はてなキーワード: 小飼弾とは
この本は再三、進化とはありあわせで行き当たりばったりだ、
ということが書いてあって面白い。
また小飼弾の本でもそういう話題が出てくる。
弾:じゃあ,ハードでもソフトでもないものは? ウェットウェア,つまり生物です。
DHH:それこそ,インクリメンタルな開発の最高の成功例。進化の世界にロードマップってないよね。
弾:確かに,進化ってありあわせのものを使うよね。
DHH:そう。生物はConfiguration(設定)をいじりまくるのではなく,Convention(規約)をそのまま援用している。いろいろ設定を変えてうまくいくものだけ拾い出すより,きちんと動く設定を少しずつ変えるほうがうまくいくんだ。
大森学派?を取り上げているのは好感が持てる>id:fromdusktildawn
普通の人が読める哲学書の多くは大森学派の人たちが書いてるからな
あと、id:umedamochioの本はおもしろいけど、あんまり持ち上げすぎるものではない
分裂君が挙げている本の方がじっくり読むに値する
小飼弾についての評価は同じだな
あと、ついでにあのヒラメもどうにかしてくれ
でもな、ニーチェだけは止めてくれ
あれは劇薬だ
当たり前のように「これ嫁」はどうかと思うぞ
間違ってるとかじゃなくて、害が及ぶ
もし哲学の古典を勧めるなら「パイドン」とか「方法序説」とか普通の人が読めて、価値のあるものはたくさんある
竹田青嗣はちょっと哲学のおもしろさに気付いたらうさんくさくて読めないから
大森学派に関連する人たちの本を読んでいく方がいい
まあこのあたりは好き好きだけどねー
昨日、d:id:umedamochioさんの紹介にインスパイアされて、
http://anond.hatelabo.jp/20081108170922
にて本の紹介記事を書いた。そこで、この本を読んで、熱く反応する人、つまり、水村さんの問題意識に共鳴する人というのは次のような人だということを書いた。
わたしがこの本を読んで思ったのは、
日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。
そして、今日、dankogaiさんが書評を書いているのを見つけた。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html
小飼弾さんがこの本を強く進めているのも、上で書いたような理由で、心に響くところがあったのではないかと推察する。
「在地(ローカル)の普遍人」というメンタリティーは、非常にアンビバレントなもので、ローカルにいて「異国人」であるだけではない。
普遍人であるにもかかわらず、普遍語が話されているその中心にいても(水村さんの枠組みによれば「普遍語」となった英語の話されているその中心にいても)、異国人たる意識がなくなることはない、
というものではないだろうか。
そういうことを思った。
【要旨】
梅田望夫さんが水村美苗『日本語が亡びるとき』の紹介をしていた。ブックマーク数は多いのだが、梅田さんの紹介にやや舌足らずな点もあるからか、反応もいまひとつのような気がする。ただ、わたしも水村さんの論を読んで非常に感銘を受けたことはたしかなので、まずは、水村さんの議論の骨子を紹介してみることにした。ただし、わたしが読んだのは新潮9月号で発表されたものであり、ここで紹介することも本の第1章から3章までの議論にとどまる、という点をご海容頂きたい。
ここで紹介したのは水村さんの問題意識であり、この問題に対して水村さんがどのように思考を進めていくか、というメインの部分については実際に「新潮」9月号や本をごらんいただきたいと思います(この一文追記)。
(追記2)梅田さんがこの本をどう見ているかについては、すでに8月時点でこの本の前身の論稿に触れられたエセーがすでにあるのでこれもご覧になるとよいかと思います。以下の記事のブックマーク数があまり多くなかったので補足しておきます。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm
【本文】(本文途中からお名前を「望田」さんと誤っている箇所があったので修正いたします。大変失礼いたしました。また指摘してくださった方に感謝いたします。)
水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』が梅田望夫さんのブログで紹介されていた
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1
コメント欄やブックマークでのコメント欄では芳しい反応は少ないようで、梅田さんの議論とかみ合っていないし、梅田さんの高揚の理由がわからずポカンしているように見える。
これはおそらく、水村美苗および梅田望夫の問題意識がちゃんと理解されていないからではないかと思う(その点で梅田さんの紹介が不十分ということはあるかと思う)。とはいっても、本書が梅田さんの心に響いた理由をわたしは想像できるし、わたし自身も「新潮」9月号を読んでおもしろいと感じた。なので、以下で水村さんの議論を紹介したい。
水村さんの議論、および望田梅田さんがインスパイアされた問題意識というのは、たとえば、英語公用語化論のようなレベルでの「日本語の危機」というようなものではない。すなわち、日本の「国語」としての日本語と、英米の「国語」としての英語とのパワーバランス等が問題とされているわけではないのだ。「国語 vs 国語」という問題、ではないのだ。
そうではなくて、水村の議論はこうである。
水村の分け方によれば、言語には「普遍語―国語―現地語」の3レベルがある。
中世では「普遍語」としてのラテン語および「現地語」(のちにフランス語やドイツ語になる言語)しか存在していなかった。
近代国民国家の時代になると、(学術的な成果等の)「普遍的なこと」を語る言語として、「普遍語」の他に、「国語」(もと現地語)が登場した。この意味で「普遍語」の役割を果たす「国語」が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況であった。
しかし状況は変わった。世紀末から21世紀初めをみると、もともとは数ある「国語」の内の1つにすぎなかった英語が「普遍語」なろうとしている。それに伴い他の「国語」は「普遍語」の座を降ろされようとしている(例としてフランス語の衰退が挙げられる)、と言うのが水村の議論の骨子だ。
そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。
以上が水村さんの議論の紹介。
このことからわかるように、望田梅田さんがこの本を読んで感動したというのは非常によくわかる気がする(追記;小飼弾さんが興奮するのもよくわかる気がするhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html)。望田梅田さん自身をどのように考えているかは知らないが、わたしがこの本を読んで思ったのは、
日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。
英語と日本語を日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは
という反応などが、もうひとつの、ある意味で正しい反応だといえるのではないだろうか。
これも参照。http://anond.hatelabo.jp/20081111185728
【★追記。以上の議論から、文学においてはどんな問題が生ずるか。水村さんの見方はこうだったと思う。
近代においては、国語=国民=国民文学という等式が存在し得た。国語は普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学は普遍的な内容を論ずることができるものであった。もっというと、
ローカル(現地)なことがらを普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが
であった。
しかし、「国語」が「普遍語」としての地位から陥落しつつある21世紀初の状況を見ると、今後そのようなことは可能であろうか。
これが水村さんの問題意識である。
このような問題は翻訳論において繰り返し語られていて、水村さんもこれに言及している。】
【★さらに追記:
「別に日本語が『現地語』になるとして何か問題でも?」という反応に対して、水村さんの議論からはどのような応答があり得るだろうか、考えてみる。
「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。
文学とは異なるが、このことの理解を助けるために、テレビ番組を例に挙げてみよう(わたしはテレビをじっくり見る習慣を持たなくなったので、これから書くテレビ番組の状況は、幸いなことに、誤っているかもしれませんが)。
テレビ番組が低俗化していく、という説が挙げる例の一つに次のものがあるだろう。お笑い芸人をテレビに出してそのトークで番組を構成する、そのトークの中身は(試聴者もそれを知っていることは前提とされているものの)芸人同士の内輪のからみや楽屋ネタのようなものであり、ネタとして完成された作品であることは少ない。
このような内輪のみに意識が向けられ、内輪のもののみに言及し、その範囲での閉じた連環が固定される。
テレビの現状が本当にこのようなものであるかは知らないが、仮に、このような番組しか放送されていない世界になれば、テレビというメディアは衰退するという主張が現れておかしくはない。
日本語が、「普遍語」の役割を果たしうる「国語」であることをやめ「現地語」になってしまう、という水村さんらが表明される危機意識というのは、このようなものとして理解することができるのではないだろうか。
水村さんのインタビュー記事を読むと、
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
「中途半端な国民総バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版の伝統を維持する。作文を書かせるより、古典をたっぷり読ませる教育を積む。それが日本語の生命を保つ現実的な方策。
ここで「少数精鋭」でもよいので「翻訳出版の伝統を維持する」ことが主張されているのは、上で述べたように、外に目を向けなくなることにより日本語および日本社会がローカルなレベルへと自壊していくのを防がなければという問題意識を背景とした主張だと、わたしは理解した。】
ずっと思っていた。
はてな村でよく使われる「承認」を巡る物言いは、誰かに承認させるために知恵をひねって絞り出した言葉なのだと…
でも、それは自分の勘違いだったようだ。
ここでいう「承認」とは、自らが他の誰とも代替不可能な存在として認められることを指す。自らの物語・生き様が他者のものとして回収・吸収されることなく他者のそれと連結され、社会において一つの存在として認められることと同義である。
つまり、「"承認"させてやる」と言う事でなく、「"承認"してくれる誰かを求めているのだな」と
ありのままの自分を受け入れてくれる場所や人、そういう居所を探すための物言いだと言う事らしい。
例えばこういう発想の元で、「自分の言ってる事、あるいは思っていることが伝わらないから工夫してみよう」と言う発想が出てくるかというと、それはかなり疑わしいと思う。
他人に理解(吸収)される事を望まず、ただ肯定(連結)される事を望んでいるのだから…
これに対しては小飼弾氏がBlogにて所感を述べているが、おそらく「承認」に関する認識の違いで平行線を辿る事だろう。
ちょっと前にこんなエントリがあった。
その言葉はまるで自分に向けられているように聞こえるから - うどんこ天気
肥満状態の女性が出ていたTVのバラエティ番組を見て、肴として自堕落鰤を揶揄する知人に絶望した女性の話。
このエントリに対するコメントやブックマークコメントを見ていたが、「彼もバラエティとして適当に見ていたんじゃないかな? 自分の考えを理解して欲しければ、彼の視点を把握した上で、色々疑問を投げかければ理解できたかもしれないのに…」と思った。
それが演出なのか、ガチなのか。あるいは出演した本人の意図と反して自堕落な人として放送する側に演出されてしまったのか
そう言う疑問を投げかけられて、しっかり考えればいいのだけれど、あくまでも「そうだよね。うんうん、分かる分かる」と言う主旨の意見のみ受け付けているのが残念だった。
ここでもまた、"自らの物語を他人に吸収される"事を忌避して、ありのままの自分を受け入れて欲しい人がいるのだな
そう言う感想を持った。
彼女にとって見れば、そう言う自分を認めて、意見する人を「資格無し」と断ずる人こそ望むべき人なのだろう
それはそれで一つの考え方かもしれないが、それならば理解して欲しい。と言う言葉は不適当だなと思う。
「理解してもらえないかもしれないけど、受け入れてくれる人と関わりたい」
そう言うべきだと、私は思う。
本当に大事なのは、誤解なり齟齬なりを、「貴方はこう考えてるかもしれないけど、私の考えはこういう理由で違ってる」と言葉でもって相手を納得させることだと思う。
それが理解であり、人に承認してもらうことの肝なんじゃないかな
承認してもらう事を考える前に、「なぜ承認してもらえないのだろう」「どうすれば承認してもらえるだろう」を考えた方がいいよね
と言うのがこのエントリの主旨だと受け取っていただければ幸いです。
ちょっと遅い話題ですが、いよいよMac OS X 10.5がリリースされましたねー。
世界中でどんどん売れ、今までシェアの薄かった日本でも売れているようで、凄いことだね。
(売れた数=満足している人の数、かどうかは別としても。)
でもこうなると昔からのMacユーザーにとっては困っちゃうことがあるよね。
だってMacの魅力の半分は、「それがゲイツ製じゃない」ってことであり「未来のスタンダード」であり、
つまるところ「世界にはびこる悪を一掃するレジスタンス!」ってところなわけじゃないですか。
みんながみんなMac使い始めちゃったら、もう
「MacをプログラミングやWeb制作に活用して俺ってばギーク(笑)」
とか
「えー!Windows?Windowsが許されるのは20世紀までだよねー」
とか言う相手がいなくなくなっちゃうんです!
そこで、とにかく周囲の人にMacを使うのを思いとどまらせ、
自分の先進ユーザーっぷりを自慢できる相手を確保しておくための例をまとめてみました。
基本的なやり方は相手のためではなく、自分の優越感のためにMacを勧めるってことです。
ちょっと難しいけど、既に色んな人が実践してるから、頑張ってみてね。
日本では超重要。もう基本中の基本ですこれ。真摯なmacユーザーの多くはこのスキルを既に取得しています。
「こんな機能も無いようじゃあ、もう今の時代ダメだねぇ」
行間に「そんなOSを使っている君もダメダメ人間だよ(笑)」っていう感じを込めるのがすごく重要。Macの話題を振るたびにイラっとさせることで、Mac=「なんかイライラするもの」という刷り込みができるはずです。
選民思想的な宗教団体の勧誘っぽいニュアンスでもOK。「君もパーソナルコンピュータの新しい段階へ行こう!」とか。
あと、他のOSがMacに勝てる要素など無い!って態度も重要です。「それ、Macでも出来るよ?」とか言ってやると、凄くいいです!
良識のある人間なら、おいしい話には罠がある、ということを知っています。
そういう用心深い人間を狙い撃ちにするなは、欠点を提示せず、Macの完璧超人っぷりをアピールしまくっちゃうのがいいです。セキュリティが完璧で、機能が完璧で、スキンが完璧で、UIが完璧で、どうして君がこのOSを使わないか理解できない!言えば言うほど、疑り深い人間を及び腰にできるね。
さらに、聞かされていない欠点について本人が自分で発見した場合の、失望感を高める効果が期待できる。「セキュリティが完璧と聞いてたけど、なんか発見されてるじゃん!」とかなったら、これはもうMacに対する信頼はガタ落ち。
これがもし予め、「公開直後だから、まだセキュリティは完璧じゃないかもねー」などと話してしまっていては、この失望感は出せないよね。
分かりにくい言い回しなんて難しそうだけど、意外と僕らにとって一般的な言葉が、ライトユーザーにとっては謎の単語だったりするんだよね。
たとえば
みたいな単語を並べてやるだけで、非常にうさんくさいコア向けOSということをアピールできるし、なんか凄いことを言ってるギークだ!というイメージもついて一石二鳥!
なんか数字だけ大きいだけで具体的にどうなのか分からない表現はうさんくさい上に、話している側としては非常に理性的、理論的なつもりになれるので多用しましょう。
例えば
「Mac OS X 10.5では、なんと300以上にも及ぶ新機能が搭載」
とか。(小数点があると効果的。)相手は、「へぇー、凄いねぇ」とか言いつつ、むしろMacがこれだけ眠い話題を生み出すことに関心します。
これは、よく訓練されたMacギークでないとちょっと難しいですが、適当に拾ってくるだけでもそれなりに効果があります。特に過去のこととか、開発人の人柄とか、抽象的なコンセプトがいい感じ。 ジョブスの追放から復帰にいたる至る経緯とか、CPUをIntel製に変更した経緯とか。
Macユーザーには興味があるけど、そうじゃないユーザーにとってどうでも良い話を上手にチョイスしよう。
最後にやってはいけないことをあげておきましょう。平等で客観的で謙遜したことを言うのはやってはいけないですね。
「それぞれのOSに良いところがあって、君も色々使って自分に合ったOSを試してみたらいいよ」
とか言うのは危険すぎます!
下手したらMac使ってしまうかもしれません。
でも、平等で客観的に見せかけて、実は主観的なことを言うのはとても良いです。
「それぞれのOSに良いところがあるけど、Mac以外を使うなんてことは考えられないね」
とかは、信者っぽくてグッドです。
なんか、こういうのもあるよ!ってのがあれば追加するんで、教えてください。
ちなみに、これらのノウハウは「はてなブックマーク」ってサービスでも応用可能だから試してみてね。
元ネタ:「FireFoxなんて使ってたまるか!と思わせる6個くらいの方法」
読んだ瞬間これはFireFoxじゃなくて、Macのことだと思った。FireFoxってそんなに熱心に薦める人はいないし、IE使ってるからって馬鹿にする人なんていない気がする。「相手の使っているものを見下す」「欠点をまったく挙げない」っていうのはむしろこれはMac信者だろう。例えば
Q35:Windowsしか知らないプログラマーはどうですか?
DanKogai:ご愁傷さまです。UNIXなどを知ってしまうと、あまりにムカつくことが多いよ。タダならともかく、Windowsを使うくらいなら、Mac OS XやUbuntuでもいいんじゃないのかな。同様に、インターネットという技術に毒されていないようなプログラマーがネットにつながっていないゆえにすごい発想をするということもあるかもしれないが、それは1000のうち1つくらいで、ネットワークを意識しているかどうかは近代戦闘における空軍の有無と同じくらい決定的といえるかも。
僕は、finalvent氏が運営管理する極東ブログの愛読者だったが、もう購読をやめにした。以下に理由を書きたいと思う。
極東ブログが、管理者(finalvent氏)が承認したコメントのみ表示されるシステムに移行された。極東ブログはアルファブロガーで、アクセスPVも多いと思う。書いてある記事も幅広く、料理レシピから書評までカバーしている。しかし中心は政治関連の記事である。そしてそれらの記事のコメントは、氏に対する反感を露骨に表すコメントが投稿される。
僕は、読者でありながら不快な思いを感じるコメントもあったが、管理運営者のfinalvent氏はもっと不快な思いをされていたと思う。しかし氏の運営の姿勢とブロガーとしての人徳から、コメントスクラムの炎上には至っていなかった。
すでに、池田信夫氏の運営管理するブログは、現在の極東ブログと同じシステムである。池田氏は過去にコメントスクラムによる炎上を経験されている。だから、コメントスクラムの恐ろしさを体験したから、承認後にコメントが表示されるシステムに移行する決断をされたのだろう。
finalvent氏と池田氏の違いはほかにもある。池田氏は実名と所属を明らかにしてブログを運営されている。従って、所属する大学関係者が、氏のブログのコメントスクラムを目にすることもある。所属と実名を明らかにしていることで、仕事とかで不利益をこうむることもあるだろう。
しかし、極東ブログを管理運営するfinalvent氏は匿名のブロガーだ。実名と匿名のリスクを考えるならば、実名にリスクがあることが明らかだ。匿名のブログがコメントスクラムで炎上しても、リスクは限定されている。
匿名というリスクの少なさにあるfinalvent氏が、実名の池田氏と同様の管理運営をするのに違和感を感じる。また実名のリスクを背負ってコメント管理を行わない小飼弾氏もいる。finalvent氏は小飼弾氏もコメント管理をすべきだと主張しているが、それは炎上を恐れる自分と同じ立場に小飼氏を呼び込もうとしているようにうがって思う。finalvent氏は実名のブロガーとして、今回のシステムに移行すべきだった。
ITとかに全く興味が無かった僕がこの人達を初めて知った頃はなんて刺激的なんだ、とか思いながら読んだものだ。
でも、見る人が見ればこの二人も批判を受けることもあるようだ。なんとなく、彼らが批判を受けるのは分かる気もする。
色んな意見を見れば見るほど、簡単に信望するのは良くないのかな、と思ってくる。
このサービスを作ってるはてなの社長なんて、毎日といっていいくらい色んな批判を受けてる。
(特にユーザーとの距離が異常に近いこの会社だから起こることかな、とは思う。)
ウェブ進化論を書いた梅田もちおも、単にネットに詳しくない奴にいろいろ紹介しただけじゃん(お前は何も生み出してない)、
みたいな批判もあるとかで。個人的には啓蒙という大きな意味があったと思うけれど、言ってることは分からなくはない。
世の中に目を向けると、スーツは知識もないのにエラソーにするなとか、
コンサルタントは提案だけで実際に手を下さねーとか、金融は金の亡者とか、広告は虚業とか…
色んな意見を見すぎると、よく分からなくなってくる。
だから、教えてほしい。目標に設定できるような、誰にも批判を受けていない人物。
どこかにいないかな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/2159212
>単語の説明に使うための2000語程度からなるThe Longman Defining Vocabularyという、「単語を定義するための単語リスト」が用意されていて、辞書内の説明が(固有名詞などを除けば)すべてそれでなされている(小飼弾).
ってあるが自分の持ってるLongmanと違うぞ?
改訂とかで変わったのかとも思ったが少なくとも「solve」は必須だと思うが。
あとarmor,shield,spearとか手元のには載ってないし(swordはある)。
http://www.oup.com/elt/catalogue/teachersites/oald7/oxford_3000/oxford_3000_list?cc=global
「The Oxford 3000 wordlist」と比較してて異変に気付いた。
煽りじゃなくて、純粋に知らなくて興味があるだけなので、教えてください。
小飼弾さんって、実際のところはどれくらいすごいんですか?ブロガーとしてではなく、プログラマ(ギーク?)として。
彼の日記を読んでいて、Matzさんやひがやすおさんのことを対等目線(または上から目線)で見てるような言葉が目についたんですけど、僕はPerlもほとんど使ったことないし、実際の彼のすごさがどんなものなのかよく知らないのです。Matzさんやひがさんのすごさは十分にわかるんだけど、それに匹敵するくらいの存在感がある人なんですか?
もちろんすごい人じゃないと他のすごい人を批判しちゃいけないわけじゃないし、繰り返しになるけど煽りとかでは全然ないです。
過去の実績と、現時点でのすごさと、それぞれについて教えてもらえるとうれしいです。
『小飼弾のアルファギークに逢いたい』は、『逢いたい』が、逢瀬を連想させて、ちょっといやだ。
内容は知らない。でも、ヒゲのあの人を想像すると、オゥエッップ!!
いや、dankogaiが嫌いなわけじゃないんだけどもね。
しかももう自分は「上」にいるから一方的にやりたい放題だしw
「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。」
「金を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上。」
財を残すは下、業を残すは中、人を残すは上―『プロフェッショナル「仕事と人生」論(DHBR2011年3月号)』
プロフェッショナルの条件 - Rails で行こう! - Ruby on Rails を学ぶ
「ジョゼフ、自分が何によって知られたいか、今でも考えることがあるかね」と聞いた。
シュンペーターは大きな声で笑った。というのは、
「ヨーロッパ一の美人を愛人にし、ヨーロッパ一の馬術家として、
そしておそらくは、世界一の経済学者として知られたい」と言ったことで有名だったからである。
「アドルフ、私も本や理論で名を残すだけでは満足できない歳になった。
人を変えることができなかったら、何にも変えたことにはならないから」
田口元の「ひとりで作るネットサービス」探訪:“文系出身プログラマー”が独立するまで――コトノハ・大日田貴司さん - ITmedia エンタープライズ
そのサービスで2万人の人を1時間喜ばせることができたとします 。
そうすると僕の100時間が2万時間もの幸せな時間になって返ってくることになります。
それってすごいな、と思ったのです
小飼弾のアルファギークに逢いたい♥ #0 Perlの父 Larry Wall
《(私は)金持ちです》。
詳細はこちら
http://d.hatena.ne.jp/Monar/20080312
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50827276.html
そして、こっから私の意見。
アルファブロガーという定義をあまりにも小飼さんやその他の人たちに都合のいいものに勝手に定義していないでしょうか。
アルファブロガーの定義をGIGAZINEやショコタンを除外して省く様に定義しておけば、確かに絶対にGIGAZINEはアルファになれるはずもありません。
GIGAZINEは世界的に見ればまちがいなく、小飼何某よりも影響力の大きいブロガーです。
本の書評ばっかり書いてる人が自分をアルファだと語ってるようじゃ世界の笑いものです。
様々なジャンルのニュースを紹介してとんでもないアクセス数を叩き出すGIGAZINEというサイトと、
本の書評だけを紹介する井の中のサイト、どっちがアルファでしょうか。
どっちも自分が有意義と思ったものを宣伝行為をするブログという点では同じだと思いますが。
小飼さんだけを書きましたが、いじりやすかったからです。他のブログも同じテーマでGIGAZINEがアルファブロガーでない理由を
小飼さん以上に熱く語っています。なぜ定義がおかしいと気が付かないのでしょうか。
そっくりそのままコピペ
http://d.hatena.ne.jp/Monar/20080312
2008-03-12 Observer紙が選ぶ!世界のブログ50選にGIGAZINEがランクインしてる件 CommentsAdd Star
The world’s 50 most powerful blogs
これによると、
Gigazine is the most popular blog in Japan
だそうですよ!
ちなみにこのランキングが掲載された別冊子には10位にランクインしたGawker, Manhattan Media News and Gossipのニック・デントンのインタビューも載ってます。
最近、小飼氏が絶好調である。私からみると書評しかできずプログラム畑以外には専門分野をもってない人物としか思えない。
しきりに自身をアルファブロガーと自称して、自分のブログにトラックバックを呼び込もうとする言動もある。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51001656.html
これを読むとアルファブロガーになるためには、
何かが根本的にまちがってませんか。
っていうかアルファブロガーってそうやって育ってきたのだとしたら、
よい文章を書いて、それで優れたブログとして認められるなら別にかまいませんが。
http://d.hatena.ne.jp/yoshiko64/
池田信夫さんが、
ъ(゜Д゜)グッジョブ!!って気がします。
自分の読む本ぐらい自分で買え。と、思うのは私だけでしょうか。
続き。
まず、この関係をどのように考えるべきか。社会的地位が低いから低セロトニンになるのか、低セロトニンだから社会的地位が低くなるのか。
ただ、うつ病(だけじゃなく精神的活動全般)に関しては「鶏と卵」のような働きが沢山あるので、因果関係を明らかにすることは特に重要じゃないのかも。たとえば、「うつ病になると食欲不振になり、栄養不足からますますセロトニンが不足する」とか「ストレスを感じると過去の嫌な思い出が甦り、それがますますストレスを感じさせる」とかいったことだ。
ワーキングプアな人が割高なジャンクフードを食べてることがあり、「無駄使い」だと非難されることもあるが、これも「抑うつ状態だから食事に気が回らない→ジャンクフード→栄養不足→ますます抑うつに」という悪循環のパターンがあるのかもしれない。
それから、小飼弾さんが「幸せだから笑っているのではなく、笑っているから幸せなのだ」と赤木智弘さんを諭したことや、少し前に話題になったポジティブ教についても考えさせられた。
ポジティブな人はポジティブでいる限り積極的に行動し、成功すればさらに自信を得てますますポジティブになる(失敗してもしばらくのうちは「逆境をバネに」できるだろう)が、抑うつ状態の人は現在の状況から脱出することができず、負けないうちから「負けた教信者」となってますます抑うつになる。ポジティブな人は抑うつの人に「もっとポジティブにならなきゃ!」なんてアドバイスもすることもあるが、両者の間には共通言語がないかのように話が通じない。ポジティブな人には抑うつの人の気持ち――文字通りの意味で「気持ち」の問題だ――が理解できないのだ。逆もまた然りで、抑うつの人はポジティブな人のアドバイスは最初から耳に入ってない。
「希望格差社会」という話もあったが、「勝ち組」と「負け組」の格差が開き出すと、それをきっかけに両者が「ポジティブ教信者」と「負けた教信者」に分化し、ますます格差が拡大し、固定化していく構造が社会や経済の分野だけでなく、我々の脳内にもあるのかもしれない。