はてなキーワード: ビジネスモデルとは
>>http://anond.hatelabo.jp/20080511180000
ギルドがどうなったのかはよく知らない。たぶん中央集権化の進展によって解消していったんだと思う。ドイツなんかだと未だに職人が尊重されているとの話しなので、ギルド的心性が残っているかもしれない。日本の場合は後進国だったから中央集権を貫徹させる余裕は無かった。
一般には20世紀初頭、特に2度の大戦で戦争遂行の必要上いわゆる「大きな政府」が生まれて、それが継続しているということになってる。
http://anond.hatelabo.jp/20080511180638
>国全体の生産性が下がるという根拠がわからん。
高度成長期、つまり経済が発展している場合には激しい市場競争が行われるので一般には生産性は上がるけど、経済が成熟してくるとパイの奪い合いになってつらいだけだから、競争が乏しくなってくんのね。結果談合状態になって、生産性を上げようという誘引に乏しくなる。さらに新規参入者や新規ビジネスモデルを阻害しがち。市場競争ってのは個々の企業の利潤を限りなく0に近づけていくので(それゆえに生産性を挙げて利潤を確保しようともするのだけど)、可能ならそれを避けたいと考えるのはどの企業でも一緒なんよ。
日本の場合はバブル前あたりはちょうど高度経済成長が終焉した頃でその切り替え点だったから、一時的には生産性は高めに見えたかもしれない。あと、いわゆる「人口ボーナス」によって、数字上は生産性は高く見えたという要因もある。確かバブル後って、(バブルの影響もあったろうけど)かなりの低成長期じゃなかったっけ。
もう埋まってるかもしれないが少し前に求人かけていた。
http://jrecin.jst.go.jp/seek/SeekJorDetail?fn=2&id=D107110957&ln_jor=0
http://twitter.com/julienhamonic/statuses/503922272
技術的に面白いとは思いつつ、びみょーな点もいくつか感じたので今のポジションを捨てる気にはならず。
・社長はどっちかといえば経営のプロ(元Rambusの日本法人社長だと思う)。元々ハードウェア寄りの人で、コア技術持ってる人の顔が外からは見えなかった。
社長本人がこれ思いついてRambus辞めて事業起こした可能性も否定はしないが。
・ビジネスモデルが見えない。無料専用クライアントで広告モデルやると、ふつー、adware ということでヒくよね。
ユーザー約款ではその道は残してある。
まぁ、若い人が実績作りに数年関わってみるというのはいいのかもしれないし、
俺がウツ気性なだけかもしれない。
「ホームページを作る人のネタ帳」の例のエントリが嘘か嘘じゃないかでもめてるが、正直どうでも良いな。
ビジネスモデルなんか、公になったときには他人が真似してももう遅い。
同じ事やって儲かる保障なんてほぼゼロに近いし、ホントかどうかなんてどうでもいい。
成功哲学の系統の本なんか読んで、その通り実践する人なんていない。
あのエントリは読み物としてそこそこおもしろかったから、それだけでOKじゃいけないのか。
2ちゃんの自作自演は良くて、それ以外の物は全て事実に即したものじゃないといけない理屈も、正直言って基準がいまだによくわからん。
ネタ帳の人にしても、余計な反論が目に付く。
>でも、引きこもりですという方から山のようにメールが来ました。
商売気のありそうな紀伊国屋からはまだいいとして、引きこもりの人たちからメールが「山のように」というのは、批判してる人たちに絶好の口実を与えてるようなもんだ。
ひきこもりというのは今更説明する必要もないとおもうけど、現象面に便宜上の名称をつけているに過ぎない。最近はひきこもりの人たちも「自分を他人に説明するのにいちいち面倒くさい」という理由でひきこもりを自称するけど、それ以上の意味はない。心不全は病名じゃない。心不全に至る原因があるわけで、その原因も人により千差万別だ。あたりまえだけど。それと同様に、ひきこもりに至る原因も人により千差万別だ。
もしかすると、あのエントリ見て、ひきこもりの人たちからネタ帳の人にいくらかメールが届いたかもしれないし、もしかすると「外に出てみよう」という一部の人たちの動機づけにはなったかもしれないけど、全部にあてはまるわけじゃない。あのエントリに粘着した人たちが引っ掛かる原因はたぶんそこら辺りだろうとおもう。
あくまで私見だけど、ネタ帳さんのスタイルとして、管理人のプライベート風日記は馴染まない。もしそういうエントリが書きたければ、他のサイトを立ち上げればよい。気分転換に書いたつもりが炎上することになるのもつらいだろうから。
個人的には、はてなの京都移転に関する「ほとんど全部を想像で書いたような」エントリ群のほうがよほど悪質だとおもう。中には面白いエントリもあったけど(あくまで読み物として)。社会経験値の低い人たちがいかにも飛びつきそうな話題だしね。
「信用出来ない」と思ったら粘着せずに無視すりゃ良い。嫌なことがあった店には二度と飲み食いしにいかない。ダメージ与えたけりゃ、それが一番だ。リアルの生活では誰でもやってることだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20080219121753 0
http://anond.hatelabo.jp/20080219133702 1
http://anond.hatelabo.jp/20080219150703 2
http://anond.hatelabo.jp/20080219164145 3
http://anond.hatelabo.jp/20080219182449 4
http://anond.hatelabo.jp/20080220103805 5 の続きです。
そもそもタウン誌が発行を続けていくために、なぜ広告が必要なのか。その理由は単純明快、「雑誌の印刷・流通にコストがかかるから」です。多くのタウン誌が300円程度で販売を行っていますが、書店・コンビニへの販売手数料、制作原価を換算すると1冊販売しての粗利益は微々たるものになってしまいます。例えば、1冊売って50円の粗利だとすると、1万冊売っても粗利は50万円。地方の小さなマーケットで販売する商品ですから、100万部!などという大部数は望むべくもありません。多くの地方タウン誌の発行部数は3万部以下で、10万部以上実売しているタウン誌はごく僅かです(そういうのはほとんどが、一地方のタウン誌というより、ある程度広いエリアをカバーする情報誌ですね)。つまり、構造的に販売収益に限界がある地方「タウン誌」というビジネスモデルは、「広告収益ありき」で成立しているのです。
ここで、発行部数のお話をしましょう。ひとくちに3万部といっても、地方都市ではバカに出来る数字ではありません。「愛され○○」など独特なキャッチでおなじみの人気ファッション誌などは、人口100万人から150万人規模の自治体レベルで見ると1万部売れればいい方で、全国で販売しているからこそ、何十万部という数字が達成できているのです。つまり、多くのタウン誌は販売数を落としたとはいえ、今でもまだ書店・コンビニでの販売される雑誌では、上位クラスの売れ行きと知名度を持っているのです。
では、ホットペッパーをはじめとするフリーペーパーはどうでしょうか。多くの人に読ませることが広告効果に結び付き、さらなる広告出広の呼び水になるフリーペーパーは、採算が許す限りエリアを広げ、配布数を増やす傾向にあります(能力の高い営業部隊を抱えるホットペッパーはエリア集中型ですが、それは地方のフリーペーパーからみるとむしろ例外です)。そのため、地方でも10万部は当たり前、それ以上発行しているものもザラにあります。
3万部の有料誌と、10万部の無料誌。あなたがクライアントなら、どちらに広告を出しますか?
「タウン誌にはタウン誌の良さがあるから、一概に部数の比較だけでは判断できない!」
確かに。では、単純に部数を比較すれば3分の1以下の影響力しかないタウン誌が、フリーペーパーに対抗し得る"良さ"って何でしょう?
「フリーペーパーには記事広告しか載っていない!タウン誌は編集部が『独自の切り口』で、毎月地元に密着した特集を組んでいる!」
そうです、そうなんですよ。そのはずだったんです。でも、最近のタウン誌って、『どれが編集記事で、どれが記事広告なんだか見分けがつきませんよね?』。
タウン誌の生命線である広告収入、それは対峙する姿勢によっては、タウン誌のアイデンティティを奪ってしまう危険なものであったのです。
つづく
ごめん、この議論に関わるつもりは全然無いんだけど、会社の勉強会で命題論理を勉強したのの
いい復習材料になりそうなので、使わせてもらいます。
()は文章に書いてないけど勝手にこっちで補足した箇所。
----------------------------
[主張1]
私は近藤さん頭がいいと思わない(頭が悪い)
(なぜなら
)
[主張2]
[主張3]
Googleなど基盤を持っていないIT企業にはどうしても会社としての賞味期限がつきものだ。
(よってこの主張の対偶 「IT企業がすぐに倒れない ならば 常に新しいサービスを出し続け、ユーザーの興味を持続させ続ける かつ 広告以外でのビジネスモデルを展開する」 が導かれる)
[主張4]
(
なので
)
[主張5]
----------------------
こんなところかな。この文章自体の主張は主張5になると思う。
主張5に反論したければ、主張4か、主張1,2,3の全部を否定すればよい。
さすがに「近藤氏がはてなの成長を望んでいる」というのは否定しちゃまずいだろうし。
手っ取り早いのは「はてなの経営の適任者の必要条件てなによ?」と聞いてみることかな。
この文章の隠れた前提として、近藤氏より優秀な経営者がいる(、かつ、その人が
はてなに来てくれる)というのがあるみたいだし、優秀な経営者の条件を聞いてみて、
その穴を指摘してやればいい。
http://anond.hatelabo.jp/20080219121753 0
http://anond.hatelabo.jp/20080219133702 1
http://anond.hatelabo.jp/20080219150703 2
http://anond.hatelabo.jp/20080219164145 3 の続きです。
多くのタウン誌が決断した選択は『金』でした。それは、折からの出版不況により、部数を右肩下がりに落としていたタウン誌の編集方針に固執するよりも、まだタウン誌のブランド力があるうちに記事広告を実施することによって読者を動かし、よりクライアントに「反響」を感じてもらいたいという苦渋の選択でした。一方、今までの編集方針という『聖域』を守る選択をしたタウン誌は、第2誌として収益が上がっている雑誌やフリーペーパーを発行している、もくは他にも収益事業を展開する、数少ない出版社だけだったのです。
タウン誌に『聖域』は、なくなりました。各誌は手っ取り早く広告収入に結びつく、記事広告による飲食店特集や美容室特集を連発し始めます。記事広告による特集は、クーポンの値引き競争に疲れ、タウン誌に戻ってきたクライアントを取りこみながら、毎月ページを増やしていきました。各誌の広告収入は底が見え、回復基調に向かい始めました。これを見て、『聖域』を守ってきた数社も、リニューアル名目で、記事広告主体の体制にシフトしました。かくして、『聖域』を守り続ける地方出版社は、絶滅寸前なほどの少数派になってしまったのです。
それでも、タウン誌というビジネスモデルを支える広告収入の減少は、「上質な写真と記事、デザインによる記事広告でホットペッパーと差別化を図り、割引率に左右されない優良顧客をクライアントに送り込むことで反響を実感させる」…ことによって、なんとか当面の危機を脱した、ように見えました。
しかし、水面下で事態はより深刻な方向に推移していたのです。
つづく
広告が激減してるんですよ。販売売上だけではいかんともし難いんです。
タウン誌というニッチなビジネスモデルが出来て30年。今や雑誌メディアは広告ありきみたいな流れになってますが(雑誌だけではなくメディア全体がそうなってますね)、タウン誌というのは長年編集記事が主体で制作してきたところが多いんです。大げさに言うなら『編集は聖域』という、新聞社的な考え方というか。
いくらクライアントといえど、編集方針に合わなければ記事として取り上げない。みたいな。まぁ、そこをどう突っ込むかが担当営業の腕の見せ所だったりもするんですが(記事で取り上げてもらうために、担当営業が特集に合わせて、お店に新しいメニューやサービスを提案したりだとか)。例えば、100万出すから巻頭特集に見開きで記事載せてくれ。みたいなオファーを担当営業が涙をのんで断る…。バブル期には、そんなこともあったと聞きます。
『編集方針』という、目先の利益に左右されないモノをしっかり守ってきたからこそ、「あの本に記事が載った」ということが、お店にとってある意味ステイタスになり、「あの本には、お金を払ってでも載せたい」という広告出広を呼び込んでいたんです。
広告と記事。読者にとっては、どちらもタウン誌から得られる情報です。でも、広告と記事は、「区別すべきもの」でした。それでも良かったんです。地方の個店オーナーが、広告効果と掲載によって得られるステイタスを同列に考えていた頃までは。
つづく
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20071026_anime_nicovideo/
心情としては理解できるけどさ、
少なくとも、1stガンダムまでさかのぼらなくても、だ。
おもちゃ屋の宣伝アニメだとしてもさ、テレビ放映で何とかペイするモデルだったと類推できるのよ。
大体僕らが子供だったとき(30年前)にはゴールデンで子供向けの特撮とかアニメはバンバンやってたし、戦隊ものだって、少なくともジャッカー電撃隊ぐらいまでは土曜の夕方やってたよね。(塾の時間とかぶっていたので記憶がある)
いまさ、ゴールデンでやってるというか、数字を期待されてる、広告でペイできるアニメって「サザエさん」とかぐらいなんじゃね?
まずさ、ソフトを買う人間はさ「すきもの」なんだから少数なわけじゃん。
DVDになって買う障壁が低くなっても、アニメのDVDは映画より割高だしさ、しかも全巻セットだと軽く4万とか以上するじゃん。
あのさ、このビジネスモデルが少し異常なんじゃね?
あとね、ぼりすぎ。GUNSLINGER GIRL DVD-BOXを例に挙げると
日本:¥ 12,600
アメリカ: $44.99
3倍っすよ。専用じゃないんだからさ。
権利者が権利を主張するなとはいわないが、時代が変わったんだからさ気づけよ。
大体この深夜枠でアニメを宣伝として放映して、DVDをうるビジネスモデル自体、歴史としては10年くらいしかないわけですが、モデルとして終わりに来てるのよ。
映像プラットフォームとしてケータイの市場が来るのがあと3年後ぐらいなんで、そのときは1クリックでダウンロードして課金する仕組みができるよね、それまで、ケータイ向けのコンテンツ案を考えたほうが建設的よ。
それにさ、現状勝ち組の角川は逆にYOUTUBEとかニコニコとかでDVDの売り上げ上げてるじゃん。
いいこともあるじゃない。
そうそう、ハルヒのダンスとか外人とかも踊ってるじゃん、それって、ビジネスチャンスって考えなよ。
ピータガブリエルがさ昔に海賊盤がでまわってた、アフリカ諸国でライブをやって大成功した例もあるのよ。
時代の流れはさ、逆らわないで、利用しなよ。
それでだめなら、時代から必要とされてないということなんで、規模縮小すれば?
映像とかやってる人間が時代から必要とされないなんてさ.........
まーいいや、本物は残るし、去年だって、「グレンラガン」や「電脳コイル」があったもの、
だから、YOUTUBEで満足する人間はもともとDVDなんか買わないの、レンタルで十分、なんでDISCASとかは攻撃しないのかね?あれ、ってセルDVD売り上げ落とすのにすごく貢献してるよ?
ちゃんと消費者してないと、買う人の気持ちわかんないぜ。
DVDが高いとか、アニメの質が悪いとか思ってるのは本当にコアなアニメファンだけで
大多数はニコニコがあるから満足してるんだと思うんだけど。
素直に「ニコニコあるから買わないよ」って認めてる意見が無いよね。
値段なり質なりに難癖つけてるのきもい。
ニコニコでみれりゃ俺は充分だし。
アニメーションとか、音楽とかはもうダメなんじゃないかなぁ。寿命。
「DVDを売って儲けるビジネスモデルが云々」とか、そういうおかしな話じゃなくて、
インターネットが台頭してきたから。
新しい技術がでてきたら、既存の技術が使われなくなる、絶滅するっていうのはITだとよくある話だし。
(もちろんすぐに潰れてく「新しい技術」もあるけど)
インターネットっていう流れはもう不動のものになったと思うんだよね。
だから、それに押されて潰れてく、死んでいくもの(ここではアニメーション、音楽)があってもおかしくないよね。
デジタルデータ、またはそれに変換可能なものは、インターネットがある社会では売れない=>それを売る商売はなりたないと思うんだよね。
おもしろいのは、昔は「インターネットの台頭によってテレビや本など既存のメディアが死んでいく」みたいに
少子化という事態は、人口の減少は消費の減少を意味する。だから政府は個人消費に頼らない経済政策を打つだろう。高所得者優遇を進めることで、個人消費の激減を抑えるようにはするだろうが、貧民の増加に対しては、手は打たないだろう。自己責任原則の過剰さが言われ始めるようになったが、その言葉はすでに10年前から一人歩きを始めている。もう、全てが遅い。失業した人間や給料の低い人間、雇用が不安定な人間は、その人自身の責任とされ、政府による経済政策の失敗、ひいては官僚機構の無謬性と無責任性の維持のために、自己責任原則はこれからも跳梁跋扈し、大企業の正社員たちは自らの幸運に安堵し、生活を維持するために、そうではない人々への同情は、形にはならず、それを訴える声に耳は貸さなくなる。ネットでの叫びは、匿名性の名のもとに、罵倒される。
階級社会の現実というものなのだが、社会は連帯ということが必要とされる。いつしか、それが消えてしまった。大晦日の格闘技興行で、韓国系日本人を破った選手が日本人は強いとか勝利後のマイク芸でしゃべったそうな。それはそれでよい。負けた韓国系日本人は、大ブーイングを浴びるだけのことをしたのだから。あの勝利のローキックに快哉を叫んだ日本人は多いだろう。しかし、日本人は強いという言葉に素直にうなづくくらいしか、社会の連帯がなくなってしまったのかと思うと、悲しい。連帯が消えてしまった国家・社会は崩壊するしかない。崩壊した後に何があるのだろう。どこに自己の帰属を求めればよいのだろう。自己の帰属が会社だった時代が羨ましい。国家が前面に出てこない幸福な時代。もうそういった幸福な時代はやってこない。
連帯も失われ、セーフティネットも形骸化していく中で、若い連中は将来が描けない。描けるのは、高所得を得ることができる人々だけで、それ以外の連中にそれは無理な相談となりつつある。自己責任原則はここでも登場する。将来が描けないのは自業自得だとか、趣味の世界に走って、異性に関心を持たない嘆かわしい連中が増えた、何だと、萌えだぁ? こんなことしているから、少子化になるのだといわんばかりのマスコミによる大合唱。マスコミに勤める人々は、基本的に勝ち組だ。将来テレビがなくなることはない。テレビを持てなくなる人や見られなくなる人が出ても、彼らは安泰だ。現状のビジネスモデルは、若干の変更が加えられて存続するだろう。そういった連中は、ステレオタイプの若者像を過去何年にもわたって報道し、増幅してきた。ネットでの抗議などは蚊ほどにも感じない。炎上と称しているのもあと数年で、炎上対策がなされ、ネットでの抗議などは意味を持たなくなるだろう。
事実ではなくイメージが先行するのは、さして驚くことではない。イメージで社会が、政治が、国家が語られ、事実や正確な統計は省みられない。イメージが100%正確ではないということではない。一部の人々にとっては正確なのだ。その一部の人々の利益は守られるだろう。そしてそこからあぶれている人々は、貧民としてラテンアメリカのような陽気だけど貧困にあえぐという像を押し付けられる。江戸末期に外国人が来て、日本の一般庶民が大変従順で、幸せそうであることに注目している。彼らは武士たちの巧妙な統治によって、従順化させられていた部分が多分にあるだろう。おそらく数十年後にはきっとそうなる。大して面白くもないお笑い番組を年末年始に放送しているのは、愚民化への一歩ではないだろうか。芸人は罪はない、としておこう。一部芸人を除外すれば、多くはフリーターのようなものだ。今年の今頃にはあの人何処に行っただろうとか言っている、某筋肉自慢の高学歴芸人だっているはずだ。それに多くの人は笑い、年末年始を過ごし、貧民化した人々は、また仕事に向かう。明日とも知れない不安定な生活を少しでも支えるために。ああ、忘れていた。年末年始も仕事だという人もいる。そういう人もまた、不安定な生活を支えるために、懸命なのだ。人間らしい生活など、何処に行ったのだ?
19世紀の労働者たちは生活向上のために戦った。社会主義やら共産主義という方向に行ってしまったのはさすがにアレだったが、それでも権利獲得のために戦い、いくつもの権利を勝ち得た。しかし、権利とは勝ち得た後が大変であることを忘れていた。権利が形骸化させられること、これは最も恐れるべき事態だが、21世紀日本ではそれが起こっている。貧困が自己責任化するまであともう少しだ。生活保護も形骸化し、雇用保険も同じく形骸化する。ありとあらゆる国民生活を支える社会制度が、崩壊する。崩壊しても制度は残るし、運用者が要る。すなわち。それらを運用する官僚たちだけが生き残るのだ。そういった、本末転倒な事態まであと少しだ。日本は22世紀には存在しないだろう。21世紀中に国家の態なさず、事実上崩壊するだろう。希望というものなど、もはや何処にもない。絶望しかない。政府が少子化を訴えても、危機感が迫らないのは、政府自身が手を打つ気がないからだ。
将来、世界史史上稀に見る、統治能力を失って自己崩壊した国家の一例として、日本国が挙げられることとなるだろう。若者たちよ見えないか、ブレードランナーのような情景が眼前に広がるのを。最低限の秩序もないが自然状態をかろうじて回避している、夜警国家以下の情景が。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://slashdot.jp/articles/07/12/23/1521211.shtml より
id:smichoさんの「お金なんかいりまへん みんなホントにタダ働き大好きだな。」id:junkMAさんの「これなー、進みすぎると『個人的に応援フィーを頂く』という方法の取り方が、村八分な方向にしか流れなくなりかねないのが怖いんだよなぁ」と言うブクマコメントが結構スターを集めている様子に少し懸念。
こう言うのはやはり何だかミスリードなんじゃないかなと思う。後でid:glcs さんが「クリエイティブコモンズ≠ただ働き」であるとブクマコメントで指摘しているけど、クリエイティブコモンズ自体は対価を取ることと何ら矛盾しないはずだ。このこと自体はもっと広くちゃんと理解されていい。スラドの元の記事で詳しく解説・議論している人たちがいるから、それにしっかり目を通すと参考になるのだけれども。
ライセンスの種類にもよるが、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの重要な意義は被ライセンス者の独占・排除を予め封じることにあるのだと思う。JASRACのライセンスは全か無で権限委譲を伴う排他的なものであり、その融通の効かなさが二次創作物への利用を困難にしている。クリエイティブコモンズは共有を部分的にコントロールして許可する宣言であり、JASRACのライセンスとは相容れないものだが、対価を取るシステム=唯一JASRACではないように、対価を取る可能性を排除したものではない。作者に対価を還元するシステムと言うのはクリエイティブ・コモンズのライセンスとは別に構築しなければならない性質のものであり、それこそ世界各地で様々な実験的試みが手探りで行われているものである。確かにすべての収束解になるような対価還元システムが見出されるにはまだ至っていないのかも知れないが、それでも現行システムの崩壊は止められない趨勢であり、そこに乗っかっているわけには行かないとネットではさんざん言われ続けて来たのはご承知の通りである。
あと、
http://d.hatena.ne.jp/colorred/20071223/miku2
ここでひろゆき氏がCCに対してネガティヴな発現を繰り返しているけど、そりゃCCはユーザーの作ったコンテンツを商品を売りさばく会社のビジネスモデルにとってはもちろん目障りでしょうって(ただしその可能性を排除するものですらないよ)。でもそのことに触れずに、利用者の立場を装って「著作人格権の放棄の概念がないから」信用できないと言う理由で否定するのは不誠実だなと思った。「賠償金を支払う強制力がない」と言う人の目から見たらまあ確かにそうなんだろうけど。
気になったエントリをいくつかクリップしてみる。47氏やジーン・カン氏はどんな未来を想像していたのかが知りたい。
楽曲対価を支払うたったひとつ(ではないかもしれない)の冴えたやり方
...
著作物に対する権利の主張と確保、という点からのみ語られがちな一連の問題を、著作物に対する対価の支払いを進んで積極的にしたいと思ってる側から考えてみる。
...
むしろ、そういうJASRACが噛まない料金徴収システム(送金システム)を、ユーザーのフェアユーズ&シェアユーズを満たす形で整備したほうが、事業者にとってもユーザーにとっても原曲作者にとってもプラスなんじゃないの? と思ったりはする。
さぼり記 2007-12-20 http://d.hatena.ne.jp/azuki-glg/20071220/1198121928
コンテンツは何のために必要なのか
...
私的録音録画小委員会: 反対意見多数でも「ダウンロード違法化」のなぜ (1/2)
この内容は流石に怒っても良いよね?
...
そういった、今のお金を大切に思うが余り施行した法により、未来のこれから出てきたかもしれない革新的な文化活動の発展を萎縮させ、クリエイターの卵となるべき人たちの芽をたたきつぶしたといったことの大きさを憂える。ひたすらに。
rerofumiのつぶやき 2007/12/19 http://www.fumi2kick.com/rrtalk/archives/932
誰が音楽文化を支えるのか
...
音楽の世界だって書籍と同じように、オリコンチャートを意識して売り捌きようのない枚数のCDをプレスするという時代錯誤で不毛なチキンレースは遠からず終わり、いくつダウンロードされたか、総額いくら寄付を受けたか、世界中でノベ何時間再生されたか、そこからどういった二次著作物が生まれたか、誰をどう触発したか、何にマッシュアップされたかといった、もっと本質的な尺度で測られるようになるだろう。
雑種路線でいこう 2007-12-04 http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20071204/music
音楽そのものについての考察がおきざりにされた著作権議論の不毛
...
音楽著作権というのは無前提に音楽の創造者にある権利だとして、そこの検証が全くされないままそれが前提に議論がされているが、音楽著作権という考え方そのものがそもそもイリュージョンだったのではないかという検証は本当に必要ではないのだろうか?
...
「グヌーテラは音楽著作権を侵害しているがどう思うのか?」という質問が次々投げられた。この質問に対してジーン・カンは実に冷静に答えていた。
「グヌーテラを停止させることはもはや私にもできないのだ。
いわゆる『音楽著作権』の侵害はあるかと聞かれれば『その通りだ』と答えざるをないが、もはや『覆水盆に返らず』だということを認識した方が良い。
それよりもこの状況に合わせた新しい権利の設定を考えた方が遥かに現実的だ。
現在の音楽の著作権は太古の昔から存在しているようにみんな勘違いしているが、音楽家とは本来その演奏に対する対価として報酬を受け取っていたので、著作権という抽象的な録音定着、複写の制限を定めた権利はつい最近生まれたものだ。
まずそのことを勘違いしない方が良い。
MacOSXの新着アプリテスト記録とトラブルシューティング http://nmuta.fri.macserver.jp/unei0712.html#musiquecultual
47氏が見たラジカルな世界
...
まず、言えることは、47氏は現状のWinny自体にはそれほど関心を持っているわけでもないということだ。問題は次だ。
4. コンテンツ提供者側の集金問題
話変わりますが、最近私の方ではコンテンツ流通側とは逆側のコンテンツ提供者側に関するシステムについて考えてることが多いです(コンテンツ提供者向けのシステムであって、よくあるようなコンテンツの保護技術に興味があるわけではないので注意)
そもそも私がファイル共有ソフトに興味を持ったのは、当時ファイル共有ソフト使用ユーザーから逮捕者が出たということ(これは明らかに変だと思った)というのもありましたが、どうやったらコンテンツ作成側にちゃんとお金が集まるのか?ということに、もともと興味があったからです。
インターネットの一般への普及の結果、従来のパッケージベースのデジタルコンテンツビジネスモデルはすでに時代遅れであって、インターネットそのものを使用禁止にでもしない限りユーザー間の自由な情報のやりとりを保護する技術の方が最終的に勝利してしまうだろうと前々から思ってました。そして Freenetを知って、もはやこの流れは止められないだろうと。
極東ブログ 2004.05.11 http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/05/47.html
某会社のインターンにて、人生で初めてというぐらい大量のT大生に遭遇。
つーか、大学の話は極力したくなかったのにあのK大の野郎が・・・!
「あのー大学はどちらですか?」
あちらデスヨ!!
くそーー。こんなところでコンプレックスを感じる俺は卑屈だなぁと思った。
で、インターンの内容は「排出権取引の新しいビジネスモデルを提案しろ」みたいなんで。
なかなか面白かったよ!
人類学的に参与観察してきましたww
優勝したグループには長期インターンの権利が与えられるなんて知らなかったしww
しかしねぇ。T大の彼は素晴らしかったよ!!
知識
輝く笑顔
人を引き付ける話し方
他人の意見に耳を傾ける度量
俺が欲しいものを全部持ってる感じ。あながち学歴っつーのも判断基準として正しいのかも?
まぁピンキリでしょうけどね!
く・・・くやしい。。
知識の伴わない情熱は無力で
ふぅ。精進します。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://soulwarden.exblog.jp/6694114/
そのための対策がまさしくコピーワンスだよね。コピーワンス検討時にはなかった問題だけどね。今じゃ違法アップロードを見れちゃうせいでコピーワンスの正当性ができちゃった。昔からそうしたものはあったけど、まだWinnyあたりだったらアングラ臭がひどくユーザーが少なそうだったので、コピーワンスに反対できた。だけど、YouTubeやニコニコ動画はその裾野を広げちゃった。見るのも簡単。広げるのも簡単。成長も著しく、ユーザーも多い。昔はコピーワンス反対派だったけど、いまは中立、容認という考えになった。テレビ局側から「YouTubeやニコニコ動画を見てください。テレビ番組が無断でアップロードされてます。削除すればいいですって?削除するためには監視が必要ですが、監視にだってお金がかかるんです!しかも間違えて削除したら、はてなイナゴのようなネットのヘビーユーザーから袋叩きにあいます!」なんていわれたら、「そうですね・・・」としかいいようがない。反対できるのは「新しいビジネスモデルを作れ!」なんて代替案も示さず無責任なことをいう人たちだけじゃないだろうか?少なくともネットのヘビーユーザーでない大部分の人なら、本心では反対していてもしぶしぶ容認するしかないだろう。コピーワンスは違法アップロード対策としてだけみれば、きちんとした策だ。違法アップロードが大きな問題で限り、他の代替案なしに反対しにくい。違法アップロード対策は勝手にやってろなんていったら、コピーワンスに対する逆風の中それを維持しようする「努力」を正当化しちゃうことになる。YouTubeやニコニコ動画の登場したことで、コピーワンスを通じて違法アップロードは消費者の問題にもなったよ。
いや、本人同士がそれでいいならいいんですけどね、どっちかが長文うぜーなーとか思ってたりする場合も多いわけじゃないですか。ただの野次馬である傍観者にとっては特にそうだと思うんですけど。
はてブに「長い」とかコメントされてるエントリとかを想起していただけるとありがたいんですけど。
どうもそういうのを見るとついついフォード・ピント事件なんかを思い出してしまうわけですよ。
知らない人はググって下さいね。一応映画にもなってたりするんでお暇なら観てみるのもいいんじゃないかとオススメしますですよ、ハイ。(邦題『訴訟』原題『The Class Action』)そんなのめんどくせーよーという人の為には解説してるアドレス貼っときますね。(http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~cyberian/Ford_Pinto.html) んでリンク踏むのさえめんどくせーとかacドメインとか読んでもわかんねーよという先入観をお持ちのあなたの為に適当に解説しちゃいますと、フォードが日本車に押され始めた時代にこれじゃいかんってわけでコンパクト・カーを売り出したの、ピントっていう。しかしまぁリーズナブルなだけあって結構売れちゃったりしたんだけども安全設計もリーズナブルだったのが問題になって訴訟起こされちゃいました。
ちなみにアメリカの訴訟制度ってのはなかなか面白いもので、この手の訴訟だとあの有名な懲罰的損害賠償(企業が痛いな、と思う範囲まで賠償金額上げちゃっていいよ制度)と、Class Action 制度(同様の被害を受けた人は先人の訴訟結果にタダ乗り出来ちゃう制度、日本だと訴訟提起後結審前までは参加が許されたんだっけ、詳しくは知らないんでゴメンネ)のおかげで絶対負けられないんよね。
ここら辺はまぁどうでもいいんで次行きますけど、訴訟開始前にディスカバリーって制度があるんですよ。
この手の訴訟の場合被告の企業側に証拠ってあるもんですしね。それを原告側が請求できる制度なんですよ。
といっても原告側もそんなに詳しく企業内事情を知ってるわけじゃあないんで請求内容がある程度曖昧にならざるを得ないわけでね、それを逆手に利用して、被告企業がそれこそ倉庫が一杯になる位の量の内部文書を送りつけるって行動に出るわけです。
そんなことされたら困るよねー。
原告側は何と言っても少数者であるわけだし、精査しようにも人件費が酷いことになっちゃうし、いかんともし難い状況になったよってお話(この先は映画見てね)。
んでこれを最初の話に無理矢理つなげると、長々と文章書いて相手に対応してる人って、誠実に答えてるようでいて実は単に目晦まししてるんじゃないの?って疑問が湧いたよってお話。
2chでよく言われるように3行までしか読めない、ってのは少々極端に過ぎると思うのだけれど、しかしそうそう長い文章を時間コストをかけて読めるわけではないよね、ってところはなんとなく理解してもらえるんじゃないかなぁ。
世の中には楽しい事やしたい事ってのが一杯あって(セックル(恋人とならタダだと思ってても多分風俗の方が安くて気持ちいいよ、次々入れ替わるから新鮮だし)とか食べ歩き(ってよりこんなところで食事してる俺/私って素敵欲望ドライブなんじゃないの)とかもっと寝たい(偽装請負ご苦労様です。所得隠ししなけりゃ設備投資費用も捻出できない世界有数の好景気大企業の下請じゃポイズン)とかデイトレード(まだやってる人いるの?)とか自己啓発(はてなとFPNってこういう腐臭がするよね、どうでもいいけど。Lifehuckだってw)とか宗教儀式(明治天皇の声が聞こえる!!とかグーグルの狂気とか)とかさ)、ネットで議論なんてモノはそのうちの一つでしかないわけだし。
しかもディスプレイとかブログっていうアーキテクチャはほんと長文読むのに適さない環境なんじゃないかとオールドタイプな僕は思ってしまうわけですけども。
A4一枚分以上は紙で読みたい。
こういう人って結構いるんじゃないかなぁと思うわけですよ。
そういう人に対して誠実にあるにはどうしたらいいのかねぇって所はこの発達した世の中でも解決されてないんじゃなかろーか。
これってビジネスチャンス?ニートのボクでも起業してお金持ちになってセックル三昧(ここまでjkondo)、金で女は買えると豪語した挙句に証券取引法違反で国策捜査の上つかまってあれやこれや的展開が期待できるかもーうはーすげー。
あ、ごめん妄想入った。
文章なんてのは長くしようとすればどこまででも長く出来るし、短くしようと思えば結構な割合で短くなるものだと思うんですよ。
お前2時間でいいじゃんみたいな。
ただ、短く書く時には削ぎ落とされた部分を読む側が理解してないといけないという条件は付きますが。
ってことは長々と文章書いてる人ってのは読み手の力量を信用してない、ってことになるんですかね。
まぁはてブ衆愚とかネットイナゴなんてのが流行ってる昨今さもありなんな発想ではあるわけですが、エントリ書く奴が偉くて読み手は衆愚だからこんなことまでわざわざ書いてやらねばならん、みたいな。
そんな目で見ないでお願い。
それならいっそやde√blog終風先生みたいにわからん奴はもういいよ的に放置されるほうがまだマシじゃね? ってか終風先生=紫式部か。
終風日記や極東ブログは省略省略で貴族たり得ない衆愚である受験生を困惑させる源氏物語か。
挙句にシステムスルーカですか、イナゴはイナゴらしくオマニーでも見てればいいですかそうですか。
切ないなぁ、ああ切ない。
大島弓子ばりに切ないよ。
伝われこの思いの8頭身の心境ですよ。
大体あれだ、平野啓一郎もあれだよな、『日触』しか読んだことないけど漢字難しいよな、初手からお前ら文学イナゴは寄ってくんなオーラ全開だよな。
昔の日本文学読んでりゃ理解出来るとか言われてもそりゃ無理っすよ、旧字体で読んでる人っているのかね。
あんなのに造詣が深いのってめっちゃレアモンスターだと思うんですけど。
なんかはてな内には散見されるのが面白いといえば面白いのかもしれないが。
しかしまぁあんな小難しい本読むくらいならあれだね、同じ京大出身でも森見登美彦の方が全然面白いと感じちゃうね。
あ、ここでいう「非モテ」っていうのはある程度の文化資本をもった、顔面や身体に不都合があったり拗れた精神構造持ってる人ね。
(PCなんて気にしねぇ)だってボクの後ろでウメダモチオとかessaがグーグルとか権力論とかビジネスモデルとかを語れない期間工みたいな奴ははてなーではない、って囁いて来るんだもん。ここはてなだし仕方ないよね。
しかしまぁスルーってのも寂しいもんだよね。
皆が皆スルーし合って出来上がる世界ってアレだよね、なんつーかちょっとつまらんよね。
ってかこれって物象化じゃないのか。
マルクスの亡霊は未だ徘徊してるのか。
ごめんちょっと難しい言葉使ってみたかった。
中二病といいたければ言うがいいさ。
でも心の隙間に大阪のおばちゃんを忘れないでいて欲しいなぁと。
さてもう収拾がつかなくなったのでこの辺で終わりにするけど、長文批判のためにはじめたこのエントリがやたら長くなった事を心より詫びる。
どうせスルーされるんだろうなぁ。
http://peer2peer.blog79.fc2.com/blog-entry-875.html
そもそも問題はそこじゃないのだろうか?昔のニコニコ動画で実現されたとおり、アニメをアーカイブ化し無料で見せることですることでひとを集め、その広告費を稼ぐというモデルが成立するのだろうか?それが成立していたのなら、製作者側の怠慢といえる。製作者はバンダイチャンネルなどで課金して収益をあげようとしているのに、ニコニコ動画がそれを無料にすることによってきちんと利益をあげることができたのだから。しかし過去のニコニコ動画で実現されたモデルはきちんと成立したのだろうか。多分成立しないのではないのかと思う。アーカイブ化は収益率が悪化しやすいからだ。コンテンツというのは新しさが重要であるため、過去のコンテンツを全てアーカイブ化するのはすこぶる効率が悪い。コンテンツは新しいものが見られる傾向にある。ニコニコ動画でもランキングに入るのはその日や前日に投稿されたものが多い。一部の例外はあるものの、新しいコンテンツが見られる傾向にあるし、同じコンテンツで見ても投稿日にアクセスを稼ぐことが多い。だから古いコンテンツをお金をかけてアクセス可能な状態にしておくのは非効率なのである。ほとんどアクセスされず広告費が稼げないコンテンツなのに、維持費をかけるのは無駄だ。こうした無駄は技術的革新がないかぎり、長期的に大きくなっていき収益を圧迫する。例えば月にn個のコンテンツが投稿され、投稿された月にしか見られないとしよう。はじめの月にアクセスのあるコンテンツの割合は100%である。しかし次の月には50%、そしてその次の月には33%のコンテンツにしかアクセスがなくなる。一年後に収益に寄与するアクセスのあるコンテンツの割合は8%にまで減少する。これはニコニコ動画に限らず、図書館などでも同じだ。だから図書館は非営利目的の公立のものか私立大学の付属のものしかない。後者でもそれ自体で収益をあげるモデルで営まれていない。コンテンツのアーカイブ化は構造的に非効率なのであり、ビジネス向きではないのだ。多分技術革新か新しい収益元がないかぎり、そのうちYouTubeもニコニコ動画も廃業するか、過去のコンテンツの切り捨てをはかるだろう。特にニコニコ動画は成長が著しい反面、「死」を迎えたコンテンツの拡大も早く収益悪化につながるので新しい収益元を見つけなければ、そうなる可能性は高い。こうしたことはありえないと思うかもしれないが、実際にブログの最大手のFC2ではきちんとこうしたことを考慮しているふしがある。FC2ブログの利用規約には次のような一文がある。
FC2ブログの基準として以下の定義のブログ上で広告が挿入されます。
【非アクティブ状態】
一ヶ月以上にわたり新規投稿がされない場合、所定の広告が挿入されます。
http://blog.fc2.com/kiyaku.htmlまた無料のホームページの利用規約にも
7. 三ヶ月以上の更新が見られないサイト
三ヶ月以上の更新が見られないサイト、または登録から三ヶ月以上更新が見られないユーザーは削除する場合がございます。
http://web.fc2.com/kiyaku.html古くなってアクセスがなくなったと考えられるコンテンツを一定の基準で判断し、それに対して新しく収益をあげられるようにするか削除しているのである。これを私と同じ考えでやっているとは限らないが、最大手であり大きな容量を提供するFC2だからこそコンテンツの「死」に対して対抗しているのだと勝手に思っている。それぐらいコンテンツのアーカイブ化は非効率的なのだ。だからアニメをアーカイブ化し、それによってひとを集め広告費で稼ぐというモデルは成立しないと考えられる。多分技術革新がないかぎりできるのは今のガンダムのように一週間という期間を区切ってネットで配信するというビジネスモデルだろう。
ただいまのニコニコ動画にはアニメは関係ないということだけは付け加えておく。確かに昔のニコニコ動画はひどかった。ガンダムやエヴァンゲリオンなどの有名なアニメがアップロードされていたし、新作のアニメもすぐにアップロードされていた。しかしいまは違う。いまではきちんと削除されているし、新作もすぐに削除される傾向にある。実際に
これ↓
http://d.hatena.ne.jp/pmoky/20071120/p1
これによると宣伝になるから権利者は違法アップロードを容認しているが、ニコニコ動画が宣伝になっているから宣伝料、要はみかじめ料をもらわない限り削除しているらしい。「製作者が削除してるんじゃない、ニコニコが削除してるんだ」ぐらいか。これには素直に驚いた。
いままで違法アップロードを擁護する意見としてはおおむね次のような意見があった。
前者ふたつはどちらかといえばクリエイターに好意的であり、そのクリエイターへの好意と違法アップロードとの板ばさみから、証明をまったく行ってないにもかかわらず「宣伝効果がある」、「中間搾取が行われている」などと主張し違法アップロードを正当化しようとした。最後のひとつはなぜか違法アップロードのアニメを見ているのに、いざ批判されると「アニメの質が低い」「アニメなんてつまらないからどうでもいい」「ビジネスモデルがおかしい」と主張、というか開き直りをする。違法アップロードを正当化する意見としては主にこの三つがあった。
当初は「宣伝効果がある」説のように製作者と対立を引き起こさない意見が主流で、そうした説を唱える人は「宣伝厨」と呼ばれていた。しかし最近は「権利者やアニメは糞」説が有力となり、クリエイターを含めた製作者が批判されるようになってきた。きっかけは
である。これによりクリエイターも違法アップロードが嫌っていることが明らかになった。しかもニコニコ動画での規制が厳しくなってきたために、これが一部のクリエイターの意見ではなく製作者全体がそうした意見であることがわかってきた。その結果、まがりなりにもクリエイターを尊重する「宣伝効果がある」、「中間搾取がされているからDVDにお金を出したくない」という系列の意見はなりを潜めてきた。そして違法アップロードを正統化したいがために「権利者やアニメは糞」という系列の意見が台頭し、クリエイターを含めた製作者が批判されるようになった。これは前出の痛いニュースやへいわぼけの該当記事を読めばわかる。また今日はてブにあがっている「ニコニコ動画が成功したのは著作権侵害のおかげではないの?」なんかもその典型例で権利者を抵抗勢力呼ばわりしている。このように最近ではクリエイターを含めた製作者が違法アップロードを嫌っていることがほぼ明らかになってきたため、「宣伝効果説」が崩れ違法アップロードを正当化するために製作者が批判されるようになった。最近では地方で見れないという要求にこたえて、製作者側も最新アニメをGyaoなんかで無料配信してるのにね。
このような一部のモラルのないネットユーザーと製作者との一触即発の事態に「製作者が削除してるんじゃない、ニコニコが削除してるんだ」という製作者と対立を引き起こさない意見・・・、清涼感を感じずにはいられない。「製作者が削除してるんじゃない、ニコニコが削除してるんだ」という意見では製作者は違法アップロードを容認していることになり、違法アップロードを擁護しても製作者と対立を引き起こさない。そして敵はニコニコ動画となる。違法アップロードは宣伝になるがゆえ、ニコニコ動画は宣伝料が払われない限り管理者削除をする。「製作者が削除してるんじゃない、ニコニコが削除してるんだ」説によれば違法アップロードの敵はニコニコ動画なのだ。「製作者が削除してるんじゃない、ニコニコが削除してるんだ」説は製作者と対立を引き起こさない仮説なのである。最近の状況では以前はクリエイターを尊重し「宣伝効果説」などで違法アップロードを正当化していた人も、いまじゃ「製作者糞説」「アニメ糞説」を唱えてそうだ。そうした状況にあってひたすら製作者を立て、違法アップロードを正当化しようとするのはある意味「天晴れ!」としかいいようがない。まぁ、ネタでいってるのだろうし、現実を無視しているけど。でもドクロちゃん事件によって「宣伝効果説」などが崩れてしまったことにより生じた製作者批判の高まりの中にあってはいいネタなのです。いくら「二次創作がすごい」「コメントでおもしろくなっている」っていっても、元の作品がなきゃいけない。だから製作者は尊重しなければならない。そのことだけはきちんと考えているのだから。
つーかアニメがGyaoなんかで無料で配信されるようになってきたのに、違法アップロードする人が批判されねーのはおかしいのですよ。まだ少ないけど、実績をつめばもっと配信されるようになるかもしれないのに。ニコニコは小さいときから見守っても他の正統なコンテンツは支えないのか。
元増田の質問は興味深いと思った。
ブクマも含めなぜか変な曲解をしてる人もいるがシンプルでアカデミックな質問なのでは?
公共サービスに選択の自由がない理由を問うているのに、
では他のサービスに選択の自由がある理由とはなんだろう。
「サービス」に選択の自由がある理由……
考えたことが無かったな。サービスが押し売りでない理由か。余り見かけないのは、サービスの押し売りがビジネスモデルとして成り立ちにくいからだろうな。
ちょっと例で考えてみよう。
(例1)たとえば「最初に自動的に水が出てこないレストラン」があるとする。この場合レストラン側としては「自動的に水を出さない」ということが一種のサービス(たとえば客にある種の優越感を与えるといった)なわけだが、「自動的には水を出さない」ということに関して一種の「サービスの押しつけ」が成立しており拒否の自由はない。水が欲しければ水をくれと「注文」しなくてはならないので、それが無料であれなんであれ「自動的には水を出さない」というサービスに関する限り客側に選択の自由はない。
これは問題あるか、と言われれば別に問題はないよな。「なんで黙ってても水が出てこないんだ」と怒る客はいるかもしれないが、「そういう店なんです」という以上に言うべきことはないような気がする。だがこの例でも、まだ客には「そのレストランに入らない」という選択の自由が保たれている。ではもっと公的な領域で行われる「サービス」で選択の余地のないものについて考えてみよう。
(例2)小学校のクラスで目標が示される。「みんな仲良く」。異常に熱心なその担任教師は、一人の例外もなく「みんな仲良く」することを生徒に求める。孤独を愛するある生徒が登校拒否状態になり親が担任に意見を述べる「うちの子は別に『みんな』と仲良くなんてしたくないと言ってます。放って置いて貰うわけにはいかないでしょうか」すると担任教師はキラリと眼鏡を輝かせながらこう宣言するのだ「困りましたね……『みんな』仲良くというのが私が提供する『サービス』なのです。おたくのお子さんにだけ例外を認めると、一人のために『みんな』という条件が成り立たなくなってしまう。残念ながら、選択の余地は無いのですよ……」
この例は、あるいはたとえば「『職場の和』を目指して毎日仕事後の宴会(無料)出席が強要される中小企業」とかでもいいのだが、ここで考えられることとは要するに『ある種のサービスにはそもそも選択の余地など無いのではないのか』ということだ。ある種の、とは、つまり「全員がそのサービスを受けるという前提でのみ成立するサービス」である。そして公的サービスというのは基本的にこれなのではないか。
たとえば「誰もが基本的には殺したり殺されたりすることのない、安心というサービスが提供されている社会」で、特定の一人にのみそのサービスを享受しない(つまり殺したり殺されたりしてもいいという)自由を認めるわけにはいかないのは自明のことだ。そのように、つまり「ある種のサービスには選択の自由はない」というのが、法律というサービスに選択の自由がない一つの理由ではないだろうか。
ちなみに、元々増田の質問については個人的には「親が日本政府に対して子を届け出た時点で、つまり親が代理人となって『契約』した」という考え方は成り立つと思うが(たとえば親に全寮制の校則が厳しい学校に入学させられたようなものだ。)、しかし元増田の「そもそもサービスに選択の自由があるのは当然か」という疑問が面白かったのでちょっと書いてみた。
最近良く広告を見かける無料オンラインゲームにおいて、お金を支払うユーザーはプレイヤーのごく一部。
それでも年間数十億を売り上げている。(うそだと思うならオンラインゲームの運営会社の財務資料みてみそ。)
無料でユーザーをあつめてプレミアム会費で収益をあげるやり方をなんかもそうだけど、インターネットの特性を生かしたビジネスモデルは、まだまだこれから発展していくはず。そのビジネスを俺が、もしくはおまえが実現する可能性だってあるのさ。
チープ革命、いいじゃない。
既得権を失うやつもいれば、チャンスをつかむやつもいる。
もちろん既得権益を拡大するやつもいれば、なんのチャンスにも巡り会わないやつもいるワケで。
>すくなくとも、すごくエキサイティングな時代に僕たちが生きてる、ってことだけは断言してもいいと思うんだ。
「全面的に賛成」だね。
パリスとあたしの違いはカメラがついてきてるかどうかだけだ。そう叫んで自殺した少女も日本に生まれていれば、人生を謳歌できていたかもしれない。
確かに一歩目はブログだった。しかし、その次の飛躍はケータイ小説が成したものだ。ブログによって引き下げられた記述することに対する障壁を、情動のスイッチを押すことに特化した一群の物語が完膚なきまでに破壊した。ケータイ小説は赤潮のように繁殖した。その作り手であるケータイ小説家もまた。
いまやケータイ小説の消費者のほとんどが生産者であった。創作されたケータイ小説はまず周囲の友人達によって読まれ、そのほとんどがそこで停止するものの、稀に口コミで広まり一般文芸にはありえない形のヒット飛ばすこともあった。そして、ヒット作の周囲には多くの模倣が生まれ、そのミームは拡散し浸透した。この文化の担い手は主に少女達であったが、彼女達にとって今や物語はコミュニケーション上で通貨の役割を果たしていた。「泣ける」「感動した」等の賞賛の言葉は優れた物語に対する報酬ではなく、自分の物語を読んでもらうための対価となった。
このまま過飽和の状態が続くわけも無い。大方の識者と呼ばれる程度の文筆家達はそのように考えていた。事実、彼らのやり取りする物語は、劣化したミームのまとまりの無い堆積のようなもので、そこに生の声が塗りこめられていたとしてもそれを汲み取ることは、本人達にとっても容易なことではなかった。さらには、仲間内でしか判らないコード進行、バズワードなどによって共通言語が小集団に分断されていき、しまいには原宿の少女には渋谷で書かれたケータイ小説が読めないいうことも起こった。この緩やかなまとまりを持ちつつもタコツボ化していくケータイ小説界は、人文系、特に言語系学者のフィールドワークの対象として魅力的に見えたらしく、いくつかの論文を産んだ。中でも「ケータイ小説の系譜」はケータイ小説を神話の発生と絡めたこともあって現代の金枝篇との評価も高い。
さておき、浸透と拡散、特化した小集団の枯死といった経過をたどってブームとして消費されるかに見えたケータイ小説は突如として変貌する。あるケータイ小説家が「あなたの人生を小説にします」と宣言しサービスを始めた。既にケータイ小説市場に新奇の物語要素は存在せず、彼らは自分達の生活そのものをドラマチックな嘘と仲間内のコードで修飾して市場に流すようになっていた。そこにビジネスチャンスを見出したのだった。ゴーストライターである。熟年を対象とした自叙伝ビジネスとほぼ相似の関係であるが、このゴーストライターは雇用者に対して聞き取りをしない。雇用者の一切の創作の手間を省くためであるのだが、雇用者が若年であり語るべき過去を持たず現在進行形を小説としてほしがったためでもある。従ってゴーストライターは雇用者のあとをついていき、行動を小説に書き起こす。小説の頒布とそれに生じる利益の追求は雇用者が行う契約だった。1:1対応のビジネスモデルは多くの追随者を生み、ケータイ小説市場はモデルで消費者でもある雇用者とゴーストライターに二分された。
「書として街に出よう」
一番最初に組織化されたゴーストライター協会のキャッチフレーズだ。人々はゴーストライターという形でフィクションを身にまとうようになった。そしてゴーストライター達は昔の演劇要素を発掘してきて観察者たる立場を確固たるものにした。
日本人が外国人と街を歩くと説明に困る事態に遭遇する。外国人たちはあらぬほうを指差し「あれは何だ」と訊ねる。だが日本人には「あれ」が認識できない。認識しないことになっている。勿論「あれ」はゴールドライタンであり、認識しないのはそれが黒子の格好をしているからである。組織化され認知されたゴーストライターはその数を増し、街を行く人々の半数が黒づくめだった。この奇妙な習慣は海外に紹介され「KUROKO」は各国語に定着するほどになった。デートスポットなどでは男女のカップルの後ろに黒子が一人ないしは二人控え、次にささやく愛の言葉をインカムを通して伝えていた。人々はいつしか物語の後ろを歩くようになっていたのだった。このことは、よりドラマ性を求める人々によって多くのトラブルを産んだ。例えば暴行現場を取り押さえた警察官によって逮捕された三名の中に黒子が二人含まれていたことなどを軸に、主体の所在についての論争がしばしば起こされた。この事件は合意の有無を巡って最高裁小法廷に最終的に判断がゆだねられた。
そして、殺人教唆で逮捕されたカリスマ黒子「IA☆GO」がAIであったという暴露により、混乱はピークを迎える。ゴーストライターの慢性的不足から、ゴーストライター協会は自立AIをひそかに利用していたのだった。このスキャンダルで幹部数人が逮捕されることになりゴーストライター協会は解散した。
後を受けて設立されたゴーストライター連盟が、AI「IA☆GO」の基本構造を継承して作られた記述AIをPAB(ParsonalArtificialBrain)として公式に商品化し、それがやがて人類から機械知性に文明を禅譲する流れになっていくのである。
そのSEOの専門家によると、「有料リンク」を販売するビジネスモデルは「検索エンジンスパマー」に近い、と考えているようだ。だからこそ、顧客に説明を、とかビジネスモデルが大きく変化する、と大騒ぎしているのだろうし、「正規のビジネス」を展開している人にとって奴らは目障りだということなのだろう。
しかし、「SEOの正規のビジネスモデル」と言っても、コンテンツの良し悪しにまでは関与できないのだから、根源的には「SEOを技術的に操作する」ことになる。現実問題として検索エンジンの上位に載るためには、グレーゾーンに限りなく踏み込んでいかないとカネが取れないだろうから、業者の真髄は「いたちごっこのテクニックを磨くこと」といわれても仕方がないだろう。
なんとなくだけど、素質1割コネ9割の世界みたいに、変な下駄を履いた世界なのだろうから、正規のビジネスモデルだと信じている業者も無理はしないほうがいい気はするな。はてなキーワードみたいな仕組みはどうよ、とかもあるけど。
まあ、「有料リンク」を買う業者と販売する業者の性質を考えれば、説明責任をはたす=新しいスパムの方法を教えろ、ということになるのだろう。となると、若干の淘汰はあっても、スパム技術の鍛錬にドライブがかかるだけな気がする。