はてなキーワード: 立脚とは
何か長々つきあわせて申し訳ないです・・・。
個人が個人内部で戦争をどう扱えばいいのか、という話です。
自分の中で消化した後の議論や活動も他者のそれも言うなればどうでもいいんですが、伝わっているでしょうか
一応それは伝わってます。自分には、増田の内面で問題意識が定まっていないために「何を思えばいいのか」ということになっているように感じられたので、それを確かめようと必要以上に回りくどくなっている部分があると思います…すみません。社会全体のありようについての疑問がいくつか出ているようでしたから、そこから主張・見解を引き出すことで論点を絞り込めるかなと思ったのですが、こちらの手際が悪いせいでいまいち上手くいってない感じですね…。
ところで、エントリを読み直していたんですが、増田は交通事故の被害者や、新聞紙面に載る殺人事件の被害者にも、今回と同じような問題意識で持って「何を思うべきか」を考え込んでしまったりするのでしょうか。被害者の訴えのようなものを聞いたときも、やはり今回のような疑問を感ずるのでしょうか。たぶん違うんじゃないかと思うんですけど、どうでしょうか。どこかで戦争と戦争被害者を神聖視してるんじゃないかと思わされる節があるのですよね。
それと、『平和への疑問を持たざるを得ない状況が怖い』ですけど、懐疑の意識を持つことに対して恐怖を感じるのは何故なんでしょう。平和であろうと、社会のありように懐疑心を持つことはおかしなことではないと思いますが…。また、立脚する正しさのなさへの不安から迷いが生まれているのなら、その足場を可能な限り確かなものとしよう、という方向性に進むことを考えたりはしないのですか。「何を思うべきか」で内面へと向かうことをひとまず置いて、外面からの理解を進めても良いんじゃないかと。
意思決定の正否の問題は、戦争・平和のいずれの状態であっても生じるものでしょう。これを指して『本当に平和は良いものなのかと怖くなりました』というのはちょっと焦点がずれていると思います。
1文目には賛成です。2分目はどうして? 何故、どうずれていますか。
戦争と比較して平和が「良い」とされる点は、そうした意思決定の正否の問題とは無関係なように思われるからです。平和が全ての問題を解決してくれるかの如き過剰な期待がなければ、こうした問題を見て『本当に平和は良いものなのか』等と言う疑問は出て来ないのではないかと思います(それは押し付けられた平和教育の罪なのかもしれませんけど)。
「いくら寛容であろうとしてもそれぞれ正しさを待たずにいることはできず、対立を生む原因もここにあるのではないか」です。
そこまで遡って「正しさ」を定義するのであれば、「戦争は思ったことを思い続けたから起る」と言えるでしょうが、そういった「正しさ」から無縁であることは、(一切の意思決定を放棄しない限り)平時にあっても不可能です。集団での意思決定を伴なう出来事は大半が「思ったことを思い続けたから起る」と言える(もちろん、平和だってそうです)。なら「戦争は思ったことを思い続けたから起る」というのはレトリックに過ぎないのではありませんかねえ。
そもそもISAF対アフガニスタンで戦争をしているという認識がありませんでしたが、この両者間の対立は特筆すべき例外にはなりません。
これ一つでもう一個ツリーが立つぐらい面倒くさい話になるので適当に端折りますが、ISAFはアフガニスタンと戦争をしているわけではありません。また、括弧内で触れているように、厳密な意味で「戦争」と定義するのに留保を置いていることを気に留めていただけると幸いです。ついでにいうとわざわざそういう事例を持ち出したことの含意も考えてもらえるとなお幸いです。
個人が個人内部で戦争をどう扱えばいいのか、という話です。自分の中で消化した後の議論や活動も他者のそれも言うなればどうでもいいんですが、伝わっているでしょうか。私の書き方が拙いのもありますが、増田さんも「戦争を考える人像」を持っているように感じました。できたらそれ、今は横に置いてください。
戦争を支持する主張に眉を顰める風潮を問題視しているのですか?戦争を支持する主張が受け入れられるような、開かれた言論の場を、と仰りたいのでしょうか。
というのは違います。失敗の有り得ない社会体制を求めているわけでもありません。
戦中に戦争を支持した大衆の一人と同じような形で(これが言いたいがための文章でした)自分も平和を支持しているんだということを踏まえて、立脚する正しさのなさに不安感を抱いた、ということです。平和への疑問を抱くほどに怖いのではなくて、平和への疑問を持たざるを得ない状況が怖いんです。怖いという語では強すぎるかもしれませんが、そういう不安があるために何を思うにせよ迷いが生じます。これが発展して「なにを思えばいいんだろう」に繋がって、それが私のテーマです。
意思決定の正否の問題は、戦争・平和のいずれの状態であっても生じるものでしょう。これを指して『本当に平和は良いものなのかと怖くなりました』というのはちょっと焦点がずれていると思います。
1文目には賛成です。2分目はどうして? 何故、どうずれていますか。
という意見をいただくことになるだろうから
そういった理由で人を殺すことも資源のためなら厭わないという思想をどこかで肯定しているから戦争になるんだし、あるいは「戦争などしたくないが戦わなければ自国が滅びる」と思って戦争をするんでも、国を滅ぼすよりは戦争をすべきだという正しさに則って戦うんだし。
を書いたのに… 難しいな。妥協しようと他の意見に歩み寄った末に武力行使が必要と判断して戦争をするなら、それはつまり「武力行使が必要だ」という正しさに則っての武力行使です。「他者への不寛容」という表現に誤解を感じました。「不寛容であるから戦争が」ではなく、「いくら寛容であろうとしてもそれぞれ正しさを待たずにいることはできず、対立を生む原因もここにあるのではないか」です。
アフガンに於けるISAFの活動等をどう思われますか(戦争のありよう・起点をどう定義するか、という論点はあるかもしれませんが)。なんだか増田の意見は、実際の戦争ではなく、増田の頭の中にある戦争像を元に話をしているように聞こえます。
ISAFはISAFの、アフガンの各組織は各組織の正しさに則っていると思います。そもそもISAF対アフガニスタンで戦争をしているという認識がありませんでしたが、この両者間の対立は特筆すべき例外にはなりません。
痛いニュース(ノ∀`):理想のお姫さまを待ち続ける「童貞(シンデレラ男)」が増加傾向http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1338787.html
なんてエントリを見るにつけても腹立たしい。
いい加減あんたがたは認めるべきなんだ。
我々は既に「男子」なんかではない。
我々、
というのは「30前後~以下世代」とか「非イケメン」とか「オタク気味」とか
ネットやはてなにゴロゴロいる男を大雑把に想定してもらえばよいが、
我々はこの歳になるまでさまざまな形で去勢されてきた。
あんたがたも必ずどれかには参加してる筈だから知らねえとか他人事だとは言わせねえ。
・子供の頃には個性尊重だかなんだかの教育で"競争を蔑むこと"を教師から教えられ
・小学校高学年に上がればバブルが弾けて"学歴競争も年収競争も空しいぞ"と世の風潮に諭された。
・思春期には「イケメン以外は恋愛市場に上がるべからず」として
"万事色気を出さぬこと"を必須ライフハックとして女子から叩き込まれた。
・物理的な生活環境は変な廃棄物から擬似的な"女性ホルモン"を吸い込ませてくるし、
・メディアのお得意コンテンツ「家長として頑張るオジサンいじめ」は"父親になることの絶望"を刷り込んできたし
・フェミニズム流行りは「優しいことがなにより大事」「古い家父長オヤジになりたくなければ…ねえ?」てんで
"オスっぽい強引さなんぞは捨てるように"というお達しを回してきた。
締めに大学に上がったら時代も時代、仕事にも社会にも未来がねえことは薄々わかるし
結構な割合が正社員の席にすらありつけなくなっちまったまま今に至る。
どうだ。
金玉がぶら下がってれば男なわけではなく、環境が男を作るのだとすれば
我々が生来持っていたかもしれない”男らしさ”は成人するまでに全く育てられることが無かった。
自覚させられることなく、教えられることもなく、保護されることがなく、
訓練されることもなく、試す機会もなく、称揚されることもなかった。
タマのある男が生まれるチャンスがどこにある?
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とは言っても、亡くした金玉の恨み言の為に書いてるんじゃあないんだ。
すでに金玉がないのが我々なので、この状態は快適最適だ。
そっちの都合で突然「ところであの金玉はどうした」「おなた達も男なんだから」と言い出す奴等なんだ。
タマの無いお前等が車や見得に消費をしないせいで経済が回らなくて困る!だの
タマの無いお前等が女やデートへの関心低いせいでうま味が減って困る!だの
つまり自分達のカネが減ったのが我々タマ無しのせいだと文句を言ってくる。
「知るか」と。
自分達の都合でせん馬だらけにしといて牡馬が必要になったら「オスがいないじゃないか!」と怒り出す。
我々に取ってみればこういうのが一番不愉快でやってられないんだ。
消費が少なくて環境には優しいし、社会からうるさい強権的な男が減ったのは女性に優しい。
喧嘩や粗暴犯罪や軋轢は減って、景気悪くてもインドアな低コスト趣味で大人しくやってけてる。
希望が減っても暴力デモや暴動を始めて社会を不安定にしたりもしない。
だがこういうことに対する感謝や評価は全く無い。
困った時だけ「おいタマを出せ」「あんた達だって男でしょ」と。
個人からメディアまで変なレッテル貼ったり挑発したり見下したりして
「更生」だか「発奮」だかさせようと頑張ってる奴等が居てうっとおしい。
馬鹿にされたらまんまと発奮したり勃起したりするような反応は男の特性だ。
頑張ってる奴等の魂胆を想像して薄笑いするだけだからいくらやってもムダだ。
去勢済みの我々は既にタマ無しとしてのデメリットを甘受してきたが
それと引き換えにタマ無しの快適さやメリットも発見し楽しんで長い。
「男の義務を果たせ」と言われたらカーッと怒って反発するが
「やーいタマ無し」と言われたら「オス、タマ無しです!」と元気に返事できる。
男気のカケラもなく女々しさ溢れる長文を書き終えてなんらの恥ずかしさも痛痒も無い。
主義主張を文章にまとめている途中で、その文面に表れている内容と私とが乖離していくような感覚を、最近何度も経験している。
何これ。よく分からん。
要は、書きたかった主義主張が適切な形になるまでまとまっていなかったわけなんだろうけれど、それにしても困ったもんだと思う。なんたって時間の無駄遣いになっているから。『おおっ、このもやもやした考えを発言しよう』と意気込んで三十分。『なんか違う』と全てを削除してしまう。馬鹿なの? 死ぬの? 先走るから悪いのだけれど、何度経験しつつも学習しない自分に腹が立ってきた。しかもこれって論理的じゃないってことなんじゃないのかな。理論的じゃないってことなのかな。【論理的】と【理論的】はどこがどう違うのかな。
話が逸れた。集中力がないのだろうか。今までにも度々あったような気がするし、今もそうだ。考えていることが次から次へと飛躍していってしまう。だから書きたいと思っていたひとつのことが書き切れない。中途半端。尻切れ蜻蛉にもならずに全削除されてしまう。しかしながら、この飛躍する考え方は変な風に帰着することもある。例えば【論理的】だか【理論的】だか分からない考え方が A→A´→a→a´→A というように、大筋が見て取れる関連性のあるものだとするのならば、私の考え方は A→Y→n→p→A のように脈絡がないのだ。これって、かなり大問題のような気がする。少なくとも、会話をするとき、相手に不必要なストレスを与えるのではないのだろうか。
困ったな。もちろん誰それ構わずにこの方法を取るわけではないのだけれど、フランクに話している内によくこうなってしまう。会話と主義主張とはまた領域が違うから一緒くたにできないか。でも、それでも面倒だよなあ。それとも、諦めずに書いてみればいいのだろうか。
で、こんなことを書いて、私は何がしたいんだろうか。分からん。無意味に思えてきたぞ。うん、そうだった。この無意味に思えてくるというのも大敵だった。私が全削除を実行する二大要因のひとつだ。いやいや、そのほうがいいのかもしれん。なんか文末まで変わってきたぞ。そんなに変わってはいないか。なんだろう、こういう文章って、人の内面を表すのだなあって今更ながらに思った。だから多分、私にはこういう文章は合わないんだろう。苦手なんだ。どうしても駄目なんだな。段々私じゃなくて、他の誰かが書いているような気になってくる。ネット上の架空人格とでも言えばいいのか。おそらく違うけれど、その人格と私が乖離していく。そうじゃないと書けない。でもそうすると私の意見じゃなくなってしまう。表層に上ってきた架空の人格が騙ってしまう。短い文ならこういうこともないのだけれどなあ。
そしていきなり人格がどうのこうのって言うもの見当違いな気がしてきた。早いな。こういうことは書く必要がないんじゃないだろうか。無駄だろうに。消せよ。削除だよ。また全削除だよバーカ。反応が欲しいわけじゃないんだよなあ。表現したいんだ。けれど、それはものすごく恥ずかしいんだ。そしてそうすることの意味を考えてしまうと虚しくなるんだ。
何この文。きもちわるい。オナニーはティッシュに包んで捨てろよ。本当に死ねばいいのに。何が言いたいのかさっぱど分からん。馬鹿じゃないの? もうやだ。
というか、増田でも何でも推敲ってするもんなの?2ちゃんでも必要なんだろうか。私はしてしまうのだけど。読まれるものだからね。だから、素早く長文が書ける人が羨ましくもある。それでも、やっぱり、表に出すにあたって、何かしらのフィルターを通して出しか意見って出せないのかな。偏った思考を垣間見せる書き方とか、一定のキャラクターとか。そうじゃないと書けないような気がする。会話にしても、場の空気っていうフィルターが存在するんじゃないかな。ディスカッションも立場ってのがあって、だからしっかりと立脚するんだろうな。
で、私にはそれがないと。うーん、そのとおりだ。どこにも属せていない。属したくない。いろんな主義主張、立場を理解したい気がするから。そうじゃないと、問題は総見できないんじゃないの? するとだけれども、私が意見を発するためには私というバックグラウンドを確立しなければならないわけだ。面倒くさいなあ……。だって、一人でグループと対峙するわけでしょう? 馬鹿馬鹿しいね。そして、そんな奴の意見なんて聴かれないだろうし、効力がないよ。
冒頭に帰依するかと思って続けたけど、どんどんどツボに嵌っていったよ。どっぴんしゃんだよ。抜けたらどんどこしょ。俵の鼠はどうしてチューなんて鳴いたんだろう。誰がお茶碗割ったんだ。
もう止めよう。意味が分からん。
http://anond.hatelabo.jp/20090813004908
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51271236.html
居酒屋はリラックス空間を提供するのがサービスの本旨だろ、KYを許さないお前ら不寛容という趣旨。
これぞずれた、金持ち様の意見。ほんとこのひと、いつも持てる者の立場で、強者の自由主義マッチョを振り回すよな。
まず重要な論点の筈のチェーンか否かってのが抜けてる。まあ、あえて無視したんだろうが。
あとさあ、空気を読むって話じゃないだろ。融通を利かせる、ってのは、まさしく不透明な空気の読みあいに立脚した共同体的社会の側の
振る舞いじゃないか。融通が利くということは、見えないルール・空気が、その妥当性を取り仕切るってことだ。
これが村の居酒屋であって見ろ、そして融通を利かせろと主張したのが村の有力者であって見ろ、
そのとき、ルールですから、と主張した店長は、明らかにKYとして見られるだろう。
実に、倒錯した議論だとおれは思う。
天気が悪くなるかと思ったけどそんなこと無かったぜ。
認める/認めないという話って一文からの件が個人的に難解なのだけれど、私の捉え方でいけば、「意識は世界に対して開く」。あるいは「常に開いている」
超絶的に言葉足らずでした。
「認める/認めないという話」は、これまでのやり取りで出てきた、「自分を認識して欲しい」ということを話題にしたかったわけで、
意識が開いている時というのは、自分以外の世界(他者とか)を認める/認められることが出来る状態で、
意識が閉じてしまうと「小さな世界」で完結した状態になるので、「小さい世界」を「大きい世界」と混同しちゃって孤立するから
意識を開いておく必要がありますよ。
ということをあの字面から読むのは無理ですね。すみません。
#記述する前にどんどん言葉が簡素化されて、実際に表に出ると意味不明というのは立派なコミュ障害か
といったところで、
意識の状態にかかわらず、「小さい世界」同士あるいは「大きい世界」との間は
干渉しあう関係であるという見方なのかな。
それぞれの人がそれぞれの波形を持っていて、たぶん分かり合えるってことは、一部だけでも同じ波形が生まれることなんだろう。
すごく、わかりやすいイメージだ。
逆位相で打ち消しあうとかもありそうw
アニミズム的精神になるのかもしれないけれどさ、やっぱり土地や物体が存在することからも人は影響を受けるし、物体同士でも互いに影響しあっているんじゃないのかな。
今日は午後から雨が降るらしい。
私の考え方では、世界は大きい世界だけで、自分たちの存在はあくまで世界の一部と言う捉え方。
世界の捉え方に多様性があるのを許容するのも、私が抱く多重世界観なのですよ。
だから、当たり前だけれど、あなたの考え方を否定するつもりはないし、そもそもそんなことは私にはできない。
ただ、おそらく私は、「意識」とか「命」と呼ばれれいるものと「世界」そのものを、言葉が違うだけで等価値で見ているんだと思う。
認める/認めないという話って一文からの件が個人的に難解なのだけれど、私の捉え方でいけば、「意識は世界に対して開く」。あるいは「常に開いている」
それは個人個人の「小さな世界」に対してもそうだし、共有している「大きな世界」に関してもそうだ。
私という世界が行動を起こすことは、立脚する足場はもちろんのこと、隣接する周りの人々にも影響を及ぼすことだから。
うーん。ここまでの流れの中で、私にはあなたとの差異が上手に見出せていないから、少し歯切れが悪くなってしまうな。難しい。
どうなんだろう。でも、鳴ることとか震えることって、要はある対象が幅を持って移動することを差している訳じゃない。
緩やかにたゆたう波を具象として考えるのは、もしかしたら一番イメージしやすいのかもしれないね。
それぞれの人がそれぞれの波形を持っていて、たぶん分かり合えるってことは、一部だけでも同じ波形が生まれることなんだろう。
あと、共鳴したりするのは人同士だけじゃないとも思ってる。
そうだね。存在というものは少なからず、何かしらの波形を有しているもの。
人は言葉のない音楽に感動するし、物言わぬ芸術に胸を打たれてしまう。
大自然の中ではその偉大さに平伏するような気分になるし、人工物に囲まれて無機質な気分になることもある。
アニミズム的精神になるのかもしれないけれどさ、やっぱり土地や物体が存在することからも人は影響を受けるし、物体同士でも互いに影響しあっているんじゃないのかな。
なんかわかってきた気がする。
でも、だからと言って“他者が見る”世界の存在を否定しているわけではなくて、私と他者が同時に認識している“世界”がないとも思っていないんだ。
ベースとして共通している『大きな世界』があって、そこから各々の認識が存在を決めていく『小さな世界』がある。
そんな多重世界観を私は持っているわけなんです。
「多重世界を認める」って言うのが私の考え方には抜けてるから、
そこら辺を根拠にして捉え方の違いが発生してるのかなぁ。
私の考え方では、世界は大きい世界だけで、自分たちの存在はあくまで世界の一部と言う捉え方。
あなたのいう「小さい世界」を、「意識」あるいは「命」と言う言葉で認識してるので
認める/認めないと言う話も、「意識が世界に対して開いているか?」と言いたかったんだよう。
他者が認識する『小さな世界』を知ることはできるし、そこで他者が認識している私も教えてもらうことはできると思う。
けれど、どれだけ足掻こうが私は私でしかありえなくて、ということはだ、私視点の世界の外には出られないのじゃないかなあ。
でも、こういう考え方には同意するので、多分言葉の使い方が違うだけで、似たような捉え方してるんだと思う。
でもさ、私が認識している『小さな世界』は、ベースとして共有している『大きな世界』の上に立脚して、
日々たくさんの他者が有する『小さな世界』に影響を与え続けているじゃないかと思うわけなんだ。
それは私が他者になったときも同じで、人と言う≪世界≫は互いに共鳴しあっているんじゃないんだろうか。
で、折に触れて、互いの振動が重なり合う時がある。それで世界が繋がるんだと思うと、楽しくないですか?
共鳴とか振動とか、波のモチーフで捉えるのって一般的な感覚なのかな。
人がお互いの存在を認めて繋がりあう感覚ってシンクロって言葉がしっくりくるなあと思っていたので
似たようなこと考えてたみたいでちょっと楽しくなった。
あと、共鳴したりするのは人同士だけじゃないとも思ってる。
なんかすごい寝ていた。15時間寝てた。どうした、私。
うん。だけれどもさ、そうやって残るためには主体が見なければならないよね。私にとって『見る』ことは、すなわち認識することなんだ。
他者の世界と私の世界についての話題について、おそらくは私が抱いている世界観を説明しないとだめなんだろうなと思った。
実を言うとね、私の世界観は、あなたが書いてくれた文章に載せられている。
私は、正しくこの通りに思っているんだ。私が見なければ、“私が見る”世界は存在しないもの。
だからね、私と言う存在は“私が見る”世界においては神になりえる。
どんなことも思えるし、決断と喪失さえ覚悟すれば行動だって起こせる。
でも、だからと言って“他者が見る”世界の存在を否定しているわけではなくて、私と他者が同時に認識している“世界”がないとも思っていないんだ。
ベースとして共通している『大きな世界』があって、そこから各々の認識が存在を決めていく『小さな世界』がある。
そんな多重世界観を私は持っているわけなんです。
確かに他者が認識してる『小さな世界』の存在を確認する手段のひとつとして「誰かに認めてもらうこと」は考えられる。
でもさ、それ以外にも、少なくとも私が認識している『小さな世界』に属さない世界があることは分かると思うんだ。
私がどうこうしなくても、世界は動いているものね。
そしてね、個人的には、私は私と言う認識原点から離れられないと思うんだよ。
他者が認識する『小さな世界』を知ることはできるし、そこで他者が認識している私も教えてもらうことはできると思う。
けれど、どれだけ足掻こうが私は私でしかありえなくて、ということはだ、私視点の世界の外には出られないのじゃないかなあ。
彼(彼女)があなたに微笑むには理由が要るかもしれないぞw
たぶん理由は必要だろうねえ。行動には何かしらの起因が必要だもの。
でもさ、私が認識している『小さな世界』は、ベースとして共有している『大きな世界』の上に立脚して、
日々たくさんの他者が有する『小さな世界』に影響を与え続けているじゃないかと思うわけなんだ。
それは私が他者になったときも同じで、人と言う≪世界≫は互いに共鳴しあっているんじゃないんだろうか。
で、折に触れて、互いの振動が重なり合う時がある。それで世界が繋がるんだと思うと、楽しくないですか?
少しロマンチストになってみた。
お腹が減ったので終わりにする。
李克強訪豪を前に「上海派」と「太子党」が陰湿に胡錦涛執行部へ揺さぶり
第十七回党大会は、江沢民の懐刀だった曾慶紅が「引退と引き替えに」、習近平を三階級特進させた。浙江省書記からまず上海市書記に栄転させ、ついで政治局常務委員、国家副主席と三段階を一気にまたいだ。
曾と、その背後にいる江沢民と意思である。
同時に曾慶紅は賀国強と周永康を法務公安規律のポストに送り込んだ。つまり習、周、賀の三人が政治局で「江沢民派」であり、同時に習近平は太子党の利権を代弁する。
だから筆者は書いた。
「中国では石川五右衛門と長谷川平蔵は同一人物である」と。いうまでもなく利権汚職と捜査の元締めが同じだから(呵々大笑)。
さて上海派と太子党にとって「団派」(共産主義青年団)ほど疎ましくも邪魔の存在はない。胡錦涛、李克強、李源潮、王洋らが団派である。
共産主義の理想を追求し、汚職にときに立ち向かい、政治改革を獅子吼し、五月蠅いのだ。
したがって団派 vs 上海派+太子党 の対決構造が、いまの中国の権力構造の基軸にある。
さて、先週あたりに李克強の子分たちが、周永康の「捜査」により汚職で断罪されようとしている事は述べた。李克強のパワーを弱め、引いては胡錦涛の指導力を弱体化させるのが目的である。
リオ・テントは豪の鉱山会社だが、中国が買収をしかけ、豪政府が資源ナショナリズムに立脚して中国鋸業(チャナルコ)を退け、BHPとの提携に踏み切った。
リオとBHPの合併は世界最大の鉄鉱石鉱山企業の誕生、カルテルと実質は同じ。
いずれ、執拗な中国のことだから、なにか政治的意趣返しがあるだろうと予測されていた。
案の定、リオ・テントの中国駐在社員四人をスパイだと言って拘束し、豪勢府はすっかり慌てた。豪中関係がにわかに緊張した。
もうひとつ背景があった。
このスパイ事件は背後に権力中枢の闘争が絡んでいると指摘したのは博訊新聞網(7月19日付け)である。同紙によれば来週から豪訪問を予定している李克強(副首相、次期首相候補に有力)への当てこすり、一番やっかいな外交を李が、どれほどの能力で処理できるかの試験にもなるとばかり上海派と太子党が仕組んだ。
というのも、習近平は副主席になって一番目の訪問先は北朝鮮、つぎに北京五輪の責任者に抜擢され、外国首脳とつぎつぎとあった。それからメキシコを訪問したが、評判は芳しくなかった。外交能力に疑問符がつけられた。ならばライバル李克強いは外交もうまくこなせるのか、と団派への面当てが再開したわけである。
この事件で浮き彫りになったことは胡政権の脆さと、最高意思決定機関の内部闘争の深刻さ、要するに上海派の横暴に対して、適宜適切な対抗措置がとれない実態である。
宮崎アニメは、品質そのものの低下も去ることながら、大きくその勢いを失いつつある。
かつてのジブリアニメは、客入りもなく、同時上映という当時でいえば順当だが、所詮子供向けの娯楽映画であったものの、今見ても感動させられるほどの巨大なエネルギーを持っていた。
そのエネルギーがあったからこその、現在の地位ではあるが、スタジオジブリはじめ宮崎アニメといわれる映像群は近い将来、第一線から離れるだろうと私は見ている。
理由はいくつかあるが、大きく二つ挙げよう。
これは個人の能力の話ではない。体力の問題だ。挙げておくにとどめる。
意外だと思われるかも知れないが、世界名作劇場は日本人のアニメーションの原風景であり、それに立脚した宮崎・高畑に代表されるスタジオジブリの作品群は、これらの背景があってこそのものと言える。
しかし、世界名作劇場は終了し、アニメはもっぱら成人の娯楽となりつつある。彼らは世界名作劇場でありながら、その影響を脱した世代だ。その世代より下の世代は、ジブリのブランドは知っていても、世界名作劇場は知らない。彼らのアニメーション原風景は、幾何学模様のキャラクターであり、萌なのだ。
これらメインターゲットとなるべき層が、ジブリに憧憬を感じなくなったとき、ジブリ作品は第一線を離れる。
憧憬を感じられる世代の、ノスタルジーな作風として楽しまれるものになるわけだ。
日本で地方公演をして回るベンチャーズのようなものになるかもしれない。
世界で評価されているではないかという反論もあろう。
しかし、芸術として評価される作品に、我々が求めているような娯楽性はあるだろうか。我々とは全く違う二次世界をもつ米人に、我々が感ずるような感動を得られるわけがなく、彼らが感じている感動も我々は理解できるはずもない。
生きていけるじゃないよ、生きていかないといけない人もいるよ。
「あの子がありのままの俺を認めてくれない人」あたり。
そういう人が「生まれてから一度も人間の愛情というものに触れたこともない人間」だとはまったく思えないんだけど? 誰が彼らを産み、言葉を教え、面倒を見、育て、誰が社会化したのさ。
もし人間が、そういう「愛情」を基盤として生まれない…あたかも「宇宙の中に最初から存在した『個』の意志そのものが私の実体」であるとでも言うなら「愛なんか無くても人は生きていける」と言えるだろうけど、そうじゃないでしょ。そんなオカルト主張をするわけじゃないでしょ?
そういう「人間が(人類が)生存していくための基盤としての愛」を、どのようにこの社会の中にシステム化するかということの一つの帰結が近代社会における「結婚」制度であって、もちろん「愛」をどうシステム化するかの解は一つではないだろうけれども、少なくともそれを取り込まないと社会の制度設計なんてできない。たとえば集団で子育てを外部委託するような社会を作ったとしても、擬似的な「親子/愛情」関係無しに人間の教育が可能だとはとても思えないね。
「愛」を取っ払って人間社会を制度設計できるなんて考えは幻想に過ぎない……それこそ「動物としての人間性」に手ひどいしっぺ返しをくらうだろうさ。とりあえず、現行の「結婚」制度を批判するのが目的なら、「愛なんていらないっしょ」という暴論に立脚すべきではないと思うね。
DENPA!!!行って来ました。
ここ5,6年で一番いいpartyでした。
掛け値なしに楽しい!!!
昼間っからやってるのも健康的(←こう書いて「おっさんに優しくて」と読む)で◎。
内容、客層、ロケーション、料金すべてに満足できる、レベルの高いイベント。
ここまで"熱い"のは昨今ではかなり珍しい。マジおすすめ。ちょっとでも興味のある人は、一刻も早く行くべき。
とまぁ、ここまで書いて小休止。
自分は↓これ書いた人。
http://anond.hatelabo.jp/20081223011009
自分語り(補)
http://anond.hatelabo.jp/20081223215937
自分語り(転)
「良いイベントだなー。こんな良いイベント久しぶりだー」と強く思ったのですが、
どうも悶々とするものがあり、それをこの2日間考えてました。
んで、marquee ( vol.70「次世代ファンタジー特集」に電刃の特集あり) とかユリイカ増刊号『初音ミク』とか買って
まだわからなくて悶々としてたんですが、主催者の"点と線"さんのブログを見つけてちょっとわかった気になったのでコメントします。
以下はアリバイとして書き残したい文章。もしかしたら読む人によっては不快に感じるかもしれません。
でも、申し訳ないけど気分を害すような文章をアップします。
(なので過去の『自分語り』で不快に思った人は読まないで下さい。)
冒頭の佐々木渉氏へのインタビュー『生みの親が語る初音ミクとアングラカルチャー』が抜群に面白い。
これだけで1,200円出す価値があります。今現在、初音ミク関連の資料として最も価値のあるものじゃないでしょうか)
きちんと書いてる暇がないので。
では先に進みましょう。
//////memo//////
[前提]
自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説
http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html
慟哭 (3)
http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1019.php
栃内新,左巻健男 編『新しい高校生物の教科書』講談社ブルーバックス,71頁より
[目次]
1.「慟哭 (3)」を読んで
3.人類知に帰ろう
4.あなたはどう思ってるの?
6.参照元
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1.「慟哭 (3)」を読んで
慟哭 (3)
「あー、デュシャンか。理解理解納得納得」って感じです。
こう言ったら失礼(ネタバレ)かもしれないけど、電刃はデュシャン - ウォーホール - 村上隆のラインの音楽・ファッションverなのねと。
この流れだとたしかに「○○論」は確かに意味を成さないっす。「意味を成さないように働く機構」という罠・舞台装置だから。
(便器語ってもしょうがないし。まぁ、人類史上もっとも「すごい」便器なんだけどw)
次のエポックメイキングな事象はアキバのホコテン復活の時かもーとか妄想しちゃいました。
(補)
レディ・メイド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%89
「泉」に関する個人的な解釈は、「心のヒダへの"effect"を芸術とするなら、
便器にサインして展示会に出しても芸術作品として"アリ"なんじゃね?」と提案している作品。
デュシャンは「美術を"effect"とするなら、『美しい』でも『怒り』でも『恐怖』でも何でもいいじゃん」と
「美術(芸術)」を「拡大解釈」できる素地を作っためっちゃ偉大な人。
(それまでは「真善美」を追求するファインアートが主流だった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88
ウォーホールは「キャンベル缶も芸術作品じゃね?」と言った人。
(余談ですけど、村上隆は美術史的「文脈」をきちんと押さえてるから海外で評価が高い。
美術史をちゃんと踏まえ、理論として一貫しており、装置として実際に働くから「海外の美術界」では評価されています)
ガイジン「あー、そうかもそうかも!!」
(電刃は村上隆と違って商売っ気が今のところなさそうに見えるから、反発(というか"やっかみ")も少ないかもしれないですね。)
(ニコニコではちょっとあるみたいだけど)
(補の補)
電刃は「オタク等々を拡大解釈させる"装置"である」と言いたいだけ。
電刃を「芸術作品だ」とは言ってない。「芸術作品」という評価は「解釈が拡大する運動性」において無意味。
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より
はてな民に対しては「気持ち悪い」かもしれませんが、
ホントは「パラレルワールドで幸せそう?に学校に行くシンジ(を描いた庵野監督)」が正解じゃないですか?
(「気持ち悪い」は悪い意味ではない。↓参照)
映画エヴァンゲリオンの最後、「気持ち悪い」ってどういう意味?
http://news4vip.livedoor.biz/archives/50801624.html
俺は電刃行って目の前ですんげぇかわいい長門がぴょこぴょこジャンプしながら踊ってて、
それ見ながらガン踊りできる幸せに絶頂を迎えそうになったけどなー。
「現実」を住みやすくする手立ては、陳腐な言葉(≠「仲良く」)の中にすでにあるのになぁと。
「アメリカヲチしようぜ!!」でいいような気がする。オバマ的な意味で。
(別にEUヲチでも構わない。もちろん)
3.人類知に帰ろう
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より
正直なところ、その違いって、テクノウチ君の考察のように参加者が共通してポジティブかどうかじゃないかなとw
それで終わりじゃ駄目なの?むしろw。
(中略)
僕や参加者がそうだと言ってるんだからそれでいいじゃないと思うんだけども、
それでも解釈(知的経験の枠)の媒介を人は要求する社会学の囚人なので、
僕なりにそれ用の答を探求してみたんですが、もとよりそんなつもりはないので嘘はつけないなあというどうしようもない始末。
庵野監督が『気持ち悪い』でEVAを終わらせた心境から遠くはないです。
(関係ないけど社会学部だった僕の卒論は「社会学は永遠に社会そのものを追い越せない」というものでした)
(中略)
これは大変ありがたいことですが、DENPAはアカデミックな言説に幽閉されるよりも、ただ好きなものを好きという幼児的で野蛮で原始的な本能に基づいているのも事実です。それもコンプレックスをいだかず堂々と。
僕らは学論の探求ではなくエンターテインメントの探求をしている。
不恰好でも感動はほんものだ。
そのシンプルな行為がこんなにもやりにくく、珍しがられる時代になってしまったんだなあ
と感慨深くなりました。
marquee(vol.70)「次世代ファンタジー特集」より
文字打ちが大変なので割愛。
「アート(引用者注:「学問」という意味も多分に含まれてる)はどこに行き着くために問い続けてるかわからない」というインタビュアーの質問に対し
点と線さんが社会学のフレームで世の中をすっきり見れるように、
若い子にもその手段をゲットできるような仕組みを作ってあげたいなーと思ってみたり。
年下の子に「学問楽しいよー。いや、むしろキモチイイとすら言える!!」としか俺はまだ言えてないけど。
(カウンターカルチャーであるはずの「学問」が、「幽閉」する機構として働く日本の異常性がアレなんだよなぁ)
学生運動とか創価学会とかオウムとかプロザックとかと変わんない気がします。
最近は「死なない程度の失敗ならおk(死なない程度に納めよう)」という考えの人多し)
鶴見済ですら
http://tsurumitext.seesaa.net/category/3920016-1.html
と言ってるのだから、たとえ手詰まりでも「ポジティブであればいい」とは言わない方がいいんじゃないかなーと思ってみたり。
まぁ、アメリカとかEUは全然手詰まりに見えないので、「手詰まり」こそが共同幻想な気がしますが。
(個人的にはバンクシーみたいな手法が好き。愛しつつコケにする系。音楽だとBUBBLE-Bさんとか)
バンクシー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC
BUBBLE-B / アムロケット
4.あなたはどう思ってるの?
オタクって何?
オシャレって何?
疑問に疑問でお返しします。
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「面白い」とか「なかなかのもの」とか言ってくれた人ありがとう。
全レスすると「キモイ」とか言われちゃうので、指摘してくれたコメにのみ応答。
clonicle 言っていることはまっとうだが、「ジャンクフード」(=人によっては取るに足らない虚像)だと発言することでテクノウチを決断主義者に仕立て上げるのは悪質
「決断主義」って言葉の意味を調べましたが、よくわからなかったです。
fuldagap「「ジャンクな物でも『おいしい』と感じる人が大半になったよ』って書いてあるだけだよ?」が微妙に誤読な気も。「化学調味料うめえ」じゃないかなーとか。総じて現役/引退オタクの自己正当化合戦に見える
そうです。たしかに「化学調味料うめえ」なのですが、
化調まで抽象化しちゃうとかえって伝わりにくいかなーと思い「ジャンクブート」にしました。
(「化調」に対応するのが「ビート」だけになっちゃうので。音楽的広がりが欲しかったので「ジャンクフード」と表現しました)
fuldagap 「全員「アツイ」から、濃淡は金・環境・時間の差でしかなかった」ってのは「アツ」くない人が見えにくかった時代がゆえの偽史だと思うなあ
「『おたく』とアイデンティファイされるようなファナティックな人々」が母集団ですから。
y_arim ぼくの知る限り、昔だってヌルいひとはいた。だけど時間の経過とともに彼らは「卒業」し、一貫して熱かったひとのみが生き残った。すると「昔は誰もが熱かった」という言説が生まれる。「元ヌルオタ」をどう語るか?
(『タイム・マシン』のエロイ的な意味で)幸せで「語り」に対してモチベがない人々に無理に語らせなくていいのでは?
ジャンプの発行部数見れば、「いた」ことはわかりますから。
mkd5 オタク 「おたく」のうち岡田氏の守備範囲が「オタク」となったってことかなあ/「(淡から濃に行かない奴は、そもそも「おたく」と呼ばれていない)」これがヌルオタなのでは
「ヌルおた」は言語矛盾を引き起こしますが、「ヌルオタ」は新語なので好きに定義しちゃってください。
『竹熊健太郎氏との対話(1)』での解説が一番しっくり来るのかなぁ。
「おたく全般」にまで広げちゃっていいのかどうかはまだ自分として決めてないです。
6.参照元
は文字数制限を避けるために↓こっちに移動。
http://anond.hatelabo.jp/20090115000935
おまけ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1756156
フック
(追記)
ああ、そうかそうか。書きたいこと書き殴ってたらレポ忘れてた。
"DENPA!!!"に行ってきたよ。
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20090113/p1
お三方とそう変わらない印象。
3Fではアニソン流してカラオケノリでオイオイって感じ。2Fと3Fの交流はぼちぼち。曲や3Fの込み具合次第かな。
ロンドンナイトは行ったことないけど、普通のライブとか新宿で昔やってたグルービー・ロックキャラバンとかと相似。
僕は2Fで「普通に」踊って楽しんでました。
テクノウチさんの時間は、3Fのお客さんが大挙していらっしゃいましてまったく踊れなかったので、僕的には一番…w
NHKの方(ETVのカメラマンさん)は「アンディー」かなーっとちょびっとヲチしてました。
(こっそり追記)
metamix きちんとオーガナイズされてる良イベントだっていうのは分かったけど、
その先があるのかどうかをもっと知りたい/クラブピーポーには文化考証なんてどうでもいいんですよ。
要はその現場があるかどうかだから。
「その先」「現場」ってのがどんなものをイメージしてるかにもよるなぁ。
「Dir en grey」なのか「RYUKYUDISKO」なのか「初音ミク/ニコニコ」なのか「third summer of love」なのか。
「超ライトオタク」や「越境」云々は主催者も意図してない(?)「バズワードでのプロレス」(@inumashさん)なんで、
どの層がたくさん「ひっかかる/ひっかかってる」かにもよるかと。
(まぁ、お客がみんな「かっこいい/かわいい」と書かれているってことは、
ちょっとキモ目の"いわゆる"「おたく/オタク」はあまりいないってことでもあるような気がするのはきっと気のせい。)
(昔に比べて非寛容な人が減っただけのような気がするのもきっと気のせい。)
【佐々木渉】 三年くらいしたら「初音ミク?そんなのもあったね」で良いんですよ。(中略)
まあウチも営利団体なのでもしかしたらヴァージョン・アップ版とか出すかもしれませんけど(笑)。
ただ、引くタイミングは考えないといけませんね。初音ミクにまで泥を塗って、
グダグダと退いていくようなやり方は、やっぱり不味いので。
ユーザーさんからも「『ぷよぷよ』を作った会社(株式会社コンパイル)が辿った末路を、よく調べておいて下さい」という
(独り言)
"virtual" という言葉は本来「実質的な」という意味合いだったと理解しているけれど,これに「仮想的な」という意味合いで用いていることが多すぎる.ニュースキャスタですら「仮想的な」という意味合いをヴァーチャルという言葉に託して「ヴァーチャル世界」やら「ヴァーチャルマネー」などという言葉を発している.
この意味を持たされた「ヴァーチャル」を聞く度に,こやつらは「仮想的な」という意味合いでの使用を強調することによって,
「『ヴァーチャル世界』とは『実質的には世界』などではなく仮想の世界に過ぎず,何の意味も価値も持たないのです.
『ヴァーチャルマネー』とは『実質的にはお金』などではなく仮想のお金に過ぎず,あぶく銭ですらないのです.
これらが世界やお金と実質的に同等の価値を持つ時代になったのだという現実はすべからく拒絶し,
また,この現実に立脚し時代に即した建設的な議論を展開するという姿勢は放棄いたします」
とでも主張しようとしているのだろうか,とすら邪推する.
まあ,「ヴァーチャル」という言葉は「仮想的な」という意味合いの和製英語なのだと,そう割り切ればよいだけなのだろうけれど.
http://anond.hatelabo.jp/20081206220423
はっきり言ってゴマカシなのである。
自分の周囲の嫌なものを日本と同一化し、日本ひどい=(それを批判する)俺すごいとオナニーしている。しかもその自覚すらないのないのだからよけい醜悪だ。
本人にそれを言うと必死に否定するが「日本HIDEE!」と言っている人間を馬鹿にすると何故か「日本はキミが思っているよりもひどい。日本の歴史は悪い」と返ってくるので苦笑してしまう。「日本」への肯定が「自分」への批判へと直結してしまっている。これは日本と自分の敵(受け入れられない自分の状況を作り出すもの)とを同一視しているからに他ならない。
「日本HIDEE!」は、これからの日本の未来の雲行きさえも悪くしている。
何故なら過去の結果に対して「HIDEE!」と溜飲を下げているだけで、これからの結果を出そうという努力を放棄しているからである。いわば「これは理想の社会ではない」と不満だけ言うクレクレ人士と同質であり、その空気が未来を担う若者にまで侵食しているという証が「日本HIDEE!」なのだ。
空疎な理想が蔓延した先に待っているのは、ひたすらなる現状否定(=現状に不満のある自己の肯定)だけなのである。
現状を否定したいからコピペ化させてまで日本のひどさを再確認したいのか(再三言うがキミが日本をくさしたからといって日本がよくなるわけでもないしキミがすごいわけじゃもちろんない)、未来を夢想するから否定してしまうのかは卵と鶏の話になるが非常に危ない状態であるのは間違いない。
それだけじゃない。「日本HIDEE!」の怖さは他にもある。そして、それは何千年にも渡って文明を発展させてきた我々にとって断じて否定しなければならないものだ。
「日本はHIDEE!」「日本に生まれて恥ずかしい」……これは立派な差別主義の萌芽である。
これは「(歴史的に)日本はHIDEE!」「日本に生まれただけでそれは罪」「(自分は直接してなくても)日本人の俺は罪深い存在」という含みが入っている。それはそれぞれのアイデンティティーを大切にしようという今の国際状況からじゃ考えられないものだ。キミたちはフランスが大革命を起こしたというだけで今のすべてのフランス人に肯定的になるべきか? ドイツがナチスを生んだからといって今のすべてのドイツ人を否定すべきなのか?
何にも考えずに差別主義を隠さない国がどうなるかなんて明白だ。滅亡に決まっている。
もっと言おう。この「日本HIDEE!」は同じキミたちが嘲笑う血統主義と同じである。何故か?
それは血統主義が人間の資質は血筋によって決まるとしているからである。この「血統がいいんだから私もすごい」という考え方はそのまま「昔の日本人が悪いことをしたんだから今の日本もひどい」と一緒だ。どっちも根拠無く自分の在り方/責任の立脚点を個人と関係ない血筋に置いているのだから。さらには血統主義は「前の代が偉かったら次の代も偉い」というのと同時に「前の世代がダメだからこいつもダメ」という考えを孕んでおり、これはほとんど「罪は遺伝する」という非合理的な主張と一緒だ。「日本HIDEE!」は「日本人だから謝らなければならない」という転化をし、これは間違いなく「国的絶対差別」だ。
以上のように「日本HIDEE!」は絶対に認めてはいけない思想なのである。キミたちはこのテンプレを読む前に本当の自分と向き合い、どうやったら自分を承認できるか、どうやったら自分の嫌なものをただ忌避するだけでなく自分を変えられるか考えた方がいい。そして自分が満足できない状態ならば「日本HIDEE!」などという単なる転嫁、自分の嫌なものは叩けばいいという後ろ向きな考えを捨ててこれからの日本がさらにすごくなるように努力すべきだ。
http://anond.hatelabo.jp/20081206220423
はっきり言ってあいつらはクズなのである。
はてなと自分を同一化し、はてなすごい=俺すごいとオナニーしている。しかもその自覚すらないのないのだからよけい醜悪だ。
本人にそれを言うと必死に否定するが「はてなSUGEE!」と言っている人間を馬鹿にすると何故か「はてなはキミが思っているよりもすごい。はてなを悪くいうな」と返ってくるので苦笑してしまう。「自分」への批判が「はてな」への批判へと直結してしまっている。これははてなと自分を同一視しているからに他ならない。
「はてなSUGEE!」は「俺SUGEE!」でもなければ、これからのはてなの未来の雲行きさえも悪くしている。
何故なら過去の結果に対しての「SUGEE!」と溜飲を下げているだけで、これからの結果を出そうという努力を放棄しているからである。いわば「ニフティサーブのあやしいワールド」を「昔はよかった」とだけ言うノスタルジー中年と同質であり、その空気が未来を担うゆとりにまで侵食しているという証が「はてなSUGEE!」なのだ。
ノスタルジーが蔓延した先に待っているのは前に進もうとしない停滞である。
停滞しているからコピペ化させてまではてなの凄さを再確認したいのか(再三するがキミが出した結果でもないしキミがすごいわけじゃもちろんない)、過去を憧憬するから停滞してしまうのかは卵と鶏の話になるが非常に危ない状態であるのは間違いない。
それだけじゃない。「はてなSUGEE!」の怖さは他にもある。そして、それは何千年にも渡って文明を発展させてきた我々にとって断じて否定しなければならないものだ。
「はてなはSUGEE!」「はてなに生まれてよかった」「はてな人の俺はSUGEE!」……これは立派な差別主義の萌芽である。
これは「(他国に比べて)はてなはSUGEE!」「(他国じゃなくて)はてなに生まれてよかった」「(他国の人間に比べて)はてな人の俺はSUGEE!」という含みが入っている。それは外国人を排除するという今の国際状況からじゃ考えられないものだ。キミたちはついこの前オーストラリアの白豪主義を笑ったばかりじゃないのか?
後ろ向きかつ差別主義を隠さない国がどうなるかなんて明白だ。滅亡に決まっている。
もっと言おう。この「はてなSUGEE!」は同じ2ちゃんねらーが嘲笑うスピリチュアリズムと同じである。何故か?
それはスピリチュアリズムが人間の資質は前世によって決まるとしているからである。この「前世がすごいんだから私もすごい…クッ、俺の左手よ静まれ…ッ」という考え方はそのまま「先祖のはてな人がすごいんだから俺もすごい」と一緒だ。どっちも自分のすごさの立脚点を自分と関係ないところに置いているのだから。さらにはスピリチュアリズムは「前世がダメだからこいつもダメ」という考えを孕んでおり、江原はこれを臆面もなく「霊的絶対差別」とまで言っている。「はてなSUGEE!」も「はてな人じゃないからすごくない」という転化をし、これは間違いなく「国的絶対差別」だ。
二度言うがこれは現代社会が絶対に受け入れてはいけない考えだ。絶対に!
以上のように「はてなSUGEE!」は絶対に認めてはいけない思想なのである。キミたちはコピペを読む前に本当の自分と向き合い、どうやったら自分をセルクマできるかを考えた方がいい。そしてはてなが好きならば「はてなSUGEE!」などという後ろ向きな考えを捨ててこれからのはてながさらにすごくなるように努力すべきだ。
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あんまおもろくならんかったけど、まぁいいや……
http://anond.hatelabo.jp/20081206220423
釣られてみる。
ただ、その釣りだとしてもこのような考えをもっている日本人はいることだろう。それはまことに残念であるからして記そう。
具体例でもあるかと思えばパッとしない記事でその上醜悪な内容だった。だから一瞬くだらないと思いやめようかと思った。
スピリチュアルで笑った。
でも日本人らしく神経質にネチネチ書いていくことにする。
はっきり言ってあいつらはクズなのである。
日本と自分を同一化し、というくだりでもうめんどくさくなった。
たとえば「募金は偽善だ」なんて言い出しそうな厨二病といわれる人間を相手に、朝から自分はアホなことをしようとしてると悲しくなった。しかしバナナおいしい。
これについてはスルーしよう。
2chだとしても、その他のコミュニティだとしても、多くの人はここまで飛躍したおめでたい頭の持ち主ではないことぐらいわかってる。
仮にいたとしてもごく一部だ。
「日本SUGEE!」は「俺SUGEE!」でもなければ、これからの日本の未来の雲行きさえも悪くしている。
何故なら過去の結果に対しての「SUGEE!」と溜飲を下げているだけで、これからの結果を出そうという努力を放棄しているからである。いわば「三丁目の夕日」を「昔はよかった」とだけ言うノスタルジー中年と同質であり、その空気が未来を担う若者にまで侵食しているという証が「日本SUGEE!」なのだ。
文章全体をみればこれが20代とか30代の人間であったら、日本の未来の雲行きは怪しいなと思う。
10代なら20代までになんとかなってくれるだろうけど、もし30越えてこれだとああもう。
いちいち根拠がうすい。
どこかしらよくある考えを引用して、わざわざ批判するために持ってきてご苦労なことだが、言っていることが的外れだ。
過去の結果なんてなくたってそもそも努力を放棄している人間はそこらじゅうにいる。
本気で努力する期間なんて人生3~5年で、あとはボケーと生きてるだけだ。
それも稀で、たいがいは全編通してボケーと生きて結婚してボケーと死にたくないとか考えて、ボケーと血をはいて死ぬのだよ。
それが醜悪であるなら、人間そのものが醜悪であるというわけだ。
そんなことない、なんて思うなら過去の努力していたと思い込んでいる自分へノスタルジーしてる中年と同じだ。
停滞しているからコピペ化させてまで日本の凄さを再確認したいのか(再三するがキミが出した結果でもないしキミがすごいわけじゃもちろんない)、過去を憧憬するから停滞してしまうのかは卵と鶏の話になるが非常に危ない状態であるのは間違いない。
日本の凄さを再確認したいのか?だって。おかしいことをいう。しかしコーヒーおいしい。
そもそも思い込んでいなくて、その上努力していないだけだ。再確認して努力を怠ろうなんていう甘っちょろいことも考えていない。
もっと甘いんだ。甘党だ。
それだけじゃない。「日本SUGEE!」の怖さは他にもある。そして、それは何千年にも渡って文明を発展させてきた我々にとって断じて否定しなければならないものだ。
日本すげーは、我々が発展させてきた文明を誇るものでありそれがあるから努力を怠っているんだ今の日本人は、とか思う発想は無い。朝から牛丼は有りだが吐いた。
これは「(他国に比べて)日本はSUGEE!」「(他国じゃなくて)日本に生まれてよかった」「(他国の人間に比べて)日本人の俺はSUGEE!」という含みが入っている。それは外国人を排除するという今の国際状況からじゃ考えられないものだ。キミたちはついこの前オーストラリアの白豪主義を笑ったばかりじゃないのか?
一番つっこみたかったのはここだ。陳腐で幼稚な妄想だ。
他国に比べて○○、という含みが入って考えているやからはそういない。2chでもごく一部であろう。
そもそも日本人はそんなことに興味もなく、明日のスイーツ(笑)を楽しみにし、今月の給料で何を買うかを考えることの方が興味ありありの人間ばかりだからだ。我が国は他国に比べて優秀なのだ!なんて考えているよりも、服を買ったりとりとめのない話をしたり恋愛したりする方が楽しい人間ばかりだ。
ヨーロッパや、その他海外へいけば自分の民族を最高の民族だと思っている国が多い。
だがそれは他の民族を排除する、見下す言葉、差別する言葉ではない。では、その彼らなりの言葉の意味ではっきりいおう。
自分は日本の国は一番良い国だと断言する。なぜそう思うかといえば日本人だからだ。
ではお隣の韓国人が「そうです。日本は一番良い国ですごいです。韓国はだめです」とでもいえば、自分はその韓国人を張り倒すだろう。信用できない。
言っている意味がわかるだろうか。
張り倒すって本気で暴力するわけではないとクソ真面目な人のためにいっておく。そんなことは実際しない。
要は、自分の国に誇りをもてということだ。日本が一番だなんて思うな。韓国人なのだから、韓国を、朝鮮人としての誇りを持てということだ。ちなみにいまの朝鮮人というか韓国人がしていることはその誇りを、祖先だけでなく他国も汚していることばかりしているように思えるから、それで誇りを持てというのもきついかもしれないが…。となるとある意味では信用できるかもしれない。
しかしキムチおいしい。
ではもし仮に自分がイギリス人であるとして、そのとき自分は日本が一番良い国だとは言わないだろう。
もちろんイギリスが一番だと誇らしく語る。
これで言いたいことがわかってくれただろうか。こんなせまっくるしいはてなで言うのもなんだが。
それから、海外に行って人と触れ合ってきた経験のある人ならわかると思うが、
自分の国をなんとも思っていないような人間は差別され信用されないことが多い。
彼らは祖先への敬意と、誇りを持つことの大切さを知っているからだ。たくさんの戦争をしているヨーロッパでは特に。
後ろ向きかつ自分の国を誇らない国がどうなるかなんて明白だ。滅亡に決まっている。
ちなみにその誇りとは、戦時中の愛国心まがいの盲信とは違うともいっておこう。
もう書くことがなくなったが全文やっておく。
もっと言おう。この「日本SUGEE!」は同じ2ちゃんねらーが嘲笑うスピリチュアリズムと同じである。何故か?
それはスピリチュアリズムが人間の資質は前世によって決まるとしているからである。この「前世がすごいんだから私もすごい」という考え方はそのまま「先祖の日本人がすごいんだから俺もすごい」と一緒だ。どっちも自分のすごさの立脚点を自分と関係ないところに置いているのだから。さらにはスピリチュアリズムは「前世がダメだからこいつもダメ」という考えを孕んでおり、江原はこれを臆面もなく「霊的絶対差別」とまで言っている。「日本SUGEE!」も「日本人じゃないからすごくない」という転化をし、これは間違いなく「国的絶対差別」だ。
二度言うがこれは現代社会が絶対に受け入れてはいけない考えだ。絶対に!
以上のように「日本SUGEE!」は絶対に認めてはいけない思想なのである。キミたちはコピペを読む前に本当の自分と向き合い、どうやったら自分を承認できるかを考えた方がいい。そして日本が好きならば「日本SUGEE!」などという後ろ向きな考えを捨ててこれからの日本がさらにすごくなるように努力すべきだ。
日本すげー=俺すごい
的な発想があるのかもしれないとしても、我々はこれを絶対に受け入れてはいけない。江原も受け入れてはいけない。美輪はけばけばしい。
日本が好きならば日本すげーなんて思うな、と後ろ向きな考えを捨てて、
祖先の行ってきたことを誇りに思い、また行ってはならなかった歴史の過ちを認め、それら全て責任をもって努力し次の時代へ語りつなげるべきだ。
もっというと努力しなくてもいい。やるべきことをやればそれで良い。結果的にそれが努力につながっている。
日本を知り、日本を誇れ。日本人なのだから。そして他国を敬い理解しよう。彼らの国も日本と同じように、祖先が築いた誇らしい国なのだ。
はっきり言ってあいつらはクズなのである。
日本と自分を同一化し、日本すごい=俺すごいとオナニーしている。しかもその自覚すらないのないのだからよけい醜悪だ。
本人にそれを言うと必死に否定するが「日本SUGEE!」と言っている人間を馬鹿にすると何故か「日本はキミが思っているよりもすごい。日本を悪くいうな」と返ってくるので苦笑してしまう。「自分」への批判が「日本」への批判へと直結してしまっている。これは日本と自分を同一視しているからに他ならない。
「日本SUGEE!」は「俺SUGEE!」でもなければ、これからの日本の未来の雲行きさえも悪くしている。
何故なら過去の結果に対しての「SUGEE!」と溜飲を下げているだけで、これからの結果を出そうという努力を放棄しているからである。いわば「三丁目の夕日」を「昔はよかった」とだけ言うノスタルジー中年と同質であり、その空気が未来を担う若者にまで侵食しているという証が「日本SUGEE!」なのだ。
ノスタルジーが蔓延した先に待っているのは前に進もうとしない停滞である。
停滞しているからコピペ化させてまで日本の凄さを再確認したいのか(再三するがキミが出した結果でもないしキミがすごいわけじゃもちろんない)、過去を憧憬するから停滞してしまうのかは卵と鶏の話になるが非常に危ない状態であるのは間違いない。
それだけじゃない。「日本SUGEE!」の怖さは他にもある。そして、それは何千年にも渡って文明を発展させてきた我々にとって断じて否定しなければならないものだ。
「日本はSUGEE!」「日本に生まれてよかった」「日本人の俺はSUGEE!」……これは立派な差別主義の萌芽である。
これは「(他国に比べて)日本はSUGEE!」「(他国じゃなくて)日本に生まれてよかった」「(他国の人間に比べて)日本人の俺はSUGEE!」という含みが入っている。それは外国人を排除するという今の国際状況からじゃ考えられないものだ。キミたちはついこの前オーストラリアの白豪主義を笑ったばかりじゃないのか?
後ろ向きかつ差別主義を隠さない国がどうなるかなんて明白だ。滅亡に決まっている。
もっと言おう。この「日本SUGEE!」は同じ2ちゃんねらーが嘲笑うスピリチュアリズムと同じである。何故か?
それはスピリチュアリズムが人間の資質は前世によって決まるとしているからである。この「前世がすごいんだから私もすごい」という考え方はそのまま「先祖の日本人がすごいんだから俺もすごい」と一緒だ。どっちも自分のすごさの立脚点を自分と関係ないところに置いているのだから。さらにはスピリチュアリズムは「前世がダメだからこいつもダメ」という考えを孕んでおり、江原はこれを臆面もなく「霊的絶対差別」とまで言っている。「日本SUGEE!」も「日本人じゃないからすごくない」という転化をし、これは間違いなく「国的絶対差別」だ。
二度言うがこれは現代社会が絶対に受け入れてはいけない考えだ。絶対に!
以上のように「日本SUGEE!」は絶対に認めてはいけない思想なのである。キミたちはコピペを読む前に本当の自分と向き合い、どうやったら自分を承認できるかを考えた方がいい。そして日本が好きならば「日本SUGEE!」などという後ろ向きな考えを捨ててこれからの日本がさらにすごくなるように努力すべきだ。