はてなキーワード: ISAFとは
増田なのに増田さんが「増田」をこえたわー なんだこれ。なんだかおかしいですけど、はじめましてと挨拶をしたい感じです。
それで、画面の向こうに人間がいるんだと意識して、ということは人柄もあるんだよなと思い当たり(今更ですみません)、増田さん像をイメージしながらズレの原因を探ってみました。思うに、私は「分からない、どうしようもない」ということに、増田さんは「ではどうしたらいいのか」ということに、重きを置いて考えているようです。
人間は「立場」から逃れることは出来ないと思うなあ。「ある正しさに立脚するのが不安」だろうと「どこの正しさにも立たない」ことは無理。そこは諦めるしかないと思うんだ。いずれかの「正しさ」を取捨選択した上で、それを物差しにして周囲を測っていくしかない。
諦めるしかないというところまで思って、でも諦められなかったがために1番最初の文章を書いたんです。まさに先に進めない状態ですが、なにか自分にない視点はないかと求めていました。現実的にどう対処すべきかと問われれば増田さんの意見に賛成ですし実際そういうふうに暮らしているんですが、それでも時にはどうしようもないことの上で非現実的な迷い方をしていて(というか「したくて」?)、ここでは「どうしようもない」「意味がない」に付き合おうとしています。
つまり、例えば
『「正しさ」から無縁であることは、(一切の意思決定を放棄しない限り)平時にあっても不可能ではないか』/「そうした「正しさ」を論ずる意味はない」ということにはならないのですか?
ということについて、不可能だし意味もないかもしれないと思った上で、否定したり拒否したりと除く方法を考えるのではなくそれ自体を考えたい、ということです。極端にいえば戦争は一具体例で、「自分はなにを思えばいいのか」とそのための不可能や無意味について考えたいんです。このあたりの認識の違いに思い至らず「どうしようもなさ」から自由になれないことを前提にしていたことが、ISAFの話を軽く流してしまったりだとか、その他もろもろの食い違いの原因でしょうか。
ISAFの活動についても「グレーである(分からない)」が私のファイナルアンサーです。結論を出せないし出し得ないのですが、理屈の上では、だからといって出し得なくさせる土台を否定しなければいけないということもないでしょう。理屈ではなく現実に生きていますが、私にとっては別の問題でした。平和と戦争についても、比較して相対的にどうこうではなく、「正しさ」なんてないか自分には知り得ないかのどちらかだ、という意味で「国家と大衆が支持する正しさが正しいとは限らない」「平和がいいものとは限らない」でした。
意外と新鮮!
ここでも感情(立脚する正しさのなさが不安)と理屈(ある正しさに立脚するのが不安)の対立があって、どうすればいいか分からないからです。そんなこと言ってたらなんにもできないじゃないかと自分でも思いますし、日常生活を営む上で私は私の正しさに則って動いているんですが、考えてみたら… →「私はなにを思えばいいんだろう。」というぐるぐる。
人間は「立場」から逃れることは出来ないと思うなあ。「ある正しさに立脚するのが不安」だろうと「どこの正しさにも立たない」ことは無理。そこは諦めるしかないと思うんだ。いずれかの「正しさ」を取捨選択した上で、それを物差しにして周囲を測っていくしかない。測っていく間に、逆に物差しの側を修正することもあるかもしれないけど、何の物差しも持たないまま活動するよりは相当マシなわけで。どこかで決断をしていかないと、先に進めなくなっちゃったりしないかな。
意志決定の正否の問題とは無関係に、平和を良いものと断定できる、ということでしょうか。平和が万能だとは思っていないつもりですがその理屈はよく分りません。なぜ無関係なのか、なぜ断定できるのか、解説をお願いできますか?
まずお断りしておくと、平和が良いものと断定できる、とは言ってないです。
さて、一般に言われる平和の「良さ」とは、戦争に特有の「デメリット」の裏返しとして語られていることが多いですよね。例えば、人命の喪失、資源・資金の浪費などが「デメリット」であり、そうしたデメリットから解放された状態が平和の「良さ」として語られたりするわけです(これはちょっと消極的な見方ですけれども)。
それを踏まえた上で、ですが、『国家と大衆が支持する正しさが正しいとは限らない』という問題は、そうした戦争に特有の「デメリット」と考えられていたでしょうか。あるいは逆に、平和の特有の「デメリット」と考えられるでしょうか。どちらも当てはまらないですよね?ならば、このことによって平和の価値が戦争と比べて相対的に上がることも下がることもない。つまり、それは中立的で、無関係な論点だと言えるのではありませんか。『本当に平和は良いものなのか』と恐れを抱くなら、むしろ戦争・平和のそれぞれに特有のメリット・デメリットについて論じるべきではないかと思うのですが(『希望は戦争』みたいに。これも事実認識はどうかなと思う面がありましたが)。
言及されている部分は本題からやや外れているので、まず『「正しさ」から無縁であることは、(一切の意思決定を放棄しない限り)平時にあっても不可能ではないか』という部分にまず回答が頂きたいですね。「レトリックなのではないか?」という問いかけに「そうなんです」と答えられていますが、では「そうした「正しさ」を論ずる意味はない」ということにはならないのですか?
さて、こちらは蛇足になりそうなのですが、ISAFの例を持ち出したのは、あれが国連安保理決議に基づいて設立され、それに多くの国々が参加・協力していること(それに加え、平和維持軍ではなく多国籍軍であることについて)をどのように把握し、それに対してどう考えているか、ということを確かめたかったからです。さらに、いわゆる戦争と戦争でない状態のグレーゾーンについての意識も問うています。というのも、直接ISAFに参加しているわけではありませんが、海自のインド洋補給活動を通じて、我々もアフガン紛争に関わりがあるからです。海自が給油活動終了までに果たす役割を考えたとき、増田はこれをどう位置づけるのか。戦争なのか、平和なのか。そのどちらかであるとして、それは「正しさ」によるものなのか。その「正しさ」から自由であることが可能なのか。だいたいそういうことまでを含めた部分が意図になるわけです。一応(そんなん読めるわけないだろ常識的に考えて…特に後段)。
何か長々つきあわせて申し訳ないです・・・。
個人が個人内部で戦争をどう扱えばいいのか、という話です。
自分の中で消化した後の議論や活動も他者のそれも言うなればどうでもいいんですが、伝わっているでしょうか
一応それは伝わってます。自分には、増田の内面で問題意識が定まっていないために「何を思えばいいのか」ということになっているように感じられたので、それを確かめようと必要以上に回りくどくなっている部分があると思います…すみません。社会全体のありようについての疑問がいくつか出ているようでしたから、そこから主張・見解を引き出すことで論点を絞り込めるかなと思ったのですが、こちらの手際が悪いせいでいまいち上手くいってない感じですね…。
ところで、エントリを読み直していたんですが、増田は交通事故の被害者や、新聞紙面に載る殺人事件の被害者にも、今回と同じような問題意識で持って「何を思うべきか」を考え込んでしまったりするのでしょうか。被害者の訴えのようなものを聞いたときも、やはり今回のような疑問を感ずるのでしょうか。たぶん違うんじゃないかと思うんですけど、どうでしょうか。どこかで戦争と戦争被害者を神聖視してるんじゃないかと思わされる節があるのですよね。
それと、『平和への疑問を持たざるを得ない状況が怖い』ですけど、懐疑の意識を持つことに対して恐怖を感じるのは何故なんでしょう。平和であろうと、社会のありように懐疑心を持つことはおかしなことではないと思いますが…。また、立脚する正しさのなさへの不安から迷いが生まれているのなら、その足場を可能な限り確かなものとしよう、という方向性に進むことを考えたりはしないのですか。「何を思うべきか」で内面へと向かうことをひとまず置いて、外面からの理解を進めても良いんじゃないかと。
意思決定の正否の問題は、戦争・平和のいずれの状態であっても生じるものでしょう。これを指して『本当に平和は良いものなのかと怖くなりました』というのはちょっと焦点がずれていると思います。
1文目には賛成です。2分目はどうして? 何故、どうずれていますか。
戦争と比較して平和が「良い」とされる点は、そうした意思決定の正否の問題とは無関係なように思われるからです。平和が全ての問題を解決してくれるかの如き過剰な期待がなければ、こうした問題を見て『本当に平和は良いものなのか』等と言う疑問は出て来ないのではないかと思います(それは押し付けられた平和教育の罪なのかもしれませんけど)。
「いくら寛容であろうとしてもそれぞれ正しさを待たずにいることはできず、対立を生む原因もここにあるのではないか」です。
そこまで遡って「正しさ」を定義するのであれば、「戦争は思ったことを思い続けたから起る」と言えるでしょうが、そういった「正しさ」から無縁であることは、(一切の意思決定を放棄しない限り)平時にあっても不可能です。集団での意思決定を伴なう出来事は大半が「思ったことを思い続けたから起る」と言える(もちろん、平和だってそうです)。なら「戦争は思ったことを思い続けたから起る」というのはレトリックに過ぎないのではありませんかねえ。
そもそもISAF対アフガニスタンで戦争をしているという認識がありませんでしたが、この両者間の対立は特筆すべき例外にはなりません。
これ一つでもう一個ツリーが立つぐらい面倒くさい話になるので適当に端折りますが、ISAFはアフガニスタンと戦争をしているわけではありません。また、括弧内で触れているように、厳密な意味で「戦争」と定義するのに留保を置いていることを気に留めていただけると幸いです。ついでにいうとわざわざそういう事例を持ち出したことの含意も考えてもらえるとなお幸いです。
個人が個人内部で戦争をどう扱えばいいのか、という話です。自分の中で消化した後の議論や活動も他者のそれも言うなればどうでもいいんですが、伝わっているでしょうか。私の書き方が拙いのもありますが、増田さんも「戦争を考える人像」を持っているように感じました。できたらそれ、今は横に置いてください。
戦争を支持する主張に眉を顰める風潮を問題視しているのですか?戦争を支持する主張が受け入れられるような、開かれた言論の場を、と仰りたいのでしょうか。
というのは違います。失敗の有り得ない社会体制を求めているわけでもありません。
戦中に戦争を支持した大衆の一人と同じような形で(これが言いたいがための文章でした)自分も平和を支持しているんだということを踏まえて、立脚する正しさのなさに不安感を抱いた、ということです。平和への疑問を抱くほどに怖いのではなくて、平和への疑問を持たざるを得ない状況が怖いんです。怖いという語では強すぎるかもしれませんが、そういう不安があるために何を思うにせよ迷いが生じます。これが発展して「なにを思えばいいんだろう」に繋がって、それが私のテーマです。
意思決定の正否の問題は、戦争・平和のいずれの状態であっても生じるものでしょう。これを指して『本当に平和は良いものなのかと怖くなりました』というのはちょっと焦点がずれていると思います。
1文目には賛成です。2分目はどうして? 何故、どうずれていますか。
という意見をいただくことになるだろうから
そういった理由で人を殺すことも資源のためなら厭わないという思想をどこかで肯定しているから戦争になるんだし、あるいは「戦争などしたくないが戦わなければ自国が滅びる」と思って戦争をするんでも、国を滅ぼすよりは戦争をすべきだという正しさに則って戦うんだし。
を書いたのに… 難しいな。妥協しようと他の意見に歩み寄った末に武力行使が必要と判断して戦争をするなら、それはつまり「武力行使が必要だ」という正しさに則っての武力行使です。「他者への不寛容」という表現に誤解を感じました。「不寛容であるから戦争が」ではなく、「いくら寛容であろうとしてもそれぞれ正しさを待たずにいることはできず、対立を生む原因もここにあるのではないか」です。
アフガンに於けるISAFの活動等をどう思われますか(戦争のありよう・起点をどう定義するか、という論点はあるかもしれませんが)。なんだか増田の意見は、実際の戦争ではなく、増田の頭の中にある戦争像を元に話をしているように聞こえます。
ISAFはISAFの、アフガンの各組織は各組織の正しさに則っていると思います。そもそもISAF対アフガニスタンで戦争をしているという認識がありませんでしたが、この両者間の対立は特筆すべき例外にはなりません。
戦争を支持する主張に眉を顰める風潮を問題視しているのですか?戦争を支持する主張が受け入れられるような、開かれた言論の場を、と仰りたいのでしょうか。そうやって自由に意見を述べることの可能な、開かれた場は既に存在していると思いますが。このような実例もあります。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/071010/stt0710101729004-n1.htm
結構大胆なことを言っていると思うのですが、この件で彼が何か法的に追及されたという話は聞きません。正直、眉を顰められたぐらいで、戦前と同じだ、と考えるのはどうかなと思います。そう言いたくなってしまう気持ちも分からなくはないのですが。
「かつて国家と大衆が間違ったのなら、現在の国家と大衆が支持する正しさが正しいとは言い切れない」というのが第一の怖さです。また、これを発展させて「しかし国家と大衆が一致して正しいというものさえ正しくないかもしれないと考えるならば、正しいと言えるものなんてなくなる」というのが第二の怖さです。
これは既に戦争・平和の論点から外れているのでは。意思決定の正否の問題は、戦争・平和のいずれの状態であっても生じるものでしょう。これを指して『本当に平和は良いものなのかと怖くなりました』というのはちょっと焦点がずれていると思います。それはさておき、二つ目の『しかし国家と大衆が一致して正しいというものさえ正しくないかもしれないと考えるならば、正しいと言えるものなんてなくなる』という恐怖ですが、正しいと言えないことがそれほど不安なのですか(現在の平和に対する疑念を生じせしめるほどに)。失敗のない政治体制なんて、存在したことがないと思うのですが…。
そういった理由で人を殺すことも資源のためなら厭わないという思想をどこかで肯定しているから戦争になるんだし、あるいは「戦争などしたくないが戦わなければ自国が滅びる」と思って戦争をするんでも、国を滅ぼすよりは戦争をすべきだという正しさに則って戦うんだし。
批判・検証を受け付けない硬直した態度と、他者への不寛容の広まりは戦争を生む一因ではあると思いますが、後段の文章はあまり同意できません。
妥協・他の意見を顧みた結果、武力行使が必要、という結論になることもありえるからです。アフガンに於けるISAFの活動等をどう思われますか(戦争のありよう・起点をどう定義するか、という論点はあるかもしれませんが)。なんだか増田の意見は、実際の戦争ではなく、増田の頭の中にある戦争像を元に話をしているように聞こえます(自分も不勉強なので人のことを言える立場にはありませんけど…)。
そういう戦争像を元に『私は(戦争に対して)何を思うべきなのか』という問いかけ・思考を行っても、それは空虚なものにしかならぬのではないでしょうか。
ISAFに自衛隊員派遣検討-北沢防衛相
北沢俊美防衛相は4日午前の記者会見で、アフガニスタンに展開する国際治安支援部隊(ISAF)の作戦本部に、自衛隊員数人を「連絡調整官」として派遣する方向で検討していることを明らかにした。アフガン本土への自衛隊員派遣が実現すれば初めての活動となる。ただ、治安状況が悪化していることから、政府としてはアフガン支援策を策定する中で慎重に検討することにしている。
先月の日米防衛相会談で、北沢氏は新たなアフガン支援策として自衛隊活用を検討する考えを表明していた。防衛省は、来年1月に根拠法が期限切れとなるインド洋での海上自衛隊による給油活動に代わる支援策を検討中で、北沢氏は「多様なメニューを作り(内閣に)説明した段階だ。派遣するかは未定だ」とも述べた。
ただ、平野博文官房長官は4日午前の記者会見で、アフガンへの自衛隊員派遣について北沢氏からの報告を受けていないことを明らかにしたうえで、「政府内で検討していることはない」と述べた。
自衛隊のアフガン派遣をめぐっては、自民、公明両党の政権下で、ISAFへの後方支援のため陸自の大型輸送ヘリCH47や航空自衛隊のC130輸送機による輸送活動が検討されたが、治安の悪化などにより見送られた経緯がある。
まあ、社民や民主党内の社会党残りカスが潰すんだろうけど、万が一実現したら近いうちに殉死者出るだろうな。
ただし派遣規模は国によってピンキリ(数千人規模だったり数名の武官派遣のみだったり)。ちなみに今年だけで400人以上の兵士が死亡(事故死含む)している。
インド洋で給油をちんたらやってるだけで良かったと思うんだけどなあ。
そもそも自衛隊のISAF参加は小沢の長年の悲願だったし、給油法案が揉めてた時もそれは繰り返してた。
小沢の本来の目的はまさにそれだろ。そんな民主党が衆院選で大勝した以上、反対派や護憲派には何の大儀もない。
安全な海の上でチンラタ給油するだけで対テロ戦争に協力してるって言い訳出来るんだから別にいいじゃん。それに今更給油やめたら、代わりに何をさせられるか分かったもんじゃねえし。給油もしない、人的支援もしないじゃあ国際世論は通らんぜ?給油やめてアフガンに陸自派遣すんの?現地じゃバカスカ兵士死んでるんだけど?
…的な論調がメインだった。
最初の頃は追ってたが、多すぎて飽きた。とりあえず就任から2ヶ月くらいはこんな感じだった。
一方日本のマスコミは「バー通いけしからん!」と連日麻生を叩いていた(笑)。そして翌日小沢がインドのシン首相会談をドタキャンしたのはスルー。小沢自身は「私は総理大臣じゃないから」と釈明。
数年後に認められれば、海底資源の採掘権を主張できる範囲が拡大する(日本国土の約2倍)。
給付金はその中の2兆円、中小企業支援対策には20兆円強が割り振られている。が、テレビで連日騒がれているのは給付金だけ。
就任直前に秋葉原での麻生フィーバーを「戦前のドイツ・日本のようだ」と言った民主党議員はなぜかメディアからは「失言」扱いされなかったし、小沢の巨額の金銭スキャンダルはメディアは全部ほったらかしだし、児童手当出す代わりに扶養者控除と配偶者控除を縮小する民主案を誰も取り上げないし。
IMFへの1000億ドル貸し付けも、下手に動かせず塩漬けになってる外貨準備高(ドル)を有効利用する(日銀金利の3倍で貸す)名案なのに、なぜか「10兆円規模」と意図的にレート変換されて、税金が無駄遣いされてるかのように言ってのける奴もいたっけな。
インド洋給油問題も、小沢は一貫して現地で武力行使を行う(そして現地では参加国の兵士が結構死んでる)ISAFを頑なに主張していた(多分今も)。それに永住外国人参政権問題もある。民主政権成立後に公明党が民主に合流したら誰にも止められないし、マスコミも誰一人として報じないだろう。
まあ、元々麻生自身が根っからのマスコミ嫌いだから、どんだけ叩かれても無視して任期満了までやる気なんじゃないの?子供の頃から「お前のジジイが死ねば日本は良くなるんだよ!」と自宅に群がってる新聞記者に小突かれてたらしいし(笑)。
続きは各自で調べてちょうだいよ。
なんつーか、ポピュリズム万々歳って感じ?
外交でヘタ打って何十年も国ぐるみで不利な条件を呑まされ続けるなんてザラだろ。診療報酬にせよ農家の収入にせよ、外交でしくじったしわ寄せをモロに受けてる分野じゃん。現在景気が悪いのも、外交や国防を「どこの誰がやってもなんとかしてくれるさ」とおざなりにしてきた事と無関係じゃないだろうに。
ちなみに民主党が政権取ったら、自衛隊は行かなくてもいいアフガニスタンに飛ばされて、現地でISAFやってる軍隊の足を引っ張りつつ多数の犠牲者出す予定だよーん。自衛隊員を国外で戦死させるのが小沢の悲願だからね。
残念な結果になってしまったようで。
「治安悪化の認識甘かった」=ペシャワール会の中村代表??タイ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080827-00000170-jij-int
【バンコク27日時事】アフガニスタンで拉致された伊藤和也さん(31)が所属する非政府組織(NGO)「ペシャワール会」(福岡市)の中村哲代表(61)は27日、新バンコク国際空港で取材に応じ、アフガン東部で発見された日本人らしい遺体について、「村人とうちの職員は顔を知っているので、(伊藤さんで)間違いない」と述べ、「伊藤君だけは大丈夫だと思っていた。認識が甘かった」と悔いた。
中村代表が現地のアフガン人職員から得た情報によると、遺体は東部のナンガルハル州ジャララバードの北北東約40キロの山中で村人らが見つけた。乱射に近い撃ち方で、足と頭を撃たれていたという。
中村代表は「犯人が村人に追われて逃げる途中、(伊藤さんは)撃たれて死亡したようだ。単なる強盗、身代金目当てで、政治的なものではないと思う。われわれの治安悪化に対する認識が甘かった。伊藤君をここまで(現地に)滞在させたわたしが悪い」と声を落とした。
【アフガン邦人男性拉致】タリバン「殺害した」 全外国人が標的
http://sankei.jp.msn.com/world/asia/080827/asi0808272332005-n1.htm
【ジャララバード(アフガニスタン東部)27日共同】アフガニスタンで日本の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」(本部・福岡市)の伊藤和也さん(31)が拉致され死亡した事件で、関与を認めていた反政府武装勢力タリバンのムジャヒド報道官は27日、遺体発見後に共同通信の電話取材に応じ「日本人を殺害した。すべての外国人がアフガンを出るまで殺し続ける」と述べた。
報道官は「このNGOが住民の役に立っていたことは知っている。だが、住民に西洋文化を植え付けようとするスパイだ」と主張。「日本のように部隊を駐留していない国の援助団体でも、われわれは殺害する」と訴えた。
報道官は伊藤さんの拉致後、「日本人は政府側との戦闘に巻き込まれて死んだ。政府側の流れ弾に当たった」と責任を回避する発言をしていたが、一転して意図的に殺害したことを認めた。
それでも民主党は、インド洋給油より現地派遣(ISAF)をやれと言うんだろうか。仮にそうだとしたら、もう自衛隊員を殺す事が目的だとしか思えんな。