はてなキーワード: ももちとは
酒はおそろしい毒。ドラッグ。犯罪と事故を呼び起こす社会の癌。
年末年始や歓送迎会ではオーバードーズ、いわゆる急性アルコール中毒で毎年3万人が死亡している。
飲み会などにおける上の立場からのパワハラ・アルハラ・飲酒強要での健康被害、死亡事故も問題視されている。
酒を飲むとまず咽頭・食道がやられる。食道静脈瘤や咽頭がんなど。
「酒焼け」とよくいうだろう、あれが出たらもう赤信号。
そして次に当然ながら胃が多大なダメージを受ける。
その先の小腸や大腸も以下同文、消化器系は漏れなく壊滅。
アルコールが運ばれる循環器系はもちろんやられる、血管バキバキで脳血栓できまくりで脳卒中の最大要因。
「休肝日」という言葉があるくらい皆さんご存知の通り、アルコール分解の主役である肝臓はもうボッコボコになる。
最終的な分解を受け持つ筋肉もやられ、深刻な場合は慢性的な震えや痙攣・運動障害をひき起こす。
そしてアルコールで最も甚大な影響を受けるのが、酒の麻痺効果のターゲットである脳・神経系。
飲酒常習者は脳が萎縮し、非飲酒者に比べ痴呆が10年速く進行する。
慢性アル中患者は脳血流やグルコース代謝が低下し判断力などの高次機能が破壊され、反社会的行動を起こしやすくなる。
さらに膵臓のランゲルハンス島もやられて糖尿病になる。膵炎の半数はアルコール性。
もちろん腎臓もやられるし、アルコール性心筋症は心筋梗塞の最大要因。
それだけじゃない、免疫力が著しく低下するためエイズや肝炎などあらゆる感染症にかかりやすくなり、
酒による肥満はありとあらゆる成人病を加速させ、さまざまな合併症をひき起こす。
さらに言えば、酒の上の暴行や傷害や殺人や強姦など、様々な犯罪の間接要因でもあり、
昨今ようやく少し認識が改まりつつある飲酒運転被害ももちろん酒の害のひとつ。
まさに百害あって一利なし。
万病の素。
あらゆる悪の根源。
経済的にも社会的にも、恐ろしく多大な損失を生む、まさに悪魔のドラッグ。
それが酒。
今日もリアルで尊敬のかけらも受けてないだろう増田のようなアルハラ中高年が
俺はだいたい元増田と同じような観点だと思うけど、発言が気になったのでDreamWeaverCS5の機能見てみた。
統合CMS対応って書いてあってWordPressの名前があった。
むしろまだサポートしてなかったんだと思ったけど、だからこそ逆にプログラマではない人にとって
WordPressやMTをベースにしたサイト作成ってこと自体が新しい技術なんだろうなとおもった。
あとはSVN統合とかあったよ。開発者とSVNで共有しながらやるとか、デザイナにとっては未知のことなんじゃないだろうか。
ツールを触ることによって新しい技術に触れるって感覚はわかるよ。
CSSやブラウザ検証とか元々のウェブデザイナの範疇ももちろんあったよ。
もちろん最新の技術かといわれると俺も元増田とおんなじ感覚だと思うけど、それは正確には開発者的にホットな話題てだけだよね。
残念ながら理は完璧にお友達にあるようだ。
元増田には、男女に関わらず、『こうあるべきだ』という思い込みがまずあり、そこから外れたものをバカにするような癖があったんじゃないかな。
「俺とコイツじゃ、おかしなこと言ってるのはコイツだろ?」って言いたかったわけじゃないんだ。理がどっちにあるのかって言えば、それは相手だということももちろん分かる。
ただ、外れたものをバカにするようなことはよくやってる。
今回の件を含め、俺は冗談のつもりでしかなかったけど、君にも相手にも「キャバ嬢全否定」なんて言われてしまうっていうことは、冗談として成立してなかったんだなぁ。
極端な例だけど、「キャバクラ行ったらモンスターハウスだった」みたいな冗談のつもりだったのよね。
でも、理解は得たけどシカト食らってるってことは、やっぱ前々からイライラさせてたんだろうな。
釈然としない部分が大きかったけど、分かったような気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20100623100405
周りがどれほど「産んでみれば」と言おうとも、本人に「母親になる」っ固い決心がないと、結局、子供を不幸にするって話だよ。
現在、元増田は「子供を育てることの大変さ」は認識しているし、現状では「万一妊娠しても産まない」と決めている。
じゃあ、その決意を「産む」ほうに傾けるのは、きっと、なみなみならぬ事情が生じたときだ。
元増田が頭で考えている以上に、子供を産めば、今までの自分と同じではいられない部分がある。
3歳の子供と対等にケンカする母親とか見かけると、えーと、大人としての自覚は?とツッコミたくなるんだが、まあ、そういうこともおいおいと覚えていかねばならんわけだ。
やがて来る就職活動国際化時代を生き残るための知恵 http://kaigai-shushoku.blogspot.com/2010/06/blog-post_16.html
企業依存症、日本依存症の人が増えています。企業への依存とは、ある特定の企業でしか通用しないスキルばかりを修得してしまったがために、他の会社で通用しなくなってしまうことです。企業へ依存してしまうと、会社が傾き待遇が悪化しても、つまらない仕事ばかりさせられても、人間関係がもつれても、家族がいるのに転勤を強要されても、会社に行くのが心の底から嫌になっても、「不満を抱えて働き続ける」「路頭に迷う」「やりたくない他の仕事をする」「自殺」の四択を迫られてしまいます。
日本依存でも同様のことが言えます。自分自身が気をつけていても、他の人があほな政治家に投票をしてしまい、おかしな政策を打ち出されることもありえます。例えば、スロバキアのように、子供を手当てを行った結果、貧困層が手当て目当てで子供をたくさん作り、財政が逼迫したから、子供を手当てを打ち切った結果、貧困層が路頭に迷い、犯罪が増加し、富裕層が夜一人で出歩けないようなことになってしまうかもしれません(※1)
また、日本が未曾有の不況に襲われることもありえるし、公教育の質が低下して技術者が育たず、お隣の国に車でも電化製品でも負けてしまい、日本そのものの国際競争力が低下してしまい、大勢の従業員を抱えた車やエレクトロニクス産業が低迷し、関連企業や関連産業の雇用が悪化して、自分がクビをきられるかもしれないし、クビを免れても従業員が減ったしわ寄せが自分に来ることもありえます。
自分がどんなに気をつけていても、こればかりはどうしようもありません。そんな時、日本から脱出できなければ自分はもちろん、自分の家族や子供も、自分と同じ苦しみを背負うことになります。そうならないように、どんな時代でも、どんな場所でも働けるような、普遍性の高いスキルを身に付け、いつでもどこでも働けるように備えておくのが重要です。
スキルは、"soft skill(ソフトスキル)"と"hard skill(ハードスキル)"に分けることが出来ます。この二つの言葉は、まだ日本では耳慣れない人も多いかと思いますが、欧米のビジネスの場では比較的一般的な観念です。(※2)
ソフトスキルとは、人当たりのよさ、コミュニケーション能力、リーダーシップ、振る舞いなど、他社との関わり方を決定するスキルで、EQ(心の知能指数)と深く関わっています。
EQテスト http://www.unnmei.com/eq.html
ハードスキルとは、 特定業界に関する知識、数学や経済学などの学問、会計などの実践的な技能、言語、コンピュータスキルなど、IQと深く関わっているものです。教育機関で教わることも、独学で学ぶことも比較的簡単にできるのが、ハードスキルです。
日本の新卒採用では「コミュニケーション能力」などのソフトスキルが非常に重要視されますが、日本人が世界で働ける普遍的なスキルを持ちたいと思ったなら、ソフトスキルよりもハードスキルを重点的に磨くべきです。
ソフトスキルはハードスキルと比べて、文化に大きく依存します。例えば、はっきりした物言いはアメリカではソフトスキルが高いとみなされますが、日本ではむしろソフトスキルが低いとみなされる傾向があるでしょう。
ただし、ソフトスキルが飛びぬけて高い人なら、話は別です。今まで接したことがない未知の文化を持つ人に対しても、表情や仕草などから、その人の感情を読み取り、瞬時に適応することが出来る人もいます。
しかし、そんな飛びぬけたソフトスキルを習得するのは非常に困難です。表情から心理状態を読み取る方法や、心理学などを勉強し、さらに実践を重ねれば、どの国の誰に対しても、うまく接することが出来るようになるかもしれませんが、膨大な時間を費やすことになるでしょう。
また、欧米では一般的には「専門的な技能を持った即戦力」が求められている人材です。外国人なら、特にそうです。外国人を雇って、現地人より教育にコストがかかってしまうのでは、わざわざ外国人を雇う理由がありません。
以下の条件を満たすハードスキルがより普遍的であり、習得すべてきでしょう。
2. 長期的な需要が見込める
3. 供給が不足している
4. 流用可能
(例、英語、プログラミング、教育学、料理、Windows、Microsoft Office、Supply Chain managementなど経営学、etc)
国や文化に依存せず、一度習得してしまえば多少の応用するだけで、多くの国で使える技術や知識が「世界中で需要がある」スキルです。どの国の経済も好調なときや不調なときがあります。今は経済的に強い国も不調だったことがあります。日本もそうです。わざわざ景気が最悪な国で働く必要はありません。日本の景気が最悪であれば、少しでも景気が良い国で働くことが賢い選択ではないでしょうか?
それを実現するためには、世界的に需要があるスキルを身につけることです。例えば、英語はすでに国際語ですので、英語を使えれば世界中どこで働いても、研修を効率的に受けられます。そのため、企業からすればその分コストを低く抑えられるのです。
2、長期的な需要が見込める
何か一つスキルを習得したとしても、そのスキルそのものの価値が下がってしまっては下も子もありません。例えば、ある会社の営業がある製品の特徴について必死に覚えても、その製品が発売されなくなり、類似製品や後継製品なども全て生産終了したら、その製品の知識は全て無価値になり、そのスキルに対する需要は激減します。そうならないように、自分が退職するまでは需要が見込めるようなスキルを習得することが重要です。(※3)
3、供給が不足している
世界的に需要があるスキルでも、すでにそれを習得したライバルがたくさんいて、供給過多になっている状態では就職できるかどうかわかりません。しかし、供給が不足しているスキルを習得していればライバルが少ないので、比較的簡単に仕事が見つかります。
しかし、「どこで」供給が不足しているか見つけるのは困難です。例えば、日本には日本語修得者がたくさんいるため、日本語修得者の供給は足りていますが、スロバキアでは日本語修得者の供給が足りていないか、かろうじて足りている程度です。また、プログラミングやパソコン全般に関する技能に関しても、 IT産業では有り余っていても、例えば服飾産業のA社では「一人か二人いてくれたら非常に助かる」と、供給が不足している可能性もあります。ただし、企業自身も自分に何が必要かを理解できない場合があるので、常にアンテナを広く張っている必要があります。
4、流用可能
2、「長期的な需要が見込める」で記しましたが、需要があったスキルもその価値が失われる可能性があります。しかし、修得したスキルの大半を他のスキルに流用できれば大きな問題にはなりません。例えば、C言語がなくなったとします。そして、新たにD言語というのが生まれて、英語ではなくドイツ語をベースとしたプログラミング言語になったとしても、C言語から得た、「プログラミングの考え方(アルゴリズムなど)」は失われないので、始めてC言語を勉強したときよりは早くD言語を修得できるでしょう。
また、需要が合ったスキルの価値が失われなくても、スキルを流用し、新たなスキルを修得することも出来ます。例えば、英語を勉強し、文法を理解したことによって、文章を構造的に捉える能力を修得すれば、新たな言語を習得しやすくなります。
2chの住人や年配の方など、海外に長期滞在したことがない人の一部が「日本より暮らしやすい国はない」と信じているようですけど、それは間違いです。
まず、大都会に行けば基本的に何でも手に入るし、交通は便利だから、不便は感じません。日本食だって、日本で食べるより美味しい日本食を食べられる場所もあります。
また。日本より天候が穏やかな国もたくさんあります。スロバキアなどは、日本レベルの台風や地震がきたら、恐らく都市が壊滅するレベルです。それだけ、気候が穏やかなのです。また、夏も日本の夏と違い、空気が乾燥しているので、すがすがしい暑さです。クーラーはいりません。蚊も日本ほど多くはありません。蝉もうるさくありません。
治安だって、きちんと安全対策を講じていればまず問題はありません。昨日は11時過ぎに、一人で2km散歩しながら帰りました。全然余裕です。
水ももちろん飲めます。むしろ、スロバキアの水は、確実に東京の水よりは美味しいです。 一部の日本人は体質によって受け付けないそうですが、それでもたまに下痢する程度でしょう。
投資のことわざに、「全ての卵を一つのかごに盛るな」というものがあります。これは、全ての玉蛾を一つのかごに持っていたら、そのかごを落とした時点で全ての卵が台無しになってしまうから、卵を複数のかごに分散させたほうがリスクを回避できるということです。
日本依存、企業依存は、「このかごは脆そうだし、心配だなぁ」と文句を言いながら、自分の人生をひとつのかごに乗せているようなものです。普遍的なスキルを修得して海外移住をすることは、「リスクを伴った挑戦」ではなく「リスク回避のための戦略」なのです。自分と、将来の家族や子供たちのために、少し考えてみる価値はあるのではないでしょうか?
すみません。引用です。というより、ほぼ転載です。URLを忘れていました。
http://kaigai-shushoku.blogspot.com/2010/06/blog-post_16.html
「おもしろいと思ったら転載元のほうもはてぶしてください」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100613-00000002-maip-soci
私は障害を持って生まれた事に対する恨み言など
言った事も態度に出した事もないと思います。
でも障害の為、よく体調を崩す私を見る時の父さんの顔は
子供の頃のよく言われた
「ひんひん泣くな!」
「病気のせいにして何をやってもうだつがあがらないな!」
と言っていた時と同じ顔していますね。そんな時はどうしても
「私だって好きで障害を持って生まれたわけじゃない」
と言いたくなります。
自分の両親を大事にする良い息子でしたね。
でも、
もし今、少しでも子を思う気持ちがあれば、
もし今、少しでも障害を持って産んでしまった私に
申し訳ないと思う気持ちがあるのならば、
私を楽にして欲しいと思ってます。
私の恋人は父さんを恨むかもしれません。
でもそれも一時的な気持ちで
相手も障害を持つ人間と一緒にならなくて良かったと安堵するかもしれません。
相手の親御さんももちろん同じだと思います。
いまだに私の障害に興味も理解もない父さんは、
私の気持ちはわかってはくれないでしょう。
でも本当は苦しいんだって言いたいんです。
あのニュースを見て父さんはどう思いましたか?
息子さんがどういう気持ちだったのか、
父親がどういう気持ちだったのか、とか考えますか?
iPadを買った。本当に買っていいのか、5万円無駄にしないかと半分不安ながら、でもいつか買うだろうと思い、どうせ買うなら早く買ったほうがいいので、買った。けっこう満足してる。そしてmacbookを全然使わなくなった。ついついアプリも買っちゃって浪費してしまう。
そんななかで、気づいた事、感じたことを自分へのメモとしてここに書いとこうかと。
iPhoneのでかいやつですよ、iPadは。でも、できることがぜんぜん違う。iPhoneでできなかったこと、やりづらかったことがiPadでできる。その逆ももちろんだけど。タッチ型デバイスはサイズによって用途が全然変わる。
仕事とかでは使うかもだけど、ネットしたりゲームしたりってときにはハードウェアのキーボードやマウスはあんまり使わない。それらを取っ払って板切れ一枚でネットやゲームができてしまうのだから、すごい。あれば少し便利だけど、無くしてこれだけ軽くなるんならうれしい。
いや、あればうれしいけど、無くても困らないようにしといてくれればいい。FLASHは、本来のWebにプラスαの効果をもたらすようなもんで、FLASHがないと目的を果たせないのでは本末転倒では?とか思う。服飾系のサイトを見ると、ショップリストすら見られないことすらあるとか。
個人的には、iPadにPCかmacが必要無くなれば凄く普及するんじゃないのかなと。家で使う分にはiPadで十分だし、ノートPCですらオーバースペックだなと。
死ぬことに思いをめぐらし思索を深めるのももちろん死に向き合うことではあると思う。なんとなく僕の中ではこちらのイメージだった。
でも、思索や論理ではなく、とことん楽しく充実した日々を過ごして概念的な「死」を論理的に考える必要も意欲もないような晴ればれした日々を送ることも向き合うことのひとつなのかなと思った。
そうした充実した日々のふとした時に、「いつかはこの素晴らしい日々ともお別れしなくてはいけないのか」と終わりを予期し、それでも人生を楽しくやっていくことは十分に死や生を傍らに置きつつ乗り越えていっている気がするからだ。
しかし僕のような頭でっかちな人間の場合、論理的なもの伴わない日々というのは体感として充実してないわけで、理論と実践の両輪の大切さというか、頭を使って初めて充実し得る。
http://anond.hatelabo.jp/20100517230945
男性から、婚活の酷さを綴った日記ばかり目にするので、女性から経験をお話したいと思います。結論として、婚活する男女はろくでもない、ということになりますが、興味のある方だけお読みください。
前提:30-34歳の間まで2つの結婚相談所に登録していました。
理由:恋愛経験が極端に少なく、男性と親しくなるのが難しいため。しかし結婚は”普通に”するものだと思っていたのでこういう手段を取りました。
容姿:美人ではなく、顔をそむけられるほど不細工でもない程度です。あと背が高めなのでマイナス要素かもしれません。
趣味・特技:料理・手芸・自転車・外国語学習(英語イタリア語が少々話せます)・音楽鑑賞(アンビエントやエレクトロが好きです)
活動:頻繁に男性と会うほどではありませんでした。数カ月に一度くらい。一日で三回お見合いする方もいらっしゃるそうですが、私は気持ちの切り替えができないのでノロノロしたペースになりました。
プロフィールに職業や年収は書いてあるので、実際に聞くということはしませんでした。私がインドア人間なので、似たような趣味で大人しそうな見た目の方で且つ相手も私と会う気になった人とお会いしました。年収300万の方もいれば、1000万以上の方もいらっしゃいました。印象深かった人について何人か書きます。
私がお断りされた場合ももちろんあります。両方のケースに対して、私に問題があったところも承知しています。90%の確率で趣味は引かれるので、あまり触れないようにしていました。
私も含め、婚活をする男女はろくに異性関係を築くことが出来ず、コミュニケーションも取れない人間が多いと思います。
例外はいます。友人で婚活をへて結婚したカップルがいます。彼女は(美人で)たくさん恋愛を経験した後、とにかく結婚がしたくてがむしゃらにお見合いをしまくった結果成功しました。その成功例を参考にすると、とにかく割りきって感情やプライドなどを越えて結婚を考えられる男女がめぐり合うと良いような気がします。
婚活をする女性が浅はかで強欲とばかり思わないで欲しいのです。お互い様です。私はもう結婚を諦めました。女性が独身で生き続けるのが大変なことはわかっていますが、若いうちにたくさん恋愛をしなかったことが悪いのです。せめて、死ぬまでにあと一度くらい恋愛が出来たら良いなと思っています。
恋人同士の関係は濃密なものなものであると想像する。濃密な人間関係といえば私が想像するのは「(男の)親友」という関係性だ。「親友」と「彼女」はどう違うのだろう。
★ A男にはB男という親友がいる。
★ A男にはC女という彼女がいる。
さて、このとき、A男のB男との付き合いと、A男のC女との付き合いはどう違うのか。あるいは、「認識」(あるいは「相手に期待する役割」)の違い。これが私の疑問だ(ここでは同性愛関係などは考えないことにする)。
比較的わかりやすいのは、
ということ。セックスまでいかなくても、C女とはキスをしたり、手をつないだり、抱擁したりするだろう。だがいくら親友でもB男とはそんなことはしないはず。なにか祝い事でもあったときに抱擁することくらいはひょっとしたらあるかもしれないが、身体的接触がほとんどないというのが同性同士の関係だろう。あるいは、
問題はそれ以外だ。例えば、
親友と彼女の違いは結局のところ何なのか。私としては、「親友」というものがどういうものかということのイメージは湧くのだけれど、「彼女」というものがどういうものなのかというイメージが湧かない(それは私に彼女ができたことがないからなのだけれど)。テレビがどういうものなのかを知らないアフリカの狩猟民族に「テレビを作りなさい」といっても無理なように、彼女がどういうものかということを知らない私に彼女は作れない。そのように感じてしまうのである。
私は彼女が欲しいと思う。街を歩ければ多くの男性が彼女と手をつないでいる光景に出くわす。そして彼らの笑顔で楽しそうにしている。もちろん彼女がいるというからといって、いいことばかり起こるわけでもないだろう。彼女がいるが故に苦しむこともあるのだろうと思う。
でもそれは何だって同じ。例えばおいしい食べ物。おいしい食べ物を食べる喜びは存在する。でもおいしい食べ物は体に悪いということもよくあることだ。そうであっても、やはり「おいしい食べ物を食べたいな」という気持ちは抱いてしまうものだ。人間である以上、自然な感情として。
恋愛の話に戻そう。多くの男性は、彼女ができるという経験を何度か繰り返したりするうちに、やがて結婚相手に巡り会うことになるのだろう。そして家庭を持ち、二人で力を合わせて子育てをする。これにももちろん困難は伴うのだろうけれど、そういう生活に憧れがある。この憧れは「多くの人がそうしているから」というだけのもので、私の中で論理的にしっかりした根拠があるわけではないのかもしれない。でも、これも自然な感情だと言っていいのではないかと思うのだ。他人と比較するから人は苦しむのだけれど、社会に生きている以上、他人のことはどうしても気になってしまう。私くらいの人間になると、独身者よりも既婚者の方が多いから…
自分も人並みの生活を築いていきたい。だからまず私は知りたい。「彼女」とは何であるのかを。
どなたか知恵を貸していただけませんか?
それはそうかもしれないです
あと彼女のことはかなり好きだったけどだからこそ盲目的だったのかも
もっと普通の子を探すべきだったかも
その前に結局検証作業、受け入れ作業を通してる訳で、
結局悪いのは受け入れた側なんだよ。
受け入れる側でも知識を持つのは当然なんだよ。
こちらが要件を出してそれに準じたモノを作り、それを受け入れ側が検証してそれを受け入れた。
それはもう受け入れた側の責任である訳。
(作成者は基本的なセキュリティを書けないクソプログラム屋だという社会的評価は受ける)
車を運転するからには事故が起きる可能性があるように、
コンピュータを使用するにはそれなりのリスクがある事を考慮すべきなんだよ。
知識がない癖にそれを利用して起きた事はもうそれは罪と同然なんだよ。
利用者は金を払ったから何もしらなくてよい、なんてそんな都合の良いことは出来ない。
そうやって責任を負わなきゃソフトウェア作成なんてやってはいけないの。そういうモノなんだよ。
前進しないとかそういう話じゃないの。
そういう事を認めるとコストをいくらかけても足りないんだよ。
今回はクソ過ぎるけど、じゃあ複雑な不具合なら作成者側が持つべきって話になったら?
その基準は?きっと全部って話しになるだろ。
って事は将来的な不具合すら作成者側が持てって事になるだろ。
10年、いやもっと前の話だけどな。
日曜の朝、まだ寝てたんだが親に起こされ、お前に客だ、と。
寝てるからといって断るのもアレだからちゃんと応対しろ、と。
寝ぐせついたまんまで玄関に出たら、こざっぱりした格好の男が一人。
当時もう国会議員だったかな?まだ県議会だったかな?よく覚えてないけど。
どうやら学校の卒業名簿をたどって後輩を訪ねてまわっていたようだ。
先輩らしいという話は聞いていたけどさ。
こっちは寝ぼけてたんでよく覚えてないんだが、
「こりゃこりゃどうもわざわざ」とかなんとか応対したんだと思う。
とりあえず政治家だから握手しとくかと思って握手しといた。俺はまだ目が覚めてなかった。
で、次の瞬間、「こちらのカベ(家の塀)にポスター(選挙のやつ)はらせていただいてよろしいですか」と。
0.1秒後に「ふざけんな」と思い、0.2秒後に「いやぁ、それはご勘弁を」と言った覚えがある。
実はここのところだけは異様に鮮明に覚えてる。
浅尾氏はあっさり引き下がって去っていった。
その後俺は時計が10時を指してるのを見て顔洗って水を一杯飲んだところでようやく完全に目が覚めて、こう思った。
「なにしにきたんだ今のは」
いや、分かるよ、政治家なんて握手した人数がナンボ、貼ったポスターの数でナンボだ。
それが仕事だ。ましてや当時の浅尾氏みたいな若手であればなおさらそれが仕事だろう。
俺が寝起きで判断力が鈍いのを見越してすかさずポスターを貼る許可を求めたのか?
自分が何者で何しに来て、俺が誰でどんな考えの人かどうか少し話でもしてから最後の最後にポスターを貼る許可を求めよう、とか思わないのか?
ただ機械的に「ポスター貼らせてください」っていうだけだったらポストにチラシ入れに来るバイトにやらせろよ。
おいおい、マジで実弾配ってるド田舎の選挙のなごりから発生したそんなくだらない法律なんてどうでもよかろうよ。
学校の卒業生が政治家になって後輩に支援を求めに来て何が悪い。
政治家が有権者に支持を求めるんなら、まずそういう「話」をしろよ。相手が寝起きの寝ぼけ眼でもどうにかする程度の営業トークのテクくらい持てよ。政治家はしゃべってなんぼだろ。
選挙期間中でももちろんなく、秘書や運動員を引き連れてじゃなく、日曜日に一人でウロウロしてただけだったなら、時間はたっぷりあったはずだ。
俺としては、当時から自民党のやり方はアレだと思っていたし、そこへ民主の若手の議員さんが突然の逆OB訪問。
政治家の一人や二人くらい仲良くなっておくのも悪くはなかろうという大人の腹黒さだけでなく、本気で「日本の政治ってどうなのよ」って話をその道のプロ目指してる若手とまじめにやるというのはアリだろう。
きっかけは母校のよしみでもなんでもいいんだから。
少し待ってくれればあがってもらって俺が顔洗って着替える間にコーヒーくらい出したのに。
いずれにせよ当時の家の壁にポスターはちょっとカンベンだったろうけど、
そこから10年、支持や支援の仕方も違ったろうに。(政治家への支援の仕方なんてよくわからんけどさ)
トーストとコーヒーで朝飯を食いながら、そんなことを思ったのをまじでよく覚えている。
まあ俺も寝起きで無愛想なのも悪かったけどさ。日曜の朝なんだからしょうがないだろ。
それからニュースや新聞で「浅尾」の名を見ると、読み飛ばすんではなくむしろちょっと真剣度をあげて読んだりするようにしてたんだが、やっぱり、なんか、ズレてる気がした。言うことなすこと。
そしてさっきこんなトゥギャッターを見かけた。
Togetter - まとめ「浅尾慶一郎は終わっている」
Togetter - まとめ「みんなの党 あさお慶一郎 大炎上!!!」
うん、やっぱりなんか、ズレてるよ、アノ人。俺のあのとき以来の感覚は間違ってなかったんだと思う。
機械的にこなせばいいコト、そうじゃなく力をいれるべきポイント、
そういうのの分けが、なんか、ズレてる人だ。
「何人いる? もうはじめる?」
「森口、まだ来てないじゃん」
「なんだあいつ、男のくせにピアノなんてならってんの?」
少ないときでも十人は面子が集まる。
今にして思えば、習い事でぽつりぽつりと面子が抜けていく直前だったから、小学校の低学年、しかも3年生ぐらいの年頃だったような気がする。
おれの住んでいた団地は新築で共働き世帯ばかりがどっと入った団地だったから、小学校のクラスでも団地の子供が占める割合が多く、揃いも揃って鍵っ子ばかり。それでランドセル姿のままでしょっちゅう一緒になって、あれこれ新しい遊びを始めるのが常だった。
そのとき流行っていた「どろけい」は、泥棒チームと警察チームの2チームに分かれて、泥棒はひたすらに逃げ、警察はひたすらに泥棒をつかまえるというシンプルなゲーム。泥棒はつかまれば開けたところにある刑務所に入れられ、仲間の泥棒にタッチして貰えれば見事脱獄ということになる。そうなってはたまったものではないので、警察チームは刑務所を陣地にして、あれこれと泥棒をつかまえる作戦を練る。
おれたち小学生にとっては、五号棟まであった団地は格好の遊び場で、当然ながら「どろけい」も団地を舞台に繰り広げられる。団地は、最上階が8階、左右に二棟のエレベーターホールがあり、両端はどちらも非常階段になっている。高島平のような左右に長い団地を想像すると分かりやすく、そこを小学生のおれたちは駆け抜けた。
よく迷惑だと苦情が来なかったものだと思うのだが、共働き世帯ばかりだったこと、そして、今よりも寛容な時代だったのだと、振り返って思う。
この「どろけい」という遊びは、逃げるにも追いかけるにも工夫とチームプレイが必要な遊びだ。
舞台となっていた団地には袋小路のようなものがなかったので、泥棒をつかまえるために警察チームは、複数人での挟み撃ちをする以外にない。泥棒が潜むことができるのは二棟のエレベータホールのみで、非常階段も廊下も警察の陣地から丸見えなので、捕物帖が始まれば、警察の陣地から指示が飛ぶようになる。
「錦原が、五階の西! 誰か西の非常階段を抑えろ!」
「非常階段、誰かいる! 降りてる!」
三人四人で泥棒の逃げ道を封鎖していくのだ。
「なあ、野々村どこにいると思う? エレベータの9階(作業室があった)みたよな?」
「みたみた。そういえばこの前は非常階段の裏に隠れてたな」
けっこう丸見えな割にはちょこっとずつ死角になるところがあり、そういった所に泥棒は好んで潜む。それを警察は必死になって探すのだ。
泥棒の方でも無策ではなく、エレベータホールなどでばったり出くわすと、情報交換になる。
「小田捕まった?」
「たぶん、みてないけど、走る音が聞こえないから」
「じゃあ、あと3人か。泉川はどこだろ?」
「あいつ、隠れてるの好きだからさ」
「じゃあ、こうしよう。おれは三階で仕掛けるから、木村は二階な。泉川は東の方にいる気がするから、おれは西の非常階段から脱獄かける。お前は東のエレベータホールな。泉川も気付いて、いっせいに脱獄かけれるかも」
「ちょ、ちょっと休ませてよ」
「たく、だらしねえな、60秒な」
そして、作戦開始。
それはたぶん子供の頃の大切な思い出だった。
「どろけい」は毎日のように号棟を換えて遊ばれる。
おれの住んでいた団地は、おそらく建設された時期が違っていたからだと思うが、それぞれの号棟に微妙な差異があった。たとえばエレベータホールが一棟しかなかったり、廊下の柵に隠れやすい板がついていたり、階が6階までしかなかったり、屋上と称する場所があったりする。
そうすると、号棟が変わる毎に作戦やセオリーが代わり、泥棒も警察も新しい手を考えなければならなくなるのだ。
なので、一号棟前にランドセル姿で集まって、今日の面子をながめながら、みんなでわいわいと相談する。
「なあ、今日どうする?」
「少ないから五号棟じゃん?」(五号棟は一番ちいさい号棟だった)
「五号棟好きじゃないんだよな」(エレベータホールが一棟しかないとつまらない)
「じゃあ、こうしよう3号棟で6階まで、これならどう?」
「作業室なしかぁ。あ、お前ずるとかするなよ」
「しないって。分かった。したら3回警察でいい」(警察は不人気だった)
「あ、あのさ、三号棟にするなら、刑務所近くしない?」(エレベータホールにの意)
「どの辺にするの?」
「え? 近すぎない?」
「いいよ! いいよ! ピロティーからなら警察見えないじゃん。そっちの方が絶対面白いよ!」
他のみんなはどうだったのかは分からないのだが、おれは分かってしまった。
こうやって、どうすれば「どろけい」が面白くなるかという事を相談しているときが一番楽しいって。「どろけい」をしているときももちろん楽しいのだけど、それよりもルールを決めながら、どんなルールにすれば、遊び方が広がるかを考えることは、小学生のおれにとっては、とてつもなく楽しいことだったのだ。
そうやって、少しずつ楽しさの源泉となるルールが積み上がっていき、「どろけい」はますます洗練されたゲームになっていく。おれたちは気付かないうちにゲームデザインをしていて、それは小学生のませた心に、楽しいってどういうことかって事を植え付けてしまった。
おれは「どろけい」をしている間にも、こんなルールにすれば「どろけい」はもっと面白くなるのに、ということをしきりに考えるようになった。それで、もっとみんなが面白くなれば、それはとても嬉しいし、楽しくなる。
この「どろけい」遊びがやがて終息していったのは、人数が増えすぎたというのが原因だった。
この面白い遊びが徐々に広まり、仲間が増えてくると、少人数の精鋭でやっていた頃とは格好が違ってくる。日曜日などには女子まで入って数十人で「どろけい」を行ってしまう。
そうなると、一号棟だけでは足りなくなって、一号棟から三号棟まで、といったように無秩序に規模が拡大していく。それはそれで楽しかったではあるが、やはり散漫で緊張感のない遊びになってしまった感は否めない。
さらに、休日に数十人の小学生たちが団地中を駆け巡り、大きな声で泥棒を追い詰めたりするとなると、さすがに周囲も迷惑を感じ始める。それで、どこだったか何号棟かで禁止令が出て、それから徐々に終息していたような気がする。折良く習い事で仲間もどんどんと抜けるようになり、外で大規模に遊ぶという事はこれが最後になってしまったと思う。
ただ、あの楽しさを味わってしまうと、今この歳になっても胸がうずく。
ああ「どろけい」がやりたい。
楽しかったって。
そして、あの初期にルールを作り上げていったときが一番楽しかったと。
おれは趣味でゲームを作っていると、しばしば言われて、誤解されて困ることがある。
おれは、そのたびに思う。
おれは、物語が作りたいんじゃない!
おれは、ゲームが作りたいんだ!
「どろけい」みたいにルールを考えるのが、好きなんだよ。
って。
「出会いがないなぁ」という声をよく聞く。「出会っても関係が続かないんだよなぁ」という声も聞く。素敵な女の子と出会い、そしてその出会いを一度きりにせず、ずっと付き合っていくためにはどうすればいいのだろうか。出会ったその瞬間からすべきことを順に書いていこうと思う。
相手と出会って、まず必要なのは「ツカミ」である。ツカミとは、簡単に言えば「この人の話をもっと聞いてみたいな」と相手に思わせることである。そのためには「あ、この人面白い!」とか、「この人、楽しい人だな!」と思わせればいいのである。
ツカミにはいろんな種類がある。初対面だとまずは自己紹介をするんだろうけれど、それに絡めて「すべらない話」をする人も多いだろう。でも、トークがどうも苦手で…という人もいる。
トークというものは二つに分類できる。自分が話すことと、自分が聞くことだ。基本的に、「うまく聞くこと」が会話を盛り上げるコツなのだが、初対面の相手と話すときには、まず自分が話す割合の方を多くして、つまり自己開示を先に行い、相手の自己開示を促すという作業が必要になる。
そこでは、自分はこういう人間ですよ、というプレゼンの能力が求められる。そのプレゼンはわかりやすく、しかも面白く楽しいものであったほうがいい。でも、これがなかなか難しいのでみんな困っているのである。
そこで、ここでは自己プレゼンをツールを使って行う方法を提案したい。そのツールとは、マジック(手品)だ。マジックにももちろん練習が必要で、マジック中のトークにも練習が必要なのだけれど、トークオンリーによる自己プレゼンのよりは定式化されている分、練習も容易であると言える。
マジックは、デパートのおもちゃ売場などで買うことができる。インターネットでも購入できる。Amazonでも販売されているので探してみて欲しい。練習がそれほど必要でなく、インパクトの大きいものをうまく見つけたい。私のお勧めは「サムチップ」と呼ばれるものだ。シルクのハンカチを消すという単純なマジックなのだが、うまく使えば効果は大きい。
マジックを演じるときに頭に入れておいて欲しいことは、相手を楽しませようという姿勢が大事なのだということ。マジックを完璧に演じること、相手に「不思議!」と思わせることが大事なのではなく、「この人は楽しい人だな」と思わせることが大事だと心得て欲しい。プロのマジシャンをイメージするとしたら、マギー審司のような人をイメージして欲しい。不思議かどうかよりも、楽しいことが大事だ。
ちなみに、マジックよりももっと練習が必要だが、大道芸のようなことをするという方法もある。メジャーなのは、ジャグリング。駅前広場なんかでジャグリングを披露していると女子高生が寄ってきて、楽しくお話ができたりする。私の知人にFという男がいるが、彼の特技は大道芸とマジックだった。別に彼は女の子と話がしたくてやっているわけではなく、純粋に好きでやっていたのだが、横で見ていた私は、これは女の子を惹きつける素晴らしい技術だと感動した。
さて、以上がツカミについてであった。ツカミに成功すれば、女の子は「この人ともっと話がしたいな」と感じるモードに入っている。だが気を抜いてはいけない。ここからが本番だ。出会いをその日一度きりにしないためにはどうすればいいのか。
女の子が求めているのは「理解」だ。女の子のの話をじっくりと聞き、その子のことをしっかり理解しようとする男は少ない。だから女の子は理解に飢えている。
つまり、女の子と信頼関係を築くためには「この人なら私のことをわかってくれるかも」と相手に思わせることが重要なのだ。その日のうちに相手を完全に理解するのは不可能だが、その可能性を感じさせることができればいい。
そのためにはどうすればいいのだろうか。それには、相手の悩みを聞き出せばいいのだ。その人の個性は、悩みに最も現れるからである。
では、どうすれば女の子の悩みを聞き出せるのだろうか。「ところで、君って悩みある?」なんていきなり聞くわけにもいかないし…。
その答えとしては、例えば占いがある。相手の運勢を占ってあげる。あなたはこういう運命ですと。これからこんなことがあるよと。では、占いの結果を踏まえ、どのように会話をすればいいのか。
占いというのは、「このままでいるとこういう運命になる」ということである。なので、占いの結果がいいものならば、今まで通りの努力を続けるといいよと告げる。あるいは自分の生き方の正しさに気づけばいいんだよということをアドバイスする。今どんな努力をしているのか、今どんな生き方をしているのか、ということについて尋ね、それを肯定するという形で話を進めればいい。
占いの結果が悪いものであれば、「じゃあどういう風に変えていけばいいのか考えようか。運命は自分で変えていけるんだよ」と言って、一緒に考えてあげればいい。
占いにもいろいろある。有名なのは手相やタロットや四柱推命だろう。何でもいい。自分が興味を抱けそうなものにしよう。私が好きなのは手相。手相を見てあげるときには、距離的にかなり近づかないといけないし、手を触るというスキンシップもとれるので個人的にはお勧めだ。
なお、「こういう手相ならこういう運命」「タロットでこのカードが出たらこういう運命」といったことを覚えるのは意外と大変。だから、基本だけ頭に入れ、あとは本を持ち歩いてそれを一緒に見ながら占いをするというのもアリだと思う。別に得意げに知識を披露する必要なんて無いのだ。女の子は占いが好きだから、一緒に本を見ながらでも楽しんでくれるはず。「今、占いの勉強してるんだよ」って言いながらカバンから占いの本を出すのは何ら不自然なことではない。
占いよりももうちょっと科学的なものの方が話しやすいという人なら、心理テストがいい。心理テストも女の子の大好物。大学でも心理学科なんて女の子ばかり。。大学で心理学を学んだような人なら、こちらの方がいいかもしれない。交流分析・エゴグラムなどというものは、女の子との会話に使いやすいと思われる。興味のある方はインターネットや書籍で調べてみて欲しい。
心理テストの種類もいろいろあるが、どれを使うにしても「あなたはこういうタイプだよね。当たってる?そうか。じゃあ、こういう苦労があったりするんじゃない?」っていうふうに話を進めていけばよいのだ。
占いを使うにしろ、心理テストを使うにしろ、一番大事なことは、相手の悩み、相手の話をじっくり聞いてあげることだ。そしてここで意識すべきなのは、相手の考えや行動を否定するアドバイスはしないこと。相手が「○○で困ってるんだ」と言ってきたら「それは君が○○だから悪いんだ」とか、「それなら、こうすべきだよ」というアドバイスをするのは基本的にはNG。「そっかぁ、それはつらいよね」と同調する。これが一番大切。僕は君の味方だよ、ということをアピールするのが正しい。そうすれば、相手は「この人は私のことをわかってくれている」と感じることになる。そう感じてもらうことを目標にして会話をしよう。
以上で、だいたいの流れは見えただろうか。具体的にイメージしてみて欲しい。目の前に現れた初対面のきれいな女の子。簡単な自己紹介を終えたあなたは、カバンからマジックグッズを取り出す。マジックを披露し、女の子に楽しんでもらう。「ところで、今、占いの勉強してるんだけど」とあなたは切り出す。そして彼女の運命について二人で熱く語る。最後に彼女は言う。
「また話、聞いてね!」
ここに書いたことは、そんなに難しいことには思えないはずだ。やる気になれば誰にだってできる。さあ、君も今日から占いの本とマジックグッズをカバンに入れて持ち歩こう!そこからすべてが始まる。あなたに素敵な出会いがありますように。
801界隈というのは男オタのブームがちょっと遅れてやってくる。エロゲー→BLゲーとかね。
今pixivなどで話題になっているのは
と言う話なのだが、これは男オタがホモフォビア的に反発している部分と、増田指摘の801女子の隠れたがる性質と双方から発生している。
が、そもそもその「露出」は
「隠れるの? なんで? 私達恥ずかしいことなんかしてないよ? みんなで楽しく話し合おうよ!」
という腐女子層の隆盛によるものではないだろうか。
そもそもが「腐」女子という自嘲にもほどがある名前を高らかに名乗るようになっている。オタクという言葉の生まれ方になんだかよく似ている。
というわけで、
「他所から叩かれるから隠れているけど、本当は堂々としたいんだ!ガキもパンピーもどんどんこの世界に寄って来て盛り上ればいいのに!」
これよりはむしろ「何でお前ら隠れてんだ!」という若手と「うるさい俺達は宮崎騒動のときも体を丸めて黙って過ごしたんだ」という古参との世代間闘争的な何かがあるのかもしれない。
あ、宮崎時代に表に来て戦った人たちももちろんいると思うけど、あの当時高校生でネットも何もなく、部屋にアニメのポスターがあるだけで母親が悲鳴を上げたような世界で生きてた俺としては、黙ってやり過ごす以外に方法はなかったんだ。
規制反対運動の賛成派・反対派を見てて、昔新書で読んだ「バカの壁」ってのを思い出した。あーなるほど、たしかにこりゃわかりあえんわって。「子供の安全」を盾に徹底的に規制賛成のサンケイ御用達wの頭のガチガチな保守派の皆さんと、「表現の自由」を盾に規制絶対反対でズリネタが奪われるとびくびくしているキモオタの皆さん。ただ本当はこんな両極端な2派で綺麗に分かれているわけではなく、大半の人は反対・賛成ともに穏便派なはずなんだけど、極論派が目立ってなかなか出番がない。
この問題に大して大半の人は「表現の問題はもちろん重要だけど、2次ポルノ・ロリ漫画が簡単に流通している現状もどうにかしたい」っていう認識のはず。今回東京都があんな酷い条例を出した背景は、他の無害なコンテンツですら規制対象になるような劇薬を使わないと問題コンテンツを除去するのが不可能と判断したわけでしょ。現状の法律じゃみかけがどんなに幼くてランドセルしょっているような子でもメーカーが「18歳です!」って言い切れば通っちゃうんだからさ。ゾーイングやら自主規制を強めるしかないとかいっても、結局いままでそれがまったくうまく機能してなかったからこんな酷い有様になって全面戦争するしかない状態になったわけ。
あの賛成・反対両側の強行派はどちらも見てみて嫌になってくる。石原氏&東京都の理屈ももちろん酷いけどさ、反対派のキモオタさんも「表現の自由」を通せばなんでも許されるべき!という考えはやめてもらえませんか。何でも欧米に右にならえ!って考えは好きじゃないけどさ、少なくても米国や欧州では2次元ポルノなどのコンテンツについて日本じゃありえないくらい厳しい処罰(それこそ日本じゃ問題にならないような漫画の単純所持だけでタイーーホとか)を設けている。一部では問題になってはいるが、大半の市民はそのレベルの規制でも「表現の自由」は守られていると納得している。実際こういった規制のおかげで欧米発のコンテンツが劣化したなんてことはまったくないし、「(2次元ポルノを含めた)表現の自由を認めないと文化が滅ぶ!」なんて叫ばれても説得力ないよ。少なくてもあなた方の「表現の自由」とその他大勢の方々の「表現の自由」の度合いは大きく違うんですよ。多数派は欧米レベルの規制と自由を望んでいます。それを無視してやみくもに反対しても同意は得られません。
そろそろ双方の穏便派が中心になってまともな落とし所をきめなきゃならない。ただやみくもに反対しているだけじゃなく賛成派もある程度納得できる対案を用意するってのが近代民主主義のルールだろ?公的保険をあきらめて民間保険ベースに妥協してなんとか国民全保険を実現させたオバマを見習えよ。
現時点で考えられる落とし所は2つ
①東京都の規制案をベースにするも、各コンテンツの内容をチェックする審議会の面子の6割以上を出版社・作家・漫画家などの協会から選び、全メンバーは数年単位で入れ替える。東京都に主導権を握らせないためにも多数決でコンテンツ制作側が勝てる構図にするのが重要。
②同業者の漫画家・作家・出版社などが多数失業・倒産するレベルのさらに強力な自主規制レベルを出版社側で設ける。不況で安易なロリエロコンテンツに走る同業者を自ら切る覚悟&それが可能な強制力のあるルールを設ける。
これぐらいの対案ださないと規制派は納得できないだろう。①についてはおそらくキモオタの皆さんはまだ難色を示すだろうが、とりあえず対案のたたき台として今後議論を重ねて修正していくって方向にもっていかないと。個人的にはあきらかに児童を対象にしているような変態エロロリコンテンツは一般人ではまともにアクセスできないようなアンダーグランド内で、極一部の愛好家だちが規制におびえながらほそぼそと続ける程度に押し込めたほうがいいと思っているので①をベースに進めてほしいです。
参考になった皆様
http://anond.hatelabo.jp/20100320235739
http://anond.hatelabo.jp/20091219122933
ああ、なんと風の強い夜だ。
地震のようだ。
時々きこえる何かが飛んで当たる音が、風のなかに響く。
なにかが壊れている音だろうか?
壊れることで新しくなるものもある。
まったくもって壊れないのはよくないこと。
なのに現代の日本はなんでも壊れないようにする。
六本木ヒルズは300年持つように建てられているし、数十年前に立てられた新宿の高層ビルは長周期地震振動の対策で何億もかけて地震ダンパーなどを入れている。
いったいあと何年延命するつもりだろうか。
大規模な経済損失を恐れ、そして人命を尊重するという名目で延命する。
ガンなどになったひとは散々お金を掛けて死んでいく。
掛けたお金は家族の負担になり、保険会社の負担になり、社会の負担となる。
現代に焦がれ憧れるような英雄がいないのは、ろくな悪役がいないからだ。
すべてを壊し、破壊しつくすような悪役がいないからだ。
英雄の登場をまたず自壊するようなハリボテばかり。
自らの信ずる善しとするところが、社会の悪となるような悪役がいない。
医療費を負担はまっぴらだとか、年金負担はまっぴらだとか、社会の憎まれ役に叶う人物がでてこない限り英雄もでてこない。
あの悪党面した幹事長がもっと役者だったなら。
もっと壊れれば新芽も吹くのに。
強風の中、野焼きなんかしちゃ新芽までももちやしない。