はてなキーワード: 主治医とは
一昨年の今頃、夫(当時61歳)の肺ガンが発覚した。
夫には姉(当時73歳)がおり、玄関と廊下だけ共有している二世帯住宅で同居していた。義姉はマイペース(というか、回りを見てない)な人でいろいろと軋轢はあったが、夫の入院まではなんとかうまくやっていたと思う。
さて、夫が「余命半年から一年」と診断されて、夫の親近者が主治医の先生の説明を聞きに行くことになった。夫の父親は夫が15歳のとき、母親は夫が28歳のときに他界されており、ほかに近しい親戚と言えば、もう義姉しかいない。当然、声をかけた。
「ガンがどんな病気だか知ってるから聞かなくていいわ」と断ってきた。こんなときまでマイペースな人だと思った。
しばらくすると「申し込んでいるツアーに出かける」と言い出した。3週間の海外旅行である。
「まだ大丈夫なはずですが、半年と言われて三日で亡くなった方もいらっしゃいますよ? 帰ってらしたときはお骨になっているかも知れませんよ?」と念を押したら「どうせ、間に合うようには帰って来られないから、弟が死んでも連絡しないで」と言う。このときもまだ私はマイペースな人だと思っていた。
「毎日、何してるの?」と訊く。繰り返すが夫は肺ガンの末期で入院加療をしているのだ。しかも、義姉は「それがどういうことだかわかってる」と言ったのである。
「寝てるよ」と夫が短く答えると。
「あら、毎日ゴロゴロ寝てられていいわね」と言い放った。
実は義姉は5年前にも入院した伯母のところに見舞いに行き同じことを言って病室を追い出されたことがある。伯母から義姉を口汚く罵る怒りの電話がかかってきたので私は知った。うちと義姉とは電話番号が違うので、義姉の許可を取って義姉の電話番号を教えた。伯母の怒りはおさまらず、1週間ほど義姉の電話が鳴りっぱなしなのが、壁のこちら側にも聞こえてきた。
あんなに怒られたのに病気で寝ている人間に「いいわね」などと言ったら神経をさかなでするということを覚えていなかったのだ。
このときを境に、夫は義姉の見舞いを嫌がるようになった。
4カ月経って、一度危篤状態になり、私は病院に泊まらせてもらった。一カ月後に、いよいよ、もうダメなので会わせたい人は呼んでくださいと主治医の先生に言われたとき、私も夫も義姉はいらないと思っていたのだが、私の母が「兄弟なんだから情があるに決まってる。あんたは血の濃さをわかってない」とゴリ押ししてきて、義姉を呼んだ。
最後の対面となる。
その席で。
「増田(私のこと)がろくに家事をしないので、家の中がグチャグチャだ。なんとかするよう言ってやって」と言ってきた。
散らかっているのは、主に、義姉さんの荷物ですけど、と思いはしたが、まさか、たった一人の肉親との今生の別れのときに、ケンカを買うわけにもいかない。黙っていたら「あれも出来ない、これも出来ない、子供もひどい」とさんざん言い出した。
最後には夫が「もう黙れ。出て行け。二度と来るな」と怒鳴りつけて、ようやく口を閉じたのだ。
200909101314追記。
夫亡きあと(あれだけのことをしたのだから、当然出て行くつもり)だと思っていた思惑を外されまして。家庭裁判所にまで持ち込んで騒いだ挙句、「私は義姉が、75歳のお年寄りで年金暮らしの弱者であることを考慮して、死ぬまで私の家に住み続けることを認める」「義姉は玄関を分ける費用を出して、増田(私のこと)と増田の家族に今後いっさい干渉しない」と文書を交わして取り決めました。
ところが、昨日から、義姉は在宅している(洗濯物を干していたり、夜電気が点いていたりするのでわかります)にも関わらず、郵便屋さんが届けてくれる荷物を受け取ろうとしないのです。一昨日、うちのポストに入っていた不在票を義姉のポストに入れなおしたので、不在票を見て郵便屋さんに連絡を入れた上で、居留守を使っているのだと思います。他人に迷惑をかけ続ければ、私が折れて、また、夫が生きていたときのように義姉の召使をすると思ってるんでしょう。たぶん。今までのいろいろな経緯を考えると。
その手にのるか。とは思うのですが、なんの関係もない郵便屋さん(三回来てます)にご迷惑をおかけするのも心苦しく、一昨年の義姉の仕打ちを思い出して(ここで折れてはならない)と心に言い聞かせていたところ、ふとしたはずみに、また母が「兄弟なんだから情があるに決まってる。あの人だって決して嫌がらせしたわけじゃない。あんたはどこまで依怙地になるの」と言われて、頭に血が昇ってしまったので、このエントリーに吐き出せてもらいました。
ここまでされたら、通常、縁を切るってと、何度も母には言ってるんですけど理解してくれないんです。自分は兄弟と仲良くしているから、血が繋がっていても情が湧かない人が存在するということが理解できないんです。
その母ももう83歳で、まだ食事の支度はしていますが、ほかのことは私が援助している状態なので、そんな言い合いを続けているわけにはいかないんです。増田があって良かった。ここに書き込めたおかげで、また、母とは穏やかにやっていけそうです。
ちなみに、私は47歳です。夫と16歳違うんです。年々歳が近づいていくのが寂しいです。
夫は最期まで元気でした。若いとなかなか弱らないそうです。助からないと決まっているのなら、早く楽にしてと思う反面、元気そうに見える夫を見ていると奇跡が起こるんじゃないかと期待してしまったりして、いろいろしんどかったです。
今は元気です。義姉には関わらないように生きていこうと思います。
ありがとうございました。
元増田です。
母が月曜に病院に運ばれてからあっという間に1週間が経とうとしています。今はたまに変なことを言い出すくらいで普通に会話ができるようになってきました。火曜日に母の主治医に土曜には劇的に変わっているでしょうとか言われててホントに昨日あたりから変わってきたので医者すげー!と思いました。いつ退院できるかとかは母次第ですが大分安心しました。看護師である伯母に「お母さんの好物を持っていくといいよ」とアドバイスをもらったものの母はなんでも食べるよなあと弟と言い、とりあえず果物は好きだーと思い自分が不器用なんで皮をむいたらボコボコになった林檎とか梨とか持って行ったら食べてくれたので安心しました。普通に病院で出る食事も食べてるみたいだし体は多分大丈夫であとは母の心が健康になるように待つだけです。果物ばっかりも飽きるだろうから明日は白いたいやきでも買って持って行こうかな。初めて見る白いたいやきにどう反応するかが楽しみwこれにて完結ということで。またなんかあったら普通にぼやきます。トラバくれた皆様ありがとうございました。
先日私は主治医の変更をして欲しいと申し出た。
無理だと言われた。主治医と話合わないといけないらしい。しかも有料。
しかしそんな馬鹿な話はないので、どうにか食い下がった。
すると相手は月曜日に相談して電話すると言った。そして今日電話があった。
やはり主治医の変更=話し合い=診察=金額が発生するだそうだ。
相変わらず受付は、「ん?」、「え?」、「は?」を繰り返すので適当に話を切り上げて電話を切ってしまった。
もう少ししたら病院へ赴き嫌々返金の処理をしなくてはいけない。
というわけで鳥取市唯一の国立病院はだめだめだったというお話。
病院のせいで症状酷くなったわ。
※追記
さっき返金の申し出に言ったのに断られた。事情を説明したら相談すると言われた。
この返金は制度として求められているものなのに、こうも酷いとは思わなかった。
トラバの
>「いかにも国立病院」の話に思えたがどの辺が「名ばかり」だと思ったんだろう
近所の人から評判がいいと言いました。最近出来た病院なので医師も優秀だと思っていました。
この度、このような記事を元増田が投稿するに至ったことは、
まだまだ現れていないことを証明しているため、そろそろ
最終的な決断を下す必要があるようです。
みなさんお聞きになったことがあるかもしれませんが、
必ずしも心の病は、特殊な病気ではなく、誰もがそうなる
可能性があります。しかし、だからといって、これ以上、
元増田を放置することは、例えば何の関係もない人を傷つけたり、
逆に元増田自身の将来にとり、必ずしも良いことではありません。
元増田にとっては、納得がいかないことかもしれませんが、私も、
どうかみなさん!元増田が戻ってきましたら、このような人を悲しませる
思いますので、暖かく見守ってやってください。
庭先の石の裏側をのぞくと、ミミズとか気持ちの悪い虫がいっぱい蠢いていることがある。おれはガキの頃そういうのを見るのが好きだった。
で、大人になった今は同様の興味を持って発言小町をチェックしているのだが、
精神疾患の妻と別れるように言われました(http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0702/249232.htm?o=0&p=0)
妻が10年前から統合失調症の上、最近アルコール依存症とも診断されました。
(中略)
先日、妻の元主治医から
「奥さんと離婚しなさい。奥さんには育児能力はないので子供はあなたが見なさい。あなたが全て悪い。これ以上言うことはないので帰りなさい。」
と言われ、悩んでいます。
いきなり「離婚」というのは納得がいかず市の相談センターと、家族の相談にのってくれる心療内科に行き相談しました。
すると、いずれの先生も
「3人で生活していると、妻に巻き込まれて家庭崩壊すること」
「このまま妻が子供を育てていると子供が死ぬ可能性が高いこと」
「アルコール依存症は誰か(何か)を悪者にしないと本人の精神が保てないことから、本人に治そうという強い意志がない限り夫の私が悪者となり一生治らないこと」
「10年前から病気で治療薬を飲み続けていることから、私が悪者(病気の原因)ではないこと。(実家に帰れば、おそらくはご両親が悪者にされるとのこと)」
などを”一般論”として説明されました。(後略)
イネイブラーとかイネイブラ(NTT表記)とかいう単語を思い出してしまうわけだが、まあ林先生に相談してください、としか言いようがない、ということには暇人の諸兄諸姉も賛同していただけることと思う。ところが発言小町は違う。このレスには正直びびった。
離婚する必要なんてない!!
ゆう
本当の病気の理由を他に求め、病気は悪者、出る症状は何かで抑えるという考え方です。
もし本気でがんばっていこうと言う気持ちがおありでしたら、ぜひ『ホメオパシー』と言う治療法を試してみてください。
副作用もなく安全ですし、病気のために離婚をしろなどという理不尽なことも言ったりしません。
私の母は治癒しましたよ。
「本気でがんばっていこうと言う気持ちがおありでしたら」ってのは「効果がなかったのは本気でがんばってなかったからだ」ってことだよね。そういう論法はどうなの。がんばる、なんて定量的に評価できないものを出してくるところがインチキのインチキたるところだよねw
50万歩譲ってホメオパシーにプラセボ効果があるとしても、それは腰痛とかそういうのが対象であって、統合失調症にそんなの通用しないだろ。というか「子供が死ぬ」とか言われてるのにホメオパシーどころじゃないだろ。ホメオパシー信者の知的レベルについては、おれは何もコメントしたくないが、頭のいい悪いはともかく無責任すぎるだろ。
…と一人憤りつつスレッドを流し読みしていたら、もう一つ、もっとすごいのがあった。「お祓いをしなさい」ってやつ。もはや引用する気力がないので、引用はしない。もしかすると釣りなのか、とも思ったが、釣りなら「こんなバカなこと信じる奴いないよね。プ」みたいな香りづけをするだろうから、大まじめな意見なんだろう。
発言小町すごいよな。そんでホメオパシーもお祓いもスルーされてた。あとなぜか投稿者の人が叩かれてた。
つまりまとめると、庭先の石を裏返したら想像以上にぐちゃぐちゃでねちゃねちゃの気持ち悪いものがこびりついていた、って感じ。色は紫色。
わがままを聞いてはいけなかったろうか?
1年前、夫は肺ガンで亡くなった。健康診断を受診したときは、もう手遅れで「あと半年の命」と宣言された。夫自身には期限は知らせず、末期ガンなので苦しい治療になるとだけ伝えた。
個室に入れてもらったこともあって、家族の面会は自由に近かった。私は昼前に病院に行き、食事を共にし体を拭き洗濯ものを回収し、日常の買い物などをした。
抗ガン剤の投与で病状が回復すれば、1週間くらい帰宅し、また具合が悪くなって再入院。それを4回繰り返したころ、とうとう抗ガン剤投与で体調が悪化した。もう抗ガン剤は使えない。死を待つばかりの状態になった。主治医の先生が「残念ですが、もう手がありません」と夫に告げた。
そのときから、夫のわがままがひどくなった。
まず、私に帰るなと言い出した。一人で夜を過ごすのが寂しいのだと言う。家には高1と高3の子供がいる。心配だけれど2人で生活できない歳でもない。「今は、自分たちの面倒を自分できちんとやってくれることが、一番の協力だから、2人で力を合わせて乗り切ってね」と、言い渡し、私は病院に泊まらせてもらった。
次に「どこかに連れて行け」と言うようになった。骨に転移していて手足は骨折寸前なので歩かせるわけにはいかない。私が車椅子を押して行くことになる。大きな総合病院だったが、それでも毎日散歩していれば、あっと言う間に行くところは無くなる。「他の病棟を見たい」「リハビリ室に行きたい」と、看護士さんの指示がなければ通常患者が行かないところに行きたがりだした。「他の人だって病気療養中なんだから、そんな見物気分でよその病棟に行ったりしたらダメだよ」と諭したのだが「聞いてもみないでなんでわかる? やりたいことはなんでも『やりたい』って言えばいいんだ。ダメなことは『ダメ』と言われるから、そしたら諦めればいい」と言い張る。
3交替勤務で無茶苦茶忙しそうな看護士さんをつかまえて、「よその病棟に行きたい」なんて、どう考えてもまずいだろうということを言い出すわけにはいかないと私はためらっていた。すると、夫は自分でナースセンターまで歩いていき「よその病棟はダメだけど、リハビリ室は好きに行っていいってさ」と返事をもらってきた。「ほらみろ。やりたいことはなんでも聞けばいいんだ」と胸を張った。
その次は「素人の介護はもういらない。お前はいらないから、看護士を一人つけろ」と言い出した。痛み止めが頻繁に必要な状態になっていた。ナースコールを押してもすぐに来てもらえるとは限らない。自分専用の看護士さんが欲しいと思うのはもっともだが、ここは病院だ。看護士さんを独り占めなど出来るわけがない。「看護士さんはそんなにヒマじゃないわよ」と答えると「だから、ダメかどうか聞けって言ってるだろ」と怒る。
聞かなくてもわかる。ダメに決まってる。それでまたケンカになり、夫は自分で聞いてきた。ダメだ。当たり前だ。すると、夫は戦術を変えてきた。ナースコールを押して、看護士さんがきたら出来るだけ引き止めるのだ。「どう痛いのか、うまく説明できない」「何度薬の説明を聞いても覚えられない。こんな症状のときには何がいいんだっけ?」「頭洗って欲しいな」などなど、とにかく一秒でも長く看護士さんに居てもらおうとする。そもそもナースコールというのは緊急時に押すものだと私は思っている。気分が悪いのなんのと、いちいち押していたら看護士さんの仕事の流れに差し支える。だから、ナースコールを押す前に夫に「何をして欲しいのか」を明確にさせるようにした。それでも、2時間に1回くらいは押していたから頻繁だったのだけれど、本当は30分に1回押したがるのを必死で止めていたのだ。
ナースコールを押すときには何をしてもらいたいのか決めているので、押してから言うことは「赤い痛み止めをください」「睡眠薬の2段階目のをください」と具体的になる。これが一部のナースさんの反感を買った。入院患者にどの薬を使うかは、ドクターの指示によって看護士が判断するものだ。患者の側から薬の種類を特定するのは越権行為と思われたのだろう。
具体的には私の入浴中(10分入ってる)に点滴の針を抜きに来て、大声で夫を怒鳴ったり、入院してから一度も頼んだことがないのに「体を拭きましょう」と言ってきて熱いタオルを夫に押し当てたり、呼吸器が顔に当たって痛いと言えば「みんな我慢しているんだから我慢しなさい」と言われたり(もう、24時間以内に死ぬとわかっている患者に)、モルヒネの注射を始めたらシップタイプの痛み止めを剥がされたり、モルヒネを始めた日の夜中、何か騒がしいので起きようとしたら看護士さんに「奥さんは寝ててください」と止められたり、そのあと夫が完全に死んでから「亡くなりそうです」と起こされたり。
死に目に会えなくて、私は助かった。
とにかく最後の一カ月はわがままの言いどおしで、最期の最後に何を言われるかと、私はビクビクしていたのだ。夫の要望に応えて病院に泊めてもらったのに「素人の介護はいらない」と言える人だ。もう、死ぬとなったら、何を言い出すかわからない。夜中についウトウトしてしまい、起きたら夫が死んでいてホッとした。看護士さんに起こさないでくれてありがとうと言いそうになった。死に目に会いたがるのが普通なのに、会えなくて喜ぶのも変だから言わなかったが。
と、いろいろと気持ちが混乱した。
夫が亡くなってから1年と3カ月が過ぎて、ようやくいろいろなことが落ち着き、生活も以前のように戻りつつある。
そして、ふと「モラルハラスメント」という言葉を知った。自分のプライドを傷つけた人間に、まるで相手が悪いかのように思わせるような嫌がらせをするというものだ。
いろいろな兆候が夫に当てはまった。
ああ、しまったと思った。夫が妙なわがままを連発したのは、自分が死んでしまうという自分の尊厳への傷を回復させたかったからだったんだと思った。
じゃあ、わがままにいちいち付き合うのではなく、単純に「あなたのおかげで、私幸せでした。ありがとう」とそう言えば良いだけのことだったんじゃないかと。
そしたら、夫も落ち着いて、もっと、穏やかで感謝に満ちた最期を迎えさせてやれたんじゃないだろうか。
コメントをくださったみなさま、ありがとうございました。
ずっと心に閉じ込められていた何かを言葉にしてみたら、こうなりました。
一部の看護士さんの対応については不満はありません。夫はもちろん私も自分のことでいっぱいいっぱいで、自分では意識しておらず、また、よく思い出せないのですが、そういう扱いをされるほど傍若無人な態度を取り続けていたのだろうと思います。
夫がどんなわがままを言い出そうと「病気がそうさせるのだから」と、主治医の先生もほかの看護士さんも理解を示してくださっていました。私がうまく相談出来なかっただけなのだと思います。
闘病に付き合っている間、ずっと、夫が死んだら、せいせいするだろうと思っていました(こういう本音を書きたいから、増田でしか書けないのです)。
夫はここ10年ほどは、ずっと決まった日課で生活していました。朝起きる時間、夜帰宅する時間は、ほぽ毎日同じ時間でした。毎日、その時間になると扉を見つめます。夫が帰って来ないということがどうしても納得いかないのです。
今日、夫の仏壇を食卓の近くに据えました。よく見えるところに遺影を飾りました。これからは、仏壇と遺影を見つめようと思います。
中国からの刺客に無防備、米国はなぜ安全方面を考慮しなかったか
政治は風向きが変わると、その渦中にいた人間は、その運命が右から左へ、上から下へと突如翻弄されることになる。
台湾が国民党独裁の時代、中国大陸から逃げてきた亡命者を「投奔自由」と比喩し、国民党系のメディアは英雄扱いした。
私は中国からの亡命者のなかでもミグ・パイロット、京劇俳優、作家、医者(周恩来の主治医もいた)、物理学者(中国の核物理学者もいた)、通訳など八十数人にインタビューし、『中国の悲劇』という本にまとめたことがある。
ただし国民党の宣伝となってはいけないので米国へ逃げた人々も追いかけ、拙著の最後の場面は、台湾人作家で北京へ逆に亡命し、はては米国へ再亡命した奇異の存在、陳若儀をサンフランシスコに訪ねて「それでも中国に希望ありき」という談話で掉尾を飾った。
80年代前半まで、台湾には「同胞救済協会」のような支援組織もあり、亡命者が台湾にあらわれる度に、大きな記者会見を開催し、ミグ・パイロットには黄金数キロという懸賞もつけて賛美した。
第一に中国からの亡命者は台湾ではなく、欧米を目指し始めたこと。
第二に台湾は自由化を驀進しはじめ、とくに亡命者を賛美する風潮が掻き消えたこと。
どこかの国の状況と似ている。ベトナム戦争の英雄は、米国に帰ると邪魔者扱いされたように。
既報のようにグアンタナモ基地に八年間、「タリバン」の容疑者として拘束されていたウィグル人兵士13名は、パラオ諸島に移送される。
最初は17名と言われたが、すでにそのうち四名はバミューダで暮らし始めたことが分かった。
ウォールストリートジャーナル(09年6月23日)は、「はたしてこれらのウィグル人らはパラオ諸島で身の安全が保障されているのか」とする疑問を報道した。
まともな軍隊も警察もないパラオは人口わずか二万。二百数十の島嶼国家。台湾と外交関係があるため社会のインフラ建設と整備には台湾がおおきく貢献してきた。
その台湾が中国と接近している政治境遇の大変化も手伝い、中国の代理人や刺客の侵入はわけもないこととなる。
「南洋ののんびりした島で休養がとれることは彼らのメンタル回復に役に立つはず。なにがしか働き、貯金し、かれらの人生の夢は最後にメッカ巡礼なのだから」と。
パラオ諸島が、かれらタリバン兵士被疑者を受け入れたのは、米軍の二億ドルの援助であり、人道的理由は二の次だろう。
もしヒューマニズムが最大の動機というのなら三年前の米国の打診開始の時点で受け入れる筈だから。
▲両天秤外交も挫折の時代へ
さて中央アジアのイスラム国家、キルギス政府は「米軍の継続駐留を認める」と百八十度逆転の決定を『平然と』行った。
驚き桃の木山椒の木。
簡単に経過を振り返ると、アフガニスタン空爆の拠点としてキルギスのマナス空港を米軍の集荷流通センターのごとき兵站拠点としてきた。
昨年からキルギスでは「米軍は出て行け」という運動が(ロシアに支援されて)組織化され、ことし二月、キルギス議会は米軍の撤退を正式に決議した。
米軍は2010年8月をメドに撤兵する予定となった。背後にはプーチン政権の援助(水力発電プロジェクトなど20億ドル)があった。
この直後、或る米軍高官に聞いたことがある。すると、かれはにやりと嗤って「いずれ逆転がある」と意味深長に言った。『米軍の出費拡大がキィですよ』と。
両天秤外交は嘗てマレーシアなど新興アジア諸国でも顕著だった。当時は米国とソ連に援助合戦を競わせた。
▲政治とは不条理で成り立つ
キルギスは米ロに援助を競わせ、まんまと両国から援助拡大の約束を取り付け、米軍には空港使用料の値上げを認めさせた。
そこには倫理が介在する余地がない。私は嘗て高坂正堯氏が言ったことを鮮明に思いだした。
「宮崎くん、そうはいうてもやな。外交に道徳をいれたらややこしくなるで」。昭和四十三年春、セミナーが終わって大阪中之島から北新地の二次会場へ向かう電車のなかだった。私は外交と道徳について質問したのだった。
冒頭パラオのことに戻る。
南太平洋に存在する島嶼国家十二のうち、六カ国が中国に寝返り、六カ国が台湾との外交関係を続けている。
いずれも激しく両天秤外交で成果を味わい、とくにキルバスなどは、二転三転。援助の多寡で自由自在に外交関係を切ったり繋いだり。同様のことは中南米諸国とアフリカで顕著である。
変化の予兆は中台の「雪解け」「一中市場」「国共合作」からである。
政治的潮流の大変化とともに、中国も台湾も、援助合戦の無意味さを認識し始めた。
もとより札束により外交関係を維持するという外交戦術を選んだのは台湾国民党時代であり、その台湾が国民党の政権復活により、みずから始めた援助外交を終息させる。
不条理!
いや、政治とは不条理そのものではないか。
仕事を休むようになって数ヶ月たって「苦しすぎる。助けて」というメールが来るようになった。
他のひとたちと一緒に、そのひとのところに遊びに行ったり、電話をかけたりした。
仕事中に突然届くSOSメールにも、みんなで連携して同報メールで対応した。
「くるしい」「さみしい」「起き上がれない」「どこにいるの?」という問いかけに
「ここにいるよ」「ひとりじゃないよ」と必ず誰かが応えた。そんな毎日が三ヶ月以上つづいた。
医者にはちゃんと行って、薬も飲んでいるようだったけれど、
本当に感じている心の苦しさを診察のときに話しているようには見えなかった。
医者なんて薬を処方するだけ、それよりも友達のほうがうんと助けになってくれる。
ともだちはそう言った。
ある日、ひさしぶりに会った家族から「病気になるなんて弱すぎるからだ」と
言われてしまったという話を聞いた。
切れて、怒鳴りあったあげくに痙攣の発作まで起こしたとか。
ふだんはおとなしいともだちだから、それを聞いて驚いた。
同じころに、いろいろと落ち込む出来事が重なったらしい。そのころから電話を要求するメールが増えた。
いつもあなたの力になりたいと考えている、というこちら側からのメッセージが重すぎる、とも言うようになった。
ただ、うんうんとあいづちをうちながら話を聞いてほしいということらしかった。
こちらが仕事やいろいろな事情で忙しくしている時間でも、すぐに電話がほしいというメールが来るようになった。
手が空いている誰かが、電話をかけた。まるで子供をあやすように対応しなくてはならなかった。
批判や意見めいたことは、いわれたくない。ただ、自分が望んだときに話を聞いてほしい。
それがともだちの望みだった。
でも、誰もが都合が悪くて、電話がかけられない日もあった。
みんな、だんだんと疲れてきていた。
ともだちを支えきれないあせりも出てきた。
もしかしたら、入院してきっちりと治したほうがいいんだろうか。
いやいや、実家に連絡したほうがいいんだろうか。
そういう相談をしたけれど、みんな素人だからはっきりとした答えは出せなかった。
迷ううちに、ともだちの要求どおりに連絡をとるのが難しくなっていった。
泥の中でにょろにょろ逃げるうなぎをすくっているような感じだった。
ともだちの絶望感をひろってもひろっても、一時しのぎにしかならないらしいと、
みんな思うようになってきていた。
そんな日が続いて、ともだちの日記にメッセージがあるのを見つけたときも、
気軽に反応するのは、とてつもなく難しくなっていた。
ともだちは、みんなから「見捨てられた」と思っていたらしい。
苦しんでいると書いたのに、それが否定された。
「薬ちゃんと飲めば大丈夫」「長くかかるかもしれないけどゆっくりいこう」とか、
支えてくれようとしているのはわかるけれど、
上から指導されているようで、そしてそうやって受け流されているようで、それが苦痛。
そんなふうに感じたらしい。
みんな疲れていたけれど、それでも何人かが電話をかけた。
さいきん来たメールには、
そのことにこんなに心を傷つけられたのに、
いまだに何のフォローもないことに毎日絶望していると書かれていた。
フォローがない?
でも、ともだちのなかでは、それはもうなかったことになっているらしい。
電話が鳴らない完全な孤独の中で過ごしたその一日に、ともだちのこころは完全に囚われているようだ、と
電話をかけた子が、溜息とともに教えてくれた。
ともだちの日記をのぞいてみると、
「家族にも友達にも見捨てられた」と書いてあった。
そんなこと、誰も言っていない。
どんな言葉も、ともだちにはもう届かないようだった。
自分の信じたいことだけを信じて、見たいことだけを見ているようだった。
やっぱり病気なんだ。目の前につきつけられた気がした。
電話をかけた子に対して、電話口で激怒して、連絡をくれなかったことを責めて、
(子供がいて、仕事があって、なかなか電話できなかったといっても、それは言い訳にすぎないと怒ったそうだ)
けれどそのすぐあとで、また電話がほしいというメールを送ってきたという話も聞いた。
怖くて連絡が取れなくなってしまった。
良かれと思ってやってきた対応は、実はまちがっていたのだろうかと思って、
昔おなじ病気になって、いまはもう治ったべつのひとに訊いてみた。
「きついけど、まわりに頼ってるうちはぜったい治らないから」とそのひとは言った。
かわいそうかわいそう、って言ってもらえるのは心地がいい。
だから、言われるままに連絡したら、かえって駄目なんだよ、と。
気がつくと、考えている。
今も孤独な暗闇のなかで耳をふさいでいるともだちのことを。
助けられないのがふがいなくて、くやしい。
毎日が楽しくない。眠りも不規則だ。何をしてもこころが晴れない。
ともだちとおなじ病気になりかけているのかもしれない。
追記:
たくさんのブクマとコメント、TBをどうもありがとうございました。
とてもびっくりすると同時に、いただいた言葉を読みすすむうちに涙がとまらなくなりました。
こちらがともだちの日記をときどきのぞいているのと同様に、あちらも友人グループの日記を見ているようなので、
自分のところにはぜったい書けませんでした。
どんな刺激がどんな結果を生むのかわからないし、といって、かかえているのが苦しくて苦しくて、
ホッテントリ経由でときどき読むだけだった増田におっかなびっくりで書くことにしました。
仲間うちでどうしようどうしようと言っているよりも、外の意見を聞いてみたいとも思っていました。
コメントでいただいた「素人が医療行為をしてはいけない」について。
最初に、ともだちが「さみしい」「助けて」という言葉を投下しはじめたのは、携帯SNSでした。
朝起きて、ともだちのところをチェックして、
真夜中に延々とポストされた「ここには誰もいないの?」「誰か助けて」という言葉が並んでいるのを見ると胸が詰まりました。
ネットには無数のひとがいるけれど、つぶやきに答えてもらうのはとてもむずかしい。
密度が高いようでいて空虚な空間で溺れているともだちを、ほうっておけませんでした。
さみしくてどうしようもないときは自分たちにメールをするように、そうしたら一言でも答えられるから、と
誰も、それが医療行為につながるとはまったく思っていませんでした。
けれど、上に書いたように、だんだんと要求がエスカレートするにつれて、
専門知識もなく24*7専任でサポートできない素人には対応が難しくなってきました。
素人ではなく医療機関に頼るように、と言葉を尽くしてメールもしたのですが、
返って来た言葉は「そんなふうに厄介者を丸投げするみたいにして逃げないでほしい」「話を聞いてほしいだけ」。
厄介者だなんて誰も思っていませんでした。
長いつきあいを続けてきて、またこれからも続けていくであろう大切なともだちが感じているであろう不安と孤独が
一日でも早く癒されれば、とこころから願ってのことだったのですが…。
ともだちは、発病当初から(職場を休むために診断書をもらう関係もあって)医者には通っていたのですが、
「話をきいてもらえない」「薬だけ出されても」と言っているのは聞いていました。
医者に行くと、ぜんぜん具合が悪くないふりをしてしまう、とも。
もともと、調和を人一倍重んじて愚痴も抱え込んでしまう性格だったことが影響しているのか、
医師にさえ、本当の苦しさを告げると「迷惑をかけてしまう」という恐怖感をもっていたようです。
処方された薬はきちんと飲んでいるようでしたが、
体質に合わなかったのか、強かったのか、あるいは酒といっしょに飲んでしまったのか、
ろれつが回らない状態で電話がかかってきたことがありました。
実家の両親には、心配をかけたくないのか、あまり自分の状態をきちんとは知らせていないようでした。
いま、ともだちは実家に帰っています。
すくなくとも、たったひとりで暮らしている部屋で、こちらの手の届かないところで、
最悪の道を発作的に選んでしまう危険性は減りました。
友人一同、それだけは本当にほっとしています。
「診断名が違うのでは」という件について。
やはり以前にこころの病をわずらって、
いまも薬を飲みつづけいる友人(ともだちをサポートしているグループのひとり)が、
かかりつけの先生にともだちの状態を話してみたところ、
「境界性人格障害の可能性が高いので、なるべくなら接触を絶ったほうがいい」と言われたそうです。
ともだち本人は「双極性かもしれないと言われた」とも言っていましたが…
本人がどのくらいのところまで主治医に話しているかは結局よくわからないままです。
ともだちが今も携帯SNSで書いている内容を読む限りは穏やかで、すこし休んだらすぐによくなりそうに見えます。
が、実際は電話をかけた友人に悪罵を吐き、激昂して責めて、その心に深い傷を残すような状態です。
SNSの書きこみだけを読んで、レスをつけているひとたちには、
とうてい想像がつかないと思いますが…。
長々と、読んでくださってありがとうございました。
ここまでたくさんの反応をもらえるとは思っていませんでした。
お言葉をくださったかたたち、ご心配くださったかたたちに心から御礼申し上げます。
私は、大丈夫…のはずです(笑
「あなたには守らなくてはいけない家族が居るのだから、
とりあえずはそちらを大切にしないといけないよ」と友達から温かい叱責を受けて、目が醒めました。
怖くて連絡がとれなくなってしまって、ひと月が経ちました。
臆病で無能な自分を情けないと責める気持ちは消えそうにありません。
連絡もくれなくて、いちばん苦しいときに助けてもくれなくて、何が友達だと、恨みを受けるかもしれません。
3年くらい前にうつになり、半年ほど休職。その後良くなって復帰し普通に仕事をするうち病院からは足が遠のいて、復帰後数ヶ月で行かなくなった。
うつになる前に比べて、努力ができなくなった。
できなくなったというより、適切に努力することと無理をすることの程度が分からなくなってしまった。
無理をすると再発するんじゃないかという恐怖感が付きまとっていて、何かにトライすることにひるむ自分がいる。
だけど、これからの人生でも努力が必要な場面はいくらでも出て来るだろうし、それこそ歯を食いしばるような思いが必要な場面もあるだろう。
それなのにこんな心配のために努力ができないって言ってたら、いつまでも同じ状況でいるしかない。
尚かつ自分の嫌なことや苦手なことは特に避けてしまいがちだし、勿論これについてはただの甘えだと思うんだけど。
この辺りの折り合いのつけ方、主治医に聞いておけば良かった。
うつの患者本人も、人生でがんばりが必要な場面がたくさんあることを皆と同じように良く知っている。
がんばれと他人から言われないまでも、それが出来ないことは自ずから苦しい。
とりあえず自分は回復したけど、うつの苦しさはもう二度と味わいたくない。でも今のままでいるわけにもいかないんだよ・・・
イランのガスはパキスタンから中国へルートが確定、米国勢は敗退
そもそもの新グレートゲームの始まりはクリントン政権のときである。
中東から南アジアにかけての資源争奪戦争は冷戦後新しい局面を迎えていた。
「ユノカル」は米国石油メジャーの後発企業で、カリフォルニアが地盤、ただし海外に鉱区の開発権を多く抱える。米国内での政治的コネクションが薄く、主流のメジャーは共和党系が多いため、ユノカルは民主党を頼った。
出発からボタンの掛け違いだったかも知れない。
クリントン大統領はホワイトハウスに実習生モニカ・ルインスキーを招き入れ、情事にふけっていた。
後日、大統領弾劾裁判において、「あれは挿入していないからセックスではない」ととてつもない言い逃れの詭弁でクリントンは危機を切り抜けた。
そんなおりに遠路はるばるとアフガニスタンから珍客があった。タリバン幹部である。
要件はなにか。
トルクメニスタンのガスを、アフガニスタン経由でパキスタンの港へ運ぶ。総延長1560キロのパイプラインを敷設する。これをユノカルが主導する。
米国を引きつけた魅力の第一は、このルートは「悪魔」のイランを通過しないこと。
ソ連崩壊後、世界帝国の輝きを取り戻したかの錯覚のなかに米国は酔った。
クリントン政権はこのプロジェクトに前向きで、カリフォルニアのメジャー「ユノカル」はトルクメニスタンとアフガニスタンを根回しし、それからパキスタンから分岐してインドへも輸出ルートを追加でつなげようとインドを訪問した。
インドも工業化を急ぎ、ガスは必需品、プロジェクトに乗ってきた。
これをトルクメニスタン→アフガニスタン→パキスタン→インドの頭文字をとって「TAPI」という。
直後、タリバン系アルカィーダがタンザニアなどの米国大使館を襲撃し数百の犠牲がでた。
クリントンは激怒し、ただちに報復としてインド洋上の米艦からトマホーク・ミサイルを五十発、アフガニスタンのアルカィーダ軍事基地にお見舞いした。
当時、カブールでタリバン政権に協力して電話工事をしていたのは、中国の企業だった。不発弾のトマホークを中国はタリバン政府から買った。
もちろん1560キロのパイプライン・プロジェクト[TAPI]はご破算になった。
01年9月11日、NY貿易センタービルとワシントンDCのペンタゴンが、テロリストの奇襲を受けた。ブッシュ大統領はただちにアフガニスタンへの空爆準備に入り、まずはロシアを口説いた。
旧ソ連衛星圏のカザフ、ウズベク、キルギス、タジク上空を通過して爆撃機は飛んだ。
米本土からは長距離爆撃機がウクライナ上空をかすめ、NATOはトルコの基地から旧ソ連イスラム諸国家の上空を飛んだ。
そればかりか世俗イスラム国家となったウズベキスタンとキルギスンは空軍基地を米軍に貸与し、タジキスタンには訓練基地、パキスタンも四つの空軍基地を貸した。
グレートゲームの変質を知覚していなかった。表面的に米軍の装備が優れていたため、地上戦、ゲリラ戦の抵抗をかるく想定してしまった。
仇敵ロシアとその配下だった国々がテロ撲滅戦争に協力するという目的で米軍とNATOの活動を支援したことも見通しを曇らせた。
そしてアフガニスタンに米傀儡のカルザイ政権が発足し、カブールにしか統治が及ばない新生アフガニスタンが誕生した。
ユノカルは、「あの話」(TAPI)を復活した。カルザイ政権発足直後にトルクメニスタンとアフガニスタン、パキスタンの三カ国は、例のパイプライン敷設プロジェクトで正式に合意した。
これを不快に見ていたのは第一にイラン、第二にロシア、そして第三が中国である。
密かな反撃が準備された。
イランは中国と密かに武器輸入などを交換条件として、ガス鉱区を与え、さらには25年の長期契約でガス輸出を許可していた。イランが中国からえるものは武器と核技術である。
中国は上海シックスの主導権をもつが加盟六ケ国(中ロ、カザフ、キルギス、ウズベク、タジク)にオブザーバーとして、イラン、インド、パキスタン、モンゴルを加え、あたかもNATOに対抗するかのような、東側の軍事盟主の立場を確保し始めた。
解体されたワルシャワ機構に変わるものとしてロシアは「全欧安保」を言いつのり、CIS間では個別あるいは集団的安全保障条約を結んだが、バルト三国とグルジアと、そしてトルクメニスタンが加わらなかった。
プーチンはがむしゃらにロシア帝国の栄光の復活を夢見て、バルト三国とウクライナへのガス供給をとめ、グルジアには戦争を仕掛けた。
同時に欧州がロシアルート一本のガス供給ルートを多角化するためにナブッコ、ジェイハン・ルートの建設を始めるや、同時に対抗して北方ルート、黒海ルートを提示して欧州を揺さぶっていた。
とくにオーストラリア、ブルガリア、ドイツにはそれぞれが薔薇色のシナリオを提示し、欧州の団結をそぎ、利益誘導型で西側の分断パイプライン建設を妨害する。
トルクメニスタンは砂漠の国だがイランやクエートの匹敵するほどの天然ガス埋蔵があり、いまのところ地政学的にロシアへ流通を依存せざるを得ない。
だからこそニヤゾフ前大統領はガス輸出の多角化に乗り気でアフガニスタンルートの開発が急がれた。これを“脱ロシア”化と捉えるモスクワは不愉快である。
直後、トルクメニスタンの中立路線は変更となり、新政権はややロシア寄りに外交姿勢を修復した。
そして延々と中国へ輸出される総延長7000キロものガス・パイプライン敷設工事が始まり、TAPI・ルートへの比重は軽くなった。
いや、というよりも投げやりになった。
(所詮、アフガニスタン戦争は片付かない。パキスタンは所詮、米国にはつかない)。
トルクメニスタンは変心した。
イランはこの機会を待ち望んでいた。
もともと内陸部のトルクメニスタンとアフガニスタンを経由して、パキスタンの港を目指すというユノカル案は、「イラン回避」ルートである。
だとすればイランはガス油田から運搬ルートを南下させ、南の港へパイプラインを敷設していた。全長900キロのうち、残すところはあと250キロ。
地図を凝視していただきたい。この地点からパキスタンのグァイダール港は「となり」なのである。
すでにパキスタンのムシャラフ前政権のときから、治安の悪いバルチスタン地域に中郷は労働者を運び込んで道路を建設し、資材を運び、グァイダール港を近代的港湾設備を持ったものに改築してきた。
つまりイランからパキスタンの隣町へ運ばれるガスを、この地で精製し、パイプラインでパキスタンの西安から北東へ貫き、しかもインドへは分岐せず、この点でイラン、中国、パキスタンの利害は完全に一致した。
パキスタンは白昼堂々の裏切りを演じた(ここで「裏切り」と穏当でない語彙を用いるのは米国の契約概念からみれば、そういうニュアンスだから)。
中国が最終ユーザーとなり、中国、パキスタンがともに天敵であるインドへは分岐しない。
パキスタン西端に位置するグァイダール港は、すでに中国の資本と技術をもって港湾のかたちをなしており、大々的改築(新築に近い)が進み、アラビア海に面する深海は将来、中国海軍の原潜基地になりうる。
げんに中国の六隻の軍艦はアラビア海、ソマリア沖の海賊退治に参加している。
パキスタンから中国への高速道路も着々と工事がすすみ、嘗てのカラコルム・ハイウエィは完成しているため、ガスの運輸ルートはこれに添ってパイプラインを敷設すれば良いのだ。
中国がこのルートに執着するのはマラッカ海峡への依存度を低減させるためで、ほかにもアンダマン沖合のガス田から(開発成功後は)ミャンマーを南北に貫くパイプラインを建設して、マラッカ海峡への依存度をさらに激減させる計画がある。
中国にとっては、ユノカル買収を土壇場で拒否された米国への心理的復讐劇にもなる。
パキスタンはこのパイプラインの通貨料収入を年間五億ドルと想定、つまりこれをAPAI計画では、アフガニスタンがもともと受け取る予定だったのだが。
イランとパキスタンとの正式調印はイランの大統領選挙の直後に盛大にテヘランで開催される(アジアタイムズ、5月27日、6月3日付け)
敗者はインドとアフガニスタンと米国、勝者はイランとパキスタンと中国。
ほくそ笑んだのはロシア、臍を噛んだのはトルクメニスタン、そして日本はいつものように、こうしたグレートゲームの変質さえ知らず、ユウセイの人事とか、セシュウ制とか、およそ世界の現実とは無縁の矮小な論議にエネルギーを費やしている。
もう過去の話題かもしれないけど、新型インフルエンザについて。
WHOのウェブサイトを訳すよ。あんま時間がないから訳は流し読みつつ適当で。
http://www.who.int/csr/disease/swineflu/frequently_asked_questions/travel/en/index.htmlより
Is it safe to travel?
旅行は安全?
WHO is not recommending travel restrictions related to the outbreak of the influenza A(H1N1) virus. Today, global travel is commonplace and large numbers of people move around the world for business and leisure. Limiting travel and imposing travel restrictions would have very little effect on stopping the virus from spreading, but would be highly disruptive to the global community.
WHOは新型インフルエンザウイルスの流行に関係した旅行の規制を推奨しません。こんにちではグローバルな旅行(日本でいう「海外旅行」)はありふれており、多くの人間がビジネスあるいは余暇のために世界中を旅行しています。旅行を制限したり、旅行の規制を強化したりすることは、ウイルスが広まるのをストップするのに対して非常に小さな効果しか持ちえず、しかしグローバルなコミュニティを混乱させるだけです。
Influenza A(H1N1) has already been confirmed in many parts of the world. The global response now focuses on minimizing the impact of the virus through the rapid identification of cases, and providing patients with appropriate medical care, rather than on stopping its spread internationally.
新型インフルエンザはすでに世界の多くの地域で確認されています。現在のグローバルな対応が今フォーカスしているのは、患者の発生を早急にアイデンティファイすることを通じて、ウイルスのインパクトを最小化することであり、患者に対して適切な医療的ケアを与えることであり、ウイルスが国際的に広まることをストップすることではありません。
Although identifying signs and symptoms of influenza in travellers can help track the path of the outbreak, it will not reduce the spread of influenza, as the virus can be transmitted from person to person before the onset of symptoms.
旅行者におけるインフルエンザの兆候や症候をアイデンティファイすることは、流行の経路を追跡するのを助けるでしょうが、そんなことではインフルエンザの拡大は低減できません。というのも、ウイルスは症候が出る前に人から人に伝染ってしまうからです。
Scientific research based on mathematical modelling shows that restricting travel would be of limited or no benefit in stopping the spread of disease. Historical records of previous influenza pandemics, as well as experience with SARS, validate this.
数学的なモデリングに基づく科学的リサーチによれば、病気の拡大をストップすることに関して、旅行の制限によって得られるベネフィットは限られたものかゼロです。過去のインフルエンザのパンデミックの記録や、SARSの経験も、このことをヴァリデート(検証・実証)しています。
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Does WHO recommend screenings at country entry and exit points to detect if ill people are travelling?
WHOは入国・出国の時点で病気の人間が旅行者の中にいるかどうかを検査するようなスクリーニングを推奨しますか?
No. We do not believe entry and exit screenings would work to reduce the spread of this disease. However country-level measures to respond to a public health risk are the decision of national authorities, under the International Health Regulations 2005.
ノー。 私たちは入国や出国の時点でのスクリーニングが、このインフルエンザの拡大を低減するのに役立つとは信じていません。しかし、国レベルでの公衆衛生リスクに対応する政策は、"International Health Regulations 2005"の下におけるその国家のオーソリティの決定事項です。
Countries that adopt measures that significantly interfere with international traffic (e.g. delaying an airplane passenger for more than 24 hours, or refusing country entry or departure to a traveller) must provide WHO with the public health reasoning and evidence for their actions. WHO will follow up with all of its Member countries on such matters.
国際的なトラフィックに対し著しく干渉するような政策(例えば、航空機の乗客を24時間以上遅らさせたり、旅行者の入国や出国を拒否したりするような施策)を採用する国は、公衆衛生上のリーズンと施策者の行為の(正当性の)証拠をWHOに提供しなくてはなりません。WHOはその加入国全てにおけるそのようなマターをフォローアップします。
Travellers should always be treated with dignity and respect for their human rights.
旅行者は常に彼らの人権に対する尊厳とリスペクトを以って扱われるべきです。
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How can I protect myself from influenza A(H1N1) when I am travelling?
旅行するときに、私はどうやって自分の身を新型インフルエンザから守ればよいでしょうか?
People who are ill should delay travel plans. Returning travellers who become ill should contact their health care provider.
病気になっている人はその旅行を延期すべきです。帰国後に病気になった人は自分の主治医にコンタクトを取るべきです。
Travellers can protect themselves and others by following simple prevention practices that apply while travelling and in daily life.
旅行者たちが自分の健康や自分の周りの他人の健康を守るためにできることは、旅行中における、あるいは日常生活におけるシンプルな感染予防法の実践に従うことです。
入院中に恋した人3
5 :名無しさん@お大事に:2009/01/10(土) 00:58:39 ID:ayyXT8BN
文章ヘタクソですが、10年近く前の話です。
当時フリーターだった僕はバイト先の健康診断で肝機能を示す数値が
極端に悪くなっている事が解り、緊急入院する事になりました。
体はぴんぴんしてたので、何かの間違いと思っていましたが、検査の結果
B型肝炎だと解りました。そして3ヶ月にわたる入院生活が始まり、その新人看護婦さんと
出会います。
その子はパっと見、明るくて愛嬌のあるタイプですが、性格はシャイで
口数も少ない感じです。真面目で仕事は絶対に手を抜きません。他の新人看護婦は
要領良くポイントを押さえて仕事を消化していく中、患者さん一人一人に時間をかけ
時には悩み相談に乗り、優しい話し方で励まします。とにかく時間をかけ過ぎるので
先輩に注意されたりしていましたが、自分のやり方を変えようとしません。
そんな彼女に僕が好意を持つまで、たいした時間はかかりませでした。
続きます
6 :5:2009/01/10(土) 02:10:17 ID:ayyXT8BN
途中で別の病棟に移動するまでの一ヶ月半、いろんな事を話し、いろんな事があったのですが
全て書いたらキリが無いので重要な事だけ書きます。
最初の1〜2週間、彼女の優しさは仕事上の物であり、僕に対して特別な感情が
無かった事は理解していました。しかしある出来事を境に彼女に変化が現れます。
暇を持て余していた僕は、その子をちょっとからかってやろうと思い
「休みの日は何をしてるの?」と尋ねました。「趣味もないし、特に何もしていない」
と笑いながら答えたその子に対し「へ〜彼氏居ないんだ〜ニヤニヤ」と言いました。
すると、ちょっと怒って「彼氏いますよ!」と。
自分でからかっておきながら、僕は軽くショックを受けそれを明らかに表情に
出してしまいました。それを見た彼女は無言で立ち去ります。
翌日、彼女がやってきて「昨日、彼氏が居ると言ったけど最近は会ってないんです」
「なんか胸がズキズキする・・なんでだろう・・」こんな感じの事をため息をつきながら言ってきました。
この時点で、彼女は僕に特別な感情を持ち始めたのかな?と思ったのですが
いろんな理由があり、彼女に告白も何もせずに別の病棟に移動する事を決意をしていました。
続きます
7 :5:2009/01/10(土) 02:50:41 ID:ayyXT8BN
その理由とは
・B型肝炎は性感染する病気で、しかも慢性肝炎である事が濃厚になっていたので
長い闘病生活になる
・日々成長していく彼女に対して自分はフリーターなんかをやっていて
将来を悲観していた
仮に彼女と付き合っても、どう考えても上手くいくとは思えない。
10年経った今でもこれが正解だったと思っています。
荷物を台車に乗せその場を後にしました。それから何事もなく一ヶ月半が過ぎ
無事に退院しました。
これで話が終われば「入院中の良い思い出」で済んだのですが
約1年後、急病の母親をその病院の緊急外来に連れて行った深夜の病院で
彼女と再会してしまいます。
続きます
8 :5:2009/01/10(土) 06:06:32 ID:ayyXT8BN
そんな状況ではバイトもできません。しかし一人暮らしをしていたので
パチンコやスロットで生活費を稼ぎ、本当に生きるのが精一杯な感じでした。
実家は近いので、戻るのは簡単ですが、親に頼りたくなかったのです。
幸い母親はたいした病気じゃなく、とりあえず薬を処方してくれたので
それを受け取りに一人で夜間専用の窓口に向かいました。
そこで待っていました。そして彼女が近づいてきます。
痩せて綺麗になっていた彼女は長い廊下の途中で僕の存在に気づいたのでしょう。
明らかに緊張した様子で、しゃがんで窓口の下部に書類を入れていました。
僕が「もしかして○○さん??」と言うと彼女は体が固まったような状態になり
反応しません。もう一回「○○さんでしょ?」と言った瞬間、ゆっくりと立ち上がり
振り返って「あ、●●さん・・なんでこんな所に・・」とちょっと震えた声で言いました
少し歩いて距離をとりました。
彼女の緊張がこちらにも伝染して、ぎこちない会話が数分続き
「それじゃ仕事に戻ります・・お大事に」と言い、薄暗い廊下を歩いていきました。
そして親を家に送って自分の部屋に戻り、さっきの事を激しく後悔するのです
なんで何も言わなかったのか、と
もうちょっと続きます・・・
9 :5:2009/01/10(土) 08:24:07 ID:ayyXT8BN
もしかしたら、あの子は今でも僕の事を好きでいてくれて
あの瞬間を待ち続けていたのでは?
今思うと妄想に近いのですが、その時の僕はそう思いました。
このままでは一生後悔する事になる
しかし今の自分はそんな状況じゃない。迷い続けたあげく
『もしまた再会したら、運命だと思って玉砕しよう』という、消極的な作戦を立ててしまった
のです。病棟まで行って話せば済む話なのに・・
その再会がいつだったのか、正確に思い出せないのですが、
長い月日が流れ3年近く経っていたと思います
大きい病院ではそう簡単に再会できないものです。
月1の通院も日常生活の一部になり、諦めかけ油断していた時期に
その瞬間がやってきます。
受付からちょっと離れた位置の椅子に座り主治医に呼ばれるのを待っていました
その時、後方から彼女が歩いてきたのです。後姿を見てすぐ気づきました。
彼女が僕に気づくまで多少の時間がかかりましたが、その瞬間、前回と同じように
そのまま固まり、ずっとこちらを見つめています。
時間にして2〜3分見つめあう二人。異変に気づき周囲の人間もザワつきはじめる。
この展開・・・奇跡が起こるかも・・
もうすぐ終わります
10 :5:2009/01/10(土) 09:43:55 ID:ayyXT8BN
こちらに歩いてくる彼女に僕の方から話かけました
3年ぶりの会話です。もちろん僕の名前、前回の再会
全て覚えてくれてました。僕や母親の病状を尋ねる時の
優しい口調は昔と全く同じです。しかしのんびり話してる時間はありません。
いつ主治医に呼ばれるかわからない状況です。周囲の視線が凄かった事もあり
場所を変えてこう言いました
僕『えっと、話たい事がたくさんあるけど、時間が無いから連絡先教えてくれる?』
彼女『だめだめ。絶対にだめ』
僕『え?いや、友達として・・』
彼女『だめ。もういいですか?それじゃ』
頭が真っ白になった僕は彼女が立ち去ると同時に外来へと歩き始めていました。
そして角を曲がろうとした瞬間、彼女が大きな声で叫びます
『さようなら!』
僕が振り返るともう一度叫びました
『さようなら!』
僕は軽く手を振るのが精一杯でした。あっけなく全てが終わりました。
ぶざまなフラれ方をしたもんです。でも当然の結末だったのかもしれません。
出会ってから4年近くたって何かが始まるなんて事はそうそうあるもんじゃありません。
その夜は酷く落ち込んで禁止されてる酒を呑みながら、気持ちを整理しました。
そして再び長い月日が流れていきます。
次で終わります
11 :5:2009/01/10(土) 10:46:41 ID:ayyXT8BN
あれから恐らく5年以上経ち、今でもその病院に通っていますが
彼女と再会する事はありませんでした。もう自分の中で全てが思い出になりつつあります。
彼女も30代になってるはずです。もうその病院には居ないのか・・
主治医に聞いてみたら、やっぱり数年前に結婚して退職したとの事。
具体的に何年前かは解りませんでしたが、あの時すでに
彼女は運命の人と付き合っていたのでしょう。婚約してたかもしれません。
そう思うとあの時のあの対応は二人にとってベストだったのかも。
10年間のいろんな思いが込みあげてきて涙が出ました
そして僕は本当にあの看護婦さんの事が好きだったんだな
という事に気づきました
出会った時から最後まで立派な看護婦さんでした。
長い入院生活に耐えられたのも、10年の闘病に耐えたのも
これからも耐える自信があるのも、全てあの人のおかげです。
しれません。
Cさん、入院中は本当にお世話になりました。本当に救われました。
さようなら!
http://anond.hatelabo.jp/20090402041710
手短にレスします。
>君の主治医は「境界性人格障害単独の症例であり統合失調症の可能性は無い」と診察中に発言したそうだが
このあたりはかなり端折っています。たかだか100文字のブックマークコメントにて全ての経緯を記すことは不可能だとお考えください。
そのうえである程度説明させていただきますと、この発言は今から8年ほども前、一度目の転院でとある総合病院の神経科にかかっていた折、精神療法と並行で受けていたカウンセリング治療の過程で臨床心理士からなされたものです。より正確には「自分は統合失調症の可能性はないのだろうか」というぼくの質問に対して「その可能性はほぼ無いと考えていい」という形で得られた回答です。それは彼が行ったロールシャッハテストの結果に鑑みてのことでしたが、どのような根拠だったかまでは聞かされませんでした(ロールシャッハテストの『本当のやり方』は専門教育過程でしか知り得ないはずです、ぼくの知識が正しければ)。
>診断を断定するこの言動は精神科医として常軌を逸している
この点については、当時から口をすっぱくして言われていました。と言いますか、ぼくの診断名は転院するたびにある程度変動していますし、実のところ最初にかかった医者に境界性人格障害だと診断されていることを知ったのは、彼の書いた紹介状を読んだのがきっかけでした(三度目の転院にあたって書かれた紹介状では『情緒不安定性人格障害』となっていました)。これまで四度にわたって転院してきましたが、どの担当医も診断名や病名に拘らないことをぼくに対して説いたように記憶しています。その限りにおいては、歴代の担当医はみな信頼に値する精神科医だと考えていますし、むしろあなたが批判する「診断の断定」は、いまだに執着を捨てきれないぼく自身に当てはまるといえます。
最近自覚したのですが、おそらくぼくのあらゆる発言に、無意識の情報操作に近い取捨選択が潜んでいます。それがDSMに云うB群の人格障害に見られる特徴であることは、このような批判を成しうるあなたならばご存知だと推察します。
ぼく自身の疾病や家庭環境に関する発言は、割り引いてお考えください。
有村君のログを読ませてもらった。まず始めに、境界性人格障害と統合失調症の違いは曖昧とされている。
「統合失調症、境界性人格障害、神経症」は併合的に起きる事が多い為、診断において何らかの一つの疾患との見方は排除する。
境界性人格障害が疑われる患者に対しては、統合失調症と神経症の治療も考慮する。
君の主治医は「境界性人格障害単独の症例であり統合失調症の可能性は無い」と診察中に発言したそうだが、診断を断定するこの言動は精神科医として常軌を逸している。精神科界隈にはおかしな医者も大勢いるからなんともいえんのだが。
患者に対して「君は人格障害だ」などと発言する精神科医(有村君の主治医)がいる事自体、治療において禁じ手の発言、重大な問題発言なのだが。まともな精神科医はこんな発言はしないと考えてよい。
日米問わず、「人格障害」という医者側からの断定的診断は患者に対して悪影響を及ぼすとされている。
有村君は1人の精神科医に頼りきるのではなく、ドクターショッピングして、
他の精神科医の診察も受けた方がよいかと思います。
はてだで書こうとしたがやめた。
自分は双極性障害を長いこと患っている。一型と二型の中間くらいだ。躁になると眠らなくなるし、無駄に攻撃的にはなるし、攻撃的な自分に激高する場合もあるし喚き始めることもある。無意味に遠出をして出先で動けなくなることもある。webサービスに登録しまくったり、無料メールアドレスを大量に取得したりなどしたりもする。金銭感覚が狂って普段の10倍近いお金を使うこともある。やたら辛いものを食べたり、もしくは全く何も食べなかったり、飲食を一切せずトイレに行かないこともある。軽い時はやたら人に会いたがったり、新しい本を買い込んで勉強を始めたり、新しい趣味を始めたりなどする。これらはその時々の状況によって全く異なる。一応社会的に困難な状況になったことはないので二型と判断されることは多いし、薬もきちんと飲むは飲むのだがきかないので現状では眠れないときに睡眠薬を飲む程度の治療しかしていない。
どちらかというと抑うつ状態に入るときの方がひどい。鬱に移行する時はまだ眠らない時期にあたり、イライラがピークを迎えているが、気分だけはどんどん下降していくので夜な夜な些細なことに憤ったり苦しんだり申し訳なく思ったり嘆き悲しんだりなどする。発作的に電車に飛び込もうとしたり車に突っ込んで行こうとしたり、信号に気付かずに飛び出したりするのもこの時期である。眠れないのに起き上がれない。起き上がったら立ち止まれない。しかし、鬱の薬は気分を上昇させるので、このときに鬱用の薬を飲むと躁転して大変なことになるので使えない。躁鬱用の薬は上下の気分の振幅を減少させる働きはあるが、自分の場合はデフォルトが低めなので下の方はあまり改善がみられず、上側が大幅に減少してしまいなおのことひどい状態になる。
しかしそんな状態は基本的にはあまり外部には出てこない。自分の内部だけで処理をすることができる理性が自分の中には存在していて、それが治療を厄介にしている部分もあるが、社会的にひどい状態になるということはほとんどない。病気のことを知らなければ順風満帆だと思われているし、優秀だと評価されることも多いほどだ。
現在の主治医には「双極二型障害の疑いあり」という診断をいただいており、治療は眠らない時の睡眠薬投与だけになっている。眠らない状況をどうにか回避すれば躁がひどくなりすぎることもなく、したがって鬱に移行するときの状態もひどくなりにくいという自分自身の経験を主治医と相談した結果である。名目は不眠治療となるので、社会的に白い目で見られることはない。躁鬱病というと鬱病以上に奇異な目を向けられることが多いのでこの点はありがたい限りである。
自分はもう治らないだろう。治そうという意識もあまりない。そもそも正常な状態がどんなだったか自分でも思い出せない。それほど長い病歴だ。まだ二十代だが病歴は10年以上になる。今はただ平穏な日々が来ることを祈るのみであり、現在の治療でそれは十分にかなえられている。
鬱病がどういう病気かは知らないが、平穏に過ごせる日々が戻ってくればそれでいいのではないだろうか。攻撃性をネットで表明せざるを得ない状態に置かれている患者さんたち(いらいらは鬱の症状の一つでもある)に平穏な日々が戻ってくることを祈ることしかできない。これらの病気は治らないかもしれない、治さなければならないものでもない。もし「治らなければならない」という強迫観念に取りつかれている人がいるのであれば、治らなくても平穏が戻ってくる日もあると伝えたい。
1、性質
・完全主義者、潔癖、感情に左右されやすい人が陥りやすい。
・一番問題なのは、何度もいやな気分を体感的に反芻する傾向があること。
・これは仕方ないからと割り切れない。腹をくくれない。
・客観的な視点で状況を把握できない。とくに自分のこと。
2、条件
・季節の変わり目は発症しやすい。
・環境が著しく変化した場合も良くない。引っ越し、転職、学校が変わるなど。
・精神的な落ち込みによる不眠。
・体調不良。
・年齢による新陳代謝の低下が始まるあたり。20代前半。若いうちは蘇生できたものができなくなる。
・精神的にショックを受けることがいくつか重なる。
※上記がいくつか重なると、どかんと来る。とくに体調不良と精神不安が重なるとかなりやばい。
3、うつ病の最悪な点
・基本的には感情をコントロールするべき脳内分泌を司る器官が過度に使われ壊れること。
・わかりやすくいうと長期にわたる凹みと体調不良で、いやな気分になる分泌物を出す蛇口が馬鹿になってで続けるといった状態。
・例えば今イメージできる最悪な出来事のいやな気分を思い出して頂きたい。蛇口が壊れることで常にその最悪な気分のままということ。
・さらに最悪な点は、うつ病になってしまうことでまわりの環境が、自分が望むものからかけ離れることによる不安が、その状態を悪化させうるということ。負のスパイラルに陥りやすいということ。
4、治療と対策
・結論から言うと治ります。上記でもわかる通り、蛇口が壊れている訳ですが、例えば胃酸過多と同じ状態と言えます。胃酸過多は治りますよね。ただ、癖になることはあります。でも治ります。それはどうすればいいか。食べ過ぎないことです。ですので一番の対策は凹みすぎないことです。
・認知療法で、物事を客観的にとらえる術を身につける。
・自律神経訓練法で、とても落ち着いた状態を身につける。
・かなり具体性がありませんが精神的な成長も必要です。自立心など。
・薬物療法とはあくまで緩和です。蛇口を止める、もしくは相殺するなどです。でも根本原因は物事を悪くとらえたり、いやな気分を何度も反芻する、客観的に物事を判断できずにドツボにはまったりする癖です。そこをどうにかしないと良い方向には向かいません。
・周りの人間の理解と協力が必要です。ただ、うつ病に陥りやすい人の周りには理解が乏しい人が多いようです。かなりエネルギーが必要になるので、一番理解してくれそうな人から少しずつが良いでしょう。
・その他、カウンセリング、NLP、催眠療法などがありますが、用途が異なります。主治医に相談したり自分で調べてみましょう。ただし、ネット界隈で調べることはお薦めしません。できれば簡単な本から始めましょう。
・ネットで同じ境遇の人とコミニュケーションすることもできます。が、程々にしましょう。依存する傾向があり、獲得するべき価値観とは逆行することが多いようです。
・病院の先生も様々です。この人なら信用できるなと思える先生を見つけた方が良いでしょう。ただし、相手も人間ですので100%をむやみに求めてはいけません。
5、注意
・いろいろ書きましたが、うつ病のパターンも重さもつらさも人によってかなり差があります。体質もあります。元から体力がある人とない人では出方も違うのです。一般化することはできません。今回書いたことはうつ病の60%ぐらいが当てはまるとかその程度のことです。
・もっと原因が深い場合があります。また、他の病気や精神疾患が絡んでいることもあります。信用できる先生と相談することが一番大切です。当テキストはあくまで参考程度でご活用ください。
義姉と同居している。いや、正確にはしていた。
夫は16歳年上で、義姉はさらに12歳年上なんで、私から見たら28歳も上。日本の古き良き伝統に従って、「年長者」として、それなりに丁重にもてなしてきた。「留守番も掃除もしない。私が家事やるならお金もらうわよ」と言うので、家事の負担は何もさせず、義姉宛の荷物を部屋まで届け、お客を取り次ぎ、町内会の付き合いやら、ゴミ置き場の掃除当番やら、黙ってやってきた。
だけど、義姉から返ってきたのは、嫌みと嫌がらせ。子供が泣いていれば寄ってきて「泣いてやんの、バーカ」とののしる。家庭菜園を作っていれば「虫が沸いてるじゃないの」と収穫期の小松菜に殺虫剤をかける。水音に驚いて飛び起きてみれば、夫が下から窓にホースで水を当て、義姉が窓ガラスを拭いていた。場所は夫婦の寝室だ。そのときばかりは「夫婦の寝室に勝手に入り込んで何やってるんですかっ」と怒鳴りつけてやった。反省するかと思えば、その後、寝室の写真を撮って雑誌に送っていたことが判明した。義姉は「猫がベッドに乗っている写真だ」と言ってわるびれもしない。
実は、夫は二度目の結婚である。前の結婚のときの話を先妻さんに聞いたのだが、休みたびに「義姉のところに行く」といって夫が出かけていくのが嫌だったそうだ。そりゃ、新婚早々休みたびに夫がいなくなったら、誰だって寂しがるだろう。夫の父親は夫が15歳のときに、夫の母親は夫が29歳の時に亡くなっている。それから、夫と義姉はたった2人の兄弟として都会の片隅で助け合ってきたのだ。義姉と夫の結託が強いのはしかたない。本当に本当に嫌な奴だけど義姉も込みで夫と付き合おうと、義姉の仕打ちに我慢してきた。
ところが、夫が不治の病におかされた。余命6カ月だという。入院したら主治医の先生が病状について説明してくれるという。もちろん、義姉を誘った。さぞや、弟の心配をしているだろうと思った。返事は「ガンなんでしょ? 父も母もガンだったから、わかってるからいいわ。嫌なこと聞きたくないの」と言い放って来なかった。「それより、海外旅行の予約があるのよ。キャンセル料もったいないから行くわ」と言う。「あの、半年と言われて入院して、3日で亡くなった人もいるんですよ? ご旅行にいかれてる間に亡くなることもありますよ」「旅行先に連絡されても、どうせ告別式に間に合うようには帰って来られないから、旅行が終わるまで死んでも知らせないでね」「死んで、葬式して、お骨になってしまってていいんですか」「いいわよ」というわけで、義姉は旅行に出発した。まあ、その後もいろいろあったのだけど。キリがないので。
夫は結局4カ月入院した。私は夫の側を離れる気になれず、出来るだけ側にいた。義姉は1時間ほどのお見舞いを7回していった。
夫が亡くなってから、しみじみ義姉と同居なんかするんじゃなかったと思った。出て行けと言ったのだが話し合いに応じないというので、弁護士を雇って家庭裁判所に持ち込んでもらった。さすがに裁判所の呼び出しには応じたし、他人が入るとあまり無茶なことも言わないので、そのまま話を進め、元々玄関と廊下だけ共有の2世帯住宅だったのを、完全分離してもらうということで双方合意となった。
ところが、どうも義姉は「完全分離」の意味がわかっていないようだ。あと5日で工事が終了し分離するというのに、まだ、こちらのスペースに義姉の物が転がっている。今まで義姉は何か気にいらないことがあると嫌がらせをしてきた。コンポスターのふたを隠したり、猫をいじめたり。義姉に文句を言えば、今度は夫にお鉢が回り「おまえ、ちょっと我慢してくれ」という話になるのが嫌で、嫌がらせに対しては目をつぶってきた。どうも、義姉は私が文句を言わない理由を勘違いしているらしい。嫌がらせをされるのが嫌だから、仕返ししないのではない。お鉢を回される夫が気の毒だったからだ。もう、夫はいない。いくらでも仕返しできる。
先日、一周忌をやった。義姉も呼んだ。おだやかにイベントが終わろうとしたとき、私のいとこが夫の病状について質問してきた。亡くなったばかりのときは、こちらもいろいろと緊張していて、あまりしっとりとした話はしなかったので、詳しく説明しようとした。その瞬間、義姉が口を挟んできた「私の主治医に弟の病状話したところ、○○という病気だって。いっぺんでわかってくれましたよ」と。
あんた、病状の説明、聞きに来なかったじゃないか。弟の病気に関心持たなかったじゃないか。私にとって大事なものをどれだけ踏みにじれば気が済むんだ。
いや、わかってる。あんたはキレイなことがしたいだけだ。「主治医の先生に病状を聞きに行く」という「嫌なこと」はしないけど、遺族として「親戚に病状の説明をする」という「楽しいこと」はしたいんだよね。
だけど、義姉がこういう態度を取るたびに、豆腐の角で頭ぶつけて死んでーーと思う。
このおちゃらけ女に、私の大事な物を踏みつけさせない手段はないだろうか? やはり、豆腐の角……。
増田の気持ちがしっかりと決まるまで、こども、というかそれが、一年に一度であってもセクロスそのものをしない事をオススメする。
まずは、自分と相手との関係や今まで、今、これからの事を増田自身がしっかり考えて欲しい。
増田の相方が、増田の望む健康を手に入れるために、増田にできることは少ないと思う。(ちょっとヤヤコシイな)
これまで通りの病院に行き、主治医の話や処方で良くなるかもしれないし、良くならないかもしれない。
増田のアドバイスを聞いてくれるかもしれないし、その通りにしたら悪化したりするかもしれない。
最終的に、増田は今の状態の増田を残して死ぬ時がくるかもしれない。
来週あたりふと、機嫌が良くなってそのまま幸せに暮らしていけるかもしれない。
俺は、似たような状態の相方との関係を持ち、いつかきっと良くなると信じることから降りた人間。
別れて全くの他人になる以外の方法はなかったのか?という思いは今もずっと残ってる。
また、今は元気なのだろうか?と考えることもかなりの頻度であることも確か。
違う選択をしていたら、違う思いをずっと持ち続けていただろうし、当時の選択に後悔はしていない。
よく考えた上の結論だったから。
だから増田もよく考えて考えてそして、怖いかもしれないけど話し合って欲しい。