はてなキーワード: 自己分析とは
もう何年も嘲笑の的になっている「自分探し」だけど、あれってそんなにおかしいことか?
むしろ、やって当然のことなんじゃないのか?
高校や大学を出たばかりじゃ、社会に出た自分が生涯続けていくべき仕事は何なのか、ピンと来ない奴もたくさんいるだろう。
なんとなく「イイ会社」を適当に選んで入って、それが生涯の仕事だなんて実感もないまま二十代から四十代までの一番エネルギーに満ちた時期を過ごすのは、個人として見ても人生の浪費だし、国として見ても馬鹿にならない損失なんじゃないのか。
もちろん中には、教育を受けている間に自分の興味や適性がはっきり見えて、迷うことなく仕事を選べる幸運な奴もいる。
だけどそれはかなりレアなケースで、周りを見ても、どうして自分がその仕事に就いているのかをはっきり説明できない奴は多い。
これはつまり、「自分探し」(=就職活動中によく言われる「自己分析」)が足りていないからだと思うんだよ。
自分が一所懸命になれる対象が何なのか、在学中には結論が出なかったなら、出るまでじっくり考えたらいいじゃないか。
その間は実家に寄生していようが、バイトで食い繋いでいようが、それでいいじゃないか。
そうしている間に選べる仕事の幅が狭まっていくのは、受け入れなきゃいけない事実だ。
だから結論が出るのは早いに越したことはない。
まぁあれだ、愚痴だ。
自己分析をして、そこから自己PRとしてアピールできそうなものを見つけようとしたが、見つからない。
体育会ではないが(ロボットコンテストに出場する部活、これは文科系?)、人並みに部活もやってきた。
2年時には部長も経験した。「団体として」は全国大会レベルで結果を出した。
…だが、結果を出した大会でチームを引っ張っていたのは俺ではない。
バイトも人並みに、大学入学以来途中で辞めることなく数年間やってきた。自分なりに努力をして、進歩してきたつもりだ。
…けどバイトなんて評価されるものではない気がする。バイトなんだから…
学部生だった時は、学業も人並みに頑張った。
研究室の用事と重なってしまったので、4年後期などは休んでしまった時もあったが、「無遅刻無早退&全ての講義で良以上」だけは守った。
成績も学科内で上位1割にはいたと思う。
…けど、上位1割って実際書いてみるとそこまで凄くはないよね。首席で卒業と言うなら凄いんだろうけどさ。
…けど、国内、海外1回ずつしか発表できてないようじゃ研究をバリバリやったとは言えない。
さらに、海外で発表した時はポスターセッションだったし、英語もボロボロだった。
こんなんじゃアピールできやしない。
ただでさえ景気悪くなるから就職が大変になるというのに…。
自己診断が極端に偏ってしまうのは、
多面的に人間をとらえる訓練が足りないからかな、という気もしてきた。
人の性格ってそのときの状況だったり、相手との関係性の中でしか定義されえないものだから、
「これはこうだから」と決めつけるのは難しい。
なんつーかな、
自分がいるけど、他人との関係性があって、そこに必要とする性格が出てくる、
というか。
http://anond.hatelabo.jp/20081130034946
上の無い知恵絞って必死に適当に書いたまとまりのない文章がなんか様々な反響と参考になる意見を沢山もらっていたので
これを元にもうちょっと掘り下げてチラシの裏に自己分析(診断?)してみます。
*
「長所は短所の裏返し」とのことなので、じゃあ短所を長所に昇華すれば(ry
もうこういう発想の時点でダメな気がする。気休めの捏ね繰り返しにすぎないと思うけど。欠点は欠点だし。
まあ「どこを見ても努力の証が見えない能無しだから」とかだけ言ってしまえば
それで俺は大満足だし皆も言うことないだろうからそういうのは自重する。
一番短所だと思ってるのは、学生時代からずっとコミュニケーションが苦手なこと。
その要因は「滑舌が悪い」「話が面白くない(笑える、興味深いという両方の意味でも)」「声質が変」「声が小さい」「自分の顔が嫌い」「無神経で失礼」
といろいろ。「面白くなくてそれで人間のつもりか」なんて思っちゃってるから、自分からコミュニケーションを取ろうとすることもなく、
克服するために路線バスを利用して料金を払う際に声を出して「ありがとう」と言ってみたり、声を使う仕事に就いてみようとしたり、
「話し上手」なんて無理だから「聞き上手」になろうと聞き手としてどんなアプローチが望まれるのか研究してみたり
ネット上の文章投稿で訓練とばかりの怠惰をしながら「コミュニケーション能力上がらないかなー」みたいなことは思ってたけど
それらが実ることはもちろんなく。そもそも努力ってレベルに満てないから。
そういうこと言ってるけど、実際の所は他人の、主に無神経さによく腹を立てたり憎しと思っていたりで、別に博愛主義者ってわけでもなく。
その辺は、子供の頃に人をからかって遊んでたことは隠せないと思った。
俺はこの短所はどうしようもないと思ってるけど、それでも長所に混ぜ返せるものなのだろうか。
*
そんなこと考えずに一心不乱に努力しろってのが正解に近い答えだとは薄々気づいているのだけど。
そもそも自分には実になる努力は無理、ってのは非建設的なのでやめておくとして、
目標を達したとしてもコミュニケーションが怖いからとか、目標に先立つ自信がないから動けないとかで。
*
自分を好きになれるというか、自信を持つこと、その理由を能力か他人以外にどうしても見出せない。
そういう理屈じゃないとは思うんだけど、誰かうまい自信の持ち方とか教えてくれないだろうか。
自信について、充実した人生送ってる母とか、能力生かして世渡り上手でリア充やってる姉とかに聞いてみたら
「誰も自信に満ち溢れて生きてる人なんていない」って共通した回答が返ってきた。
これは才能なんだな、って思った。
自己陶酔は自信のために必要で、それを表に出すのが驕りに見られるからダメなのかな。
そうは分かっても、自分の体のどこにも自分の好きな所はないんだけど。今のところ。
*
人と比べるというのは、なんか違う気はする。確かに負けず嫌いな思いは強いけど、人の良い所だけを見ようとは思ってない。
自分の好きな言葉には「十人十色」とか「一長一短」とか「攻防一体」とかあって、
俺と付き合って損なことも一杯あるけど、同じぐらい得なこともあるよって心意気で人とは付き合いたいと思ってるけど
*
「自分を嫌いと言っておきながら結局自分が好き」という自分ツンデレは、人間としての、抗し難い最低限の防衛機制だと思ってる。
それを含めて自分が嫌いで、そこは持ち上げるには値しないと思う。ここに書いてるのは、部屋に閉じこもってばかりじゃ価値観が広がらないからで。それも怪しいけど。
*
10才の頃に何してたかなんて、そこまで分析するのはどうかなと思った。
その意味を疑問に思うし、過去からは何も生み出さないっていうし。それに絶対途中でうわあああああああああああああああああああってなるからやりたくない。
こうやって自分にクヨクヨしてるのも、そんな風に今の自分の主観というフィルタから見ているだけだからで、
そのフィルタを外すか、とっかえる方法を見つけないとどうしようもないと思う。
*
・そのパラドックスは怪しいかも。自覚が無いあたりその気がありそう。
・そもそもゼネラリストと言えるほど知識が身につくかどうか・・・
・「自分を受け入れてくれる場所」はネット上で探してるんだけど、IRCでもmixiでも2ちゃんねるでもはてなでもTwitterでもないとは感じてる。
*
あー、やっぱまとまらずに長いだけの文章になった。分析と言えるかも怪しいな。要は非モテ思考だよな俺。
そんななのでエゴグラムという、より客観的な自己分析をやってみたらこんな感じだった。
そうと言われたらそうなんだろうけど。
ウェブ上の知人である女子大学生Aさんと就職活動についてある議論をしていて、意見が真っ二つに分かれた。
やりたい仕事、行きたい業界、将来の具体像、勉強している専門分野、、、なんでも良いから自ら行動して得た知識なり経験を文章にまとめて
アウトプットする事で、自分がどういう人物かを客観的に判断する材料になるし、もしかすれば就職の面接の際に人事担当者が目を通してくれて、
面接だけでは出てこない人間性をブログから知ってもらえるかもしれないという理由である。
Aさんは当初、保険業界に行きたいと言っていた。
だが、私がアメリカのサブプライムの話や、少し前に話題になったAIGの話をした途端行きたくないと言い出した。
保険業界の景気は微妙という理由で行く気が失せてしまったようだが、私個人の意見としては大きな流れを心配するよりも
もっとスケールダウンして自分がやりたい仕事に就く事の方が重要だとその時思っていた。
今回話した内容は総合職か一般職どちらを受けるかというものだった。
恥ずかしい話であるが、私はつい最近まで総合職と一般職という区分がある事を知らなかった。
一般職は定型業務をこなし、その仕事のエキスパートを目指し、総合職はその会社の基幹業務に携わって、
Aさんは総合職を希望していたが、日が経ち今では一般職へ応募しようと考えているようだ。
理由を聞くと、「転勤したくない」「定時で帰りたい」「男性社会の中プロモーションを狙う気になれない」
「総合職のスタッフをサポートしたい」など納得出来るものからそうでない事まで色々出てきたが、
幾つか先入観があるように見受けられたので本人の考えの変化を敢えて聞き入れずに、私は総合職からまずは応募する事を勧めた。
Aさんはいつも私がAさんの意見の反対を言うと思っているらしく、少しイライラしていた様で、勧める理由を手短に説明して欲しいと言った。
こういった話題を手短に説明しても、必ずどこかに誤解が出てくると思ったので、
ある商社を例にとり総合職と一般職でどういった道に行くであろうか私自信その実際は知らないが、イメージ出来る範囲で説明しようとした。
しかし、その話を聞かずに手短にと言うので、私も自宅で仕事をしながらだったので少しイライラして
「そんな態度なら総合職も一般職も務まらないでしょ」というような事を言ってしまった。
この一言でAさんを怒らせてしまい、
「自分の意見をさも正しいかの様に人におしつけないほうがいいよ」と言われた。
確かに私は聞かれてないことまでベラベラ話してしまう癖はある。
だがAさんの言う普通の大学生では無いなりに自分が経験した事を言っているので、
「そんな敵作るような言い方しか出来ない人が仕事しても誰もついてこないよ」
「上には一生立てないよ。壁にぶちあたると思う。」
Aさんは相当私の話に怒りを覚えたようだ。
「18から職種や待遇変われどずっと仕事は続けてるし、誰に対しても君の言う敵を作る言い方をしているわけではない」と言えば、
「今はうまくいっていてよかったね」
「所詮今でしょ。先の事を言っているの」
と返ってくる。
こんな不毛な話に時間は割けないので、話を整理し、Aさんは冒頭にあったブログの話を持出した。
「大手は100%みないよ(おそらく人事担当者が)そんなの、という意見をみなさんからもらいました」
と言ってきた。
さすがにこれはカチンときた。
私はAさんにブログを書く前の心構えとして、
「内容が第三者にとって興味が無ければ誰も読まない自分だけの日記になる」
「担当者が必ず見るわけでもないし、それを期待して日記を書いても意味がない」
「ブログを書いて、それを担当者が仮に読んでくれたとしても、企業側の求める人物像と合致していなければブログがマイナスになる場合もある」
と何度も言っておいた。
初め就職活動のツールとしてのブログの話をした時に、Aさんはブログがある=就職に有利と考えてるフシがあったので、
決してそういうものでは無くて、あくまで自己表現や自己分析に役立つ手段に過ぎないと再三にわたり説明しておいた。
それにAさんが聞いた人達のブログに対する「(おそらく人事担当者が)100%見ない」という意見は私の周りでいえば同意できない。
自分自身の経験として、仕事を探したり、履歴書や作品集を送る際にブログを自己紹介の1つとして紹介している。
実際全ての担当者さん達が読んでくれたかどうかは解らないが、面接の時にブログで書いた記事に対する質問があったり、
ウェブ系の面接ではブログを持っていて当たり前といわんばかりの内容だったので、数十分の面接だけでは自分をプレゼン
出来ない部分をカバーできるツールとして本当に重宝している。
こういった経緯があったので、「コンテンツを用意せずに人の意見だけで少数派の私が間違いだと思い込んでいる。
100%見ないという意見が正しいかどうか判断する前に実際ブログを書いて自分で実感してからにしてほしい」と言った。
返ってきた返事は「そんな事に無駄な時間をかけたくないんでね。」である。
私は
「ブログを書けば必ず担当者が読んでくれて就職に役立つ。ここまでしか考えずに相手が読みたくなるような内容にしようと考えようともしない」
「面倒くさいから?他にやることがあるから?」
と半ば挑発気味に羅列した。
そして
Aさん「意味が不明。わからない。」
私「(内心)わかっているでしょ」
Aさん「わからないっていっているのに、そんな所まであなたは信用してないの?」
私「俺に今までに信用あるかどうかを質すような話をしたか?」
Aさん「無いけど、普通分からないと言われたら分かりやすく詳しく説明するのが当たり前、常識人ならね」
私「それがあなたの常識なんだね」
Aさん「常識無い人は知らない。じゃあ分からないって言われたらどうするの?」
私「相手によるが、上司とか重要だと思えば教えてもらうか自分で調べてくるし、
興味無い話であればわざわざ詳しく説明してもらわなくてもいいと思う」
私「じゃあ詳しく説明しますよ」
Aさん「じゃあって何?詳しく説明しない事があなたの常識ならあなたはどうするんですか?」
私「(相手によるって言っているだろ)」
Aさん「じゃああんたの当たり前は何?」
私「君がもし説明をする側立場で、相手が興味無さそうだったり上から目線でそういう事言われても説明できる?」
Aさん「しない」
私「ですよね。ならどういう事かわかりますよね。」
Aさん「信用の質おとすこといったか?と聞いておきながら結局は自分が鼻から信用してないでしょ」
私「質じゃないよ。質す(ただす)だよ。」
Aさん「ただすって何?」
私「信用しているかどうかを確認するようなことをした?っていう事だよ。」
Aさん「よくわかんない。結局信用されていないと分かったけど全否定もするよねそれなら。」
Aさん「別にいいけどね。それならそれで。」
ログアウト
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経緯と補足 12/05 11:30
私は夜学に通う社会人学生(24)でAさんは現役女子大学生(21)。
某メッセンジャーでたまたま知り合って顔も名前も知らない間柄。
私自身新卒枠で就職活動をする予定でいる事と、専攻も年齢も違っても同じ三年生なので私が知っている事は教えてあげて、逆に現役の大学生は具体的にどんな就職活動をしているのか気になっていたのでお互い聞きあったりしていた。
この話は伏線が幾つかあって、
SPIやら筆記やらを勝ち抜いて面接で企業が求める人物であるとアピールする事が就職活動だと思っているようだ。
私は新卒で大卒が受ける就職活動は経験した事も無いが、就職はお見合いだと思っている。
その会社の求めてる人材では無ければ会社なんて無数にあるわけだから、ウェブや直に会って自分がここに入りたいと思える会社以外は相手の意向に合わせなくてもいいと考えているからだ。
Aさんは勝ち進む試験。私はお見合いのようなもの。この時点で就職というもの対する考え方が違っていた。
Aさんは確かに人の意見を信じ込んでしまう所があり、「就職活動用に名刺作らないと」と言いだした事がある。
私「作りたいなら作ればいいけど採用担当者がセミナーとかで膨大な数の学生から
挨拶代わりに学生名刺を渡されたらその人どう思うか想像してみ。」
Aさん「名前覚えてもらえるし連絡先も書いてあるから色々と便利でしょ」
私「名刺ってただの紙っきれじゃないんだよ。俺は色々なシチュエーションがあるかも
わからないけど社会人同士が対等の立場で各組織を代表して自分の身分・分野を相手に
知らせる重要なものだと思ってるから学生の分際で会っていきなり名刺交換って自分の
立場わきまえていないと思われるんじゃない?」
Aさん「だって今年内定貰った先輩が絶対必要って言ってたよ」
私「その先輩は必要だったかもわからないけど、採用担当者に会うたび会うたびに自分
の個人情報をバラまく人は信用出来ないし、立場関係理解してないと思っちゃうし、
なんか権力者に媚びてます感丸出しで気味悪いから、数回会ったとか長時間話してそれが
自分が検討してる会社であったら名前と所属学校名とか学校で使ってるメールアドレスを
書いたメモを渡す程度であとはエントリーしてから頑張ればいいでしょ」
Aさん「メモは失礼でしょ笑」
私「んーでもメモすら渡す必要も無いと思うけどね。
採用担当者だけじゃなくて、相手に興味があれば顔とか名字くらい覚えるものじゃないかな。
どうでもいいと思っていれば名刺は処分するし、顔も忘れるよ。」
数日後
Aさん「作り方がよく分かんないからやめたよ」
私「(ググレカス)」
こういった流れを幾度となく繰り返し、どんどん口調が変わってきて遂に臨界点に達したのが昨日晩のようだった。
TBより
Aさんの価値感を『正そう』としている元増田さんにも違和感が残ります。
他人を正すのは難しいと思います。
確かにその時その時では正そうと思っていっている訳では無いのだが、読み返してみるとAさんの意見を殆ど私の意見に「正そう」としているように見えるし、きっとAさんもそう思っていたに違いない。
次いで別のTBより
アドバイスじゃなくて「そうだよね、そうだよね」とひたすら承認してあげたらOK。
これは本人に一度聞いた事がある。
「俺の意見をしっかり読んでから反論するんじゃなく、少しでも自分の意見と違う事を言えば聞く耳持ちませんっていう態度をとるよね。だったら同意するしないに関わらず全て肯定したほうがいいの?」と。
Aさんは「それじゃ話す意味無いじゃん」と返ってきた。
一方通行の話合いは価値が無い事は解っているみたいだが、私が「それは違う」と思った事を説明し、それに対し「主観でモノを言わないで」と言われればなすすべが無いのが現状だ。
Aさんは「こんなこと常識でしょ」と良く口にする。
その常識さえも疑って検証して欲しいのだが、いくら丁寧に言ったとしても押しつけの一種である事に変わりは無いのでもう言わない事にした。
http://anond.hatelabo.jp/20081127001705
店長も尊敬できないとなると回りに尊敬できる人間がいないんだ。それはしんどいな。
えっと、マネキンとか入る店?
私は対人恐怖の気があって、一か所にいると必ずトラブルから、あちこち店を渡り歩くマネキンが向いてるんだ。第一印象では悪く思われることないから、出来るだけ違う店違う店に入るようにしてる。パッと見、威勢がいいから「うちで働かない?」って、誘ってくれるお茶屋さんとかダンゴ屋さんとかあって、そんな不安定な仕事、いつまでもしてることじゃないでしょ、みたいに言われるんだけど。自分の性格と稼がなくてはならない金額と折り合えるのがマネキンなんで、私自身は満足してる。
何か親が納得する理由がないと、都会に出ることも出来ないってのは可哀相だと思う。
自分のやりたいように自分の人生を決められないんなら、生きてくのが面倒になって当たり前だよ。親の奴隷になるために生きてるんじゃないってーの。ねえ?
なんで、俺は俺のことが嫌いなんだ? って、そこからやり直してみたらどうだろう。
ちなみに、タクシードライバーも対人恐怖気味の人に向いてるって聞いたことがある。お客ったって、同じ人に当たることはまずないから、お客が乗り込んで、目的地まで運んで、降ろして、って、そのくらいの時間の対人なら、恐怖気味でも出来るらしい。こっちは実践しているわけじゃないから実態はわからないけど。
まあ、何はともあれ。自己分析ってやつ? やる気あったら、やってみたら、今より楽になる……と、いいな。がんば。
就活の自己分析をするには自分史を書く、っていうのがまあ普通らしい。
でも、中学時代が全然思い出せない!!
なぜ?記憶喪失?
先輩に相談したら「通知表見てみれば?」と。 (°∀°)なるほど!
で、母に探してもらうと・・・・
でるわでるわ。
え?学級委員とかやってたっけ?
え?放送委員も?
覚えてねー!
かろうじて覚えているのは、文化祭と部活の部長をやっていたことくらい。
昔からマイペースな子だったんだね。
その代わり責任感や達成度は二重丸かー。
なんか必死に一つのこと突き詰めてた気がする。
そうそう、この時期からゆとり教育が始まったから、総合の科目がある!
二年付き合った彼氏から、
もうそれはあっさりと振られてしまってから二ヶ月。
自分の中では一番の大恋愛だっただけに、ショックは大きかった。
その喪失感からなんとか立ち直ろうと、がむしゃらに生きてきた。
ゼミの論文を書いたり、就活を始めたり、アルバイトに打ち込んだり。
一人で部屋でくさっていても仕方ないと、なるべく人に会うようにした。
今回のことをバネにして、何かを得ようとしていた。
夜に孤独を感じないように、ひたすらひたすら疲れて帰るようにした。
部屋に帰って、倒れるように眠る。
そうしたら時間が解決してくれる。
そう信じていた。
ラブソングに共感して涙したり、
写真を見返して「このころは楽しかったのに」と引きずったり、
友達に夜な夜な電話して慰めを求めたり、
そうやって自分や相手を責めるような事は無意味だと思っていた。
そんなことをしても前に進めないと思っていた。
今までもそうだったし、これからもそうだと思っていた。
(この可愛げのなさも別れた原因だったのだろうと今では思う。)
また、うぶな高校生じゃあるまいし、
「あんなに好きって言ってたじゃない!」なんてすがりつくことはばかげたことだと思っていた。
「結婚しよう」、「ずっと好きだよ」なんて言葉は甘く心地いいだけであって、
それを信じることはじわじわと自分を侵食し虫歯にさせるのだ、と。
しかし、私は自分が思った以上に繊細な人間だったようだ。
先週、就活でであった初対面の大人から指摘された。
「あなた、うーん・・・逃げてるでしょ?今。
なんていうか心の奥底になにか触れてはいけない弱点があって、それを隠そうとしているみたい。」
その指摘が根拠があろうとなかろうと、(誰でもいえるようなことではあるし)
私の心は過敏に反応したのは事実だ。
見栄をはって「笑顔でさよなら」「別れてもポジティブな関係でいましょうね」なんて
恋愛のHow To本にでも書いてあるような別れ方をしたからいけないのであろうか。
表面上はうまく流れる私生活。
それでも、何か、ふとしたことで私は敏感に傷ついていく。
そう。
未練。
それから眠れぬ夜が続いている。
なにかにつけて涙が止まらない。
今までは「つばでもつけときゃ自然に治る」とほっといて治していた傷だったとしても、
今度はむりやり閉じてほうっておいたせいか、膿んできてしまったようだ。
空元気はあくまで空元気であって、本当に立ち直っているわけではないのだ。
罰当たりなことだが、
失恋したと聞いて優しくしてくれた男の子との、その新しい恋の予感に胸を躍らすよりも、
彼の付き合うときの言葉を思い出し、別れるときに言われた言葉を思い出し、そして泣くことの方が癒されると感じたのだ。
そう、私は本当は悲しんでいたかったのだ。
彼と付き合って、別れて、今あるのは自分の半身を失ったような喪失感。
それがどんなに辛く困難な事柄だったとしても、素直に悲しんでいたかったのだ。
何もせずに、何も話さずにいても満ち足りていた。
疲れて帰って、彼の腕で眠ったこと。
一緒に見た夕焼け。
彼と過ごした時間。彼が私にくれたすべて。
愛し、愛された実感。
その恋におぼれた幸福感。
彼がいてくれただけで、私の二年間は無敵だったのだ。
彼は私の恋人ではあったが、父親であり、兄であり、友人であり、同志であった。
その温かさを思い出し、甘い幸福感を得て、
今ではそれがないことに絶望し泣き、
そして泣き疲れて眠る。
「ずっと好きだよ」って言ってくれた、
その言葉を信じたことを誇り、そして後悔する。
私はきっとそういうことがしたかったのだ。
同時に心配してくれる友達がいるという恵まれた環境にもかかわらず、
その手を私は素直にとることができなかったことを恥じた。
彼がいなくなったことで、私は無防備になった。
自分で自分を守らなくてはいけないと、私は私を何かから守ろうと必死になってしまった。
傷ついていることを認めたくなかったのだ。
確かに、きっと時間が解決してくれるのであろう。
でも再生のときは今ではないのだ。
時が来るまで、私は私の弱さと向き合わなければならない。
全てが壊れてしまったのだと認めなければならない。
自分の心の弱さの全てを破壊して、
二十歳を過ぎて、何かを知ったような気になっていたけれど、
私はきっとこれからも何度も失敗するのだろうと、
泣きつかれて思いの丈をPCにぶつけながら思った。
あなたがやっている仕事というのがどういうものなのかはちょっと分かりかねますが、今の年収を落とさずに同業種で正社員を目指していて、でも「経験者求む」「実務経験なし」で落とされているわけですよね。
履歴書上の問題はちょっと後回しにして、あなたの経済的な問題はどういった経緯があるか分かりませんが、一時的に収入を落としたとしても、まずは実務経験を積むことが第一だと思います。
僕は、一度未分野の正社員で揉まれたほうが良いと思いますけどね。資格を持っておられるのであれば、数年後の社内異動やキャリアプランなどで今やっている仕事、あるいは近い部分に再び携われる可能性もあるかもしれない。
あなたが目指している仕事がどういったものなのか、情報量が少ないので分かりかねますが、少なくともあなたが不採用となっている分野については、あなたの能力や経験が企業側とマッチしていないと言えますので、別の道を模索されたほうが良いと思いますし、経済的な問題も解消されるのでは?そのあたりの自己分析はされていますか?いかがですか?
たまに心が落ち着かない。そんな夜って、あるよね。
たまに、無性に、悲しい。そんな夜って、あるよね。
あきらめのつかないことばかり、あるよね。許したくないことばかり、あるよね。ぷりぷり怒ってたら、でもそれ、同族嫌悪だったって、あるよね。ね。ね。
くだらねえ。何もかも。いいや、くだらなくはない。諦めたい。何もかも。いいえ、諦めたらそこで終わり。諦めたふりばかり、何もかも分かったような顔ばかり、うまくなっていく。ひとつ、確認し、ひとつ、安心し、そうしてまたひとつ、不安を抱え込む。終わりのないいたちごっこと知りながら繰り返してしまうのは、結局そうやって、悩んだり苦しんだりすることが、気持ちいいのだろう。と、私がいった。
いつも自己分析に終始している。そうしていつも、死にたい。という、適当なことを、いっている。何もかも分かったような顔ばかり、何もかも知っていて、何もかもに退屈している、とばかりのポーズばかり、うまくなっていくが、けれど、当の本人は、本当は何にも知らない。実に、無知である。と、適当なことばかり書き連ねて、それでお茶を濁している。くだらねえ。死にたい。という、嘘ばかりついている。
要するに、暇なんだな。要するに、余裕がありすぎて、頭のなかがこんがらがってしまうのだな。要するに、お前、つまらない人間なのだな。と、私がいった。不愉快とか、くそっおもしろくもないことって、人間、たくさん、あるよね。でもその罠に引っかかったら負けなのさ。その罠に引っかかり、同じレベルで、くだらない言い合いをしだしたら、終わりなのさ。要するに、暇すぎて、死ぬる。という、嘘ばかり、ついている。
歳をとって分かったことは、どこにも正解がないということ。歳をとって分かったことは、みな不確かな道を手探りで歩いているということ。歳をとって分かったことは、誰も何も知らないってこと。苦痛を緩和する手だてはない。身を寄せるに足る性戯はない。あ、性戯はあったが、正義は、ない。正しく、大手を振って歩き、他人の頬を、その伸びきった爪で掻ききっていい正義など、ない。
歳をとって分かったことは、何でもかんでも自分で決めなくてはいけないということ。ずっとずっと、強く、大きく、確からしいものに頼ってきたから、歳をとっても、正しいことが、決められない。という、嘘ばかり、ついている。
なんでデザイナー志望のオタクは見た目に気をつかわないんだろう。絵を描くしデザイナーいけるかな、みたいな感じなのかな。デザインに見た目なんか関係ないけど、自分を客観的に見てプレゼンをすることができてないんだもんなあ。もうそれが服選びに出ている。就活してヘコまれても慰めるの難しいじゃん。
だって大学入ってからずっとデザインやってたわけでもなく、大学の間オタク活動していただけで、就活する段階でいきなりデザイナー目指したんじゃないか。中にはセンスの良い人もいるはずなのになあ。
不摂生が肌や髪に出ている。なんで毎回、一息で喋って「すぃーっ」って息吸うの。デザインをphotoshopのレイヤースタイルに頼るな。デフォルトのドロップシャドウあてるな。萌え絵をポートフォリオに入れるな。せめてその絵を使ってデザインしろ。
でも言えないんだなあ。本当いい子なんだよ。器用だし今はデザインできなくてもすぐできるはずなんだよ。ちゃんと自己分析して、会社選んだら就職できるはずなんだけどなあ。なんて言ったらいいんだろうな。そろそろ「縁がなかったんだよ、あの会社見る目がないんだよ」は厳しい。
わざわざカードとか作って、わざわざ知り合いに「他己分析したいから書け」とか言われたりすると特に。
大学生にもなって、自分の軸とやりたい事とそれを実現するための戦略を固めることも出来ないなんて一部の馬鹿だけだと思っていたけど、
どうやらエリート(笑)大学のヒトでも全然出来ていないらしい、と気づいた。こりゃ自己分析(笑)とかする訳だ。
エリート(笑)大学で留学までした人とかでも、「学校で金融勉強したからとりあえず金融に行きたい」とか言うんだぜ?他にも話を聞いてみると、みんな馬鹿の一つ覚えのように証券・メガバンク・5大商社とか受けて、結局メガバンしか受からなくて涙目だったりする。シューカツまで友達と一緒じゃなきゃ気が済まないらしい。こりゃあ日本も終わったなとおもう。
あと2ヶ月もすれば、2010年卒の学生が就職活動を始める頃になる。
今まで自由に生きてきたけど、働かなきゃいけないって思って動き出す人もいる。
もちろん、働いたら負けかなと思ってる人も増えてきている。
仕事って、なんだろう?
このシンプルな質問に答えられる人はどのくらいいるのだろうか。
正解なんてない。自然に飛び出してくる答えが正解。
だけど、急に聞かれると、困る人もきっと多いと思う。
生きがい?自己実現のため?金のため?
一通りの答えは出せる。だけど、そこへさらに「なぜ?」と聞くと、言葉に詰まってしまう。
なぜ仕事が生きがいなの?仕事で何を実現するの?なぜ金を稼ぐの?
そうやって、どんどん深く掘り下げて考えていく。
これがいわゆる自己分析と言われているもの。
でも、就職活動だけに限らない。こうやって考える事は、いつも大切なんだ。
特に子供に対し、有害な情報や事件に巻き込まれる危険性のあるプロフとか出会い系とかを規制しろ、と。
違う。
子供だって賢い生き物だ。これは危険だと自分で考えて理解できれば、自然に離れていく。
確かに子供を守りたい気持ちはわかる。だからって、悪いことを見せないのは間違っている。
事実を知るには勇気が必要だ。その勇気を付けさせ、自分で情報を判断させなきゃいけない。
社会人だって同じだ。
今や一つの会社に居座ればお金がもらえる世の中じゃなくなった。
自分の考えている生活に程遠い待遇なら、転職を自分で考えていかなければ、社会から転落してしまうこともある。
ワーキングプアという言葉がようやく日本にも浸透してきたけど、ワーキングプアには誰だってなる可能性がある。
自分で今の状況を冷静に見つめて、着実に判断して道を選んでいかないと、もう生き残れない。
他人の意見で自分の進むべき道を決めちゃいけないんだ。
自分で仕事を作り、働いて仕事や社会の全体像を掴んで、力をつけなきゃいけない。
この世の中を生き抜くには、肩書きや会社じゃなくて、自分の腕っ節に頼らなきゃいけない。
これから仕事をしようと思ってる人、就職活動をしようと思ってる人は、こういうことを強く心に留めてほしい。
そうして、自分の思い描いてる幸せを、ぜひ掴んで欲しいです。
仕事に行って来ます。
あなたに漠然とした質問をひとつします。
深く考えずにとりあえず答えてみてください。
「答えはどこにあると思いますか?」
本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。
でも、答えてください。
反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。
何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。
答えましたか?
これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。
「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。
このテストは、速水健朗「自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し病患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。
「自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。
でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。
娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。
「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。
しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。
では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。
そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。
現在の子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。
「自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探しを社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。
我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。
私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質は恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。
私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組は時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。
「ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。
「高身長・高学歴・高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。
私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せな社会人になれると刷り込まれ続けてきました。
というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事=自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。
自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。
常に本当の自分とやらを見つめ続け、
「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。
問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探し病キーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。
罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。
その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。
(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育」
をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、
「個性重視教育」
になってしまったのです。
ファンタジーが現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。
だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉のキャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。
相当に丁寧な言葉のキャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。
このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。
50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、
「へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。
問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。
だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。
「自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。
たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。
しかし、まさに「ブーム」でした。
「ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。
自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。
しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。
自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。
そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html
Baldanders.info
「『自分探しが止まらない』を眺める」
http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml
どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。
自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。
妻のおかげです。
私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。
私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。
あくまで事実を書いただけですw
より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。
キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙な空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。
要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。
就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。
一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。
なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社に就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。
要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教が憂鬱で仕方なかったとのこと。
相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。
まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。
実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。
私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
「俺には輝かしい学歴があるからね。」
「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。
だけど、俺は違うよ。就きたい職業のイメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」
「仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」
「本当に?」
「たぶん…。」
「私を幸せに出来るの?」
「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」
真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。
私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。
輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女に幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。
三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップ・ステップ・ジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。
走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。
更に言えば、ホップ・ステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史の教科書ではむしろ多数派です。
そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界で内定をもらいました。
しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。
跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。
その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。
三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードとタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。
内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。
そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。
「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。
だって、就職留年して別の会社に内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」
彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。
そして、私は無事に大学を卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。
助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。
たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。
足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。
だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。
でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。
「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。
ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。
でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。
閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験の競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。
でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。
私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。
学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。
大規模リストラのニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。
そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。
かといって官僚も、天下りありきの賃金構造でモチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。
そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。
確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。
でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。
だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」
「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」
「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」
「ある!…はず。」
「食べていけるの?」
「…いけると思う。」
「子どもの学費もあるんだよ。」
「いける…ん…じゃないかな…」
「厳しいんじゃない?」
「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」
それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。
そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。
というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通の人生以上の修羅の道です。
要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。
でも、なにか確かなものが欲しい!
そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。
私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。
私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。
そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。
「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」
妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。
一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。
今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。
「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。
一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw
もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。
自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。
そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。
結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。
不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。
私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。
そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。
かといって、「キミとボクの関係が世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。
そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。
後編へのリンクを忘れていました。
初増田なもので、すみません。
わが子を自分探し病から守る 後編
都心から急行で30分ほどの、典型的な郊外の住宅地で生まれ育った。
小中は地元の公立で、都心の私立女子校(お嬢様学校でも進学校でもない。念のため。)経由で、短大卒業後は幼稚園の教員に。
その間に付き合った彼は3人いる。
最初は、短大1年生の時に同じサークル(多摩地区の某私大主催テニスサークル)の同級生と。福岡出身の彼の飾らない誠実さ(見方によっては垢抜けない田舎っぽさとも言う)になんとなく好感を抱いていたところ、友人達に「なら言っちゃいなよ。応援するよ!」と背中を押され、勢いで告白してめでたく付き合うことになった次第。けれど、秋からはなかなか時間が取れなくなって(短大って結構忙しいんです)、自然にフェードアウトしてしまった。
二人目は21歳の時に合コンで知り合った信金の人。半年ほど付き合ったあと一方的に振られた。遊ばれたわけじゃないと思いたいけれど、どうなんだろう。
三人目の彼は幼稚園に出入りしていた業者の人でこれは三年続いた。身長が180くらいあって趣味はサーフィン。見た目も性格も文句なしだったんだけど、生活能力が皆無だったので、悩んだ末に別れた。
そして26歳のとき、友人の紹介で今の夫と出会った。
私より9歳上で、最初は特になんとも思わなかった(いい印象もない反面、取り立てて目に付く難点もない)のだけれども、どういうわけか物凄く気に入られてしまい、そうなるとつい情に流されてしまい、おまけに結構高収入(親が経営している会社の常務で、ゆくゆくは継ぐ予定)の上、家事全般もそつなくこなせる。
そして今。
客観的に自分を見ると、幸せなんだろうなと思う。
子供もまだいないので、正直、昼間はやることがない。
週に二回、英語とお花を習いにいって、それ以外は専業主婦の友人とお茶をしたり買い物したりと気ままな生活を送っている。
どちらかというと平凡なサラリーマンの子供として平凡に育ってきた私が、なんでこんな生活をしているのか不思議なくらいだ。
ただ、結婚して一年。なんだか物足りない。夫は優しい。義父母も私によくしてくれている。だけど、なんだか心がドキドキすることがない。
正直に言えば、彼氏が欲しいんだと思う。セフレのような遊びじゃなくて、誠実な人とちゃんと付き合いたい。でも、今の生活は壊したくないので、ちゃんとそこはわきまえてくれる人がいい。そういう人ってどこにいるのかな。
Yahooやエキサイトの紹介サービスも試してみたけれど、結局はヤリ目的の人か、思い込みが激しすぎる人しかいないような気がする。
私はどうしたらいいんだろう?
--------------------------------------
なんて話を、数年前にされたことがある。
・「遊びじゃない誠実」だけど「わきまえてくれる人」という前提条件が矛盾している。
・条件を満たすように見える人はいるかもしれない。ただ、同じ男性として言わせて貰えば、そんな虫のいい条件を守る奴なんていない。
・それでも探すというなら好きにすればいいけれど、期待を裏切られる可能性の方が大きいのを覚悟したほうがいいよ。
という趣旨のことを、親身そう且つ穏やかな表現で、でもストレートに説明したうえで、家に送って行った。
結果?
一週間後の深夜に、俺の部屋に押しかけてきましたよ。ありがたく喰わせて頂きました。
<追記>
http://anond.hatelabo.jp/20080709084045
・前半部分は誰かがどこかで書いた事実だが、後半が元増田の創作
のどれかかと。
という御指摘がありましたが、一応全て俺の体験した実話です。確かに途中の彼氏云々は多少記憶に頼ってる部分はあるけれど、少なくとも結婚のあたりからは、ほぼこの通り。
ちなみに、この後も何度か会ったけれど、次第に相手がメンヘラになっていったので、距離を置くようにしていつのまにかFOした。
親切にしたかと思えば突き放したりを繰り返していた俺の対応もメンヘラの原因の一つだと思うので、「ああ俺って酷い奴だなぁ」と自己分析はするものの、なぜか罪悪感は全くないです。
http://anond.hatelabo.jp/20080612210106
リアルで女と別れて、次の出会いを探す気もなく、Yahoo!パートナーhttp://partner.yahoo.co.jp/で女性捜しを始めた三十路・オタク・非モテの僕の体験記。ゴリラブーツさん、いつも紹介ありがとう。
5月29日から始めたんで、もう1ヶ月半近くになる。シリーズ第六弾の中間報告。あと2週間で会員を辞めるつもりなんで、そろそろ総決算かな。
前回カキコから1ヶ月と間が空きました。もう非モテだなんだとかコンプをなぐり捨てて、でも冷静に女性とお近づきになりたい。本気で誰かと結婚したい……とか考えるようになりました。
Yahoo!のやっている出会い系サイト。あまり援交とかそっちの匂いはせず、恋人・結婚相手探しがメインな雰囲気。主に20代半ばから30代にかけての男女がお互いを探しあう形になる。
♂と♀とのやりとりは、Yahoo!がYahoo!パートナー用に用意した有料メールを利用します。無料だとほとんど会話が成り立たないんで、月1500円程度の出費は致し方ない。
で、自分の居住都道府県やその周囲に検索エンジンをかけると、山ほど女性のプロフが出てくるんです。一応、♂も♀も有料会員なんで、サクラと呼ばれる業者は少ない(たまに他所の出会い系への勧誘メールを送ってきますが)。ただ、相手が大量にあるんで、年齢とか趣味とか体型とか血液型だとか二十数項目ある要素を検索エンジンの"条件"として絞っていくと、異性の数は数十件になる。そこからプロフを見て、気に入った♀にメールを送る……という仕組みです。♀から♂へ連絡するケースもありそうですが、極めて稀なんでしょう。
基本的には、♀優位の世界です。♂は1人で何十もメールを送るし、♂会員は♀会員の数倍はいる。だから、♀が登録すると何十、何百とメールが送られてくる。
♀は、そこから波長があった♂を4人とか10人とか選び、2週間なり1ヶ月なりメールをやりとりして、相手の絞り込みを行う(途中、無言で切り捨てていく♀多数)。
で、最後の数人を「どこかで茶店かお食事でも」と誘う形になる。2ちゃんねるhttp://pc11.2ch.net/test/read.cgi/esite/1214918027/l50では「面接」としていますが、まあ言い得て妙な感じですね。そこからうまくいけばお付き合いが始まる。
面白いのは、限られた相手の情報からいかにメールで話を膨らませていくのかですね。基本、メールでのやりとりが勝負な所がありますが、携帯メールみたいに「こんばんは」とかだけならネタも尽きてくる。意外に、増田だけでなく、はてなとかで何かを書いている人で、他者に興味を持ち続ける意志がある人なんて、ここのサイトは合っているのかも。
最終的に、僕は5/29からの最初の1ヶ月間で86人の女性にメールを送りました。
打率は2割強。三十代半ばで結婚したいという言葉をプロフを滲ませていたし、年収は悪くない。ちょっとは気にしてくれたらしい。
ただ、計18人とメールを続けるのだけど、主に♀さんの意志で次々と会話は切られていく。無言で去っていく人も多い。2ちゃんねるだと「FO フェイドアウト」としている。
で、メールでやりとりした18人のうち、今も続けているのは7人。本気なのは2、3人かな。
そこらの人との面接やメールのやりとりは次回で、今日は、メールを始めたのに途中で頓挫した人たちを紹介。
Yahoo!パートナーをやってみて初めて知ったのは、医療福祉関係の方がやたらと多いと言うこと。医者やナース、薬剤師とかじゃなくて、介護士とかリハビリ関係とか福祉関係とか、現場を底辺で支えている人たち。収入は"200万円から400万円"での登録ばかり。給与的にあまり恵まれていない。
でも、男との付き合いもあまりなさそう。キャリアを積んでなんとかという世界でもなさそうだし、将来設計が難しい。そこらはリアルの男女関係でもそうなんだろうなあ。だから出会い系にやってきている。こうした福祉関係の三十代♀って完全に盲点だし、男の恋愛対象から忘れ去られていると思う。意外に拾いものな人は多いのかも。
(日付は最後のメールの日。●通は♀から来たメール数、FOは何も告げずにメール連絡を止めること)
かくして、以上、10人の♀たちが僕の元を去っていった。理由はいろいろあるんだろうが、僕には分からない。僕も3人の♀をお断り、フェイドアウトしている。やっていても波長があわないから。それはお互い様。
というのを改めて認識させられた。
このYahoo!パートナーで、問答無用で無視されたり、放置されたり、こちらから見捨てたり、なんかメール上だけで意味なく盛り上がってみたりしたことで、リアルの恋愛感情で見られるコミュニケーションギャップを短期間で大量に体験できた。恋愛には情を通い合わせるのが大切だけど、それが途切れるときはもはや理屈じゃない。だから、ダメだったときも仕方ないと割り切らないと、次の出会いはやってこない。そんな当たり前のことを大量の♀と同時進行でメールをすることで再認識させられた。
この春に別れた彼女のことをずーっと今でも引きずっていたが、なんとか次へと歩んでいく気持ちだけはできたと思う。そんなオレの勝手な自己分析のネタに使わせてもらった♀のみなさん、本当にすまない。
ということで、オレのここでの目的はある程度達成できた。あとはただ退散するのみ。
でも、せっかくの出会い系。
話の波長のあった三十路の♀さんたちって、どんな人なんだろう。好奇心だけは残っている。実際、4人の方に会いました。本命と対抗馬の人たちについては、また次回で。
昔、「妻が浮気してるらしいことが分かったんだけど自分としては別れたくない。どうやったら妻の気持ちを取り戻せると思うか」という相談を友人から受けたことがあったのを思い出した。
友人は、妻の浮気の原因は、自分が仕事が忙しくなってセックスレスになったことだと思う、と自己分析してたんだけど、その後すったもんだあって友人が奥さんから告白された浮気の理由は
というものだったそうだ。
仕事で疲れていてレスになったこと自体はむしろ体調を心配して同情的だったという。
増田もそうだと言うつもりは全然ないけど、あてつけのような理由がある浮気の場合浮気されてる方はその理由に気付いてない(まあだからこそ浮気されるんだろうが)ことはままあるんじゃないかと思った。