はてなキーワード: 小飼弾とは
不老長寿の時代は間違いなくやってくる。だが問題が一つある・・
不老長寿が可能になれば、まず最初に利用するのは死を恐れる老人達だろう。彼らはだいたいが金持ちなので、若者と比べれば簡単に費用を出せる、病院にとってはありがたい客だ。
そうなると、老害がいつまでも死なないということになり、今まで老害が死ぬことで前に進んできた文明が停滞する可能性が高まる。
老害は過去に固執する性質をもつやっかいな人種だ。高齢化が進めば、確実に老害率も高まるはず。困った。
対策を少し考えてみた。
若者重視の政策をよりいっそう推進する。これがまず第一だろう。高齢社会とは子供が少なく老人が多い社会。ということは、手厚く保護されるべきは少ない子供。今までのように、5,6人産んで3人死ぬのが当たり前という社会ではないのだから、子供手当をはじめとして子供重視の政策は重要だ。
次に、体外受精の推進。現在はまだ発展途上だが、より優れた子供を産み出すデザイナーチャイルドも社会にはたくさん必要になるはず。優れた人間がたくさん誕生すれば、老害を社会から蹴り落とすことも可能なはずだ。
次に、それと関連したエリート教育の徹底化。哲人政治ではないが、社会は真に優れた人間が動かすことでより発展できる存在だ。現在もエリート教育は行われているが、問題はエリートではない人間への待遇が悪すぎること、選択権がないことだ。私が描く社会とは、エリートだけが社会を動かすために要職に就き、それ以外の人間は就けないというものだ。もちろん、働かない自由も認められる。エリートではない人間達は一定水準の生活を保障される。現在の社会は欠陥だらけである。まず、働かない人間を守る術がないこと。人権という言葉がにわかに注目を浴びてきてはいるが、それならば生まれてきただけで生存権が完璧に保証されなければならない。働かざる者飢えるべからずとは小飼弾の言葉だが、本当に人権という概念を追求していきたいなら、人が生きるのに条件をつけてはならないのである。
そして、不老、若返り技術の発展が必要だ。老害がなぜ生まれるのか、簡単なことだ。老害は脳が正常に働かなくなっているから老害なのだ。つまり、脳の衰えを防ぎ、若返り出来るようなテクノロジーが求められる。
これはデザイナーチャイルドとエリート教育によって発展することが望まれる。人権がますます強大な権利となれば人を殺すことは出来なくなる。加えて不老長寿技術がある。ならば、老害を排除するというより、無害化する方向に持って行くのが一番いい。罪を憎んで人を憎まずである。老害は生得的なものではなく老化の弊害に過ぎないのだから。
こうして老害もいなくなり、人々は生まれながら生活を保障され、エリートが社会を動かす。次の時代はどうなるだろうか。
エリートにも限界はある。エリートは所詮人間でしかない。人間は機械には絶対に勝てない。だから、次は機械の時代になるだろう。
エリートは人を超える機械を作るだろう。人を超えた機械は、エリートという最後の人間を労働から解放する。そして人類は労働から解放される。
労働から解放されれば娯楽の時代が到来する。現在も「暇つぶし」というジャンルの娯楽が存在するが、おそらくこの時代以降はすべての娯楽が暇つぶしとなるだろう・・
ものがあふれれば人は飽きやすくなる。たとえば今目の前に20枚の映画DVDがあるとしよう。正直うんざりするはずだ。それら全てはだいたい平均して1時間半~2時間人間を拘束する。よほどの映画好きでもない限り、1、2本観れば飽きてしまう。そういった時代がくれば、娯楽は使い捨てが主になっていくはずだ。
現在あるゲームがブームとなっている。それはソーシャルゲームと呼ばれるものだ。ゲームファンからすれば、なんだこれはと憤慨されそうなお手軽かつ短時間でプレイ出来るゲームが大半を占めている。
ソーシャルゲームは隙間時間で楽しむことを目的としたものだが、未来の娯楽はこれに似たものになる。
ただし、このような不完全な娯楽ではない。VRが普及することでよりリアルに、臨場感をもってゲームを体感出来るようになるだろう。それも、ゲームセンターではなく個人の家で。
たとえば仮想空間で愉しむスポーツ。カーレースなどもいいだろう。このようなゲームは、いくら見た目だけを立体的にしてもしょせんはゲームでしかなかった。スポーツは体全体に楽しむものだからだ。VRによって、自宅にいながら大海原でマリンスポーツを楽しんだり、雪山でスキーをしたりということが出来るようになる。
それだけではない。リアルなゲームといっても、能力が伴わなければつまらないものとなる。そこで、プロのプレイを体感できるものが流行るようになるはずだ。以前世にも奇妙な物語で殺人を追体験出来るメディアが流行るという物語があったが、あれと同じようなものだ。現実にはありえないような巨大なゲレンデを縦横無尽に滑るプロのスーパープレイをまるで自分がやっているように体感出来たら、本当に気持ちのいい体験となるはずだ。このように、未来の娯楽はなるべく手軽で受動的なものが中心となっていく。
1年間に現代の5年で作られる全ての娯楽作品が消費されるような時代になるだろう。芸術というジャンルは生き残るだろうが、規模は小さくなるだろう。人々は娯楽を高尚なものだとは思わない。娯楽とは使い捨てるものである。そこには誰でも気軽に作れるようなテンプレートが出回り(現在のRPGツクールのようなもの)、星の数より多くの娯楽が出回るだろう。
それが良い時代か悪い時代かは分からない。
ライフハックの類を読むと必ずといっていいほど「インプットだけでなくアウトプットも」という主張が折り込まれている。アウトプットすればするほど、思考が研磨されてされ視野が広がり物事に対する捉え方が深まっていくのだ、という過激な主張をする人間も中にはいる。とても甘美な考え方だ。今の自分に満足していない人間ほどこの思想に転んでしまうだろう。
しかし、よく考えてみてほしい。果たして「成長」とはそんな単純なものだろうか。「アウトプットすればするほど」は素朴な「経験値主義」に基づいている。「経験値主義」とは何か。ファミコンゲーム『ドラゴンクエスト』の主人公を思い浮かべてほしい。彼は王さまの特命を受け、世の中を悪に染めようとする竜王を倒さんと旅に出る。しかし、旅立つ時点で彼は完璧な「超人」ではない。武器は何も持っておらず、レベルは1。下手をすると城の周りをうろついている最弱モンスターにすら撲殺されてしまう。それを防ぎ、竜王を討伐するために彼はいったい何をするか。モンスターをひたすら倒し、経験値を得てレベルアップを計っていくのだ。ここではどのような戦術を取るか、どうやって鍛えあげるかといった内容は問われない。ただ数をこなしてモンスターを倒すことが成長へのロードマップなのである。このように「超人」になるには「数をこなすだけでいい」という「成長」を極めて単純化した思想を「経験値主義」と呼ぶ。『新書がベスト』の「とにかく新書を読みまくれ」という小飼弾の主張もこの範疇の中に入る。
だが、現実は成長をこのように単純化できない。ただ素振りをしまくるだけではイチローは生まれないし、本を読みまくっただけでは立花隆にはなれない。アウトプットも同様だ。現代の女子高生は毎日何通も携帯メールを用いてアウトプットをしている。しかし、彼女らの国語力が上がったなんて話は出てこない。むしろ、事態は逆の方向に向かっている。彼女らの打つ文面はどんどん奇形化し、普遍性をなくし、当人らでしか読み解けない内容へと進化を続けている。アウトプットの仕方によって人はどんどん劣化していくという一つの事例である。
現在はブログの登場によって容易にアウトプットする場を手に入れることができる。経験値主義者たちもブログでのアウトプットを称揚する。勝間和代がその一人である。彼女のブログ名はずばり『私的な事柄を記録しよう』である。タイトルからして素朴な経験値主義が顔をのぞかせている。日々、インプットをしたものを咀嚼し、ブログという場所に発表することによって考え方が整理され、思考が洗練されていくというものだ。気をつけろ、これは罠だ。考えを文章に落としこむことは整理とイコールではない。「私はこう考えた」と思考を凝り固めることだ。「私はこう書いたんだからこういう考え方でこういう人間である」と視野を狭くし、新たな扉を閉ざしていく。あとからの修正ができなくなってしまう。様々な視点を取り入れ、ごちゃまぜにし、意外な繋がりを持って発展を見せる……それこそが思考の洗練である。アウトプットをしてしまうとそこで思考が停止する。
小飼弾も勝間和代もブログでアウトプットをしたから今の地位があるのではない。彼らの経歴を見ればわかるが、今の豊穣なアウトプットに繋がる下地をせっせと作る時期が存在している。果たして彼らが下地を作っていく時期に、アウトプットにも時間をかけていたら今のような地位を手に入れていただろうか。例えばブログが注目され、そこから書籍を出すような広がりを見せる人たちがいる。しかし、彼らは往々にして長い社会人経験を経たあと、今までのインプットを有機的に結合させ、それをもって視点を提示し、そのユニークさに注目が集まっているのである。アウトプットが斬新な視点を生み出すのではない。むしろ、逆だ。
経験値主義に踊らされ、愚直なまでにアウトプットをしている人間はどこか窮屈で可哀相だ。井戸を枯らしているようにしか見えない。毎日せっせと書評や映画・アニメの感想を書いている、そう、そこのあなた。まずはブログを閉じることから始めよう。あなたは経験値主義に毒されている。アウトプットすればするほど、あなたは自分の井戸を枯らし、ユニークさをなくしている。経験値主義から脱却し、真実の成長を果たそう。
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/1007/21/news010.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/bizmakoto.jp/bizid/articles/1007/21/news010.html
「知の効率的インプット、効率的アウトプット生成のためには新書がベスト」
ということのようだが、
ここでおさらいしておこう。
(幼児番組・幼児DVD再生専用機に成り下がっている)情けない状態です。
【何のため?】
★「面白い内容は自分のブログに載せる(=アウトプット)」という目的意識で
知を採取(=インプット)する。
【何を?】
★日経新聞をとにかく隅々まで読む。
自分がネタにするのは「日経夕刊」「日経地域面」「経済教室」「書評」「大機小機」あたり。
★会社においてある「日経産業新聞」なんかもネタの宝庫なので、
これも自宅に持ち帰って、電車内で読む。
1分立ち読みすれば、なんとなく「どういうジャンルの本なのか」がわかる。
★図書館を活用しまくる。
都区内なら、他館蔵書の取り寄せサービスがある。
場合によっては、他区の蔵書も取り寄せてくれる。
こうすれば自宅内書棚はゼロでいい。
家族4人で、1人10冊借りることができる。掛け算して40冊だ。
新書は確かに効率がいいが、逆に言えば「ポピュラーになる(であろう)知」しか載っていない。
「ポピュラーになっていない知」が存在している可能性がある訳であり、
価値を生むのはむしろ
「ポピュラーになっていない知」の方ではないか?
図書館の本は、2000年代の本ばかりじゃなく、1990年代とか1980年代の本とか結構あるのだが、
「1980年代には、こういう見方があったのか!」と新たな発見があるのが面白い。
たまに1970年代なんかの「お宝」もあります。
地球温暖化を叫ばれていますが、1970年代なんか、「地球寒冷化」が叫ばれていたりする。
そういうことも図書館にいかなきゃ判らない。
例えば「食品の偽装」なんて問題が、最近の話題と思い込んでいたら、
1970年代にも似たような話題が出てきているのです。
「お気に入り」に5人登録しており、その人のブックマークをナナメ読みすることで
相当程度効率よく情報収集できる。
言ってみれば「他人の褌」である。
(お気に入りを10人以上にしてしまうと、シッチャカメッチャカで混乱してしまう。
やはり5人程度に抑える方がいいのでは?)
「Dさんは自分の仕事の方面でいいブックマークをしてくれる」・・・のように、
分野毎に「キーパーソン」を見つければ、非常に効率的。
★ビジネス誌は車内中吊り広告だけでも「なんとなく」内容はわかる。
というか、各社ともウェブにほぼ同内容載せているし。
【いつ?どこで?】
★晴れている日には新聞を歩きながら読み、
★休日、子供の付き添いで公園やおもちゃ売り場とかに遊びに行くときなど、
その場で捨てられるから。
http://agora-web.jp/archives/1035596.html
http://agora-web.jp/archives/1035657.html
金は死んでから納めよう - 小飼弾
http://agora-web.jp/archives/1039786.html
http://agora-web.jp/archives/1039780.html
http://agora-web.jp/archives/1035708.html
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51468149.html
ワープアのあなたが消費税アップに断固反対するべき理由- 小飼弾
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51308484.html
http://agora-web.jp/archives/535150.html
サラリーマンなのに消費税アップに反対するのは脳ミソが溶けているとしか言いようがないと言う件に関して- 藤沢数希
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51493213.html
小飼弾すごいな、まがりなりにも数学や物理学に造詣が深けりゃあ、
「そのときにはなんの役に立つか、本人にも誰にもわからなかった」が、
現代科学技術文明に多大な功績がある数学理論や物理理論なんか両手に余るほどあるのもわかると思うんだがなぁ。
「かつてはそれでもよかったが、今はそんな時代ではない」というのなら、
「自己満足のための研究なんか自費でやればいい」理論も「そんな時代ではない」と言えるんだし。
それと、説明責任と奇麗事を言っているだけで、実態は「絶対権力者である仕分け人が万能感を味わうための肥料」
であることにまったく触れようともしないってのはいったい見識なんだろこの人。
あーわかった。
BIと負の所得税の違いというより、その結果どうなるかというところの予想に疑問をいだいているというわけだ。
小飼弾なら「負の所得税」でも「人間は何も生産しない」とか「働かなくてもいい時代が到来した」とか主張することでしょう(本は読んでないけどw)。
そして、BI自体は再配分の一方式だと認識した上で、再配分の方式を変えることでどういう効果が二次的に得られるのかということを言っているはず。
で、↑増田は、そこが気持ち悪いと思ってるわけだ。
なるほど。なんかよく解らんけど違うと。
小飼弾に代表されるBI神秘主義派はたぶん「BI=負の所得税」という認識を持ってないでしょう。彼らはあくまで「一定額の一律支給」というお題目にこだわる物と見受けられます。
簡潔に言えば、BIは平等主義を起源に持つ制度であり、一方「負の所得税」はリバタリアン思想とつながりが深いものとされています。
詳しくは、Davide, Tondani. Universal Basic Income and Negative Income Tax: Two Different Ways of Thinking Redistribution. 2008.を参照してください(ネットで探せばたぶん全文が見られます)。
追記: その違いを除いても、小飼弾に代表されるBI神秘主義派はたぶん「BI=負の所得税」という認識を持ってないでしょう。彼らはあくまで「一定額の一律支給」というお題目にこだわる物と見受けられます。
へい。
まず、最初に「単なる再分配」と強調しましたのは、「単なる再分配」になにやら啓示的解釈を施している小飼弾一派がいるからです。それを前提として:
・「一定額を一律支給」にすると、「お金を一旦収めてから返してもらう」という無駄が大規模に起こる(BIの予算が一見莫大に見えるのはこのため。元の投稿で出した例でこの無駄を省くと、結局「負の所得税」方式になる)
・BI論はインセンティブの低下などの再分配に付き物の問題を放置する
という明らかな問題点がBIにはあります。
「現行の制度の無駄を省こうと言う発想自体には賛成するけど、その代替案がBIじゃだめでしょ。もっと良い代替案があるでしょ」というのが私の立場でございます。
※トラバはしてますが話題はマイコーじゃないです。マイコーにハマった若者のちょっと迂闊だったかなって発言に対して、ちょこちょこ考えてみたって文章です。ちなみに私自身は、マイコーは大好きです。
http://anond.hatelabo.jp/20091107102619
そもそも「マスゴミ批判」っていうのがあまりにも短絡的なんだよね。もちろんマスメディアがアレなのはみんな知ってるけれども、じゃあ無かったらどうなる?ていうかマスコミ以外はゴミじゃないの?それって、庶民の第四の権力に対するルサンチマンじゃね?とかとか、いくらでも(一定以上教養のある)オトナは考える。
ニコニコのマイコー動画を観ると「マイコー=神」「マスコミ=神に対する反逆者、ゴミ」という安直なコメントが目立つけれども、あそこのサイトは年齢層が下がるほどアクティブユーザー率が高いので(そもそもニワンゴの親会社であるドワンゴはガキんちょに着メロ買わせて儲けまくって会社だった)、教養ある人は苦笑いで見てます。
そして、その賢い人たちはニコニコが非同期型コミュニケーションであり議論が成立しえないことは理解しているので、それに対する苦言は動画上ではしません。荒れるだけだって分かってるからね。よって、あそこには声のでかい極論ばかりが残ることになる。
マスゴミって単語そのものが2ch内でも痛いとされている板、それをコピペしてるアフィブログ、ニコニコ、それぐらいでしか盛んに使われていないので、気をつけた方がいいです。教養ってもんは文章内の単語のはしっこから判断されます。
国語のテスト(笑)とか言ってたんで中高生かと思ってたら、大学は通ってんのか。うへぇ。
ブコメへ。
「国語のテスト」と表記するのは高卒がいるからだと思う。現に私は高卒。 / 一般的人に教養はいらないような気がする。配達員が大学の資格持っても……あればいいけど、使うことはない。大卒資格よりも免許の方が大事
なんていうかな、決してあなたをバカにするわけじゃないんだけれども、ああ高卒の友人に「教養」を語るとこうなるよな、と懐かしい思いがした。(最近は大卒でもそうなんでホント学歴差別で言ってるんじゃないです)
まず前提として、「教養」ってんのは純然たる知識量とは比例しないんで、「大学教育を受ければ教養人」「院卒なら教養人」「読書人なら教養人」ってんのとは違うんですね。
具体的に名前を挙げると失礼かもなんですが、小飼弾さんとか私の数倍本を読んでいるし、先日出された本では「IT界の知の巨人」などと言われたりしていますが、率直に言えば彼は無教養なんですよ(多分ですけどいわゆる教養人はみんなそう思っていると思います)。無論それは彼が大学中退だからとか、最終学歴は中学だからとか、そんなことは問題じゃあないんです。端的に言うと、彼は「いくら本を読んでも学ばず、知識量そのものが増えつづけるだけ」のマシーンのような方でして、特に社会科学、人文系に関する発言はそれはもうボロボロです。
小飼さんを馬鹿にしても意味がないし、彼はオープンソースだのPerlの世界だので頑張ってるから後の戯言は笑って聞き逃してやれよとも思うので話題を戻すと、じゃあ「教養」とか「知(知識、ではないよ)」とか「常識」ってなんなの?っていうと、一言で表現するならば「だまされない力」「主体的に判断できる力」「他者の意見を受け入れて、それの薫陶を受けつつも、鵜呑みにはせず、考えを止揚させていける力」といったところでしょうか。
つまりですね、「マスゴミは糞だ、信じるな」と言われて「そうだな、糞だ!」と言ってるようじゃダメなんです。いわゆるメディア・リテラシーといってマス・メディアの情報の真偽を自分で判断する力を、増田さんはロクに持ってないですと暴露してしまっているんですね。
ネウヨの話をもうひとつ挙げるならば、「民主なんかが政権を握ってしまった、日本オワタ」「麻生さんがよかったのに」ってんのも、全然ダメじゃないですか。けれども、じゃあ民主があの支持率通り素晴らしい政党かといえば、それも違うじゃないですか。
あなたは教養なんていらないと言ったけれども、残念ながら間接民主制において経済学の知識と政治学の基本、各政党、政治家の特徴に関する知識が皆無なまま生きていくのは、実はかなり危険なことなんですね。私は高卒でも中卒でも、職人のような技ができたり、人望があったり、そういう人間は尊敬しています。が、そういう人だとしても、教養なんか無意味かというと、そりゃあった方がいいと思うんですよ。
年収200万代の知り合いが小泉の郵政選挙で自民党に票を入れたとき、「おいおいお前は共産党に入れた方が絶対に得すると思うぞ」と思いました。私はその時は自民でしたけど、それは率直に言えば金があったからであって、彼の場合左翼政権下の方がとりあえずうまい飯は食えるってことが分かっていない。
何度も言うように「知識」があっても考えられないやつはバカなんですが、「考えるために必要となる知識」はないと困るんですね。本来「教養」とは、よりよく生きるため十分条件ではないですが、必要条件ではあるのです。(必要・十分条件をもしご存じないならばググってください)
話が散漫になってしまい、申し訳ない。「教養」という言葉に関する認識が違ったようなので、できるだけ多めに例を挙げてみたのですが、うまくいったとは言いがたくてごめんなさい。
もちろん勉強することと他のことをするのはトレード・オフ(知らないならググってください)の関係にありますので、そこらへんの兼ね合いは各自にまかせればいいと思っていますが、ある程度は勉強、した方が得だと思いますよ。やっぱり。
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20090808
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51271236.html
生活に根ざした話で、様々な意見が噴出するってすごくいい。
個人的には、活字中毒Rさんの「こりゃ悩ましい問題だねー」という感想に同意。
ばななのエッセイに関わる客とチェーンの店長という構図は様々な立場があって難しいなって思う。
「本当に下品だなあ。こういうオッサンとは出来るだけ関わりたくないな…」ということ。
だって、自分が居酒屋で飲んでる横で「お前らはいつから酒屋になったんだよ」とか
店員とやりあってる客とか居たら、確実に酒が不味くなるじゃん。
「今のデフレ時代に、5000円も払ってる客をルールのみでベルトコンベアのように扱って、やっていけると思うなよ?!」という圧力をかけることは大事だと思う。
エントリーの冒頭に、いきなり馬鹿野郎なんて語彙を繰り出せるのは、彼一流のしょうもなさなのでどうでもいいかなと。
■ばななのウザッたさ
ばななのエッセイは生活者としての立場から「なんだか世知辛くね?」みたいな話だと思うんだけど、
途中から「私たちスペシャルな存在なのに大事にされないのはおかしくね?」と斜め上の方向に
変わっていくところが読者の感覚からズレてしまってイラッとするんだと…。
僕がばななチームに居れば、そもそもお店に入る前に「ワインを持ち込んでよいか」との承認を取るし、
よしんば融通の利かないクソ店長と言い争いになっても【近所の馴染みの店】から
ワイングラスを全員分持ってきて移し替え移動する。
ばななチームに気が利く人が居なかったのが、ばななに歪んだ残尿感を残らせた敗因かと思う。
■店長のクソな感じ
確かに店長はすごく気分が悪い。なんかルール通り過ぎて、村上春樹の小説とかに出てきそうだよね。
ルール通りであることはどうでもいいが、店員がOKといってお店の立場として承認したものを、
店長が後から出てきて反故にするってのは「組織の論理から見ても」ナシでしょう。
頑なに持ち込みはルールに反していると、客にも守らせようとするのは
「外食チェーンの倫理」には正しいのかもしれないが「自分の店舗の売り上げを最大化する」というゴールから見ても筋違い。
とは言え、無条件に糾弾したい気分になるかと言うと
「店長は店長で自分の役割をクソ真面目にこなしてるだけなんだろうな」と理解出来るから何とも…。
■ルールが絶対のお店はアリかナシか。
個人的な感覚としては、ばななが行ったようなお店は嫌いだ。チェーンは嫌いだ。
行く場合には、どうせクソチェーンなんだから、個人個人へのフレキシブルな対応を求めるのは筋違い。
大切な会であれば、絶対にチェーンなんかに行かない。
行く時は、ある種の諦念がある。どうせ、○○さんと呼ばれる馴染みの客にはなれない。
どうせ、高校生・大学生・DQNたちが騒いでてゆっくり出来ない。
とはいえ、安価でルールを大事にする居酒屋は無くならないと思う。
そこにもっとフレキシブルさ、自主性を求めるのは客としては当然だと思うけれど、
「やりがいの搾取」という議題が浮かんで、何ともいえなくなる。
オリエンタルランドや、スターバックスは、素晴らしいなと思う一方で気持ち悪いもの。
■結論としておもったこと
35歳より下ぐらいの人には、飲食で働いている友達も多いと思う。
だからこそ、自分とは切り離された存在として、お店を一方的に叩くということが出来ない。
小飼弾さんは、チェーンの飲食の現場で働いている友達と飲んだ体験とかが無いのかなと思った。
世代論なのかもしれないし、小飼弾さんはシステムの話は横に置いておき「自分がどう思うか」「自分だったらどうするか」を
起点としてしか話をしないからかもしれないなと思った。
飲食に関しては、チェーンとはいえ、フランチャイズとはいえ、もう少し弾力的に動いてもいいでしょ?
暇な時は持ち込みなんかも大丈夫だよ。但し、忙しい時間帯は勘弁してね。というのを店側も客側も共有できればいいなと思う。
「友達はOKして貰ったのにどうして俺はダメなんだ?!」みたいなクレーマーが居たりして実現が難しいのかもわからんけど…。
ここまで読んでくれた人が居たらありがとう。
僕は都内に住んでいるIT系の仕事をしている25歳なんだけれど、一意見として
「ふーん」と思っていただければ幸甚です。
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追記 :
なんとなくモンテローザグループを想定して「チェーン」って使ってたけど、
グローバルダイニングもチェーンだし、松玄でお馴染みピューターも多店舗展開してるし、
「いわゆるチェーンの居酒屋」って、笑笑、白木や、魚民、和民、村さ来、
温野菜、養老の滝、東方見聞録、月の雫、権八とかを想定してればいいんだよね…。
あと「やりがいの搾取って何よ?!」って意見が多かったので補足。「感情労働」の次バージョンみたいなヤツ。
一般的に、素晴らしい客対応をする例として上げられることの多いオリエンタルランドや、スターバックスなんだけど
それを実現するにあたって、ある種宗教的な感じがあります。
例えば、スタバでいうと研修でグループを作ってニックネームを付けさせて…など
自己啓発系セミナーのような意識改革をさせて、仕事にやりがいを持たせるという。
それをバイク便やら、ワタミやらが【給料が安くても、納得して働いて貰うための方便】として使っているという議論があります。
ある種関係ない話ではあったのだけれど(フリーター問題でよく出されるワードだと思う)、
叩きではないのですが、
そもそも学術的にはイロモノの域を出ないリスニング学習の本を持ち上げたかと思えば、
その理論部分に問題があるという。
彼が何を書いているのか、最初さっぱり分かりませんでした。
反復学習の効果的側面は臨床データもたくさんありまして、リスニング学習は効果が
限定的だというのは1980年代からさまざまな論文で語られているんですけど。
それで、今度は単なる一症例、それも単なる脳卒中からの脳機能回復の体験談に過ぎない
「奇跡の脳」を山車にして、両者を比較すると言う、心療内科の世界からすると誤謬
としか言いようのない書評を書いておられます。
彼は、
「これははっきりと「No」と弾言させていただく。私にとって言葉は理解と表現の道具で
あっても、思考の道具では実はない。」
とまで言っていますが。
認知学で言うなら、言葉の理解と表現を行うのは、思考の「結果」であって、別物と
かそういう以前に、脳機能のうえで区別すらできないもののはずなんですが。
と言うより、言葉で理解していながら、「思考は言葉で行われる」という基本的過ぎる
主張に「NOと弾言」というのは、甚だおかしいです。意味が分からない。
さらに、
「同書で最も驚いたのは、左脳が麻痺した著者が見た世界が、いかに私が「考える」
時の状態に近いかだった。自己の境界と時の流れがなくなったその世界にこそ、
「マイワールド」なのである」
集中している時の脳活性は自己の境界線(自己的知養)が発現しないのは当たり前
です。言語野が確立していない胎児にいる状態でも記憶は残り、のちに言語化されて
記憶が再整理され、胎児中の記憶が蘇ることは学術的にも確認されていますが、
これ、本論とは一切関係ありませんよね。
「本書の価値は、実践の方にある。ハウツー本にとってより重要なのは、理論の
正しさではなく実践の効果である以上、本書はたとえ理論に納得できないとしても
価値がある。そしてその実践の効用が大きいことは、私自身を証拠として提示できる。
私も「耳勉強法」の実践者だったのだから」
その後も、彼独自のヨタ話が続きますけど、書評で出ている実戦方法と、この人が
「耳学習でかるたを覚えた」と言っていますが、文章記憶を行うのにリスニングが
適しているだけの話で、これを数式や化学式の暗記に応用しろと言われても無理
でしょう。彼が言っているのは、簡単に言えば言語を効率的に習熟するには
リスニングも必要であるという、ごく当たり前のことに過ぎません。
「有名な話しであり、またこの話が「人は見た目が9割」のベースにもなっている
のだが、むしろ私が驚くのは、聴覚が38%もあることだ。」
これも関係ない話ですよね。聴覚による情報摂取比率が脳科学的に高いからといって、
ここで取り上げたリスニング学習法が実践価値があるという意味にはならないです。
むしろ、現在の学習に関する研究では、視覚聴覚などの取り入れる配分をどうするか
というレシピのほうの調査が主で、学習障害が何故発生するかや、集中力との関係
といった分野が大変重視されるのですが、やはり本論とは何ら関係はない。
「ここで、今まで「耳勉強法」が今までそれほど活用されていなかったもう一つの
理由にたどりつく。それは「耳を使うのは非常時」という、耳のもう一つの特性だ。」
もはや、何を言っているんだか分かりません。
緊急時の情報優先が聴覚であるという学術論文は25年間のあいだで読んだことがない
ですね。危機対応能力を求められる職種の人は、嗅覚が鋭くなる傾向にあるという
調査報告がある程度で、聴覚が優先されるなどと言う話はまっとうな論文では
見たことがありません。
非常に不誠実で、不正確な書評で、脳科学や認知に関する基本的な理解が不足した、
問題の多すぎる論述ばかりで、読んでいるこちらが逆に驚いたぐらいです。
臨床データを読みこなせるようになってから書いてください、というわけではない
のですが、知らない、分からないことに対する論述の慎重さ、丁寧さ、誠実さと
いったところが欠けすぎていて、残念に思いました。
ある程度、そちらの方面では専門であるわたしから見ても、まったく無価値な議論
ばかりだな、という印象です。
http://anond.hatelabo.jp/20090311015518
ことし40歳になる有名人
「今年30歳の有名人」と違って、もう既に若者扱いされることもなく立派な中年。芸人なら中堅、スポーツ選手は半分以上は引退して指導者になってたり、芸能人になったり、政界に転出してたりする。
90年代の日本の音楽シーンの中心だった人たちもこの世代。ミスチル、LUNASEA、ラルク、コーネリアス、渡瀬マキ、大黒摩季、槇原敬之。福山雅治と加勢大周と東幹久って同い年なんだね。ジャンル的に同じでも、出てきた時期が微妙に違うからそう思わなかった。
あとこの年齢だと、既に他界している人もいる。年を取るってそういうことなんだね。
私はプログラマの端くれとしてまつもとゆきひろさんと小飼弾さんを尊敬しているし、影響も受けている。
しかし、ただ一点残念なことがある。お二方の服装だ。
私は以前、まつもとゆきひろさんの講演を拝聴したことがある。
その際に氏は、
「経済産業大臣表彰なんてのをもらっちゃいまして。
周りはなんかカチッとスーツ着た人ばかりなのに僕なんかこのときもジーンズ履いてっちゃって」
との趣旨の発言をされた。
これは
「お偉方が陳列せします場でちょっとやんちゃな僕。エヘw」
とのニュアンスが感じられた。
服装は「TPOを考え清潔感のあるもの」がセンス以前の礼儀だと思う。
それとも各氏は「服装で判断するやつはとるに足らない」という考えなのだろうか?
みなさんはどう思われます?