はてなキーワード: 負けた教とは
2007年に最高裁でピアノ伴奏拒否に対する戒告処分は正当性が認められたから
(最高裁でも賛否両論出たことは付しておく)多分最高裁で覆るだろう。
採用権の濫用がらみで30日に判決が出るらしいけど、これも敗訴濃厚とか。
後チラ裏。
はてサとしては最高裁が国に阿る判決を出すのはよくあること、とか言ってもいいのだけど
俺自身「行政処分の違法性は裁判所判断を待つ必要がある」というロジックで組み立てている以上、まあ限界だろう。
あくまでポジションを表明しておくと、
よく見る、「職務命令に従うのは社会人の常識」とか「国旗国家への敬意は当然」には親和的。
俺だってそうする。むしろ俺なんて祝日に国旗を掲揚してる、模範的日本国民とさえ言ってもいい。
だがそれで他人の内心まで踏み込むのは余りに狭量じゃないかとも思う。
「不起立を認めたら反国家思想を授業で教えるようになる」とかいうアホンダラもいるが、
(実際に教えてるどうしようもないアホンダラも存在するが、一枚岩で判断すべきでないのはウもサも同じだ)
自己の内心の表明・保護と他者への思想の押し付けは全く異なるもので、件の音楽教師については授業で君が代を教えてる。
とりあえず最高裁で負けた教師については、思想と仕事の線引きをしてるんじゃないの、と俺は思う。
原点に戻ると、府で処分や命令が出たら、裁判じゃ勝てないし従うほかないけど、と敗北宣言しつつも
よくマッチョとウィンプについて語られるけど、なんだか「誰でもいいから殺したかった」とか、
2chとか痛いニュースとかを見てるともう一つの属性、ゾンビーとでも呼びたいのがあるなと思った。
強くなくちゃ自分が生き残れないし、誰かの為にもなれない。
自分と自分の愛する物を守るためには自分と関係ないものを喰ったり蹴落とすのは当たり前だし、そこに躊躇っても仕方が無い。
その分、勝ち続ける為に自己鍛錬を日々怠らないし、それをしないで愚痴や理屈をこねる連中を庇いたくは無い。
ウィンプ…「いろいろあるけど最後は力こそが正義」と言われても人それぞれに持てる力の格差があることを知ってしまっている。
そのために力を持たざる物、持ちたくても生まれつきのマッチョほど恵まれていなかった物たちでも
マッチョと同等に生きられる世界を望み、そういう社会になればいいな、とは思うけど多分無理なのも知っている。
なので、「負けた教」的な世界観を持ってしまいがちになり、ついマッチョに理屈を並べて
「はいはい、あんたらはいいですね、強いからね」とか愚痴ってしまう。
ゾンビー…ウィンプと境遇は似てはいるが自分が這い上がることをほぼ放棄しているし、
それも「確かに社会も悪いが、自己責任でもある」と責任の所在を完全に社会に求めるでもない。
そして、そうやって諦観が熟成しているため、負けたくせにまだグチグチ言ってるウィンプよりも、
圧倒的な己の力で正義を語るマッチョの方が筋が通っていると感じる。
また、そうして自分たちがもう這い上がれない以上、自分たちと変わらないような連中が這い上がろうとするのも許せないし、
社会は自分たちを自己責任だといって切り捨てる以上、他に救おうとしてる連中がいると矛盾を感じて許せなくなる。
このゾンビーポジションの人たちが話をややこしくしていると思うのね。
自分も就職難の時期に当たって今もフリーターなのに自己責任論者で、自分の事ほったらかしで
「在日特権とかマジ許せねえ」とか言ってるような。そんでマッチョとウィンプが口喧嘩してたら
「お前が弱いから駄目なのに決まってるじゃないか常考」とか言ってマッチョの肩持ってしまうような。
なんかこの辺、もっと煮詰められそうなんだけどとりあえずこの辺でストップ。お昼行って来まーす
続き。
まず、この関係をどのように考えるべきか。社会的地位が低いから低セロトニンになるのか、低セロトニンだから社会的地位が低くなるのか。
ただ、うつ病(だけじゃなく精神的活動全般)に関しては「鶏と卵」のような働きが沢山あるので、因果関係を明らかにすることは特に重要じゃないのかも。たとえば、「うつ病になると食欲不振になり、栄養不足からますますセロトニンが不足する」とか「ストレスを感じると過去の嫌な思い出が甦り、それがますますストレスを感じさせる」とかいったことだ。
ワーキングプアな人が割高なジャンクフードを食べてることがあり、「無駄使い」だと非難されることもあるが、これも「抑うつ状態だから食事に気が回らない→ジャンクフード→栄養不足→ますます抑うつに」という悪循環のパターンがあるのかもしれない。
それから、小飼弾さんが「幸せだから笑っているのではなく、笑っているから幸せなのだ」と赤木智弘さんを諭したことや、少し前に話題になったポジティブ教についても考えさせられた。
ポジティブな人はポジティブでいる限り積極的に行動し、成功すればさらに自信を得てますますポジティブになる(失敗してもしばらくのうちは「逆境をバネに」できるだろう)が、抑うつ状態の人は現在の状況から脱出することができず、負けないうちから「負けた教信者」となってますます抑うつになる。ポジティブな人は抑うつの人に「もっとポジティブにならなきゃ!」なんてアドバイスもすることもあるが、両者の間には共通言語がないかのように話が通じない。ポジティブな人には抑うつの人の気持ち――文字通りの意味で「気持ち」の問題だ――が理解できないのだ。逆もまた然りで、抑うつの人はポジティブな人のアドバイスは最初から耳に入ってない。
「希望格差社会」という話もあったが、「勝ち組」と「負け組」の格差が開き出すと、それをきっかけに両者が「ポジティブ教信者」と「負けた教信者」に分化し、ますます格差が拡大し、固定化していく構造が社会や経済の分野だけでなく、我々の脳内にもあるのかもしれない。