ずっと思っていた。
はてな村でよく使われる「承認」を巡る物言いは、誰かに承認させるために知恵をひねって絞り出した言葉なのだと…
でも、それは自分の勘違いだったようだ。
ここでいう「承認」とは、自らが他の誰とも代替不可能な存在として認められることを指す。自らの物語・生き様が他者のものとして回収・吸収されることなく他者のそれと連結され、社会において一つの存在として認められることと同義である。
つまり、「"承認"させてやる」と言う事でなく、「"承認"してくれる誰かを求めているのだな」と
ありのままの自分を受け入れてくれる場所や人、そういう居所を探すための物言いだと言う事らしい。
例えばこういう発想の元で、「自分の言ってる事、あるいは思っていることが伝わらないから工夫してみよう」と言う発想が出てくるかというと、それはかなり疑わしいと思う。
他人に理解(吸収)される事を望まず、ただ肯定(連結)される事を望んでいるのだから…
これに対しては小飼弾氏がBlogにて所感を述べているが、おそらく「承認」に関する認識の違いで平行線を辿る事だろう。
ちょっと前にこんなエントリがあった。
その言葉はまるで自分に向けられているように聞こえるから - うどんこ天気
肥満状態の女性が出ていたTVのバラエティ番組を見て、肴として自堕落鰤を揶揄する知人に絶望した女性の話。
このエントリに対するコメントやブックマークコメントを見ていたが、「彼もバラエティとして適当に見ていたんじゃないかな? 自分の考えを理解して欲しければ、彼の視点を把握した上で、色々疑問を投げかければ理解できたかもしれないのに…」と思った。
それが演出なのか、ガチなのか。あるいは出演した本人の意図と反して自堕落な人として放送する側に演出されてしまったのか
そう言う疑問を投げかけられて、しっかり考えればいいのだけれど、あくまでも「そうだよね。うんうん、分かる分かる」と言う主旨の意見のみ受け付けているのが残念だった。
ここでもまた、"自らの物語を他人に吸収される"事を忌避して、ありのままの自分を受け入れて欲しい人がいるのだな
そう言う感想を持った。
彼女にとって見れば、そう言う自分を認めて、意見する人を「資格無し」と断ずる人こそ望むべき人なのだろう
それはそれで一つの考え方かもしれないが、それならば理解して欲しい。と言う言葉は不適当だなと思う。
「理解してもらえないかもしれないけど、受け入れてくれる人と関わりたい」
そう言うべきだと、私は思う。
本当に大事なのは、誤解なり齟齬なりを、「貴方はこう考えてるかもしれないけど、私の考えはこういう理由で違ってる」と言葉でもって相手を納得させることだと思う。
それが理解であり、人に承認してもらうことの肝なんじゃないかな
承認してもらう事を考える前に、「なぜ承認してもらえないのだろう」「どうすれば承認してもらえるだろう」を考えた方がいいよね
と言うのがこのエントリの主旨だと受け取っていただければ幸いです。