はてなキーワード: 共生とは
だから大自然の都合の良い部分だけを切り取って、それ以外の不都合な部分は切り捨てたがるのはごく普通のこと。
都合のいいことだけを数珠のように紡いで生きていけるわけがないと「大人」は納得しようとするが、脳は納得しない。
そもそも都市は人間に都合の良いことしかない生活スペースだ。その中で生きている時点で「都合の悪いことはイヤ」だと言っている。
誰しも便利さが持つ誘惑からは逃れられない。その誘惑とは脳が求める「合理的な選択肢」だから。脳は非効率なこと、非合理なことを嫌う。つまり、都合の良いことだけを欲しいと思う。
本来の自然や、あるべき姿などは全てタダの趣味でしかない。既に自然の大部分は人間によって失われたのに、その人間が「本来の」などと言い出す可笑しさ。害虫がいない森で十分だ。害虫がいてほしいのなら害虫がいる森を欲すればいい。そのどれもが本来の自然ではない。
理性を持った人間が自然と共生することなど不可能だ。唯一可能なことは、人間が自然を模倣しその模倣された自然と共生するという方法だけ。しかし模倣された時点でそれは自然ではない。そんなこと問題ではなくなるだろうが。
講演会:韓国併合100年 高橋・東大大学院教授、富山で /富山
◇「謝罪と補償」最初の一歩に
◇「南北分断、無関係でない」
韓国併合100年にちなんだ連続講座の一環として、哲学者の高橋哲哉・東大大学院教授の講演会「私たちの『戦後責任』とは?」が富山市で開かれた。
講座は市民グループ「コリア・プロジェクト@富山」が4月から開催し、先月27日の高橋教授が5回目。今回は日韓が真の信頼関係を築く方策を探るのが目的で、約110人が聴講した。
高橋教授はまず、北朝鮮の韓国砲撃事件について「朝鮮半島の南北分断は日本の植民地支配と無関係ではない」と指摘。砲撃後に朝鮮学校の授業料無償化適用手続きが停止されたことで、「通学する子どもたちへの差別を助長する」と政府を批判した。
更に、石川啄木が併合を憂いて詠んだ短歌と、逆に併合を喜ぶ小学生の作文などを紹介。「啄木は例外的で、ほとんどの日本人は小学生から福沢諭吉まで併合を歓迎していた」と述べた。その根底には当時の小学校で教えられた神功皇后の三韓征伐など、朝鮮支配を正当化する神話的な教育があったことなどを挙げた。
日本の朝鮮半島支配を巡っては、菅直人首相が今夏、反省とおわびを表明した。だが従軍慰安婦や強制連行問題など戦後補償に関しては、ほとんどの裁判で原告側が敗訴するなど解決していない。
高橋教授は、日本が何をしてきたのかを若い世代に伝え、みんなで責任を考える必要性をアピール。植民地支配を反省する世界的な流れを紹介し、「日本の(謝罪と補償という)最初の一歩をグローバルスタンダードにしよう」と呼びかけた。
◇
連続講座の最終回は、来月22日午後1時半、富山市湊入船町の県民共生センターサンフォルテ303で。「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳(は)せ、心に刻む会」の谷川透さんが「戦後補償 その全体像と解決への道」と題して話す。参加費1000円。詳細は、同会の堀江さん(090・5175・3756)。【青山郁子】
まだこんなのが生き残ってるってのが凄いよな。
「人の近くに熊が現れた、生活を脅かされている、だから熊を殺そう。殺す以外の方法はあるけど、一番安全なのが殺すという方法だからだ」
これに対して「熊を殺すのはかわいそう」という苦情が何件も寄せられて、はてな民は、「熊が出没するかもしれない場所で暮らしている人の気持ちになってみろ」とブコメを大量に残す。ここまでがストーリー。
しかし、よくよく考えると、熊が出没するのは自然と人間の共生が云々という話で、森を切り開き、人が森の近くへ住むという選択をしているからである。人が熊から離れて暮らせば(森を残しておけば)人の住む場所にまで熊がくる可能性はゼロにはならないにしても、遭遇を避けるケースが増えてきて、被害の件数も減る。
「そんな事不可能だろ、現実的に考えろ」とはてな民は言うだろう。
では現実的に考えて、日本の人口は減少する傾向にある。日本だけではなく文明が発達して生活がそれほど不自由しなくなると人は減る傾向にある。人だけではなく、死亡率が高い生物は沢山産み、死亡率が低い生物ほど生まれる子供が少なくなる。
こんな感じに、動物というのは無意識下で数の調整を行っている。
「熊がかわいそう」と思うのは、それがマスコミに洗脳されたあげくのマヌケな考えであろうとそうであるまいと、「熊のほうが人よりも少ないんだから、ここは人が死ぬべきである」という数の調整の考えに則っている。言った本人はその前提で言っているわけではないけど、実に物事の真理をついた発言だと思う。
生物として数を調整する事は食物連鎖のバランスを保つ上で大切だと思う。
だから人は数を減らさなきゃいけない。戦争をして沢山の人が死ねばいい、とまでは言わないけど、生まれてくる人間の数を抑える事は大切だと思う。
その考えから今の日本を見れば、子供を邪険に扱ったり、子供を持つ家庭=DQNというブラフで悪印象を広めたり、団塊世代が数の少ない世代から富を搾取するという構造は、必然的なものではないかと思えてきた。誰かが意図しているわけでなく、自然が数の調整をする為に行っているものではないかと。
ただし、もし火星や月に人類が移住するという話になれば別だと思う。
生物は今でこそ地球上のあちらこちらに広がっているけど、ずーっと昔は浅瀬の一部分しかしなかったという話だし、どんどん活動範囲を広げていくのも生物の使命だと思う。
けど、今は人間にとっては、その時じゃない。
今は、数を減らす時である。
「ビタミンK与えず乳児死亡」母親が助産師提訴 : 週間ニュース : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20100709-OYS1T00214.htm
この記事をきっかけにツイッター上でもホメオパシーの悪名が広まっているが、ツイッター検索で「ホメオパシー」を検索すると公式RTでも無いのに全く同じ文面を投稿している複数のアカウントが目に付いたのでメモ。
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「科学じゃなくて、治ろうという意志ですよ、大事なのは。また、散々医療現場で引っ掻き回されてモルモットにされたような人らが、今更医療や科学を信じられるものか。生物多様性の時代なんだし、筆者のような人もホメオパシー好きな人も、潰しあわずに共生できることが望ましいと思う。」
http://twitter.com/makino_kotone/status/18249299557
http://twitter.com/yuzuki023/status/18249288150
http://twitter.com/haruka023/status/18249295308
http://twitter.com/nami_tutumisita/status/18249277343
http://twitter.com/aoi0250/status/18249273684
http://twitter.com/motimoto_hiro/status/18249271194
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1970年代に盛んになった脱構築と言われるムーブメントは、画一的構造主義を排し、相対化という理念の元に個性の尊重をもたらした。
1990年以降に急速に発展を遂げたインターネットも、個性の居場所を与えた。
このように見ると、戦後の日本、戦後の世界は、個性の尊重を実現してきた歴史と言うこともできる。
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個性の尊重というと、無条件に素晴らしいことであると錯覚しがちだが、負の側面もあることを忘れてはならない。
例えば、個性を尊重した社会であるためには、人々がより沢山の価値観や文化を学ぶ必要が出てくる。
また、個性の尊重のために、それぞれの人間に適した環境を与える必要があって、実現の困難さに直面することにもなる。
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だが、何よりも心配すべきなのは、個性を尊重すればするほど全体の統制が困難になるということだろう。
価値観の共生というと聞こえは良いが、現実的に考えれば、先に触れたような個々人が行うべき学習や社会が用意すべき環境の必要性が爆発的に高まるという問題がある。
だから、いくら人々が個性を重んじる精神を持っていても、構造的に個性の衝突は避けられなくなってくることは事実なのである。
個性の衝突が発生すれば、当然のことながら全体の統制は困難となる。
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それだけではない。たとえ、個性の衝突があまり無かったとしても、それでも全体の統制が極めてとりにくくなるという点を見落としてはならない。
なぜか?それは、全体を統制しようとした時に、個性からの反発が生まれてくるからである。
というのも、個性の尊重は、相互不可侵の上に成り立つものである。なのに、全体の統制というのは、往々にして個性を侵害してしまう。
だから、個性からの反発が生まれてきて、全体としての身動きが取りにくくなるのである。
しかも、個性が多様になればなるほど、「当たり前」は通用しなくなり、ちょっとした事でも反発が生じてしまう。
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言うまでもなく、全体の統制は、全ての個性または多くの個性にとって有意味であるからそうするのである。
したがって、もし全体の統制が出来なくなったら、個性の発展が停止することになる。非常に恐ろしいことだ。
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今生まれ来る子供達は、これまでの人類史にないくらい多様な個性を身につけ「させられ」ようとしている。
個性の尊重とは名ばかりで、実際には用意された多様な個性の中からどれかを選ばないと社会生活しにくいのが実態だ。
そして、選んだ個性によって行動が規定され、他の個性を攻撃したり、全体の統制に反発したりするようになる。
みんながそういうふうに個性の尊重のために攻撃・反発することで、皮肉にも、互いが互いを縛りあって個性が抑制される結果になる。
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ttp://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid793.html
最後に、話題は変わりますが、朝鮮学校の無償化問題に関連して、どうしても紹介しておきたいお話があります。
増元照明さんのHP>2005/6/28付メッセージからの引用です。
〈前略〉27日、「新潟中央埠頭」に集まった人々は、折からの「土砂降り」にもかかわらず、意気軒昂であり、普段にもまして大きな声で抗議活動を行った。「万景峰92」が接岸し、船窓から覗く「朝鮮学校」の生徒たちが見えた。修学旅行の帰りなのであろう。これは、言いたくなかったが、毎回、毎回、「船窓から見える生徒たち」が、懸命に訴える人々に対し「バ〜カ」と口の動きでわかる言葉を投げかけたり、嘲笑しているところが見えるのである。私たちは、家族の命のかかった問題を訴えているのであり、そして懸命に訴える人々を嘲笑するような人間を作る教育は受けてこなかった。喩え、自分たちの母国に対する抗議であっても「必死で訴える人」を嘲笑するような教育はなされてはならない。朝鮮学校の先生や学校長に言いたい。貴方たちは民族のアイデンティティーを保つために朝鮮学校を作り、子弟の教育を行っているのではなかったのか?「懸命な人々を揶揄」するような行為が半島人のアイデンティティーなのか?貴方々の母国が「日本人を拉致したこと」ことは事実であることを忘れていないか?貴方たちに責任の無いことは充分知っている。私たちは貴方たちと争う気持ちは持っていない。日本で共生していくつもりがあるのなら、「人として」やってはいけないことは教えていただきたい。〈以下略〉
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1430361.html
「ラモスが真の日本人だ」とかいってる人は本当にラモスと同じ意見なんだろうか?
ラモスが移民受け入れ反対なのは、現状では受け入れ態勢が不十分だから。
だからもし受け入れ態勢が整えば賛成になりうるし、或いは受け入れるために体制を整えよう、という主張をする可能性はありうる。
ラモスは真の日本人とか言っている人たちはそういう主張には賛成するのかどうか。
つまり受け入れ体性が整っていようがいまいが、移民を受け入れる事に反対という人は
ラモス賞賛している人は
単に目先の結論が「移民反対!!」で自分と同じだからっていうだけに見えるんだけど。
ちょっと流れとは関係ないけど、ゲーテッドコミュニティと移民の話があったので
(メディア批判が主な内容だけど)
7分以降から
http://www.youtube.com/watch?v=r2DS9t5lzJo&feature=related
後編part10
http://www.youtube.com/watch?v=g1HkKOMhloc&feature=related
ちょっと長いので1分20秒あたりからの気になった内容を文章に起す
宮台
「例えば同じようなメディアでも、まあこれはあのう自転車で行こうっていう、皆さん見ていただきたい、インディーズ系の大阪の生野区ですよね、鶴橋とかがある。
外国人がいっぱい住んでいるところの、その精神障害の人間たちの生き方を、生き様を映している訳だけども。
これは本当に皆さん見るとびっくりするんだけど、まあ生野区ってヘリテージがあるわけですよ。郊外化してなくて凄く地元性が残ってる。
でその地元性の中にコリアンとかチャイニーズ、或いは中南米の人たちと一緒に生きていくっていう事が完全に組み込まれているから、
精神障害の、知的障害の方々がいても、別に女子高生のコギャルも平気で話かけて喋ってるし、街で歩いてりゃたこ焼き屋のおばさんが、たこ焼き奢ってくれるし
その普通なら信じられないようなですね、地元的なコミュニティー的な者と、絶えず出入りする外国人との共生が成り立っている訳ですよ。
で僕はそういうヴィジョンを見ると、メディアはこういう風にも働く事が出来る。
つまり「異質な人間が入ってくると共同体がバラバラになって不安になるんだ」じゃなくて、まったく逆だと。
むしろ共同体が空洞化してバラバラになってるから、異質性に対して脆弱になって神経質になっちゃうんだと。
だからむしろ寛容さっていうのは共同体の強固さの表れなんだ、という様な事をね、ものすごく説得的に、本当だったら描けるわけだメディアでね。
メディアはどっち側にも加担できるわけなんだけど、どうも頭の悪い思考停止野郎が多いせいか知らないけど
ある一方側の、ネオコン的ニヒリズムをブーストするようなタイプの情報ばかりが、メディア空間に溢れるという現状になっている。
これは否めないですよね。」
神保
「一つはそっちの方が取材が楽だから、ともう一つ最近感じるのは、書いてる本人が多分本気でそう思ってるんだろうなっていう感じがして……」
AppleはAppleだけが儲かればいいと考えているような印象を受ける。
例えば、お色気アプリの削除やFlashの否定とか。(いや、お色気アプリやFlashを否定する正当な理由があるにせよ、Appleの市場ではApple自身がサードパーティを敵視している印象なのはあまり否定できる人はいないのではないだろうか)
Intelといい、MSといい、Googleといい、Amazonといい、米国企業のサガなんだろうか、「みんなで幸せになろうよ(後藤隊長)」という思想がすっぽり抜けている感じがする。ある市場を独占して、一社だけがデタラメに儲かり、言い訳用の当て馬程度のライバルを生かさず殺さずみたいな勝ちパターン。
アメリカってやつは、共存共栄、即、共産思想へのアレルギーになり、それへの拒絶反応が凄いのかも知れないが、資本主義の限界ってやつがそもそもの今回の不況の原因であるとするならば、待っているのは自滅だけなんじゃないだろうか。
それならば、(悪い評判も多いが)君臨すれども統治せず、ともに共栄しようの楽天の方がまだましというか、一つのアンチテーゼとして存在すべきなのかも知れないとも思う。
もっとも、そもそも、インターネットというか、PCの思想がアメリカ製である以上、その呪縛からは逃れられないのかも知れないが、それでも、共生関係、共存関係、ウィンウィン(勝間和代)の方に時代は流れているような気もしなくもない。
あと、このままだとiPadもコンテンツ制作者が儲からない市場になるんだろうな、という直感は正直ある。その辺は、任天堂が陥っている罠にも共通する物があるのかも知れない。
ttp://chiraurasouko.blogspot.com/2009/09/blog-post_7829.html
490 (´・ω・`)(`ハ´ )さん ▼ New!2009/09/15(火) 21:35:27 ID:FpKkAsV0
なんか、サヨク連中の考え方って、
・日韓友好 = 日鮮一体
だいたい、開戦前の内閣が戦争突入を渋っていたときに、やれ政府は負け犬根性だのと書き立てて、国民を開戦賛成にあおり立ててたのって、今の朝日や毎日あたりの売国系新聞の前身だよな。
一番おろかなのは、昔も今も、国民自身ってことだ。
491 (´・ω・`)(`ハ´ )さん sage ▼ New!2009/09/15(火) 21:38:17 ID:v/Lrh2/D
»490
ま、地獄の釜は開きましたね
492 ( ゚∀゚ ) sage ▼ New!2009/09/15(火) 21:39:34 ID:bboE3QFI
»490
オレもそう思った。
498 (´・ω・`)(`ハ´ )さん ▼ New!2009/09/15(火) 21:55:03 ID:caD/QdaZ
»490
対米戦に踏み切らない東条英機を「腰抜け」と呼んで叩いたのも朝日だったよな。
シナ事変の時も軍の方が「やめたい」と言っているのに、マスゴミがイケイケドンドンで政府の尻を叩き、軍はシブシブ続行したというのが実情だったけど、戦後は「愚かな軍国主義者が暴走して、日本を戦争に導き、マスコミは脅されて提灯記事を書かされた」ということになってしまった。
502 (´・ω・`)(`ハ´ )さん ▼ New!2009/09/15(火) 22:01:19 ID:4XGfSJb4
»490
戦前とのいちばんの違いは、中国を絶対的な権威としてあがめ自分達、つまり日本をその舎弟頭のポジションに位置づけしようとしていることだな
【埼玉】「そもそも在日の3世、4世になっても日本国籍を取得しないことに違和感」 上田知事、外国人参政権に反対
ttp://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1263893953/
民主党 - 賛成(結党以来の基本政策、幹部や大臣クラスの閣僚を中心に多数の議員が賛成、一部議員は被選挙権まで要求、一部議員は反対)
国民新 - 反対(党首の亀井静香は性急な採決には反対と明言、一部議員は賛成)
社民党 - 賛成(ほぼ全員が賛成と思われる、一部議員は被選挙権まで要求)
自民党 - 反対(これまで実際に参政権法案の実現を阻止、一部議員は賛成、連立相手だった公明党や党内賛成議員に配慮する苦しさも)
公明党 - 賛成(ほぼ全員が賛成と思われる、連立相手だった自民党とは異なり非常に熱心)
共産党 - 賛成(ほぼ全員が賛成と思われる、公明党と同じく非常に熱心、被選挙権まで要求、朝鮮籍の在日外国人にも付与するべきと主張)
新党日 - ??(田中康夫は民潭大会で媚びる程の熱心な推進者であったが「急に懐疑的になった」と亀井静香との対談で発言)
改革ク - 反対(西村眞悟は断固として反対、中村喜四郎は賛成)
朝日新聞 - 賛成(「地上の楽園」を思わせる「わいわい共同体」や「多文化共生社会」というスローガンを用いる社説)
毎日新聞 - 賛成(記事の論調から明らかに賛成、納税や在日外国人の「苦境」を強調、憲法判断は傍論を支持)
読売新聞 - 反対(社説で反対を明言、地方でも当然許されないと主張、憲法判断は違憲と強調、納税と参政権は無関係)
産経新聞 - 反対(社説で反対を明言、地方でも当然許されないと主張、憲法判断は違憲と強調、納税と参政権は無関係)
日経新聞 - ??(中立的な社説、慎重な議論を要求、納税を参政権の根拠と理解、憲法判断は違憲と認識、安全保障の面で懸念)
北海道新 - 賛成(社説で納税や「植民地支配」を強調、憲法判断は傍論を支持、外国では外国人参政権を認めるのが主流と大嘘)
中日新聞 - 賛成(記事の論調から明らかに賛成、日本より特定アジアの国益が大事、東京本社である東京新聞も同一)
共同通信 - 賛成(配信記事の内容から明らかに賛成、日本より特定アジアの国益が大事、配信記事が多くの全国紙に蔓延し「全ての元凶」となる)
やってきた中から日本に居着くかどうかが問題なんであって、そのためにはまずよりたくさんの外国人に来日してもらう必要があるんじゃないの。
母数が多ければ多いほど、互いに都合の良い外国人の数も増えるんだし。
それを遙かに上回る「都合の悪い外国人」が入ってきたら、結局の所トータルでは損。あと、日本にとって有益な外国人は他国にとっても有益である場合が多い。そういう人は往々にしてあっさりと他の国に行ってしまうのは、日本生まれでアメリカに帰化したノーベル賞受賞者がいることからも明らか。
入国の段階で厳しい審査をしたり何らかの誓約させる方式で事足りる。
外国人を呼び込みたい→外国人に住みやすい国にしよう→そのために参政権を付与しよう、という流れがトラバ元の主旨のはず。
しかし外国人に住みやすい国と、日本人に住みやすい国は同時に成立出来ない可能性が高い。
アメリカではそうなのかも知れん。
外国人を多く呼び込む目的で参政権付与に賛同している連中はそう考えていない。日本を豊かにするための手段としか認識しておらず、その際他国に与える影響は考慮に入れていない。
問題は、どちらが最初のwinを取るか、という点。外国人を呼び込みたい連中は「まずは日本がwinしないと」という考えの持ち主。その後で相手国がwinするかどうかは別にどうでもいいと考えてる。
まずは、相手国が自力でwin出来るようお膳立てし、その後で日本が見返りをもらうという順序がいい。ほとんどの国は日本より豊かじゃないわけで、豊かな方が先にwinすると、相手国はズルズルとloseの立場に甘んじざるを得なくなってしまう。
やってきた中から日本に居着くかどうかが問題なんであって、そのためにはまずよりたくさんの外国人に来日してもらう必要があるんじゃないの。
母数が多ければ多いほど、互いに都合の良い外国人の数も増えるんだし。
トラバ元読め。この辺とか。
外国人に対するインセンティブと日本人に対するアドバイスとの関連がよくわからんのだが。
やっぱり出たかそういう思想が。「後々お前らも得するんだから今は我慢してまずは俺たちを豊かにしろ」と相手に押しつける発想。アメリカ的独善だね。移民を奴隷扱いする事を社会全体が暗黙に受け入れてるアメリカのやり方。はっきり言って日本には馴染まないよ。
アメリカではそうなのかも知れん。
でも日本人も外国人も住民として共生して、共存共栄しようって思想じゃないの?
その過程で他国の発展を阻害する可能性について、メリット強調してる奴らがちゃんと考えてるようには思えん。「よその国の事など知ったことか」と開き直る奴すら現れるし。
可能性程度なら、それこそレイシストの無茶な妄想も考慮せんといけなくなる。
日本は他国との繋がりがなければ持続的な発展を望めないんだから、必然的にwin-winを目指すことになる。
一時の繁栄で満足するなら、独り勝ちでいいってことになるだろうけど。
要するに「多文化共生」信仰には、自分達の文化が「日本におけるアイヌ」や「合衆国におけるネイティブアメリカン」みたいになるかもしれないという想像力もしくは危機感の欠如が根底にあるという事だな。
確かに彼らの語る理想の状態は、受け入れる「外の文化」は常に少数派で、それを多数派である「我々日本人」が尊重する、という構造でしか語られていないケースばかりのように思う。自分達が自分達のホームで「外の文化」に呑み込まれるという可能性が欠落している。
アイヌ文化が消えかかってるのも、アイヌ民族に「多文化共生」の概念が持ち込まれていった結果だよな。
青い絵の具が溶けた水が入ったバケツに、赤いインクを一滴垂らしても何も変わらないのと同じ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/web-g.org/post/253187398
manameがはっきり「購読止める」つってるんで早いうちにパワーゲームに移行しそうなんだけども。
じゃあプライベートにしちゃえば?って話になるけど、
おそらく自分だけのためじゃなくってちょっとは他人にも見てほしい部分があるんだろう。容易に想像つく。
プライベートにはしたくないでしょう?ログイン面倒だしググれないもんね。
よってこの方向での説得は却下。maname神あたりの強いのがぼやけばまた別だけど。
見る人が全力で見逃す。
まあ見逃すリソースにも限りがあるけどね。
あるブログの過去ログを読もうとして8割がtwitter転載だった場合を想像してごらん?
見る気ある?
一緒なら全力でスルーできるね。あなたはニュータイプかもしれない。
でももう一度言うけど、見逃すのにもリソースが必要。(余計なクリックはいくつ必要か等々)
ていうかROM専ってばホントわがままなもんでさーね。死ねばいいのに。
誰だって見てくれる人が減っていくのは悲しいでしょう?
(まだわかんないけど)もしtwittのログばかりのブログが嫌われるのであれば、嫌われないように対策をしたいはず。
maname神がおっしゃっているようにRSS削除なんて嫌だ。
主だったRSSリーダーにマイナス検索(この種の記事、twitter転載ならRSSを取得しない、とか)が付いてない以上、書き手が隔離、ゾーニングするほかない。(あれ?もしかしてこれhttp://pipes.yahoo.com/pipes/でできる?できるなら円満解決だな)
RSSでの隔離はつまり、URLを変える、すなわち転載記事を別アカウントに移行することになる。ゾーニング。twilogってのもあるらしいよ。隔離してほしい人たちがtwilogの便利さをうたっていけば、前向きに移行してくれるかもね。
まあ選ぶのはブログ主なんだけど。当たり前当たり前。自分のため、大いに結構。
※先のブログも「お願い」であって禁止でもなんでもない。「ttpって意味なくない?やめれば?」的なものですよね?
ゾーニングする勢力、しない勢力。
どっちの勢力が勝つだろうか。
共生するだろうか。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
外国人選挙権―まちづくりを共に担う
自治体の首長や議員を選ぶ際に永住外国人が投票できるようにする。この外国人地方選挙権の導入に、鳩山首相や小沢・民主党幹事長が前向きな姿勢を示し、来年の通常国会にも法案が出される見通しだ。
98年以降、民主党や公明党が法案を出してきたが、根強い反対論があって議論は進まなかった。この間に地域の国際化は急速に進んでいる。鳩山政権は「多文化共生社会」をめざすという。実現へ踏み出すときではないか。
日本に永住する外国人はこの10年で5割増えて91万人になった。このうち歴史的経緯がある特別永住者の在日韓国・朝鮮人は42万人だ。年々増えているのは80年代以降に来日し、仕事や結婚を通じて根を下ろし、一般永住資格を得た人たちだ。出身国も中国、ブラジル、フィリピンと様々だ。
地域社会に根付き、良き隣人として暮らす外国人に、よりよいまちづくりのための責任を分かち合ってもらう。そのために地方選挙への参加を認めるのは妥当な考え方だろう。
日本の活力を維持するためにも、海外の人材が必要な時代である。外国人地方選挙権を実現することで、外国人が住みやすい環境づくりにつなげたい。分権時代の地方自治を活性化させることもできる。
「選挙権が欲しければ国籍をとればいい」との考え方がある。だが、母国へのつながりを保ちつつ、いま住むまちに愛着を持つことは自然だ。そうした外国人を排除するのではなく、多様な生き方を尊重する社会にしたい。
合併などを問うための住民投票条例の中で、外国籍住民の投票権を認めた自治体はすでに200を超えている。地方選挙権についても最高裁は95年、立法措置をとることを憲法は禁じていないとの判断を示している。
世界を見ても、一定の要件を満たした外国人に参政権を付与する国は、欧州諸国や韓国など40あまりに上る。
近年、声高になってきた反対論の中には「外国人が大挙して選挙権を使い、日本の安全を脅かすような事態にならないか」といった意見がある。
人々の不安をあおり、排外的な空気を助長する主張には首をかしげる。外国籍住民を「害を与えうる存在」とみなして孤立させ、疎外する方が危うい。むしろ、地域に迎え入れることで社会の安定を図るべきだ。
民主党は選挙権を日本と国交のある国籍の人に限る法案を検討しているという。反北朝鮮感情に配慮し、外国人登録上の「朝鮮」籍者排除のためだ。
しかし、朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない。良き隣人として共に地域社会に参画する制度を作るときに、別の政治的理由で一部の人を除外していいか。議論が必要だろう。
もし「多文化」の最小単位を「個人」にまで微細化してしまった場合、多分その場の全員が「中国人」か「イスラム教徒」かのどちらかになると思う。次点で「ヒンズー教徒」かな。人口比で言えば確実に彼らが多数派だし、人数の増え方もトップクラスだもん。数の論理で、二者がそこら中に存在する事を受け入れる事なければならなくなってしまう。しかしそうなると逆に「中国人」や「イスラム教徒」以外のアイデンティティがこの二者に駆逐されてしまう現実もある。彼らの他文化に対する寛容さはぶっちゃけ下から数えた方が早いんだもん。どちらもあちこちで中華街とかスラムとか作って、現地の人間と隔絶されたコミュニティー作りまくってるから。そういう連中に対して「多文化共生」を唱えてる連中がアクション起こした事あんの?何か成果を出してるの?
そもそも多数派を占める彼ら自身が、「多文化共生」なんて屁の突っ張り程度にも考えてないが故に多数派を獲得しているんだよね。だから「多文化共生」を唱える事が、結果的に「多文化共生」を微塵も考えてない連中を利する事にしかならんのよ現状は。こっちが相手を受け入れる準備を整えても、相手がこっちを受け入れるとは限らんでしょ。
この社説子にも言いたい事だけどさ、「多文化共生」を訴える相手偏りすぎてるよね。前述の中華街作って、中国人同士で勝手に結束しちゃってる連中にも言うべきだよね。なんか彼らの長老会みたいな所に乗り込んでいって。「それではいけない!長老会にもアメリカ人や日本人やロシア人を参加させるべきだ!多文化共生万歳!」ってさ。それをやらないから、保守的な連中から「ていうかお前どこの国の味方?」と疑われるんだと思うよ。それが嫌なら、タリバンとか反米国家に向けて「多文化共生しましょう!欧米文化を受け入れましょう!」って言えばいいと思うよ。何故かそういう所に関しては、「帝国主義のアメリカに抵抗する勇敢な人々」みたいなとらえ方する人多いけど。