「毒親」という言葉をためらいなく使うなら、間違いなく私の親は「毒親」だ。
でも、「毒親」という言葉は自分が毒されてしまったみたいな悲しい気持ちになるから、「強烈な親」と普段は言っている。
自分の色々な困難(身体的な病気とかウツとか)をネタに記事を書くことはあるけれど、親のことはどうしても書けない。
自分の生きづらさの原因を親に全部押しつけているみたいで悔しいから。
でも、今回はどうしても記事にしたかった。それは、自分の親がどれだけひどいかを主張したかったのではなく、自分自身が毒親にならないように備忘録を作るべきだと思ったからだ。
つい先日「ああ、こうやって自分も毒親になってしまうのかな」とゾッとする出来事があった。
そのエピソードを書く前に、まずは親の「強烈エピソード」をまとめてみる。
とにかく肉体的・精神的な虐待は当たり前、それに加えて過保護と過干渉。
肉体的な虐待でいえば、小さい頃は成績が悪いと殴られる、蹴られる、髪を引っ張って家の中を引きずり回される…からの真っ暗な押し入れに閉じ込められてご飯抜きだった。
小学校高学年のとき、勉強が終わるまでトイレにも行くなと言われて、家で粗相をしてしまったこともある。未だに忘れられない。
引きずられたせいで変形してしまった体の部分は、ずっとそのまま。
精神的な虐待でいえば、「あんたの精神腐ってる」「キチガイ」「心の大事な部分が欠けてる」「私を困らせて、殺したいの?」「あんたに私の血は入ってない」「あんたの子育て楽しくない」「あんたみたいなヤツに育てられる子供がかわいそう(私は未婚で子供もいない)」などなどの声かけ。
でも、過保護・過干渉だから「あなたを心配して…」「あなたのためを思って…」と言うから、ああきっと私を思って厳しくしてくれているのだと感謝さえしていた。
実際、大学に入るまで自分の親が最も正しいと信じて何も疑わなかった。
ふと「おかしいな」と思ったのは、大学生になってからだった。なぜか大学3年生(20歳くらい)になると殴られたりしたときの記憶がフラッシュバックするようになった。
『きみはいい子』という映画を見て、虐待シーンでパニックになって大声で泣いた。
当時、つねられて青あざが腕にできると、「先生に聞かれたら、タンスにぶつけたと言いなさい」と言われて、そのとおり先生に言ったこと。全部フラッシュバックするようになった。
友だちや社会人の先輩、親と同じくらいの大人にもたくさん相談した。
それでやっと「うちの親は強烈なんだな」と自覚した。今までの生きづらさの原因のひとつが親であることも理解した。
もちろん親を責める気持ちに取り憑かれた時期もあったけれど、人間そんなに長くは過去のことに腹を立ててはいられない。
未来の、これからのことを考えなくてはならないと思ったとき、「自分と同じような思いをする子供を減らすためには…」ということを考えた。
そして当然行き着くのが、「自分は子育てをちゃんとできるのだろうか」という怖さ。
ネットで虐待や毒親のことを調べると、必ず「自分も親のように同じことをしてしまう」と書いてある。
いわゆる「世代間連鎖」というやつだ。確かにうちの親の親もなかなか強烈だったみたいだ。
愛情の示し方のお手本が親しかいないから、自分も同じような愛し方をしてしまう。
私は恋愛もそのほかの人間関係もとても下手だ。親のように支配的になってしまう。
でも、運良く比較的若いうちにそのことに気付くことができた。そうしたら、そのために頑張るしかない。自分と自分の愛する人たちを大切にするために。
まずは親から離れようと思った。でも持病のせいで体調に波がある。とりあえず1人暮らしをしてみたが、準備不足でもちろん続かなかった。
余計に体を壊してしまった私は、また親元に戻ることになった。
親からひどいことを言われると、そのたびにどうしてそんなことを言うのかと傷つき、反発した。途中でうつ病にもなった。
でも、そんな私も何とか独り立ちできる見通しがついた。それがつい最近。そして、独り立ちしようとする私と親はもちろんぶつかる。
「どうして、わざわざ家を出て行くのか?」「『結婚するタイミングで家を出て、養ってもらう』という普通な道を行かないなら、一切応援しない(そもそもそれって普通なのか?)」
「困らせてばかりだ」「育て方を間違えた」「どうしてうつ病なんかになるんだ」「何様だ」「普通に家族を大事にできないのか」
うつ病や聴覚過敏を癒やすために静かな場所で働きたい。体が弱くても自分で自立して稼げるようになりたい。
そういう気持ちで頑張ったけれど、こんなふうな声かけをされると一気に気持ちが萎えてしまう。
「なんかもういいや。傷ついたり反発するのやめよう。」
そうして「忘れる」のと「慣れる」ことを覚えた。
自分から謝った。「言い過ぎてごめんなさい」と。私はなんにも言ってないけど。
今までで一番気持ちの切り替えが上手く出来た。もう慣れっこだな~なんて思った。
これが今回のゾッとしたエピソード。
確かに楽だった。だけど、これってすごく恐ろしいことだと後で気付いた。
親から投げかけられる強烈な言葉に、慣れてしまって麻痺しているけど、慣れていい言葉じゃないんだと思う。
「キチガイ」とか「ブス」とか「あなたの子育て楽しくない」とか「精神腐ってる」とか子供に言うことは、当たり前じゃない。
でも、傷つくことに慣れてしまうと、「傷つく基準」がどんどん下がる。
ということは、他人が傷つくと想像できずに、無意識に傷つけてしまうかもしれない。
きっと「お母さんだってこれくらい言われて育った」と子供に言ってしまう。
慣れることの怖さに気が付いて、ゾッとした。
よく私の親も「これくらい私も言われた。なんならもっとひどいことをされた。」と言っていた。
こうして、「傷つくこと」に麻痺していって、「世代間連鎖」が続くのだ。
そういう意味では、私の親も私と同じように自分身を守るために、感覚を麻痺させて傷つかなくなってしまったんだなとかわいそうにも思った。
自分の親が「毒親」だと気が付くと、「感覚を麻痺させる」という選択肢ができなくなる。自分は絶対に親のようにはなりたくないから。
そうすると傷つかなくてはならないし、生きづらくなる。だからしんどい。
でも、どこかで誰かがこの連鎖を止めなきゃいけない。同じように誰かを傷つけないためには。
こういう他人のせい、他人が悪い、他人を叩いてもらおう、こういう他罰性こそ毒親のメンタリティなんだよなあ
うんち
今日も 女は 毒親 叩き