はてなキーワード: レッシグとは
いや、フランスでも多分MADは違法です。フランスのパロディ条項で免責されるのは基本的に本物と違う表現。パロディとうたっていても、本物と別の表現をしていて、かつ本物と見分けがつかなければパロディ条項では免責されず違法になる。MADは本物と同じ表現を使っているのだから、多分MADは違法。
アメリカでもフェアユースで免責されるか微妙。調べればわかるんだが、フェアユースが有効であるかないかはわかりにくい。似たようなケースなのに合法になったり、違法になったりしている。レッシグ教授が「フェアユースが弁護士の飯の種にしかなってない」という気持ちがよくわかる。なんで「フェアユースがあるから、アメリカではMADが合法」っていいきれるんだ?
「アメリカやフランスではフェアユースMADは合法」とかいう人ってちゃんと調べてるんだろうか?日本人が宣伝的に言っているものを聞きかじったくらいで、きちんと現地の人が客観的に書いたもので調べたことがないんじゃないんだろうか?アメリカの著作権法の教科書に関してはいくつか邦訳が出ているし、フランスの著作権法のものについても古いが一つ二つ出ている。そういうので調べれば、「フランスではパロディ条項があるからMADが合法」なんていうのは9割方間違いというのがわかるし、「アメリカではフェアユースがあるからMADが合法」なんていいきれないこともわかる。きちんと調べてるんだろうか?自分たちに都合が良いからって、盲目的に信じてないか?
レッシグ先生の権利に拘泥するのは非効率だというエピソードか何かで、教育関係のドキュメンタリーをとってる人がリビングで子供が遊んでるシーンでテレビにアニメが映っていて、念の為に知人でもあったアニメ作者に確認したら「いいんじゃない、でも念の為に弁護士に確認して」といわれ、弁護士に確認したら平然と高額の使用料を請求されたって話があった。(うろおぼえなので注意)
つまりCCが運動として湧いてくるほどにアメリカは著作権の解釈に全然寛容では無い。実際YouTubeは訴訟をいくつか抱えているし、音楽をダウンした子供を巨額賠償に訴えた例もあったよね。
なにが違うかというと信念の違いであって、自らが信じるものが神の下に正しければ、それは国家と砲火を交えてもなんら気後れするものではないという社会観がある。
日本ではどうかといえば、Winnyの金子氏のように著作権管理の仕組みに問題があるという認識までは同じとしても「無力な僕らがコピーし放題にして困らせてやろう(たしか本人の見解の大意がこんなの)」というテロ感覚でしか訴えなかった。先生に反抗する子供と同じ、つまり政府なりの既存の社会機構を踏襲するのは大前提という社会観、樽に穴を開けてあわよくばお見逃しいただこうという寸法だ。
ゆえにアメリカでは自らの信念が正しければサービスを起こし賛同者を募るという動きは自然だったわけよ。
ただし、一利用者に限ってみればDQNもいいところで権利なんか関係なく手に届くものを手が届くところに置いたり動かしたりしているだけだろう。これは日本だって同じ。
これは間違いなくweb2.0の原則のひとつ。
多くの人々に使いやすいインターフェイス
レッシグのこのエントリでは動画やイメージについて語ってるんだと思うけど
WIKIにも同じことが言えるわけで、ここまではサイトとかアプリとかスクリプトっていう人間外の、モノ側、機械側の話。
上記のようなコンテンツの構築の方法に特化した
素早く効率的にハックとリミックスが可能な、人間の脳というか思考というか意識、精神のあり方。
それは本読んだり喋ったりっていう従来の情報の出し入れの方法に特化した現代人のそれとは違うのでは。
新しいコミュニケーション方法、新たな環境に特化した知性の集約方法、
集団((かつては地理的地域が主だった))の知恵の構築と保護の方法を
研究し獲得する
新しい道具、メディアに合った、知性、知的情報のインプット、アウトプットの回路、それを具現化する言語体系とそれを扱う能力ってのが
必要になってくると思ってるのって俺だけ?