2023-06-15

体育もスポ少部活も大嫌いだった。

脳筋、なんて揶揄されてるのを見るたびに思い出すけど、まともな指導者に当たったことがない。

小学生のころの体育の成績は「励ましたい」←励まされたことがない

中学生のころの5段階評価はいつも「2」

高校生のころの10段階評価はだいたい「3」か「4」

課題全然こなせなかったのは事実だけど、それに向かい合ってくれるような指導者は皆無だった。

成人してだいぶ経ってからスキーをやってみた。

思いのほか滑ることができて驚いた。

自分身体能力はすこぶる低いと思っていたから。

苛立つことなく、諦めることもなく、根気強くアドバイスをし続けてくれた配偶者には本当に感謝している。

スキーだけは、好きなスポーツだと言えるようになったのが嬉しい。

振り返れば、私の出会った体育やスポーツ指導者は、私のようなできない人に対してできるように教えようとしてくれたことがなかった。

親が勝手に決めてきてやらされたミニバスは、ルールを知らなかった。

小学4年とか、それくらいの時期だった気がするけど、私は低学年の子たちのグループ指定され、ペアを組んでなんとなくボールパスし合っていた。

それ以外に何をしたらいいのか分からなかった。

ゴールに向かってボールを投げる機会があっても、私のボールがゴールに届くことはなかった。

ボールの投げ方もよく分からなかったのだ。

何度投げても入らないこの競技は、ちっとも楽しくなかった。

1,2回、試合に出させていただいたことがある。

お情けであることは子どもの私にも十分理解できた。

当然のことながらポンコツな動き、なんの役に立つこともなく、周りのうんざりした雰囲気が刺さる。

その場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

コーチは上手な子にしか眼中になく、彼らに厳しい指導をしていたけど、

特に自分には何も教えてくれないこの人の存在がこの時はよく分からなかった。

なぜこの人に皆頭を下げるのか?

なぜこの人に「ありがとうございます」と言っているのか?

今ならばとりあえずそうしておくのがいいと分かるし、スポーツ世界は厳しい上下関係存在するということも知っているけど、

自分の知らないルール基準で進んでいくこの集団に属していることが、みじめで苦痛だった。

お礼を言うべきことを私は一度でもしてもらっただろうか?

入団したとき挨拶くらいはしただろうけど、「コーチ」と何かやり取りをしたことはほぼなかったことに気づいた。

時代的な背景もあり、水も満足に飲めない環境地獄だった。

結局ミニバスは辞めた。

体育の授業では、校庭に半分埋められたタイヤや馬跳びはなんとか跳べる(またげる)けど、跳び箱は跳べない。

踏切板を置かれたところで、分からない。

周りの動きを見ても、「上手に跳んでる」事実が分かるだけで、どうしたら跳べるのか結局分からなかった。

中学生になると、跳び箱の奥行は更に伸びた。

小学校にある跳び箱も跳べないのに、こんな細長いの跳べない。

マット運動身体をどうしたらそうなるのか分からなかったし、体力測定のボール投げは最低ラインの線までいかなかった。

小学校の担任体育教師も、見ているだけ。きっと安全管理のためだろう。それは必要なことだ。

たまに上手な子が何かを挑戦しようとしているときには手助けしてたけど。

私にかけられた言葉は「やれ」「なんでできないの?」だった。

こっちが知りたいくらいだ。

まあ分かる、分かるよ、できる子を更にできるようにする方が簡単からね、達成感もあるだろうし。

でも指導する立場としてできない奴にそれができないならせめて黙ってろ。

あれかな?できない奴をこき下ろして恥さらしにすることでストレス解消してたのかな?

サンドバッグかよ。

教育者とは何だろうか。


競技ルールは知っていることが前提で、みんなどこでそういう知識をつけていたのか不思議だった。

今ならインターネットで調べればすぐに出てくるけど、当時はどうやって調べたらいいのかも分からなかった。

部活運動強制だった。

田舎学校から選択肢もなく、しぶしぶバレー部に入ったものの、ここでもやっぱりルールが分からない。

やたら人数の多いこのバレー部は、だいたいの人が球拾いと、走り込みと、腹筋背筋。

ボールに触れる機会はない。

この時点でかなりの運動嫌いになっていた私にとって一番マシだったのは球拾いだった。

単調で時間永遠にも感じられる走り込みや腹筋。ただ苦しいだけだった。

競技をする方がまだ気が紛れていいけど、参加に値する身体能力がないからひたすら苦行に徹するのみ。

ここに所属する意味とは何か?

お片付け要員にしたって多すぎる。

ただぞろぞろとついていくだけの、休日試合

何もできないし、できるようになることもないし、得るものもないし、苦痛と拘束と息苦しさばかりの体験だった。

オリンピックスポーツ大会にも興味がない。

他人がやっているのを見て何がそんなに楽しいんだろう?なぜそんなに熱狂できるのだろう?

アイドルかにも興味ないけれど、友人に「それは推しからだよ」と言われて、概念として納得できた気がする。

プレイヤー自身ファンであるならなるほど、確かに夢中にもなるだろう。

ただ、ファンでも推しでもなんでも構わないけど、

なぜ公的というか、全国大会とか世界大会とか、テレビの独占放映だとか、交通規制してまでやるのだろう。

それって随分と押しつけがましいと思わないか

スポーツからの「みんなスポーツ好きだよね!協力してくれるよね!応援して当然だよね!」という圧を感じる。

歴史を見れば、肉体賛美や競技場での決闘に湧き上がるのも理解できるのだけど、

少なくとも「全員がスポーツ界や競技好意的ではない」ということは知っておいてほしい、と思う。


結論というか、提案として、

スポ少に限らず何等かのスポーツをする団体は、ぜひとも目的や応募条件を明示してほしい。

ルールも知らねえ運動音痴はお断り、としてくれればこんなみじめな思いをすることはなかった。

学校の体育も部活も、エンジョイ勢ガチ勢(とできればゆるーいグループ)に分けて運営してほしい。

教員不足や労働環境に関する問題は別の深刻な問題なのでここでは置いておく。

その競技を思いっきりやりたい人たちにとって、私のような運動音痴は足を引っ張るだけの存在だし、こちらも楽しめるはずがない。

お互いにとって不幸なのだ

教育カリキュラムとして身体を動かすことがマストなら、運動音痴には基本的身体の動かし方だとか、そういうところから教えてほしい。

学校教育地域環境で体育嫌いになる人が一人でも減ることを願う。

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