも、表向きは思い上がってると他人に思われないように振る舞いましょう。色んな先輩から学びましょう。仕事を盗みましょう。ヒマを見つけてマニュアル化しましょう。
・問題を見つけたら解決してしまいましょう。エクセルは便利です。既存のツールも、ソースを見て構造を理解してより便利かつ簡単に、誰でも使える物に作り替えてしまいましょう。そして、先輩に見せてみましょう。案外、問題を解決できない同期ってのは多いです。同期にハブられてるならこれ以上不人気になる事もないので、こそこそとですがやれる事はやっちゃいましょう。
・出る杭は打たれます。ですが、出る杭として目立つ事で、その杭にぴったりな場所へ運んでくれる人がいたりします。ありがたいです。
関係無いけど、15ヶ月ぶりに増田に書き込もうとしたらまだ処女非処女言ってんのね。バカだね。喫煙女かどうかの方がよっぽど重要じゃん
働かずに金が貰えるぜ、ひゃっほう!と喜んでるだけ。
俺(SIer)に関して言えば、使えないやつが仕事やめてくれた方が圧倒的に仕事ははかどるし、単価も上がるでしょう。
8万ごときで仕事はやめんよ。
今まで払った年金はどうなるんだ、払ってない奴ももらえるのはおかしい、
ところでこれ、実のところ、払ってないやつがもらってるんだよね。
と文句言う奴は必ず出てくるし、
まぁ、BIを導入しないことに文句を言う人もいるわけだから、これは政治力の勝負でしょう。
おそらく、大概のリーマンの給与は上がるよ。労働市場の供給が減るから。
ひょっとすると高給取りの給与も上がるかもしれん。
ここは俺には分からないところ。
犯罪が増えるかというと減るんじゃないのかしら。
ここ補足欲しいです。
どこまでを対象に支給するかも難しい問題になるし、
これは難しい問題だけれども、決めの問題でしょう。
事業仕分けをどこまで対象にするかは難しい問題だけど、決まるでしょ?
ベーシック・インカムの本来の問題ではないよね。
BIがあっても使い果たして困窮する人間をどうするかも出てくる。
本当に強烈なダメ人間というのがいて、現代日本では、そういう人を救済しないといけないという倫理観になってる。
とはいえ、現在もホームレスなんかは居るわけで、ホームレスが月8万円入ってきたらホームレス的に結構いい暮らしなんじゃないかとも思ったり。
残念ながら競争は激化するよ。
世の中の流れの方向性
ttp://ameblo.jp/wadahideki/entry-10474817912.html
テレビでも韓国人の審判のことを取り上げていたというメッセージもいただいた。私の情報不足については素直に反省したい。
そのメッセージによると、その番組はバンキシャだそうで、「浅田真央選手の成功したトリプルアクセルにはその審判一人だけが2点もの減点を付けていました」だそうだ。日テレが今後、パチンコ屋のスポットや某菓子メーカーのスポット、あるいは坂本龍一のやっている携帯のスポットが減らされるなど嫌がらせをされないことを祈りたい。
これが日本人の審判なら、ひいきした、不公正なジャッジと言われるのを気にして、あるいは、協会からそのような指摘を受けるのを恐れて、露骨な形で点をつけるジャッジをしなかった可能性が高い。しかし、この審判は、おそらくは自国から審判に選ばれること自体が、政治力の勝利だと思ったいたのだろう、堂々と自国選手に高い点をつけ、相手がトリプルアクセルに成功しても平気で減点した。後でなんと言われるかを多少もビビッている様子がない。国民性にも差があるのだろう。日本人の審判が自国に有利な審判をして、勝ったとしても後味の悪い感じをもつ国民も少なくないだろう。でも、この韓国人の審判が、韓国に有利なジャッジをしないと、それこそ国民に叩かれるのだろう。
いずれにせよ、この件では2ちゃんが使えなくなるほどのサイバー攻撃になったようだが、実際、この件についての検索で、ほとんどこの話が出てこないと言うのは、日本語の読み書きできる韓国人の協力者がいるということだろう。そういう人が地方参政権を得るというのは、確かにちょっとなという感じをもってしまう。
ttp://fanet.jp/regular/don_konishi/300.html
驚いたのはさあー、どのTVや新聞、雑誌でも、僕が思ったままをしゃべった事は全部カットされて、都合のいいように編集されてたって事だよ。
インタビュアーに、「まわりからは、ステキだったって意見がありましたけど」って言われて、「まあ、基本的にはダサくはないよ! おしゃれだと思うんですけど……。しかしさぁ」って本音で思った事をズバズバと答えてたんだが、使われたのは「おしゃれでステキ」の頭の部分だけだったりね。
政治力っつーか、圧力がかかったんだろう……。それか新政権だけに、ネガティブにいくよりはポジティブに前向きに報道した方がいいという、メディアの配慮!?かもしれないけど、メディアってホント怖いね。生まれて初めてこんな経験しちゃったよ。
気がついたら、アフリカがあつい。一時、アフリカに滞在していた身としてはどうにもスルーできない言説が多いので、ここに少し考えを。
アフリカの問題はとても複雑でシビアです。特に日本人にはよくわからないことだらけ。国際協力関連で3年ぐらい彼の地で生活をしていましたが結局よくわからないまま、未だに理解できないことも多いです。知らないことに関しては口を出さない方が良いと思うのだけど、やはり生活していた土地に愛着もあり、この思いを伝えたいとも思ったので、長文になりますが興味のある方には読んで戴きたいです。
まず、ちきりんさんのこのエントリーは読んでいて悲しくなりました。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100207
よくわからないけどただこれだけはわかった、といって再植民地化が良いのじゃないかなあ、なんて暴力的すぎるんじゃないかな。アフリカの開発支援に関わった人がもしこのエントリーを読んだら、多くの人は悲しみや怒りを感じたりするのではないかと思いました。
そしてこのエントリ。
アフリカ大陸在住中 : http://anond.hatelabo.jp/20100209065146
この方は西アフリカ方面にいらっしゃるのかな?そう思ったのもヨーロッパという言葉がとても多く出てきたからだけなのですが、宗主国を限定されないようそういっただけなのかもしれません。自分がいた南部アフリカとは違う感じもありますが、通じるところもとてもあります。とても共感できました。
増田さんも仰ってますがアフリカと一言で言っても国や地域によって気候も言語も文化も種族も宗教も政治も経済も何もかもが異なります。この点については日本人感覚からは最も離れている、アフリカの現実の一つだと思います。アフリカ大陸の国や人々を一括りでアフリカと呼ぶことは、私たちが一括りでアジア扱いされるのと同じくらい乱暴なことかもしれません。私が関わっていた国には民族が2,3しかない国もあれば、100近くある国もありました。後者には公用語だけで10近い言語あり、同じ村にいるのに部族が違い、間に翻訳できる人が立たないと話し合いがスムーズに進まない場面に出会うこともあり、外部の人間としては国と呼ぶのも躊躇してしまうくらいでした。
そうした彼らですが、欧米先進国や日本、そして中国に対する考えや感情は一筋縄ではいかないとても複雑なものを持っていると思います。というのも、彼らの多くはこんな風に思っているように感じたからです。今現在生活できているのは多くがODAなどの開発援助や外国資本のサービスや製造品のおかげだ、だけどそのせいで国の一部の権力者や有力者が私腹を肥やしているのを知っている、でも彼らは独立の英雄だ彼らはすばらしい、だけど自分たちが貧しいまま生活しなければいけない、だから、おまえら外国人がもっとカネやモノを俺たちにくれればいいんじゃね。
そして、こちらのエントリーについてです。
「発展」と「アフリカ」 : http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20100208/p1
難しいこともいろいろいわれていて、よくわからない点もありますが、結論はおおむね賛同いたしました。
自分もそうですが、本当に私たち日本人はアフリカの問題についてよくわかっていないと思います。アフリカ大陸の歴史背景や今おかれている政治力学、そして国際開発・援助ビジネス。当然それらのことは今の私たちにとって無関心な事柄でしょう。しかしそれは同時に多くのアフリカの人々にとっても、理解しがたいものであるようにも思えます。
私は某セクターで日本などからODAで落ちてきたお金を有効に活用するため、現地組織に入り込んで様々なプログラムの支援を技術的に行っていました。多くの貧しい人たちとも関わってきましたが、現地のプログラムコーディネーターやその上司のマネージャーやディレクターなどとも関わってきました。彼らの中で政府組織に属しているぐらいの立場の人は多くが代々の権力者であったり、裕福でコネがあったりとった特権階級に近い人たちでした。ただ単に政治家的にその地位にいる人もいれば、本当に優秀で頭の回転も速く常識もあり、その地域と国の未来を考えて行動している人もいました。しかし彼らと話し一様に驚き残念に思ったのは、そうした人を動かす立場と責任にある人でさえ、まずお金が外国から貰えることが当然だと考えていることでした。そして、その支援国や団体のいうなりのままだということでした。しかしそのことについて、支援する側の人間が彼らを非難できないとも思いました。
例えば、その地域の人たちに有効にサービスを提供するためどうしたらよいか、現地スタッフは様々な議論や調整をして企画を立てます。しかし、支援者はその支援理由や報告責任やさまざまな政治性やビジネスなどが関わって、現地スタッフの企画をそのまま受け入れることができないケースが多々あります。そしてその支援団体がそのような活動にお金をだせないといったらそこで支援は打ち切りです。サービスを提供できないだけでありません。彼らの給料さえなくなってしまいます。なので現地スタッフは当然いわれるがままになります。そういうことが何十年と続くうちに、自発的に地域や住民のことを考えて意見を押し通すような気概のなるエリートは段々少なくなってゆくでしょう。どうしても「支援する・される」という一方的な力関係が開発支援には生まれてしまい、現地の人々の自助努力が生まれがたい土壌になっていることは否定できないと思います。
そういう反省を含め開発支援業界自体も、「持続性」というキーワードの下、非支援国の自発的な活動を助長するような支援ができるよう工夫し続けています。しかし、持続性が形成されるためには社会の様々なセクターが有機的に関係し合いよい影響を与えあう必要がありますが、実際そうした広い視野を持って支援することはとても難しいのが現状です。例えば、田舎に学校を建てるということは、その地位の子供に教育を施すだけではなく、同時に教育者を育成するということでもあり、教育教材を作るということでもあり、教育そのものの内容を作るということでもあります。しかし、そのような広い視野での支援体制を長い時間をかけてじっくり進めるプロジェクトが始まったとして、果たして成功するのでしょうか。教育という国の根幹に関わるようなことに対して、じっくりと腰を据えて政治的にも経済的にも向き合っていける支援者が存在するでしょうか。私の想像する限りでは、存在するようには思えません。
まず、ODAなどは税金ですし、NPOやNGO、企業であっても、支援する側はその活動内容をきちんと報告しなければなりませんし、成果と結果が必要になってきます。なのであまりに大規模な支援はその先行きが読めない分、そのようなプロジェクト自体成立しがたいでしょう。また、以前に比べればあからさまではなくなってきましたが、支援側も多かれ少なかれ見返りというか利益を計算して支援しているところがあります。ODAであっても、その国の開発支援団体にその予算の一部が当然ゆきますし、都市インフラであれば自国に関わる土建屋や製造関係へお金が落ちるようになっていたり、保健セクターであれば薬剤などを通して自国の製薬会社にお金が回るでしょう。また被支援国の資源に関わる利権を求めるケースもあるでしょう。また専門分野の人材開発や研究などもそうした特殊地域でなければできないことも多々あると思います。そうした開発支援にかかわる政治性やビジネスがあっての支援でもありますので、あまりに大規模な支援はマネージメントしづらいので、やはり成立しにくいでしょう。
結局、アフリカの人々はそうした先進国の支援に振り回され続けているというのが現状なのではないでしょうか。なぜ今、自分たちが支援を受けているかといえば、かつて植民地化され支配された代償だというでしょう。代償なのだから貰って当たり前、求めて当たり前です。今まで奪う立場だったものが、与える立場になっただけ。今まで奪われる立場だった者が与えられる立場になっただけ。なのに、貰うばかり、ほしがるばかりで働かない、自発的に国が機能しないと責められても、自分たちが作った国でもないのになぜそんなことをいわれればいけないのか、彼らにはよくわからないのではないでしょうか。そもそも独立したときに勝ち取った国は彼らにとって必要なものだったのでしょうか。そしていま、代償として先進国のカネやモノをうけとっていますが、実際彼らは何を失ったのでしょうか。そしてそれは私たちが代償として払わなければいけないモノなのでしょうか。正直わからないことだらけです。アフリカの様々な地域の人々のそれぞれがそれぞれに、様々なことを思っているというのが現状なのではないかと今は思っています。
先日、島田紳助さんが司会をする番組で外務省を辞めNGOをたちあげ、スーダンへ渡り、現地で医療を施している川原さんという方が紹介されました。島田紳助さんのボランティアや支援に対する熱い思いが放送され続ける中、川原さんが二つとても心に残ることを仰いました。一つは治療などを現地の人にしても必ずお金を取ること。二つ目は正直むかつくことも多いけど、ここには小さいけれど未来を照らす明るさのようなものがあるということ。曖昧ですが、そのようなことだったと記憶しています。
長く紛争の続いたスーダンは未だに危険な地域と聞いています。そのようなとても限界度の高い地域にいても、医療サービスに対してきちんとお金を取るという根本的なことをやり続けることはとても大変だと思います。しかし、支援という名の下にモノとカネを垂れ流すことの無意味さ空しさを理解しているからだと思いますし、現地の人ひとりひとりと対等に向き合っているからだと思いました。払う払うといって逃げ続ける人、借金を踏み倒す人、そんな人もたくさんいるかもしれません。それでも、川原さんがそんな人々に未来を見いだしてしまうのは、なぜでしょうか。アフリカに限らず、東南アジアや太平洋州、南米などの貧しく何もないけど、ただただ自然はある、というような土地で暮らしたことがあるような方なら、具体的に思うところは違うかもしれませんが、この川原さんの言葉のいわんとするところはどこかわかるのではないでしょうか。
わたしの場合は、どんどん閉塞してゆく日本での生活を突き破り得るモノをアフリカで感じました。素朴さやふてぶてしさや狡賢さ、モノやお金や歴史なんてなくても何とかなるさ、生きていけるさ、死んだら死んだで悲しいけど仕方ないさと本気で思わせてしまう力。そうしたものを彼らから学びました。日本というか、先進国のフレームの内部でそんな意見をきいても単に痛い発言にしか聞こえないでしょう。でも仕方ないです。そう思ってしまったのだから。
最後にここまで読んで戴いた方に感謝します。そして、ここに述べたこともまた一増田の偏った意見でしかないと思ってください。まだまだ考慮しなければならない事や、語られなければならない事はたくさんあると思います。私が見てきたものもアフリカの一面でしかありません。そして結局のところ、世界がアフリカをアフリカという大きなフレームで見ている限りこの問題はどうにもならないと思います。なので、すこしでも彼の地に対する理解を深めてほしいと思い、自分の経験をこうして書きました。しかしやはり、狭い業界、特定されるのを避けるため、時や場所を明示せずに増田で語ったことを許してください。
アフリカでは今急激にインターネットインフラが整いつつあります。といってもまだまだISDNレベルの速度でも速いほうだし、利用できる人はアフリカ全体ではまだ1割もいないかもしれませんが、それでも彼ら自身の言葉がブログやソーシャルメディアを通して、彼ら自身の手によってどんどん世界に発信されていってます。私たちがインターネットを介して意識や社会が様々に変化していったように、彼らのそうした言葉を通してまた私たちと彼らの関係や、彼ら自身が変わってゆけば良いなと思うのはあまりに楽観的でしょうか。
※ ここで言うプログラマは日本的な意味でのプログラマ。広い範囲を職能とする海外のプログラマは対象にしていない。
どうもプログラマという職業の評価というのは曖昧だ。営業マンのようにうまいこと数字で表せない。ロジカルな世界であるはずのプログラマという職業は、評価において非常にアナログだ。
何によって評価されているのか?ということがわからないと、人は迷走してしまう。
ゴールドマンサックスのリーダー養成担当であったスティーブ・カーという人が、「仕事に対するフィードバックが無いのはピンの見えないレーンでボーリングをやるようなものだ。結果を把握しないで仕事をしていると2つのことが起こる。1つには上達しない。もう一つに、どうでもよくなる。」と言ったそうだ。深い。
コーディング能力や言語の知識だけで評価されないどころか、その評価軸は半分以下であることは言うまでもないが、私の同僚の中でも有数のキレモノは、この解いに対して、「最も大切なのは、勤怠と週報ですよ」と断言した。さすがキレモノw
せっかくなので、派閥でまとめてみよう。
この派閥はイキオイがあるし、だいたいこの派閥の人はイケメンだったりカワイコちゃんだったり、話が面白かったりするので、周囲としても軽々には扱えない。がしかし残念ながらあまり周囲の評価は受けていないようだ。多分周囲の嫉妬を買う部分も多いのだろう。ただ、この派閥にいる人が一番迷走している傾向が強い印象を受ける。
少数派なんだけど確実にいる。コミュ派とは敵対関係。彼らに迷いは無い。もし周囲が彼を評価しなかったとしたら、それは彼の実力を正しく評価できない周囲が悪いのだ。
この仕事しててあまり学歴の事を問題にされることが無かったので、絶滅したものと思っていたが、存在するようだ。学歴と「地頭の良さ」みたいなものがリンクするという考えのようだ。マクロ的には相関があるかもしれないが、個人個人の揺れ幅が大きすぎていまいちピンとこない。学歴そのものをお客さんが評価するとは思えないので、学歴のあるヤツは何でもうまいことやるだろうという信仰に基づく意見だと思われる。
少数派である。新人は平気でこれを言うかもしれないが、むしろ大勢は、「成果で評価されたらたまらんわ」くらいの勢いがある。案件の当たり外れが大きすぎるのが問題だ。新人でも無く、経験年数10年以上になってもこれをちゃんと言ってる人と言うのは、そもそもハズレ案件を自分に持ってこない政治力を持っている。ただまあ、質問に対する応えにはなってない気はする。「実力だよ」って回答するのと大差はない。
あまり何言ってるのか主張がよくわからない場合が多いが、とにかく才能であると、なんだかよくわからないが才能であると。コミック「THE3名様」のミッキーみたいな感じの派閥。(読んでない人すみません)
文句のひとつも言わず、残業はサービス残業でモクモクとやる派。仕事を頼みやすいので、お客さんもどんどん彼に中途半端な仕事を投げてくる。結局のところこの派閥が頭角を顕して行く・・・のか?
。なんせ官僚にしろ、検察にしろ、議員にしろ、弁護士にしろ、あの辺の
世界の人間は自分の政治力の有無に滅茶苦茶敏感で、どこのセクトに所属してるとか、誰と人脈が
あるかとかが人生の価値のすべてになっているようなキチガイ集団なんで、外野からすれば何が問題
なのってことでも、あいつらの頭の中では激震ものだったりするんだな。
まあなんだかんだで結論出てるじゃん。この価値観に毒されてるとすれば、関係性からはじき出されたら思い浮かべるのが死、っていうのは凄く自然な事じゃないかな。
こいつらの中に個人なんて概念がそもそも存在しないって事だし。
●テレビ東京サイト(実際には日経新聞のように第3部と第4部が入れ替わっていたり微妙に第2部のタイトルが違ったり)
番組内容
番組内容
第1部「中国の時代が始まるのか」・第2部「アメリカとドルはどこまで弱くなるのか」・第3部「中東から石油が来なくなるのか」・第4部「米中は軍事同盟に向かうのか」・第5部「日本は平和憲法を変えるべきか」
出演者
【司会者】日高義樹【ゲスト】米元国務長官ヘンリー・キッシンジャー
番組概要
2010年は、世界がアメリカによってではなく、中国に動かされるようになるのか、イランが核装備に動きだして、中東に大動乱が起きるのか、アフガニスタンでアメリカが敗れ、基軸通貨ドルを維持する政治力をなくすのか。こういった様々な大変動が予測されるなか、キッシンジャー博士に2010年の予測を聞く。
日高義樹のワシントンリポート 「2010年日本と世界に大変動か」
●日刊
[文]日高義樹のワシントンリポート「中国の時代が来た?米は弱体化?2010大予測」
●角川
日高義樹のワシントン・リポート 2010年日本と世界に大変動か キッシンジャー博士に聞く
出演者/日高義樹
未就職博士 (OD) の問題がついに新聞紙上に姿をあらわした。昨年秋の札幌の学会で、当地の若い人達がOD問題のビラを配っていたが、内容は”われわれをどうしてくれるのだ”ということであった。筆者の大学では、1967年物理系の学科ができたが、教官定員はアッという間に優秀な人達で埋められてしまい、もう空き定員はない。その後いろいろな方面から就職の照会があるが、ない袖は振れず、如何ともし難い。このようにして、われわれも事の重大さを数年来感じてきたが、何等の有効な対策も講ぜられぬまま今日に至ったのであろう。素粒子関係では未就職者の数は600名とか1000名とか聞く。この人達は本職ならざるアルバイトをしたり、周囲の庇護のもとに生活しているのであろう。現在のわが国は数千名のODを養う経済的余裕があるのかも知れない。しかし、たいていの人はODとなって何年か後には”おれをどうしてくれるのだ”という不満をもつにちがいない。いや既に各所でこの問題が表面化しておればこそ、新聞種にもなるのだ。
筆者の近所にはいわゆる教育ママがたくさんいて、小学校のうちから一流大学を目指して子供をしごく。愚妻もその1人であって、大学の非常勤講師手当を上回る額を月々進学塾に貢いでいる。このまま大学までずっと勉強を続けるのが母親の念願なのであろう。大学で勉学をするのは当然なことだが、最も熱心に勉学を続けた人のなれの果てがODではないか。筆者は時々愚妻に”子供をルンペンに仕立て上げるつもりか”と言う。しかし、大学入学以後のことまでは考えが及ばないようで、あまり効果がない。
たしかに物理学は若者の心を魅了するものをもっている。筆者の教壇からの経験をいうと、1年のクラスでは話が熱力学第2法則とか相対論のくだりになると、日頃ゴソゴソ私語を交わしている学生でもフト熱っぽい眼をする瞬間がある。”私は物理学にだけは強い幻想をもっている”と言ったある全共闘の学生を忘れることができない。”1次元振動子の理論はよくできすぎている”と溜息をついた学生もいた。同じ意味で、群論の量子力学への応用とか、Dirac方程式などには何者にも替え難いBeautyがある。ところで本講座『現代物理学の基礎』の各巻を執筆される方々は、物理学をいかに美しく展開するかに薀蓄を傾けておられるであろう。そして多くの学生を魅了することであろうが、彼等に対してわれわれは責任を感ずべきではないだろうか。少なくとも彼等が物理学への興味を失うことなく、正常な姿で生活できるようにと願うのは自然の感情であろう。筆者は博士課程、とくに理論方面に進む希望の学生に対しては、ODの現実を説き、物理学の汚い半面を強調して、その夢を醒ますことをまず試みる。それにもかかわらず、素粒子とか生物物理を志す学生はあとを絶たないのである。
しかし、思ってもみるがよい。なぜOD問題が生じたのか。講座増を希望したのはわれわれである。教官定員が増え、万年助手が昇格し、研究室が活気を帯びたのも束の間、学生は年々入ってくる。これらの学生は産業界には出てゆかない。そこで再び教官定員増を要求する。しかし政府はある学生数に対して教官を配置するという方針を墨守しているから、この悪循環は急速に発散して今日の事態となったのではないか。すなわち、非は数年先のことを考えずに(または考えていながら)教官の定員増を要求した大学側にある。
一昔前の話になるが、筆者が米国の某大学で、物理学科の学生1人1人に、学位を取ったらどこへ行くかを問うたところ、1人の例外もなく、"Industry" と答えたのに驚かされたことがある。学位を得て産業界に入れば指導的地位を約束されるそれに対して日本の産業界は、修士を受け容れる体制はできたが、博士となると”固まりすぎて融通性がない”という理由で敬遠する。わが国の産業界はまだ博士を必要とするほど発達していないというのは一面のいいわけで、これも大学側に責任があると思う。米国の大学では博士たるものは1つのテーマについて研究を仕上げると共に、年に何回か行われる試験によって物理学全般の知識についてチェックされる。また学部下級生の講義や実験指導をする "Teaching Assistantship" の制度もひろくゆきわたっていて、これがどのくらい彼等の学問と社会性を育てるのに役立っているかわからない。一方、日本の博士課程では3年なり4年なりの間自分の専門に閉じこもり、社会とは隔絶して研究をしていればよい。このようにして彼等は”固まって”しまい、物理学の極めて狭い分野の専門家となるのである。われわれの世代も実はこのような道をたどったので、あるいは、物理学者が社会に眼を奪われるのはもっての外、就職に頭を悩ますなど言語道断と言われる方もあるかもしれない。現に某大学で学生の就職に無関心であると非難された教授が、多分売り言葉に買い言葉であろうが、君達が大学院に入ったのは学問をするためか、就職をするためかと開きなおったそうである。たしかに就職など世俗のことにわずらわされることなく学問ができたらそれにこしたことはない。そこで筆者はこのような理想的な環境として、またOD問題の解決策として次のことを提案する。
それは宗教的教団に似たInstituteを作ることである。名づけて日本素粒子教団、生物物理教団等。この教団に属する人は、世間から僅かな喜捨を仰ぎ、粗衣粗食に甘んじ、妻帯の望みも絶ってひたすら学究生活をする。たまたま在家のわれわれも修業をしたければ年期を限り、なにがしかの費用を払って入団できる。このような教団は古代にもあったようだし、僧侶階級をみてもわかるように、比較的永続きし、しかもすばらしい業績を挙げうるものである。もしかするとOD問題は古代からあったのではあるまいか。
しかしODの中には一応の社会的なセンスをもち、このような教団に属するよりは、世間の人と混ざって生活し、積極的に世のため人のために尽したいと思っておられる人もいるにちがいない。その方々に筆者の日頃思っていることを述べて同憂の士をつのる。われわれは実は手がなくて困っている。現に筆者は、1年・3年・4年・大学院と週10時間の講義を持っているが、年々新たな講義をしようとすると並大抵のことではない。しかも、どの大学でもそうだが、1年生は大教室で講義を受けさせ、入学当初から大きな幻滅を与えている。この1年生への講義ほど、物理学者にとって大切なものはない。つまり受講生の大多数は、将来物理学を専攻しない学生であり、これらの学生の教育こそ物理学が社会全体に正しく理解される足がかりとなるはずである。物理学が正しい姿で社会に浸透すれば、物理学者の発言権も強まり、ひいてはわれわれの社会的地位の向上にもつながる。それなのにわれわれは、その教育に手を抜いている。少なくとも上級生の教育ほど力を入れていない。これは間違っていると思うが、人手が足りないから致し方ない。若しも教官の数が、学生数が現在のままで倍になり、昔のように少人数の講義ができたら、どんなに幸せであろう。さらに少数の学生が1人のTutorまたはAdviserの指導を受けるような制度でもよい(英国の大学またはモスクワ大学のように)。そしてODを全国の大学に吸収するのである。しかし、これを実現するには、学生数に対して教官数を算定する政府の基準を改めさせ、さらにはその根本にある考え方を変えさせなければならない。これを行うだけの政治力が物理学者(基礎科学者)にはないものだろうか。 OD問題をこのままで放置し、破局的状況に持ちこんで、政府をして嫌でも対策を講じざるをえないようにするのも1つの方法ではあろう。しかし筆者は歳のせいか、できるなら破局的状況は避けたいと思うのである。