「神田橋」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 神田橋とは

2024-09-30

 三四郎はじっとその横顔をながめていたが、突然コップにある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。そうして図書館に帰った。  その日は葡萄酒の景気と、一種精神作用とで、例になくおもしろ勉強ができたので、三四郎は大いにうれしく思った。二時間ほど読書三昧に入ったのち、ようやく気がついて、そろそろ帰るしたくをしながら、いっしょに借りた書物のうち、まだあけてみなかった最後の一冊を何気なく引っぺがしてみると、本の見返しのあいた所に、乱暴にも、鉛筆でいっぱい何か書いてある。 「ヘーゲルベルリン大学哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学講義はここに至ってはじめて聞くべし。いたずらに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨をもって、死したる紙の上に、むなしき筆記を残すにすぎず。なんの意義かこれあらん。……余今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。岑々たる頭をおさえて未来永劫に試験制度呪詛することを記憶せよ」  とある署名はむろんない。三四郎は覚えず微笑した。けれどもどこか啓発されたような気がした。哲学ばかりじゃない、文学もこのとおりだろうと考えながら、ページをはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」よほどヘーゲルの好きな男とみえる。 「ヘーゲル講義を聞かんとして、四方よりベルリンに集まれ学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。ただ哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底の疑義解釈せんと欲したる清浄心の発現にほかならず。このゆえに彼らはヘーゲルを聞いて、彼らの未来を決定しえたり。自己運命を改造しえたり。のっぺらぼうに講義を聞いて、のっぺらぼうに卒業し去る公ら日本大学生と同じ事と思うは、天下の己惚れなり。公らはタイプライターにすぎず。しかも欲張ったるタイプライターなり。公らのなすところ、思うところ、言うところ、ついに切実なる社会の活気運に関せず。死に至るまでのっぺらぼうなるかな。死に至るまでのっぺらぼうなるかな」  と、のっぺらぼうを二へん繰り返している。三四郎は黙然として考え込んでいた。すると、うしろからちょいと肩をたたいた者がある。例の与次郎であった。与次郎図書館で見かけるのは珍しい。彼は講義はだめだが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張どおりにはいることも少ない男である。 「おい、野々宮宗八さんが、君を捜していた」と言う。与次郎が野々宮君を知ろうとは思いがけなかったから、念のため理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんという答を得た。さっそく本を置いて入口新聞を閲覧する所まで出て行ったが、野々宮君がいない。玄関まで出てみたがやっぱりいない。石段を降りて、首を延ばしてその辺を見回したが影も形も見えない。やむを得ず引き返した。もとの席へ来てみると、与次郎が、例のヘーゲル論をさして、小さな声で、 「だいぶ振ってる。昔の卒業生に違いない。昔のやつは乱暴だが、どこかおもしろいところがある。実際このとおりだ」とにやにやしている。だいぶ気に入ったらしい。三四郎は 「野々宮さんはおらんぜ」と言う。 「さっき入口にいたがな」 「何か用があるようだったか」 「あるようでもあった」  二人はいっしょに図書館を出た。その時与次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓している広田先生の、もとの弟子でよく来る。たいへんな学問好きで、研究もだいぶある。その道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知っている。  三四郎はまた、野々宮君の先生で、昔正門内で馬に苦しめられた人の話を思い出して、あるいはそれが広田先生ではなかろうかと考えだした。与次郎にその事を話すと、与次郎は、ことによると、うちの先生だ、そんなことをやりかねない人だと言って笑っていた。  その翌日はちょうど日曜なので、学校では野々宮君に会うわけにゆかない。しかしきのう自分を捜していたことが気がかりになる。さいわいまだ新宅を訪問したことがないから、こっちから行って用事を聞いてきようという気になった。  思い立ったのは朝であったが、新聞を読んでぐずぐずしているうちに昼になる。昼飯を食べたから、出かけようとすると、久しぶりに熊本出の友人が来る。ようやくそれを帰したのはかれこれ四時過ぎである。ちとおそくなったが、予定のとおり出た。  野々宮の家はすこぶる遠い。四、五日前大久保へ越した。しか電車を利用すれば、すぐに行かれる。なんでも停車場の近辺と聞いているから、捜すに不便はない。実をいうと三四郎はかの平野家行き以来とんだ失敗をしている。神田高等商業学校へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段まで来て、ついでに飯田橋まで持ってゆかれて、そこでようやく外濠線へ乗り換えて、御茶の水から神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸数寄屋橋の方へ向いて急いで行ったことがある。それより以来電車はとかくぶっそうな感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いているか安心して乗った。  大久保停車場を降りて、仲百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切からすぐ横へ折れると、ほとんど三尺ばかりの細い道になる。それを爪先上がりにだらだらと上がると、まばらな孟宗藪がある。その藪の手前と先に一軒ずつ人が住んでいる。野々宮の家はその手前の分であった。小さな門が道の向きにまるで関係のないような位置に筋かいに立っていた。はいると、家がまた見当違いの所にあった。門も入口もまったくあとからつけたものらしい。  台所のわきにりっぱな生垣があって、庭の方にはかえって仕切りもなんにもない。ただ大きな萩が人の背より高く延びて、座敷の椽側を少し隠しているばかりである。野々宮君はこの椽側に椅子を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋雑誌を読んでいた。三四郎はいって来たのを見て、 「こっちへ」と言った。まるで理科大学の穴倉の中と同じ挨拶である。庭からはいるべきのか、玄関から回るべきのか、三四郎は少しく躊躇していた。するとまた 「こっちへ」と催促するので、思い切って庭から上がることにした。座敷はすなわち書斎で、広さは八畳で、わりあい西洋書物がたくさんある。野々宮君は椅子を離れてすわった。三四郎は閑静な所だとか、わりあいに御茶の水まで早く出られるとか、望遠鏡試験はどうなりましたとか、――締まりのない当座の話をやったあと、 「きのう私を捜しておいでだったそうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒そうな顔をして、 「なにじつはなんでもないですよ」と言った。三四郎はただ「はあ」と言った。 「それでわざわざ来てくれたんですか」 「なに、そういうわけでもありません」 「じつはお国のおっかさんがね、せがれがいろいろお世話になるからと言って、結構ものを送ってくださったから、ちょっとあなたにもお礼を言おうと思って……」 「はあ、そうですか。何か送ってきましたか」 「ええ赤い魚の粕漬なんですがね」 「じゃひめいちでしょう」  三四郎はつまらものを送ったものだと思った。しかし野々宮君はかのひめいちについていろいろな事を質問した。三四郎特に食う時の心得を説明した。粕ごと焼いて、いざ皿へうつすという時に、粕を取らないと味が抜けると言って教えてやった。  二人がひめいちについて問答をしているうちに、日が暮れた。三四郎はもう帰ろうと思って挨拶しかけるところへ、どこから電報が来た。野々宮君は封を切って、電報を読んだが、口のうちで、「困ったな」と言った。  三四郎はすましているわけにもゆかず、といってむやみに立ち入った事を聞く気にもならなかったので、ただ、 「何かできましたか」と棒のように聞いた。すると野々宮君は、 「なにたいしたことでもないのです」と言って、手に持った電報を、三四郎に見せてくれた。すぐ来てくれとある。 「どこかへおいでになるのですか」 「ええ、妹がこのあいから病気をして、大学病院はいっているんですが、そいつがすぐ来てくれと言うんです」といっこう騒ぐ気色もない。三四郎のほうはかえって驚いた。野々宮君の妹と、妹の病気と、大学病院をいっしょにまとめて、それに池の周囲で会った女を加えて、それを一どきにかき回して、驚いている。 「じゃ、よほどお悪いんですな」 「なにそうじゃないんでしょう。じつは母が看病に行ってるんですが、――もし病気のためなら、電車へ乗って駆けて来たほうが早いわけですからね。――なに妹のいたずらでしょう。ばかだから、よくこんなまねをします。ここへ越してからまだ一ぺんも行かないものから、きょうの日曜には来ると思って待ってでもいたのでしょう、それで」と言って首を横に曲げて考えた。 「しかしおいでになったほうがいいでしょう。もし悪いといけません」 「さよう。四、五日行かないうちにそう急に変るわけもなさそうですが、まあ行ってみるか」 「おいでになるにしくはないでしょう」  野々宮は行くことにした。行くときめたについては、三四郎に頼みがあると言いだした。万一病気のための電報とすると、今夜は帰れない。すると留守が下女一人になる。下女が非常に臆病で、近所がことのほかぶっそうである。来合わせたのがちょうど幸いだから、あすの課業にさしつかえがなければ泊ってくれまいかもっともただの電報ならばすぐ帰ってくる。まえからわかっていれば、例の佐々木でも頼むはずだったが、今からではとても間に合わない。たった一晩のことではあるし、病院へ泊るか、泊らないか、まだわからないさきから関係もない人に、迷惑をかけるのはわがまますぎて、しいてとは言いかねるが、――むろん野々宮はこう流暢には頼まなかったが、相手三四郎が、そう流暢に頼まれ必要のない男だから、すぐ承知してしまった。  下女御飯はというのを、「食わない」と言ったまま、三四郎に「失敬だが、君一人で、あとで食ってください」と夕飯まで置き去りにして、出ていった。行ったと思ったら暗い萩の間から大きな声を出して、 「ぼくの書斎にある本はなんでも読んでいいです。別におもしろものもないが、何か御覧なさい。小説も少しはある」  と言ったまま消えてなくなった。椽側まで見送って三四郎が礼を述べた時は、三坪ほどな孟宗藪の竹が、まばらなだけに一本ずつまだ見えた。  まもなく三四郎は八畳敷の書斎のまん中で小さい膳を控えて、晩飯を食った。膳の上を見ると、主人の言葉にたがわず、かのひめいちがついている。久しぶりで故郷の香をかいだようでうれしかったが、飯はそのわりにうまくなかった。お給仕に出た下女の顔を見ると、これも主人の言ったとおり、臆病にできた目鼻であった。  飯が済むと下女台所へ下がる。三四郎は一人になる。一人になっておちつくと、野々宮君の妹の事が急に心配になってきた。危篤なような気がする。野々宮君の駆けつけ方がおそいような気がする。そうして妹がこのあいだ見た女のような気がしてたまらない。三四郎はもう一ぺん、女の顔つきと目つきと、服装とを、あの時あのままに、繰り返して、それを病院の寝台の上に乗せて、そのそばに野々宮君を立たして、二、三の会話をさせたが、兄ではもの足らないので、いつのまにか、自分代理になって、いろいろ親切に介抱していた。ところへ汽車がごうと鳴って孟宗藪のすぐ下を通った。根太のぐあいか、土質のせいか座敷が少し震えるようである。  三四郎は看病をやめて、座敷を見回した。いかさま古い建物と思われて、柱に寂がある。その代り唐紙の立てつけが悪い。天井はまっ黒だ。ランプばかりが当世に光っている。野々宮君のような新式の学者が、もの好きにこんな家を借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格であるもの好きならば当人随意だが、もし必要にせまられて、郊外にみずからを放逐したとすると、はなはだ気の毒である。聞くところによると、あれだけの学者で、月にたった五十五円しか大学からもらっていないそうだ。だからやむをえず私立学校へ教えにゆくのだろう。それで妹に入院されてはたまるまい。大久保へ越したのも、あるいはそんな経済上のつごうかもしれない。……  宵の口ではあるが、場所場所だけにしんとしている。庭の先で虫の音がする。ひとりですわっていると、さみしい秋の初めである。その時遠い所でだれか、 「ああああ、もう少しの間だ」  と言う声がした。方角は家の裏手のようにも思えるが、遠いのでしっかりとはわからなかった。また方角を聞き分ける暇もないうちに済んでしまった。けれども三四郎の耳には明らかにこの一句が、すべてに捨てられた人の、すべてから返事を予期しない、真実独白と聞こえた。三四郎は気味が悪くなった。ところへまた汽車が遠くから響いて来た。その音が次第に近づいて孟宗藪の下を通る時には、前の列車よりも倍も高い音を立てて過ぎ去った。座敷の微震がやむまでは茫然としていた三四郎は、石火のごとく、さっきの嘆声と今の列車の響きとを、一種因果で結びつけた。そうして、ぎくんと飛び上がった。その因果は恐るべきものである。  三四郎はこの時じっと座に着いていることのきわめて困難なのを発見した。背筋から足の裏までが疑惧の刺激でむずむずする。立って便所に行った。窓から外をのぞくと、一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだように静かである。それでも竹格子のあいから鼻を出すくらいにして、暗い所をながめていた。  すると停車場の方から提灯をつけた男がレールの上を伝ってこっちへ来る。話し声で判じると三、四人らしい。提灯の影は踏切から土手下へ隠れて、孟宗藪の下を通る時は、話し声だけになった。けれども、その言葉は手に取るように聞こえた。 「もう少し先だ」  足音は向こうへ遠のいて行く。三四郎は庭先へ回って下駄を突っ掛けたまま孟宗藪の所から、一間余の土手を這い降りて、提灯のあとを追っかけて行った。  五、六間行くか行かないうちに、また一人土手から飛び降りた者がある。―― 「轢死じゃないですか」  三四郎は何か答えようとしたが、ちょっと声が出なかった。そのうち黒い男は行き過ぎた。これは野々宮君の奥に住んでいる家の主人だろうと、後をつけながら考えた。半町ほどくると提灯が留まっている。人も留まっている。人は灯をかざしたまま黙っている。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上までみごとに引きちぎって、斜掛けの胴を置き去りにして行ったのである。顔は無傷である若い女だ。  三四郎はその時の心持ちをいまだに覚えている。すぐ帰ろうとして、踵をめぐらしかけたが、足がすくんでほとんど動けなかった。土手を這い上がって、座敷へもどったら、動悸が打ち出した。水をもらおうと思って、下女を呼ぶと、下女はさいわいになんにも知らないらしい。しばらくすると、奥の家で、なんだか騒ぎ出した。三四郎は主人が帰ったんだなと覚った。やがて土手の下ががやがやする。それが済むとまた静かになる。ほとんど堪え難いほどの静かさであった。  三四郎の目の前には、ありありとさっきの女の顔が見える。その顔と「ああああ……」と言った力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命とを、継ぎ合わして考えてみると、人生という丈夫そうな命の根が、知らぬまに、ゆるんで、いつでも暗闇へ浮き出してゆきそうに思われる。三四郎は欲も得もいらないほどこわかった。ただごうという一瞬間である。そのまえまではたしかに生きていたに違いない。

anond:20240930173941

2024-09-11

anond:20240911200141

一人でぐるぐる考えてしまうのは神田橋処方や七物降下湯と六君子湯の組み合わせで治るぞ

しかすると、七物降下湯と半夏瀉心湯でも行けるかもしれないが、試したことがないのでわからん

どの薬も保険が効くんで、精神科で出してもらえる

2024-08-29

anond:20240829174219

こういうことが起きやすくなるから高齢出産はいけないのだよ。

十中八九発達障害だけど、最低賃金がもらえればいいほうで、大抵は無職

たまに医者弁護士もいるけど、弁護士都市部だと200万円台が手取りな人もざらにいる。

精神障害者手帳自立支援は受けられるけど、障害年金はまずもらえない。

ただ、対策法はあるし、人当たりはいいことからすると弁護士医者営業職の適性はあるから安心しろ

六君子湯、帰脾湯

 注意力や物忘れに効き、胃腸の弱さを軽減させる

神田橋処方

 フラッシュバックを軽減させる

黄蓮解毒湯

 怒りっぽさと不眠を解決させ、記憶力を高める。長期間飲むと腸間膜静脈閉鎖性になる。頓服とか夕方だけ飲むという使い方もある

小青竜湯と半夏厚朴湯

 麻黄により集中力を高め、胃腸の弱さと喘息改善させるが、麻黄長期間飲むと、胃腸障害を招くことがある

酸棗仁湯

 不眠を改善し、人によっては頭がスッキリすることがある

あと、西洋の薬で発達障害に効くやつあるんだが、児童精神科障害年金の初診日を考慮するといかないほうがよくて、厚生年金が受けれるまで精神科にいくのは避けたほうがいい。

児童精神科にいくならよく考えろ。

予後は良くなるけど、金銭的には苦労する。

もし行くなら、親族発達障害っぽい症状の人がいるかどうか、学校保育園先生発達障害の症状に当てはまるかないものを聞いたほうがいい。

怒りっぽいとか集団からハブられるとかいじめられてるとか何かあるはずだ。

ちなみにadhdの症状で興味のあることだけ覚えられるのはザラにある

2023-01-18

anond:20230118230201

なるほど

気分の落ち込みと肩こりあたりを主な訴えにするんだね

ちなみに神田橋処方とかは分かってもらえたり出してもらえたりする?

2022-05-06

神田橋処方を実践したこと

母親貶めるような罵詈雑言離婚した元夫と元夫家族暴言などを思い出してフラッシュバックのようになって数ヶ月に1回の数日間は眠れなくなることがあり、先月ようやくメンタルクリニックへ行きました。

元々不眠でメンタルクリニックへ通っていたけど離婚を機に治まってきたので様子見になっていましたが、フラッシュバックがあまりに耐えられなくなってきて仕事に支障が出始めてしまいました。

診察でフラッシュバックの詳細を話した際に、神田橋処方の治療を勧められました。

治したい一心だったので「受けます」と回答し約2ヶ月分の処方を頂きました。

神田橋処方は特定漢方薬2種を組み合わせて朝昼晩2ヶ月欠かさず飲むと、トラウマPTSD幼児の癇癪などがほぼ完治するとの事でした。

処方された薬は下記2種類でした。

・桂枝加芍薬

・四物湯

朝昼晩飲む必要があったので処方された薬は大量で驚きました。

(すぐに用意できない量のため、結局翌日受け取りにもなりました)

飲んでみて1ヶ月経しましたが、こんな感じになりました。

自分が居なければいいと思わなくなった

トラウマPTSDになるような現場に遭遇しても怯えなくなり「何言ってんだこいつ感覚になった

フラッシュバックはなくなった

・薬の成分のせいかおならがよく出たりお腹がゆるくなることがある

あと1ヶ月飲まないといけないですが、薬が終わったあとの再発が怖いなと思ったりもします。

完治まで頑張っていきたいです!

2015-10-18

妊婦に優しくされない人間妊婦に優しくする筋合いなどない

一日、あまり鬱屈としているウェブを見ずに転部のための勉強 つまりTOEFL勉強をしたがいつもより気分が良かった。

土曜日の夜に神田橋に立って川面を見ているときと同じくらい落ち着いていた。

今度は朝日新聞記事ネタにして不毛な議論をしているようだ。

妊婦マタニティマークを付けるのを恐れているという記事だった。

自分マタニティマークを見ても譲らない。

立っていたら、おっかなそうな老人は座らせるけど、妊婦には譲らない。

自分がその妊婦勃起しても譲らない。勃起させる力を持っていることが腹を立たせなおさら譲ろうとは思わなくなる。

とりあえず、朝日新聞記事がどのくらい真実なのか確かめる気はないが、その記事鵜呑みにしたうえでのはてブを見ると呆れるものだった。

大抵が「妊婦に優しくしないもの死ね」だ。極稀に優しさをみせるものがあったが、大半が妊婦に優しくしないものは死んだほうがよいというものであった。

妊婦に優しくされたことがなく、そして、妊婦に優しくされる予定もない。

そんな人間に対して「妊婦に優しくしろ」と言われても、嫌になるに決まっているのではないか。

自分は顔の良い妊婦には苛立ちを覚える。

おそらく、その妊婦は男を選ぶ余地があっただろう。とりあえずセックスには困らなかったはずだ。そして、今まで優しくされていただろう。将来自分に対して優しくすることはないだろう。もしかしたら金目的ならあるかもしれないが、そんな輩死んでしまえと感じる。

まぁ、妊婦が優しくしてくれなかったし、これからも大抵は優しくなんかしてくれないのだから、譲る筋合いなどないと言われたら言い返せないということだ。

また、妊婦けが優しくされるのにくるしむ人間だっているだろう。

自分高校生の時 腎臓の病の薬の副作用で、醜い容姿がより醜く 顔全体が腫れ、ニキビだらけになり膿や血やら脂やらが吹き出て、つねにお腹が張り気持ち悪く、不眠で気が狂いそうだったが総武線に30分乗っていた。誰も優しくなんかしてくれない。

気持ち悪がられはしたが、優しくされなかった。

これから妊婦になるかもしれない、顔のいい女は嫌がって自分の隣には座らなかった。

現代社会妊婦の大抵は、散々幸せ享受し、これからもそうなのだから優しくなんかしたくないと思う人間がいても仕方ない。

また、産まない選択だってある。それくらいでギャアギャアいうならば産むなと言われても仕方ない。

コメントから一番汲み取れる悲しいことは、腹の中にいる子の多かれ少なかれは妊婦に優しくしない人間死ねなんていう人間がいるこんな世の中に生まれてこないほうが幸せであることだ。

自分は生まれたくなかった。

追加

病人を助ける必要があるのは、自分病気になるかもしれないという理由かあるからで、それを理解できる人は多い。

しかし、妊婦というのは限られた人間しかなれないものだし、殆どなりたくてなる。

まり特権的階級と思われてもしかたがないし、なりたいのになれない人間妊婦に悪意を向けるのはやむ得ないし、弱者ではないので助ける必要がないという理由になる。

※再追加

あんまりこんな不毛ものを書く必要はないのだが、自分不細工な母の、それまた不細工高卒の弟は40代40代容姿のよくない女と結婚した。

そして容姿が悪い女の子が生まれた。容姿が悪い妊婦はどうなのかという問いかけなのだが、おそらくそんな女でも優しくはしないだろう。

美人妊婦ほどのイラ立ちは覚えないが、譲りはしない。腹の中の子に対してかわいそうだとは思うときはある。自分の両親の容姿がよくないから

腹が立つ妊婦が増えている可能性はある。都内地下鉄を乗ると容姿の良い妊婦がおおいことに気づく。妊婦まで行くというのがある一定容姿女性特権になっているのかもしれない。

腹は立つが生まれてくる子は容姿が良い方が幸せだ。自分はそんな風に生まれてくる顔の良い子が大っ嫌いだが、その子たちは幸せだ。叔父の子は不幸だ。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん